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怖い家

作者: 扉野ギロ

チャイムが鳴るといつも、これまでは時間が止まっていたのだと感じる。

一斉に自由に動き出すクラスメイト、同時に椅子や机がガタガタと鳴って、そこに混じって筆箱やら教科書が封じ込められる、カチャコチャ、と小気味よい音がしている。


給食係が教室を出ていくのを横目に見ながら、この時間が来ると私はどうしてかいつも今日の夕食のことを考えてしまう。

ちなみに、給食の献立は『しょくパン、いちごジャム、ぶたにくとだいずのトマトに、かぼちゃコロッケ、マカロニサラダ、オレンジ』。だったら夜は魚かな。


ぼんやりといい感じに焦げ色の付いた何かの塩焼きを想像しながら、煮込み料理の入り混じった香りを迎えに行く。



「スミのとこにさ、丸い鏡あるじゃん」


八木山くんのそんな声に、心の中でカーブミラーのことだと頷く。


「あれってさヤバいの知ってる?」


そうなの?


「知ってるー」


早速返事をしたのは、今は向かい合っている吉村さんだ。


「女の人が映るんだよ。赤い服の女の人、怖い顔なんだよ」


へえ、となんとなく頷く。


「違うよ、それ」


そうなの?


「違わないよ、お父さんが言ってたんだもん」

「じゃあ、お前のお父さん間違ってるよ」

「間違ってないよ」

「間違ってるって」

「間違ってない」

「違う」


なにか、マズい感じがする。

私は少しだけ腰を浮かせて座り直して、八木山くんと吉村さんを交互に見る。


「首がないんだよ」

「そ、そんなの聞いたことないよ。ウソついてる」


そう言いつつも怯んだような吉村さんを見据えて、八木山くんは「あのな」と机に体を寄せた。



あの丸い鏡は、雨が降る直前になるとそこに女の人が映るんだ。

女の人は首なしで顔はわからないけど、赤いワンピースだから女の人だってわかる。その人はいつもは右の方を向いているんだけど、たまにこっちを向くことがあるんだって。

もしも女の人がこっちを向こうとしていたら、すぐに逃げないとダメ。

見つかると、いろんな鏡に映り込んできて少しずつ近づいてくるようになる。

それで八日目になると、お社道おやしろみちしか見えなくなるんだって……。

それってつまり、顔が取られるってことだよ。



五班のみんな手を止めて、八木山くんのことをじっと見つめていた。

ゴクリと生唾が流れ込む直前の空気がそこに溜まっている。


「で、でもさ」


勇敢な吉村さんが口を開いた。


「そんなの八日目までに逃げればいいだけじゃん。鏡を全部割っちゃうとか、女の人が来ないようにすればいいんだよ」

「ムリ」


ゆっくりと顔を横に降って八木山くんが一蹴する。


「逃げられないよ、だって映る物って鏡だけじゃないし。テレビとか窓とかガラスにも映るじゃん」

「じゃあ、どうやったらいいの? 絶対死んじゃうじゃん」

「方法が一つだけあるよ」


キョロキョロと二人の間を行ったり来たりしていた目線が、また八木山くんに向いて止まった。


「どうするの?」

「あそこの鏡って、本当は右と左で二つ必要なのに一つ足りないんだ。そのおかげで女の人は鏡の中を行ったり来たりしかできなかったんだけど、大昔に左のやつが壊されたんだって。だから、鏡を使うんだよ。目には目をっていうんだ。女の人が写っている鏡に別の鏡を向けると、合せ鏡になって女の人を封印することができる」


なるほど、と私は心の中で手を打つ。


「わたし、鏡持ってるよ」


嬉々としてポケットから小さな手鏡を取り出す三浦さん。

それに続いて他のみんなも身の回りを探し始めた。吉村さんを除いて。


難しい顔……というより、どことなく八木山くんを睨みつけるようにも見える表情を浮かべて吉村さんは固まっている。


「じゃあさ、これ知ってる?」


唐突に何か話そうとする吉村さんに、八木山くんは「は?」と首を傾げた。



怖い家の話。きっと誰も知らない。

それは、持ち主がわからない家でもう誰も住んでいないの。汚くて、暗くてすごく不気味なんだって。

その玄関の前にはいつもぼーっと立ってる人がいて、こっちがその人のことに気がつくと突然玄関をノックするの。ドン、ドン、ドンって、乱暴に。

だけどね、さっきも言ったけどその家には誰も住んでいないんだよ?

じゃあ、その人って誰を呼んでいるんだと思う?

だからね、その家って誰も住んでいないって思われているけど、すっごく汚いのにもしかしたらその人の家族が住んでいて、開けてもらおうとしているかもしない。

そうじゃないとしたら、幽霊とか怪物とか怖いものが住んでいて、その人も仲間かもしれないの。

そのまま通り過ぎれば大丈夫だけど、その人に気づかれると家の中に連れ込まれてもう逃げられなくなるんだって。



「そんなの、どこにあるんだよ。聞いたことないよ」


八木山くんの言葉に、吉村さんがニヤリと笑みを浮かべた。


「そこがキモなんだよ。どこにあるかわからないの。誰の家だったかとか、近所の人が誰とか、誰が見たとか、なーんにもわからないんだって」

「そんなのおかしいじゃん。誰が見たのかもわからないのに、誰に聞くんだよ」

「それは……」


言い淀む吉村さんに八木山くんが投げかけようとする言葉が予想できた。

吉村さんならきっと傷ついてしまう。

さっさと八木山くんを止めようと私が腰を浮かせたところで、


「ねえ、給食終わっちゃうよ」


と三浦さんが、一番乗りで食器を下げ始める相澤くんを指差した。

あっ、と慌ててを掻き込み始めたのは男子たちで、やっぱり吉村さんを除いて女子も黙々と食べ始めた。

そんな姿を見かねてか、三浦さんが「食べよ」と促してようやく吉村さんも動き出す。


それにしても不思議だなと思うのは、八木山くん、吉村さんどっちの話もどうせ噂話なのに嘘か本当か考えているということだ。

結局話を聞いた人が体験したわけじゃないし、実際に体験した人を放っておいて何もわかるはずがないのに。


でもそれは、考えてみれば教科書だって一緒なのかもしれない。

算数とか理科は違うけれど英語や歴史のようなことだと、人それぞれの考え方があって、そこに書いてある通りのことが答えとは限らないし。


つまりだ。

二人が誰から話を聞いたのかというか、その元の人たちも誰から聞いたのかが大事だと思う。

きっと、一番最初に話をした人が噂の真実を知っているに違いないのだから――



帰りの会が終わってから二十分もすれば、もう教室に人はだいぶいなくなる。それでも残っているのは、女子と男子の仲良しが一組ずつ。

すぐに帰ってもいいけれどなんとなく帰らない。私は、こういう名残惜しい雰囲気が好きな方だ。

普段は人でいっぱいの教室に取り残されている感覚が、なんだか自分を特別な気分にさせてくれる。


とはいえ、用事があるから私が最後になるわけにもいかない。

席を立って教室を出ようという時だ。


「実はわたしもさ、変な話知ってるの」


三浦さんの声が聴こえて、私は動きを止めた。


「お社道ってさ、もともと川だったんだって」

「じゃあ、あれってただのフタってこと?」

「うん。だけど、もう水は流れていないんだって」

「へえー」


爪をいじっているせいか、夏宮さんの反応は興味なさげに見える。


「それで、何が変なの?」

「時々生臭い匂いがするんだって。それでね、何か生き物が棲み着いてるんじゃないかって」

「ふーん。亀とかかな」

「昔調べたらしいんだけど、わからなかったって。でも、違うの。変なのは生き物のことじゃなくて……。水の音がするんだって、匂いがする時はいつも水が流れる音と一緒だって」


言いながら三浦さんは、俯きがちに夏宮さんを覗き込み、訴えるような表情を作る。


「それでね、わたしわかったの。これって、ゾンビなんじゃないか……って。ヌルヌルベタベタのゾンビがさ、お社道の下をズルズルゥって動いてるんだよ」


うぅぅ。

それらしく唸って、三浦さんは夏宮さんの方に腕を伸ばす。

夏宮さんは全く動じずに、「そうかもねえ」、と立ち上がってランドセルを肩に引っ掛けた。


「じゃあ、帰りに見て行こ」


そう言って先へ行く夏宮さんを追って、三浦さんも教室を出て行った。

私も二人に続いて教室を出る。


昇降口を飛び出していくランドセルたちを横目に通り過ぎ、廊下の突き当りを曲がる。いつも日陰の廊下は、昼夜関係なしに職員室から溢れる真っ白な明かりに照らされていて、仕事をしています、といった交番のような厳格な気配が漂っている。


ここに入るということに、まだ体が慣れていない。

ただ、目に映る風景の見方は少し変わった。

私の席は鬱蒼と茂った庭の隣、まだ庭木の一本も生えていないのでつまらないものだ。


「あの、兵頭先生」


茂みの中に太くて毛深い腕を突っ込んでいるトロールに声をかけた。

兵頭先生は、トロールらしく「ヴん?」と応えた。


「カーブミラーに首なし女が映るとか、誰も知らない怖い家の噂って聞いたことあります?」

「怖い家?」


作業する手を止めないまま兵頭先生はそれだけ聞き返してきた。

ということは、カーブミラーの首なし女のことは知っているのか?


「給食の時に生徒が話していたんです。どこにあるのか、誰のものかもわからないけど廃墟だってことはわかっている家の前に人が立っていて、ドンドンドーン、って乱暴にノックをしているって。得体の知れない何かが住んでいるとかなんとか……」


説明すると、兵頭先生はまた、ヴン、と唸った。


「なーんか違うな」

「なにが、ですか?」

「内容が違うな。俺が聞いたことあるのは、別の怖い家の話かも」

「どんな話ですか? それ」

「妙な"離れ"の話」

「離れ……ってことは家とは違いますね」

「まーそうだけど、子どもらは"怖い家"だって言ってたな。なんだったか条件の整った家にあるだとか、床がないとか、ものすごく暗いとかそんな具合の話だったはず。たぶん」

「ゆか……」


家の中に絶対にあるべきものがないという状況を想像しようとすると、どうしてか暗い地下へと続く階段まで見えてしまう。

何も知らない家なのにきっと地下深くに秘密があるんだと、そう思えて仕方ないのは、映画のせいだろうか。


ふーん、と相槌がてら頭を悩ませていると、


「あったね、そんなん。懐かしいわあ」


そんなことを言いながら、向かいの草むらからひょっこりと耳の丸いエルフが顔を覗かせた。


「佐藤先生も知っているんですか?」

「有名な話だもん。だいたいの人は知ってると思うよ?」


職員室内みんな、とでもいうようにボールペンを手元でぐるりと回して佐藤先生が頷く。


「とはいっても、設定が細かったから詳しく覚えてる人は少ないだろうね」


言いながら先生が今度はボールペンの先をトロールへと向けると、彼はヴンと頷く声だけを上げた。


「佐藤先生は、その細かい部分も覚えて……?」

「いる、ね。兵頭君よりは確実に」

「おー」


期待の眼差しを向けると、彼女はまたボールペンを小さく振り回した。



怖い家、はどこにあるとかそういうものではなく唐突に現れる、いわゆるひと部屋程度の広さの小屋だっていわれてるの。

その唐突にとはいっても、突然隣にぽっと現れるようなものではなくて、他人に指摘されて初めて家主はそこにあることに気がつくことができる――つまり、家の住人は気づくことができない不思議な建物なんだって。


でも、これはどこにでもあるってわけじゃなくて、小屋が現れた家には決まった特徴があった。

それは、少なくとも家と同じくらいの広さの庭があって、庭が玄関と反対の位置にあって、敷地が塀や垣根みたいなもので囲まれていて、それから人の背丈よりも高い木が植わっていた。

とまあ、この四つの要素が揃っている家に現れるらしいよ。


室内はじめっと湿った空気が漂っていて、明かりはなし。足下が土間になっていて、壁や天井は全てが真っ黒に染まっている。ただ、その黒色が普通ではなくて、一切奥行きを感じることができないほど濃いみたい。宇宙みたいなことなのかな?

だから、部屋の広さは外からの見た目でしか情報がないわけで曖昧になっている。とはいえ、たとえば五畳くらいだっていう話が多いね。


奥行きが感じられないってだけでもトリックアートみたいで不思議だけど、面白そうだからって敷居を越えて部屋の奥を調べちゃダメ。

本当に先がなくて、部屋の奥まで進んでしまった人はそのまま帰ってこられなくなるっていう話。



「へえ」


感心しつつ。ニュアンスしか合ってないじゃん、と心の声は右耳からトロールに届けばいい。


「っていうか、詳しすぎません? 私、その噂のことまったく知らないですけど、完璧な気がする……」

「まあねー」


くるくるとボールペンが楽しげに踊る。


「オタクだからな、お前は」

「そんなことないって、ただ好きなだけ。兵頭くんが覚え悪すぎるんだわ」

「子どもらが好きなことさえわかっていれば、俺がそんなもん覚えておく意味なんてないだろ。他に教えてやるもんがある」

「おっしゃる通りですね。兵頭せんせー」



一通り作業が終わり、壁の時計を見ると大体いつも同じ時間。でも私はもうこんな時間か、とわざわざ考えている。

午後八時。

そろそろ帰るかと身支度を整えていると、


「あたしも」


うん、と背伸びをして佐藤先生が立ち上がった。


「着替える?」

「いえ、このままです」

「オッケー」


先生はデスクライトを消すだけで、足下からリュックを取り出して肩に引っ掛けると、それ以上に特別身支度するでもなくさっさとシマをぐるりと回り込んで私の隣に立つ。

私は、最後に筆箱を机の引き出しにしまってから立ち上がった。


「じゃ、行こ」

「はい」


私が職員室のだれということもなく会釈をして挨拶をする間に、彼女は肩越しの挨拶と共に部屋を出ていってしまう。


佐藤先生のこういうサバサバとした態度が正直羨ましい。

だけど私が先生のようにするには勇気が必要で、でもきっと私がそんな勇気を手に入れることはない。

無礼も格好付けでやってしまうから。私は、そういう人間だ。


だから、本当のところこういった人種は体に良くないと思っている。

それがわかっていても続けてしまうのは、軟弱な人間の性というやつなのだろう。


暑くなった季節の夜。

肌に触れる空気が生暖かく感じられてしまうのは、エアコンのせいだ。あれが優秀すぎて、もっと昔ならもっと涼しいと感動できたはずが、なんだかもったいない気分になる。


そばの林が微かにざわめくのを聞きながら、ざくざく、と校庭の砂を踏んで校門へと向かう。

途中、校庭隅の駐車場から一台車が出ていくのを見た。

私たちよりも十五分ほど早く帰ったはずの吉本先生だろう。


不思議だなと思うのは、車で帰る人に限って出発するのに妙な時間が掛かっていることだ。

車に乗ってから家族なり誰かしらに連絡しているのか、気になるラジオでも聴こえてしまったのか。理由はわからないけれど、少し気になっている。


校門抜けると、そこからはこの端渡はわたりの区画を抜けるまで一本道だ。

左手に住居群、右手には林。

昼に見ると正反対のように感じられる風景が、夜になると無表情さと恐怖心を煽るような悪質さみたいな性格が加えられて、妙に排他的な雰囲気に変わる。

林の縁を流れる小川の音だって、余計な音を紛らわすジャマーのようで鬱陶しい。


道の先に暗闇に染まった鳥居を見つけて、


「そういえば。この通りって……オヤシロミチって呼ばれているんですか?」


八木山くんの言っていたことを、校門を出てから五分ほど続いていた沈黙の暇つぶしに使うことにした。


「あー、それ。違うね」


言葉とは裏腹に、佐藤先生はうんうんと小刻みに頷いた。

違うんだ、と首を傾げる私に先生は「それ」と前方を指差す。

目で追って見るも、そこにあるのは自動販売機だ。


「これ、ですか。たとえば開けると何かに導かれる……とか、そういう? ナルニアみたいに」

「は?」


と、小首を傾げ返される。


「そうじゃなくて、その陰のところよ」


陰と聞いて数歩先へ進んで自動販売機の脇を覗き込むと、そこには住居の隙間を縫って側溝のフタがずっと向こうまで連なっている。

道と呼べなくはないけれど、お社という厳格そうなものに付く道としては少し違うような。


「裏道的なことですよね、これ。でも参道なんですか?」

「いやいや、そういうんじゃないよ。通称だよ、通称」


ケラケラと先生がおかしそうに笑う。


「参道は鳥居の向こうでしょ。だから、すぐそこにお社があって目の前に道っぽく伸びているから、近所の人たちが呼び始めたんだと思うよ」

「あーなるほど」


連なる側溝のフタから、佐藤先生の肩越しに見える向こうの鳥居まで視線を沿わせてみる。

左右に広がる林、立ち並ぶ木々は全部同じ闇色。それでも鳥居の存在は異質で、先の見えない黒さがまるで風景の断面のようにして視線を阻んでいる。


「っていうかさ」


目の前で声がして咄嗟に焦点を合わせた。


「その自販機、いわくあるの知ってる?」

「ナルニア……じゃないんですよね」


佐藤先生からもう少しだけ首を回してみて、ふと気づく。


「これって使えるんです?」


明かりが点いていないし、気にしていなかったけれど一段分しかないディスプレイの飲み物もラベルが古いデザインのものばかりだ。

年季の入った旅館なんかでたまに見かけるけれど、実際に利用したことはなかった。


「それが、いわくなのよ」



見ての通り、この自販機はとっくの昔から使えない。

それがね、時々何かが買われている物音を近所の人が聴いたっていう話があるの。

気のせいかもと思っちゃえる程度の些細なことだけど、それがしっかりと記憶に残っているのは、この自販機の最後の利用者が亡くなっているからなんだって。


その最後の利用者は、スミヨシって人だっていわれている。

二十歳くらいの若い男の子で、この辺りで道路に出てきたところを通りがかりの車に跳ねられて亡くなっちゃったみたい。

その時彼が履いていたズボンに『スミヨシ』って名前が書いてあったのが由来ね。


それだけなら不慮の事故って感じお終いなんだけど……。彼の格好が肌着にズボンみたいな薄着をしていたから近所の人だと思われていたのに、警察が彼の素性を調べても何もわからなかった、って。

何も、よ。


だって、この辺りにスミヨシという名字の人がいなかったし、誰かの家に遊びに来ていたということでもなかったらしいの。

ただ、中には昔住んでいたスミヨシの家の子だ、とか言う人もいたらしいけど、それはずっと昔のことで、だとすればわざわざここまで何をしに来たのかがわからない。

というか、二十歳の若者がズボンに名前っておかしくない?


つまり、この事故……っていうか亡くなったこの男の子が妙な存在だったってわけ。

でね、とりあえず自販機がこんな中途半端な位置にあるから事故が起きたんだってことになって、撤去しようとしたこともあったんだって。


だけど、自販機を撤去しに来た車がまた事故を起こした。

その次に来た別の作業車も。

これは何かあるぞってことで、自販機は使えなくされて一旦放置されることになったってわけ。


それで不慮の事故は止んだ、と思われた矢先に始まるのが――。



「ガコンっ!」


不意の大きな声に思わず体が反応する。


「夜な夜なする、なにかが買われた物音、なんだわ。この音はつまり、スミヨシが来た合図って感じで、また事故が起きるんだねー」


ハハハ、と意地悪なエルフは不謹慎極まりない笑い方をする。


「でもそれって、結局スミヨシはなんのために事故を起こすんですかね? 恨み?」

「さあ? 肌着にズボンとかって古臭い格好だったから、タイムトラベラーじゃないかみたいな噂もあるみたいだし、もしかしたら戦時中で喉が乾いていた人だったかもしれないよ。喉がカラッカラでどうしても飲み物が欲しかったのに手に入れられなかった、となれば相当無念だよねえ」


わかるはずもない人の苦痛を肩をすくめながら話すところ、本当に清々しい人だと感心する。


「まあ、なるほどですね」


習って適当に相槌を打ちつつ先へと足を進める。

お社道の前を過ぎてすぐ、


「で、だ」


と佐藤先生の腕が目の前を横切った。


「そこの草むらにも噂がある」

「……はあ」


横切った彼女の腕の先では人指し指が伸びていて、さらにその先に一坪程度だけぎっしりと雑草が茂る道から抉れた空間があった。

空き地というには狭すぎるそこには、鉄パイプが渡されたバリケードがされていて、工事現場みたいな立ち入り禁止感が演出されている。

そのせいか自治体の怠慢か、ブタクサやらネコジャラシやらトゲの付いた木の成りかけの草ような、名前も知らない植物たちが胸の高さくらいまで伸び放題だ。


さて、この小さな空間にある噂とはなんだろうか。

なんとなく閃いて、「はい」、と手を挙げた。


「ボール、じゃないですか? 誰のかわからない野球ボールが見つかるとか」

「違うねえ。ぜんぜん違う」

「じゃあ、子猫の鳴き声がして探しても見つからない、とか?」

「ぶー。でも、おしい」



この一画が、あたしの思い出せる限りでバリケードがされていなかったことはない。

かといって誰に手が加えられる様子もない。すぐそばの家の人も気にしていないみたいだしね。

そんな状態だから、自治体名義の土地なのだろうと思っていた。


じゃあ、何のための空き地なのか。

どうやらその奥にはマンホールがあるらしいの。おそらく消火栓だって。おそらく、ね。

つまり、ずっと長い間誰も確認すらしていないから、それが何なのか本当のことはわかっていないってことだ。


何のフタかはわからないけど、どうやらフタがあるってことは本当だろうね。

そこで妙な噂が立った。


『あれは政府が隠している地下通路の入口だ』

噂は、実際にフタを確認したっていう人たちから広まったらしいよ。

それはどこまで続いているかわからないほど深くて、入った人は誰一人帰ってこなかったんだって。

そんなの嘘だって思う人が大勢いるに決まってる。


だけどね、このそばを通りかかった時、足下のどこからともなく、ゴン、ゴン、と何か硬いものを叩くような音がした。

ふと耳を澄ませてみると、『開けるな、中に何かいる』ってそんな囁くような声が聴こえる。

声の出所は、草むらの方だってわかる。

この状態じゃ踏み込むのには勇気がいるけど、それでも入ってみようとすると、突然頭痛やら吐き気やらで具合が悪くなる。そしてそれは一歩進むごとに激しくなっていく。


こんなの身体が行くなって警告しているみたいでしょ?

だから声まで聴いた人もフタまで近づくことはしない。

一刻も早く楽になりたくてこの場を離れるしかないんだって。



「なんかこの話って……」


すごく嘘くさい。

そもそもフタがあるかどうかなんて今すぐにでも確認できてしまうし、政府が隠し事をしているとしてこんなテキトーなバリケードで済ませるはずがない。

何より、この草を刈ってしまえば一瞬で謎は解明されてしまうじゃないか。


もやもやとしたものが顔に出てしまった私に、


「まあ、さまざま言いたいことは察するよ」


と佐藤先生は笑った。


「まあ、こういうわかりやすいのもあるってこと」

「……ってことなんですねえ」


どれもこれも子どもの噂なのだろう。かわいいじゃないか。

なんとなく気分が良くなって、用途がよくわからない空き地を後にする。


「そういえばなんですけど、先生は"カーブミラーに映る首なし女"のことも知っているんですか?」

「もちろん。お社道の向こうにあるやつのことだよ」

「あー、たしかにそうか。顔を取られてお社道しか視えなくなるんですよね」

「そうそう。まあ、たしかにカーブミラーが左右分ないのはよくわからないんだけどね。一応、駄菓子屋が左手にあるから、お社道を通る子どもたちが右側からくる車に油断しないようにスミさんが付けてくれたみたいな話はあるよ」

「スミさん……ってことは、隅っこのことじゃないんだ」

「なにが?」

「ああ、すいません。独り言です」


八木山くんが言っていたスミのカーブミラーというのは、そういうことだったのか。

スラングは言語関係なく確認しなければわからない。

つまり、スミさんが設置したカーブミラーという話は事実ってことなのだろう。


それにしても、


「子どもたちの噂話ってあの一画に集まっているわけだし、もしかして端渡七不思議とかあるんですか?」


私の質問に、佐藤先生は顔を向けてニヤリと顔を歪ませた。


「ねえ、このままダイジャ寄って行こうよ」


ふと、私の鼻に焼きホッケの香りが漂った。



ざわざわ、ペタペタ、カチャカチャ、ギシギシ。

そして、「らっしゃい」。

スーツ姿のサラリーマンやら家族連れやら、この居酒屋は相変わらず盛況だ。

一通り見渡して見知った顔がないことを確認する。

別に居酒屋にいたからって何も問題はないけれど、なんとなくだ。


テーブル席は満席で、私たちは刺し場前のカウンター席に通された。

恰幅がよくて、髭面に濃い腕毛。それだけでも見た目十分な毛量は当然頭髪にも及んでいて、キャスケットからもっさりはみ出している。

そんな特徴だらけの店主のことを、もちろんドワーフと位置づけている。


どうせなら出刃包丁ではなくて小斧でも振るっていてほしい。

目の高さに置かれた「三卓のサーモン」を見て思った。


ビールとウーロン茶、ネバネバサラダからのサーモン刺しと焼きホッケと砂肝二本とクリームコロッケ、今日の授業について。学年主任の怠惰とまたビール、それからハイボール。夏休みのことと大吟醸と漬物盛り合わせ、またハイボール。


そうしてカブの漬物をつまんだところで、「でさ」、と佐藤先生が切り出す。


「好きなんでしょ」

「ええ? まあ、嫌いじゃないですけど好きってほどじゃあ……」

「なによー。ガキじゃないんだし、はっきりしなさい。好きなんでしょ?」

「……まあ、好きです」

「ハハハ、ガキだねえー!」


ゲラゲラゲラ。


「あたしさ、実はあそこの卒業生なの」

「あーなるほど。だから兵頭先生より詳しいんだ」

「そういうこと。まあ、それにしてもあいつの記憶力が悪いと思うけどさ」


佐藤先生は、まだ中身いっぱいのグラスを慎重に持ち上げて肩をすくめる。


「じゃあ、ああいう話は昔から知ってた感じです?」

「もちろん。でも――」


カーブミラー、自販機、バリケード、怖い家、お社道の匂い。

先生はぶつぶつつぶやきながら、空に五つの点を打つ。

一つだけ知らない話が含まれているけれど、そこはあえて追求しないことにする。


「だから、五不思議……だと思っていたの。だけど、今日一つ増えたね」

「増えた? それってどんな話です?」

「君が言ってたんじゃないか。クラスの生徒が怖い家の話をしていたって」

「そうですけど、でもあれは内容が違うんですよね?」

「そりゃそうだよ。だから、実はもう一つあったってことだろ? あたしだって子供だったし、その時知っていた以上のことを調べようなんて考えもしなかったから、あり得る話だよ」

「マジすか……」


初めて聞いたかのように感心してしまったけれど、思い返せば吉村さんは『お父さんが言っていた』と言っていた。

吉村さんのお父さんは市役所の人だから、もしかすると佐藤先生と同じく卒業生の可能性だってある。


「ってことは、もっとあるかも?」


うん、と頷いて先生はグラスの中身をまた一口減らした。


「それで思い出したことがあるんだよね」


うんうん、と私は体を捩って顔を近づける。


「怖い家の話ってさ、例の離れ以外にもう一つ聞いたことがあった気がするの。でも、ぜんぜん記憶が定かじゃないんだよなあ……」

「でも、思い出したんですよね、離れじゃない何かのこと。具体的じゃなくてもどんな感じだったかとか……」


先生は、うーん、と呻いて、


「家が人を殺す、とかそんな感じのー……」


と結局自信なさげに首を捻ってしまった。

ただ、私の好奇心をくすぐるには十分なフレーズだ。

家が人を殺す、どういう意味なのだろう。考えようによっては離れのそれと似ている気もする。

だけど、あれだけ詳しく怖い家のことを覚えている佐藤先生がこれだけパンチのあるフレーズを覚えていないのは不自然だ。


もはや乾燥しているオクラを箸でつまんで耽っていると、


「赤い屋根のボロ家のことじゃないかな?」


年季の入った男性の声がすぐ脇から聴こえた。

オクラから左隣へ顔を向けると、やけに姿勢の良い白髪頭のおじいさんと目が合った。


「いや、ごめん。つい懐かしくて聞き耳を立ててしまった」

「あー、いえ。それって、人を殺す家なんですか?」

「そうだね、そういう呼ばれ方をされていたよ。ただ、人を殺す家ではなくて『家に殺された』という話だなあ」


本当にあるんだ。

声は出なかったけれど、顔ではっきり表現できていたと思う。

おじいさんは微笑んでいた。


「お父さん、それってどんな話か覚えてる?」


佐藤先生の声がテーブル上を滑って私の耳を通り過ぎていく。


「奇妙な事件だったからねえ。忘れるのも難しいもんさ……」



東京オリンピックがあった年のことだよ。

端渡のどこだったかは覚えていないんだけど、二人おかしな死に方をしているのが見つかったんだ。

一人は八十過ぎくらいの女の人で、もう一人が四、五十くらいの男の人だった。


あまり近所付き合いをする方じゃなかったみたいでね、二人のことをよく知っているって人はいないのさ。

ただ、家の人らが日中は毎日庭に出てるところを見られていたみたいでね。だから二人だってことだけは伝わっている。


それがとんと見かけなくなった時間がひと月ばかり続いて。ほら、女性は年寄りだったからね。親切な近くの人が様子を見に行ったんだってさ。

それでわかったことが、表札がないし付き合いがないしで誰も名前も知らないってことだった。


おーい、なんて声を掛けてみたけど返事がなくて、庭に入って中を覗いたら女の人がそこの部屋で布団の上で横になって眠っているのが見えた。

だけど、呼べど叩けど反応がない。

ああ亡くなってるんだな、と思ってあの息子さんを呼ぼうと思ったけど、息子さんがどこで何をしているかがわからないわけだ。


仕方がないからそのまま家に戻って警察を呼んだんだ。

そうしたら、息子さんも玄関のところで突っ伏して亡くなっているのが見つかってしまった。


ぱっと思い浮かんだのは、殺されたんだってことだよ。

なんだか世間から疎い人たちだったし、もしかすると遠くから逃げて来ていたのかもしれない。

だけどね、蓋を開けてみればなんてことはない、病気で亡くなってしまっただけだった。


とまあ、ここまでは珍しくもない悲劇だ。でもこの事件はここからが奇妙なところでさ。

まずこの二人、同じ死因で亡くなっていたことがわかった。

まあ、心臓に血がなくなっていたんだ。それで心不全だったのかもしれない。


だけどね、それだけじゃない。二人とも外傷はなかったんだけど、どうしてか首のとこの神経だけがダメにいたっていうんだ。

これにはどうも説明がつかない。

するとだ、居間に落ちていたなぐり書きのメモが気になる。


これには、『逃げろ』と書いてあった。

いったい誰から逃げるのか。なんだかわからないけど、母親は布団の上で亡くなっていて、息子は玄関に突っ伏していたわけだから、なんとなく風景は見えてくる。


母親が死んでいるのを見つけた息子が、『逃げろ』とメモを見つけて慌てて逃げ出そうとした。けれども、玄関を出ようという時に心臓が止まってしまった。それでいて、実は首の神経がやられていると来た。


これは、得体の知れない何かが二人を逃さないように首の神経をやって、動けなくなったところで血を啜ったんじゃないのか?

それを噂する人たちは、家に殺されたんだ、っていうんだね。

その家が、赤い屋根のボロ家さ。



「なるほどぉ……」


呟くと、想定以上に神妙な声が出た。

もちろん内容に気になることはあるけれど、それを聞くのは野暮だろう。

でも、どうしても一つ訊かなければならないことがある。


「あの、もしかしてこの話っておじいさんが当時事件を見た人から直接聞いた話だったりします?」

「いや、まさか。仕事を探してここらに行き着いて、そのうち近所の人に聞いたんだ」

「……じゃあ、本当にあったかはわからないことなんだ」


事件、という単語のせいでどうも真実味が足されて感じられてしまっている。

だけど、単なる噂だ。

どこぞの目立ちたがり屋で尾ヒレを付けて話を大げさにしたに違いない。たぶん事実は、オリンピックの年に二人の男女が同じ屋根の下で亡くなったところまでだろう。


とにかく、内容はどうあれこれが七つ目と考えて良さそうだ。

やっぱりだ、と声に出す代わりに瞼を押し上げて佐藤先生に視線を送ったけれど、彼女の視線は私を通り過ぎてさらに向こうへ伸びている。


「ねえ、お父さん。その他に端渡の噂話って知ってたりする?」

「いくらかはあったと思うなあ。ただ、このこと以上に詳しく覚えてはいないよ」

「ぜんぜん気にしないで。あたし、こういう話集めるのが趣味なんだ。もともと知っていること以外にもネタがあるってわかれば、それだけでも最高」


なるほど、だったら。と、おじいさんはふいに厨房の方へ顔を向ける。


「テルオくん、彼女たちに例のトビキリがあるだろう?」


ここから見えるのはキャスケットから溢れ出すモジャモジャだけで、彼が手元で何をしているのかはまるでわからない。

俯いたまま、店主は「また、そうやってハードル上げるんだよなあ」とぼやきながら手元では何かしらの作業を続けている。


かと思ったらひょいと顔を上げて、「ポテサラ、十卓」、とまた目の前にふわふわまろやかな香りをまとった山盛りのポテトサラダを置いた。

すぐに失礼宣言と合わせて健康そうな毛のない腕が伸びてきて、それを攫って行く。

自然と持っていかれる視線を、


「駄菓子屋の話っすよね?」


店主の声が引き戻させた。

おじいさんは、それそれ、と指を差す。


「端渡の小学校のそばにさ、駄菓子屋があるでしょ? あれって何で『スミ』っていうか知ってます?」

「店主のおばあさんが、スミさんっていう名前だからでしょ?」

「これが、違うんだって」


え、と佐藤先生が目を見開く。


「あれって実は"道の隅"に建っているから、スミっていうらしいのよ。ちなみにこれ、あそこの孫から直接聞いたからマジね」

「ふーん……」


と、佐藤先生のリアクションは意外にも薄い。

かくいう私も、もちろん続きがあるんだろうと期待する一方で、まさかこれがトビキリなのか、という期待外れ感でぼーっとしていた。


「で、だ」


店主の口から飛び出した二文字にほっと胸を撫で下ろすのと同時に、「あれ?」と閃きが口から飛び出していた。

すると、私が言わんとしていることに気がついたのか、隣のおじいさんがまあまあと手を降る。


「道、ね。あそこってお社道なんて呼ばれているけど、暗渠だから正確には道じゃないって知ってますよね。これがね、ずっと昔まで遡ると道があったっていうんすよ。

つまりね、あの一部分っていうのはもともと地面で、それが川になって、今は暗渠になってるってこと」


なるほどだ。道がないのに隅もなにも……と思ったけれど、まさか川になる前のことだったとは予想もできなかった。なるほど、だ。

俄然興味が湧いて自然と体が前のめりになる。


「まず、ここまでは役所なり図書館なりで調べればわかるようなことだけど、このことについていわくってものがあるらしいんだよな」


うんうん、と頭が動く。


「どうやらこの土地には、大昔にでっかい蛇がいたってさ」

「大きな蛇ってもしかして……」

「そう、ウチの店の名前の由来。それでそのでっかい蛇だけど、いわゆる土地神ってやつだったらしいんだよな。だけどそれは地元の人らにとっては……ってことで、偉い陰陽師の人からすると良くないものだった、と。

だから、頭をぶっ潰してそこにお社を建てて封印的なことをやった。そしたら残ってる腹があるんで、そいつは参道として使うことにしたわけだ。でも――」


でも?


「その後すぐに陰陽師がいなくなってしまったんだってな。で、それから参道で人が死んだり、それこそ消えたりする気味の悪いことが起こり始めた。すると陰陽師はどこに行ったのかって、もしかして……となるでしょ。それでおかしな噂が立ち始めるわけだ――」



参道が人を喰う、ってさ。

要は残った腹だけ大蛇は生きていて、まだ人を食うと思われてたってことだと思うんだ。

だけどもう陰陽師はいないわけでどうにもならないから、とにかく大蛇を鎮めようってことで、胴体を挟み込む前と後ろに門が作られたと。たぶん、危ないぞって教える意味もあったんだろうね。


自分たちじゃ陰陽師のようにはできないから、結局地元の人らは頭の上のお社を拝み続けた。

あの一箇所だけ金かけてタイル敷きんなってる場所、あそこの道は参道というか、そういうことらしいよ。


で、建てられた門がマエロク門、アトロク門、って名前が付けられていて、そのロクもスミと同じ『角』の漢字なんだってさ。

それから時間が経って、門も火事か何かでなくなっちゃって、大蛇の話も迷信になっちゃって、今に至る感じかな。


だからさ、あの駄菓子屋はもともとは後角門の一部だったってことだな。

あそこんところに、カーブミラーが立ってるでしょ。あれも実は大蛇を睨んで封じる意味で、たとえば池だったり昔から映る物が置かれていたってことらしいよ。

それから前角門だったものはっていうと、一応地面の中に名残は残ってるみたいだけどほとんど形はなくなってるわな。



マジか。

隣でぽつりと呟く声が聴こえた。


「その名残って、どんな感じなの?」


私と同じく前のめりになっていた佐藤先生の鼻息は荒い。


「僕は見たことないけど、もともと杭だったていう切り株みたいなもんがあるって話だよ」

「マジか……」


相変わらず驚いている先生を尻目に、私は心の中でなるほどと手を打つ。

あの草むらにあるのは、マンホールではなくて切り株だったか。たしかに見間違ってもおかしくはない。


ただ、だとして地下に降りるくだりは何がどう変わったのだろう。

元の話かどうかはわからないけれど、マンホールに地下がどうのという話よりは、切り株だった方に真実味を感じる。

それが地下に降りるような話に変わったのは、誰かがそれを確認しに行ってマンホールと見間違ったからだろうか。


確認したのに、見間違う?

それだけ切り株とマンホールが似ていたということなのだろうか。

それとも……。


「もしかして、あそこの草むらって以前は草刈りされてたりしたんですか?」

「あー、それはそうだね」


きょとんとする店主を正面に、左からおじいさんの物知り声がした。


「基本的にはほったらかされているんだけど、昔スズメバチに巣を作られたことがあってね。自治体に言っても自分のところの所有じゃないからって何もしてくれなかったんだよ。でもほら、あそこって通学路でしょう。だから、町内会が草を刈ったことがあるんだよ。それからも予防で時々やっていたみたいだけど、もうずっとやっていないね」


気になるなら言っておこうか、という提案に私は両手で遠慮した。


「いえ、そういうことじゃないんです。だから見間違えたんだなー、って……」

「見間違い?」

「あ、えーと、切り株とマンホールを」

「マンホール……」


首を傾げるおじいさんに、「子どもたちの噂ですよ」と佐藤先生が例の噂話を伝える。

するとおじいさんは、ハハハ、と気持ちよさそうに笑って、


「さすがだなあ。年を取ると想像も方向性が決まってしまってつまらなくなってくるから、羨ましいよ」


くい、とビールを一口飲んだ。


「まあ、噂の出処は子どもたちの親らしいんですけどね」


佐藤先生の一言におじいさんがさらに大きな声で笑う。


「ああ、なるほどそういうことか。たしかにね、あそこでよく人が事故を起こすんだ」

「なんですよねえ」


先生が相槌を打つ手前にいて、おじいさんの発言にふと違和感を感じていた――



――ガコンッ


不意の物音に男は目を覚ました。

今の音は、と寝起きの頭にふと浮かぶとある噂。


まさか、あれはもう使えないはずだ。

近くで見て、ボタンを押して確かめた。

だったら聞き間違いか。しかし、もし聞き間違いでなかったら。


妙な不安に駆られて男はそれに近い台所の窓をそっと開けた。

しんと静まり返った住宅地のどこからともなく、ネズミのか細い鳴き声が聴こえている。トト、と枯れ葉の落ちる音がする。

人の足音は聴こえない。


昼に比べて温度の落ち着いたぬるい空間から鼻先を引き戻し、また窓を閉じた。


いや、聞き間違いなんかじゃない。

静まり返った深夜だからこそ、男は確信することにした。


サンダルに足を刺し、いつも通り部屋の外に出る。

ズ、ズ、と浮いた踵が擦らせる足音を、男はあえて制御しなかった。

いつも通り、いつも通り。


スウェットパンツのポケットに両手を突っ込み、あれが使えないことなんて知らない、ただジュースが飲みたいだけだと何者かに言い訳をしながらアパートの敷地を出る。


そこの通りに出て左を向けば、それはある。

ちょうど街灯と街灯の間に位置する薄暗い場所、案の定あの古い自動販売機は沈黙していた。

男は徐ろにそこへ近づき、縁石から一歩分道路へ体を出してそれと対峙する。


真っ赤な姿に白文字のロゴ。

その他視線の高さに並ぶディスプレイに知っている名前が二つだけあるが、どちらも見覚えのないデザインのものだ。

横一列に並ぶ真四角のボタンにも見覚えはない。


今なら、何か出てくるのかもしれない。

奇跡のようなものを信じつつ、知った名前のもののボタンを押そうか悩む男の耳に奇妙な音が聴こえた。


グロロ、グロロ、と流れの悪い排水溝が唸るような音がしている。

何事かと音がする自動販売機の陰へ顔を向けると、ふわりと生臭い匂いを感じた。


男は、その先に側溝が向こうまで続いているのを知っている。

ただ、深夜に見るそこは深い川のように濃い闇が溜まっていて、男が知っている小学生たちの裏道としての面影は微塵もなくなっていた。


水面を見れば少し触れてみたくなる。

ほんの少しの子供心に突き動かされて、男が縁石に両足を乗せた時だ。

車の起こす風の気配が、静寂な住宅地の向こうから近づいてくるのを感じた。


追って、光の帯が男の目に映る先を照らす。

それは、旅行先で学生たちの就寝を確認に見回る懐中電灯の明かりのようにぶしつけに暗闇を拭い、次々と街の寝顔を露わにしてくる。


男は佇み、それとなく車の動きを感じながら自分の番を待っていた。

そうすれば、そこの小さな空き地から光が入り込み足下の闇をどかしてくれる。

期待に合わせて早くなる鼓動。むずむずと腹のあたりがくすぐったくなる。


まもなく、強い光が男とその周囲を照らした。

突然の昼中に取り残されて逃げ惑う影の隙間、男はやはり普段とは違う裏道の姿を目の当たりにしていた。


そばの一箇所だけ、側溝の蓋がズレている。いや、厚さ十センチはあるそれがズレることはあり得ない。

その状況は、側溝の蓋が一度開いたことを示していた。


あれの重さは、触ったことがなくても大抵が知っている。誰が。

いや、音がしてから人の気配がなかったことはわかっている。

であればナニが。


一瞬の思考。男は、中からナニかが蓋を押し上げる姿を想像した。

どこへ行った。

ナニかの痕跡を探して側溝の口から自分自身の足下まで視線を這わすと、妙な液体をつま先半分踏みつけていることに気がついた。


足を避けようと一歩下がりかけた瞬間、まだそこにいた車の気配が男の後頭部に触れる。

刹那に振り返り、反射的に身を翻して道路から遠ざかろうとして、自分が今いる場所がズレていることを思い出した。


とん、ととん、とととと……



――ゴウゥンッ


太陽が登るよりも随分早く打ち鳴らされた目覚めの鐘に、パチ、パチ、と家屋たちが目を覚ます。

その内の一つが、ガラララ、と口を開けて言う。


「……まただよ」


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