第三話 この世界の名前は!?
オットー公は、部屋に入るなり笑顔をひっこめて俺を杖で殴った。
「ぎゃっ」
「何ということをしてくれたのだこの馬鹿が!」
殴られた勢いで俺はよろけて床に膝をついた。こんなのDVじゃないか。
しかし抗議の声を上げようとした俺は、オットー公のすさまじい憤怒の表情に何も言えなくなってしまった。
うーん、俺、かなりまずいことをしてしまったのか……?
「よりによって諸侯が揃っている中で婚約破棄など、一体何を考えておるのだ!」
悪役令嬢ものだとそれが定番らしいれけど、ゲームによって違うもんなのかな。つーかこの世界が何の乙女ゲームの世界なのかもわからんし……いや、わかったところで攻略法も何も知らんけど……。
とりあえず、この場は何か言わなくては。
「申し訳ありません父上。しかしネズミを捕まえる勝負でわざと負けて、私がディートリヒ殿とアーデルハイト様に誠心誠意謝罪すればきっと許して下さるでしょう」
「馬鹿かお前は! あんな話にディートリヒ殿が本気で乗ったと思っているのか!?」
え、あれって表向きだったのか。
「しかし父上、私はゲルトルートとの真の愛に目覚めたのです。自分を偽ることはできません」
「はぁ!? あの娘に入れあげているのは知っていたが、まさか妻にするとでも言うのか?」
「はい、そのつもりです。私はゲルトルートと結婚します」
「阿呆めが! 男爵の娘など我がマルデブルク家の妃にできるわけがなかろう! 適当な騎士と結婚させて側に置いておくことは、お前も納得済みだったではないか!」
それって公認の愛人ってこと? 普通に妾にするという発想はないのか。というかその「適当な騎士」はそれを了解しているのだろうか。このゲーム、えらくドロドロしてるな。
その時、黒い修道士服を着た男が部屋に入ってきた。手に革の鞄のようなものを持っている。
「おお、来たか」
父は修道士を手招きした。
「ルドルフは正気を失っているようだ。戻してやってくれ」
「はっ」
修道士は鞄から盥を取り出して床に置き、さらにメスを取り出した。
嫌な予感がする。
「ちょ、何をするんだ?」
「瀉血でございます、殿下」
「待て待て待て、瀉血ってあれだろ、血を出すんだろ!? それ意味ないから!」
「? 何をおっしゃっているのですか?」
修道士は眉間にシワを寄せ、俺の服の腕をまくり上げた。
「やめろって、そのメス消毒してねーだろ!?」
俺は手をふりほどいて叫んだ。
「ふむ、確かに正気を失っておられるご様子ですな。どなたか、お手伝いをお願いします」
修道士がそう言うと、近侍がささっと寄ってきて、一人が俺を後ろから羽交い絞めにし、もう一人が腕を押さえた。
修道士は再び俺の服の腕をまくり上げると、二の腕を紐で縛り、浮き上がった血管にメスを当てた。
「ギャー!」
抵抗も空しく、俺の腕にメスが当てられ、血が噴き出した。
*
目を覚ますと、見慣れない石の天井が目に入った。
情けない話だが、血を見て気を失ってしまったようだ。
左腕の、メスで刺されたところがちくりと痛む。変な菌が入ってないといいんだがなぁ。この世界に抗生物質なんて無さそうだし。
この腕の痛みではっきりわかった。どうやら本当に異世界転生だか転移だか知らないが、そういうことになってしまったらしい。
とりあえず婚約破棄は失敗だった。
どーすりゃいいんだよ……何もわかんねーよ……。
よく知らないけど、異世界転生って転生する時に神様が説明してくれて、スキルとかチート能力とかもらったりするもんじゃねーのかよ!?
いや、待てよ。説明がなかったとしても、ゲームみたいなことができるようになってるんじゃないか?
俺は起き上がると、ベッドから降りた。
さっと右腕を天に向けて突き出し、叫ぶ。
「ステータスオープン!」
……しーん……
何も起こらなかった……。
じゃあ、こっちはどうだ。
左手をやや下に突き出し
「アイテムボックス!」
……しーん……
ふと人の気配を感じて振り返ると、さっきの小人がぽかんとした表情で入り口に立っていた。
しばし気まずい沈黙が漂う。
「……お目覚めになられましたか?」
明らかに笑いをこらえながら小人が言う。
俺は咳ばらいをしながらベッドに腰を下ろした。
「全く、とんでもないことをなさったものですなぁ……」
「だってさぁ……普通あの場面は婚約破棄だと思うだろ……」
「あの場面?」
小人は首をかしげた。こいつの名前は何だっけ。
記憶によれば、宮廷道化師のピエトロだ。
ピエトロは傍らの椅子によじ登ると、俺に向かって言った。
「ルドルフ様は何のお芝居をなさったのですかな? このピエトロ、とんと見当がつきませぬ」
「俺だってつかねーよ。なあ、教えてほしいんだけど、この世界は何て言う名前だ?」
「この世界? はて、ここはお父上の領地のマルデブルク公国でございますが」
「それは知ってるよ。俺が知りたいのは、『世界の名前』だ」
「世界の名前というと……『中つ国』『キンメリア』といったことでしょうか」
「そう! それだよ!」
ピエトロの表情が変わった。
それまでお面のようなくっきりした笑みを浮かべていたのが、何と言うか、仮面を外したかのような、顔は同じなのに別人になったかのようだ。
がらりと口調を変えて、ピエトロが言った。
「君、現代人だな?」