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穏やかに死ぬ権利(後編)  作者: 上田秋人
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穏やかに死ぬ権利(後編)

*マサミチ*

 日付が変わるのを、私はぼんやり見つめていた。

 誕生日を迎えるほどに、絶望的な気分が上塗りされはじめたのは、いつからだったろう。

 私は、今日をもって六十二歳となった。

 小さい頃から、母によく言われていた。

「マサミチ、あんたは本当になんというか……ボゥっとしているところがあるから。心配だよ。あんたが、人様が普通に歩む流れから外れてしまうんじゃないかって」

 私は結局、母の心配する通りの人生を歩んでいる。

 この年齢にもなると、ただ表を歩いているだけで、チラリチラリと好奇の目を向けられる。それもそうだと思う。平均寿命が五十歳やそこらのこの国で、六十を超えた私は仙人か何かのように見えるのだろう。

 特に若作りができるタイプの顔立ちでもなく、残念ながら実年齢よりも上に見られることの方が多い。

 昨日、とうとう勤めていた病院もクビになった。

 大学を卒業してからずっと勤めていた病院だったけれど、今年三十歳になる病院長に「これ以上はもう……」と頭を下げられた。本当に申し訳ないことをしたと自分でも思う。

 自分の息子ほどの年齢の同僚にも「先生、本当に言い辛いことですが、もうご自身の終幕について考えるべきでは……」と言われてしまった。

 私が勤めているせいで、病院は「幽霊院」なんていうあだ名で呼ばれるようになってしまった。

 おまけに、私は長いこと医療に携わっているせいか、自分で言うのもなんだが、それなりに腕が良い。単に経験値が高いというだけの話ではあるけれど、手術慣れもしているし、最新医療機器の取り扱いにも、まだまだ対応できるだけの頭はある。そのせいで、病院側が私に出さなくてはいけない人件費というのが、結構高いのである。

 若い頃に一度、国の「名誉医療師」などという称号を得てしまったのもマズかった。名誉医療師の給金というのは、国から定められていて、それ以下の給金であった場合、訴訟を起こすことも可能となってしまう。

 もちろん、私は給金が減っても良い、訴えるなんてこともしないから、どうかもう少し働かせてくれないかと粘ってみた。粘って、粘って、六十二歳まで。いや、六十一歳までか。もう、これ以上は子供のワガママのようになってしまうと思ったし、正直私も、限界だった。

 職場中の人たちから、面倒くさそうな視線を受け、新規の患者からは怯えたような顔をされ、通院している患者からも「いつまでいるんだ?」みたいな顔をされる。

 五十五歳を過ぎたころから、私に話しかけてくる同僚も、滅多にいなくなった。

 みんな、心優しく、良い人たちばかりであった。だからもう、ここまでだな、と腹をくくったのだ。

「今日から無職か……」

 今まで、仕事だけをコツコツとこなして、特に趣味なども持たずに生きてきた。医者という職業は、それなりに儲かるので、貯金はある。

 大金持ちということはないけれど、小金持ちくらいの感覚ではある。

「さて……今日からどうしようかな……」

 深夜にひとり、ベッドに潜りながら考える。

 夜は静かで、その静けさはいつも私を落ち着かせてくれる。

 誰もいない、静かな夜。

 誰も私を糾弾しない。

(生きることは……罪だろうか……)

 私は、小さい頃から疑問に思ってきた。

 この国では、短く濃く生きることが良しとされ、長く生きることは罪とされる傾向にある。長く生きれば生きるほど、生活が辛くなるようなシステムが根付いていて、おまけに終焉たる死へのハードルがカステラ一斤の高さよりも低い。

(朝がきたら、カステラでも買いに行こうか……)

 せっかくの誕生日なのだ。カステラをケーキと呼ぶのかは別として、なんだかそういう気配のあるものを食べるのも悪くないと思う。

(一斤買うのは無駄遣いだな。どうせ食べるのは私だけだ……)

 カステラ一斤だと、おそらく一万くらいはするだろう。小分けで買えば、一切れ二千くらいで買えるはずだ。

 それでも、嗜好品にそれだけの金を出すのは贅沢に思える。贅沢をするのは、気持ちが良いと私は思う。こういう思考も、世の中的には悪なのだろう。

 昔、おそらく小学校の高学年になったころだ。

 学校の先生から「具体的な人生の設計図をつくりましょう」という宿題を出された。

 真っ白な紙に、自分が通いたい学校、将来何になりたいのか、どういう功績を残したいのか、そして、何歳で人生を終えるつもりなのかを書く。

「自分のお父さんお母さんの年齢から逆算して考えてみましょう」

 自分の父母が、あとどのくらいで死ぬのかを計算して、親がいるうちにやれることをやろうと先生は言った。

「お家で、お父さんお母さんに、実際に聞いてみるのも良いでしょう」

 と先生は言った。聞いてみる、何をだ? 私は思った。

「お父さんお母さんが何歳で死ぬ予定なのか、聞いておくと自分の人生設計もスムーズに書けます。お父さんお母さんが、まだ何歳で死ぬ予定かを決めていなかった場合には、なるべく早く決めてもらえるようにお願いしましょう」

 先生は、無表情で言っていた。教室はシンとしていて、誰も何も言わなかった。

(私は、あの宿題は、出せたのだっけかな……)

 随分と苦労をして書いたことだけは覚えている。

 私の父母は、人生設計をキチンと定めている人たちだった。

 私が持って帰ってきた宿題を見て、両親は自分たちが死ぬ予定を、私が聞くよりも先に教えてくれた。

「しっかり人生のプランを立てなさいね。これはとても大事なことだからね」

 私には、六歳も上の兄がいた。私は、兄にも手伝ってもらって、一生懸命に宿題をした。私は、そのころから「医者になりたい」という気持ちだけは持っていた。

 両親にも、兄にも言えなかったけれど、私は幼い頃からぼんやりと「生きる」ということは、末永く続けても良いものではないか、年を取れば取ったなりに、役割もあるし、楽しみもあるのではないか、と思っていた。

 だから、人の命を助ける「生存医療」の医者になりたかった。今思えば、あの頃は、生きるために必要な資金の全てを両親に出して貰っていたし、生き抜いていくことの大変さというものを、ちっとも実感として理解していなかったのだと思う。

 宿題を前に、私が「お医者さんになりたい」と言ったら、兄は大いに良い顔をして「それはいいな!」と言った。

 兄はすぐに父母のところへ行って、

「父さん、母さん、マサミチは医者になりたいんだって!」

 と、大きな声で報告した。私は、あまり褒められる機会のない子供だったので、嬉しいやら恥ずかしいやらで顔を赤らめた。

 父も母も、まだ小学生の私の夢に喜んでくれた。しかし、ひとつだけ勘違いがあった。父母、そして兄は、私が「終末医療」の医者になることを前提としていたのだ。

 終末医療、つまり、尊厳死を執行する医者のことだ。

 尊厳死の受付を済ませた患者を、苦しませずに絶命させるのが終末医療の役割で、この分野の医師はいつだって人を募集している。

 対する生存医療というのは、金持ちのための悪徳医と呼ばれがちな職業だ。

 生存医療、つまり人を生かすための治療をする医者。

 頭が真っ白になるほど医療費が高いこの国では、医学的な治療を受けられるのは、大金持ち、ブルジョワジーだけだ。

 現実に、世の中の平均寿命が五十歳から五十五歳なのに対し、ブルジョワ層だけでの平均寿命は、およそ八十歳から九十歳である。

 そうした大金持ちたちは、都心から離れた静かな高級住宅街で、宮殿のように広い家に住み、滅多に都市部にはやって来ない。

 都市部は、働かないと食べていけない人々のための場所であり、優雅に文化や芸術を楽しみながら、生きること自体を楽しむような人たちの場所ではないのである。

(どうせなら私も、そのくらいの金持ちだったら……こんなに目立つことも、肩身の狭い思いをすることも……後ろめたい気持ちになることもなかったろうになぁ……)

 私の患者は、主にそういったブルジョワ層の住民だ。

 法外な治療費を躊躇いなく支払って、処置を受ける。

 私は若いころに、この国で五本の指に入るだろう大金持ちの奥様のガン治療を成功させた。旦那様は政治関係者で、妻を助けてくれた恩人として、私は国の「名誉医療師」の称号を賜った。

 誇らしいと思った。私自身は、とても誇らしい気持ちだった。

 けれど、そのことを褒めてくれる人は誰もいなかったし、なんならその事実については「口にしない方が身のため」という類のものだった。

 生存医療で名誉を貰うことは、すなわち、ブルジョワ層との癒着がある、大金を貰って金持ちを贔屓している医者、小判鮫、ハイエナ、金の亡者、そういう扱いになるということだった。

 生きることは、生かすことは、そんなに悪いことだろうか。

 そりゃぁ、確かに、医療が平等でない以上、えこ贔屓のように見られるのは仕方ないかもしれない。

 でも、命は命だ。たったひとつしかない命だ。

 それを守るため、たゆまず勉強をし、手術の腕を磨き、最新機器の扱いを習得する。

 なにがそんなに、いけないことなんだろう。

 私は、六十年以上生きているのに、その答えが見つけられない。

(全然、眠たくならないな……)

 私は、ベッドの中で何度も寝返りを打つ。

 妻が生きていた時に買ったベッドなので、一人寝にはかなり広い。

 妻は、彼女が五十歳になった年に尊厳死した。

 彼女とは、研修医時代、一時的に勤務をした病院で知り合った。彼女は私の二歳年上で、そこの病院の終末医療看護師だった。

 出会ったころ、たまたま昼休憩ではち合わせた。

 軽く会釈をしつつ、なんとなく一緒に昼食を取った。

 彼女は言った。

「生存医療の現場って、実際にはどんなところですか?」

 私は、研修医の時分から、己の仕事に誇りを持っていた。けれど、その誇りを全面に出すと引かれてしまうことも十分に理解していたので、曖昧に笑って誤魔化した。

 けれど、彼女は食い下がってきた。いろいろな角度から、生存医療の現場について質問を繰り返し、私の仕事を知りたがった。

 そして、自分の働く終末医療の現場についても語った。

 毎日、人の命の灯火を、フッと吹き消していく仕事。

 尊厳死に使用される薬は、人それぞれ量も種類も違う。

 身長体重持病の有無。その人に合った薬を調合する。

「もうだいたいのところ、調合比率は決まっているので、そこで悩んだり大変だったりすることは、ほとんどないんですけどね。今は錠剤が一般的だし」

 彼女は苦笑した。

「でも、もしこの薬で、患者さんが安らかに死ねなかったらどうしようって、いつも頭を過ぎります。もし少しでも苦しみがあったらどうしようって。だから、確実に心停止させないといけない。確実に。苦しみなく、安らかに」

 彼女の顔には、ある種の迫力があった。己の仕事を全力で、力一杯やっている人の顔に見えた。その表情は、万の言葉よりも信用に足るものだと私は思った。

 彼女ならば、生存医療の現場のありのままの姿を、聞いてくれるのではないか、私の仕事を軽蔑することなく、同じ医療に携わる者として接してくれるのではないか。

 私は、彼女に生存医療の現場について、おそるおそる話した。

 彼女は、頷き頷き、真剣に話を聞いてくれた。

 その日から、私たちは、よく会うようになった。お互いの日常を、命に関わる日常を、たくさん話した。

 私が研修期間を終えて、自分の勤める病院へと戻る際には、かなり親しくなっていた。

 出会った翌年、私たちは結婚した。そして、息子も産まれた。

 幸せだったと思う。私も妻も医療関係者だったから、息子には惜しみなく金をかけてやれた。後悔はない。とても恵まれた環境で、私は生きてきたと思う。

「幸せ、だったなぁ……」

 思わずポツンと漏れた。独り言だ。誰も聞いていない。

 自分の声であったのに、妙に情けない、切ない気持ちになった。

 鼻の奥の方が、ツンとなって、年甲斐もなく涙が出そうになった。

 昨日、仕事をクビになったことを息子に報告した。

 なんで報告なんてしたのだろうかと思うけれど、家族なのだから、そのくらいの連絡はしても良いかと思った。

 息子は私に「長いこと、お疲れさま」と言ってくれた。

 けれど、同時に「そろそろ、考えてくれるかな」とも言った。

「父さんも、もう明日で六十二、だよね……? 俺ももう、今年で四十になる。妻とも、何歳くらいになったら尊厳死をしようかと話し合っているよ。俺は妻と一緒に、夫婦尊厳死を予定してる。結婚する前から、そういう話は、もうしていたよ」

 息子は、とても話しにくそうにしながら言った。優しい子だ。よく働き、妻となった娘さんをとても大事にしている。

 孫は、女の子ひとり、男の子ひとり。孫たちも、あと数年すれば二十歳になる。

「母さんも、五十で尊厳死した。父さんが生存医療で、とても腕の立つお医者だってことは、よくわかってる。母さんもずっと言ってた。父さんの仕事は、大事な仕事だって。俺もそのことは、良く理解してるつもりだよ? でも、この先、仕事もなくなって、収入もなくて……どうするつもり?」

 息子の声は、どんどん小さくなっていった。

「今すぐなんて言わないよ、でもせめて六十五歳になるまでには決めて貰いたいんだ……父さん、別に自然派っていうわけじゃないんだよね? 俺だって、自然派の人たちを差別したいわけじゃないけど、あれって、やっぱり宗教だなぁって思うし……俺の妻もさ、その……ちょっと、疑っているんだよね、父さんのこと。まさか自然派の人じゃないよね? って……なんていうか、俺も会社での評判っていうか、この年になって、まだ親が生きてるっていうのは外聞が悪いところもあって……少し、恥ずかしい思いもしてる……」

 私は、ただ、穏やかな気持ちで、息子の声を聞いていた。

 息子は「何度も言うけど、今すぐにどうにかって話じゃないんだ、ごめん、誕生日なのに、ごめん」と言った。

 通話を終える時、最後の最後に「ちょっと早いけど、誕生日、おめでとう」とも言ってくれた。

(息子に、恥ずかしい思いまでさせて……俺はどうして生きているんだろうか……)

 ずっと疑問に思っていることを、考える。

 小学校の時に出された宿題でも、結局最後まで「自分が何歳で死ぬか」という事項だけは、書けなかったのを思い出す。やはりあの宿題は提出できていない気がした。

 自分の母親の声が再び蘇った。

「心配だよ。あんたが、人様が普通に歩む流れから外れてしまうんじゃないかって」

 フッと自嘲の息が漏れた。

(正に、普通の流れから、外れてしまっているな……)

 息子は、夫婦で一緒に尊厳死すると言っていた。

(私もそうすれば良かったかな……)

 妻が死ぬと決めた時、彼女は出会った頃と同じような迫力のある顔をしていた。

 一度決めたら、絶対に曲げない、芯の強い人だった。

(自分のことは、全部自分で決めないと気が済まない人だったなぁ……)

 私には、出来過ぎた妻だった。私は、彼女を愛するというよりも、もっと尊敬に近い感情で見つめていた。

 彼女のように、なりたかった。

 なんでもスパッと決められる、いつでも確かな足取りで歩いていける、そういう強い人になりたかった。

(私は、いつでも、なんだかグレーだな……曖昧で、ちっとも腹が据わらない……)

 ぼんやりと、ある意味では「のらりくらり」と生きてきたら、こんな年になっていた。

 都心で暮らしていて、ブルジョワでもなく、なんとなく生き延びていくだけの金もあって、けれど、世間の目はいつでも私に「早く死ねよ」と訴えてくる。

 どこにいても、何をしていても、「なんであの人、まだ生きてるの?」というような顔をされる。

 死ぬのがそんなに嫌ですか? と純粋な疑問を投げかけられたこともある。あの疑問を投げかけたのは、私が五十五歳になった時、息子が紹介してくれた心療内科の医師だったか。いつまでも死なない私を心配して、息子は心療内科を調べてくれた。

 私が死なないのには、なにか原因があるのではないか、と思っての優しい心遣いだった。

 私には、特に理由がない。

 死にたくない理由もないし、死にたい理由もない。

 生きたい理由もないし、生きたくない理由もない。

 なにもない。

 だから、決められない。

 こんな世界に生きていて、苦しくないか? と聞かれれば、それなりに苦しいと答える。

 このまま生きていって、もし病気にかかったり、事故にあったりした時、医療費が払えないんじゃないか? と聞かれれば、そうかもしれないな、と思う。一度きりならなんとか支払えるけれど、通院したり手術したりする金は、おそらくないだろう。治療が長引けば長引くほど、支払いは困難になる。

 そうやって、病気や怪我や事故で死ぬのを待つのは、怖くないですか? と聞かれると、自然死というのは、そういうものばかりではないよ、という医療の知識が出てきてしまう。

 高齢になればなるほど、病気や怪我のリスクが高くなるのは事実だけれど、自然死の中には、老衰だとか、本当に安らかなケースだって少なくないのだ。

 だから、自然死は怖くないか? という問いには、あんまり怖くないかもしれないと答えてしまう。

 けれど、自分が自然派の人間だとも思わない。

 散々、生存医療に携わってきた。自分が自然死を良しとする自然派の仲間に入れるとは思わないし、息子の言うように、やっぱり少し宗教じみていて抵抗がある。

 息子よりも、私の方がよっぽど自然派については、偏見を持っているのかもしれない。

(もっと、誰でも、簡単に、医療が受けられるようになれば良いのに……)

 研修医時代にも、そんなことを思った。

 私の指導医だった人は、私の言葉に笑った。

「医療が簡単に受けられない代わりに、誰でも簡単に尊厳死ができるんじゃないか」

 長く苦しい闘病をするよりも、死にたいと思ったときに、自分で最期を決められて、それが安価で穏やかで確実であるという事の方が重要だし、よっぽど価値も意味もある、と指導医は言った。

「そんな、大病することばかりに目を当てなくてもなぁ……」

 私は目を閉じて、再び独り言を呟いた。

 大病をして、苦しく長い闘病生活を送るのと、少し風邪を引いて薬が欲しいのとでは、訳が違う。それに、怪我だって、輸血が必要なほどの大けがから、擦り傷、骨折、いろいろあるではないか。

 しかし、この国の現実では、風邪をひくだけで、生活が圧迫される。

 病院に行けば金がかかるからと、闇市のような場所まであるくらいだ。夜の間だけ開かれる店々。夜市と呼ばれている。

 都市部から少し離れた路地裏なんかで、ひっそりと薬や酒、その他、違法と合法のギリギリをさまようような物品が売られている。私も、たまに足を向ける場所だ。

 安い酒で酔いたい時、嗜好品を買いたい時、そして、孤独を感じた時。

 夜市の売人は、私と同じくらいの年齢の人たちが多い。

 どういうやり方で利益を得ているのか定かではないが、かなり儲けを出しているそうだ。

 金があれば、長く生きられる。

 表立っては生きられなくても、夜の路地裏でなら、生きていける。

(私も、仲間入りしようかなぁ……)

 戯れ言のように、そう思った。

 医学の知識しか仕入れてこなかった頭では、とても商売なんて出来ないのかもしれないけれど。

 それでも、日のあたる場所で生きるより、夜の中に生きる方が、よっぽど息がしやすいような気がした。


 *ハルミ*

「信っじられない!」

 朝の更衣室に、ユカちゃんの苛立った声が響いた。私も同じ気持ちだったので、ただただ頷く。そして、自分がニンニク臭くないかが気にかかった。昨晩、あんな時間にペペロンチーノを食べてしまったのが悔やまれる。

「ようやく連勤終わって休みだって思ったのに! ほんと、信じられませんよね、先輩っ!」

 ユカちゃんは、唇を思い切り「へ」の字にしている。

「本当にね。若干、嫌な予感はしていたんだけど……なんか、休みのつもりでいたのに仕事になると、ガックリきちゃうね」

 私は言った。

 昨晩、夜遅くに仕事用の電子端末に連絡が入った。

 私とユカちゃん宛で、「申し訳ないけれど、明日も出勤して欲しい」という上からのお達しだった。

 理由は、昨日の朝、私とユカちゃんが担当したお客様が、どうにも厄介な感じがするので、再来に備えて……とのことだった。

 昨日の朝、私が担当した十五歳の男の子。

 そして、ユカちゃんが担当した、旦那さんの申請の有無を知りたがった女性。

 確かに、少々厄介なタイプだとは思っていた。

 ほとんどの場合、尊厳死は一発で申請が通る。

 申請が通らずに帰されるケースは、そこまで多くない。

 そして、なんらかの理由で申請が受理されずに帰された場合、高確率で、翌日に再来するのだ。

「私の担当した男の子はともかく……ユカちゃんの担当した女性は、本人が死にたがってたわけじゃないんだよね? だったら、今日の出勤は私だけでも良かっただろうに……巻き込んじゃったみたいになって、ごめんね」

 私が言うと、ユカちゃんは「ハルミ先輩のせいじゃないです!」と、ハッキリ言ってくれた。

「だから人権課の受付もAIにしろって言ってるのに! こういう業務の引き継ぎが難しいのなんて、小学生だってわかりますよ!」

 ユカちゃんは文句を言いながらも、さっさと制服に着替えはじめた。

 私も「そうだね」と答えながら、着替えを開始する。

 ユカちゃんの言う通り、人権課は引き継ぎが大変難しい。

 ほとんどが一発で通る申請なので、引き継ぎが発生すること自体も珍しいのだが、発生した際にはかなり面倒だ。

 役所の受付については、二十四時間監視カメラで撮影されているし、音声記録もしっかりと残る。

 どういう会話をしたのか、記録されている映像と音声を一緒に確認しながら、実際、人間の目で見てどんな様子だったのか、どういうところに気を配るべきかなどを引き継ぎする。

 けれど、この引き継ぎは、実際無駄な作業と言えば無駄な作業だ。

 そんなことをするくらいなら、同じ担当者が受付をすれば良いという話になる。

 そこで、今日も私とユカちゃんは出勤することになってしまったというわけだ。上の立場にいる人たちは、監視カメラの映像なんて見もしない。ただ、一度で申請が通らなかった場合や、申請者が未成年であった時などに、時折こうして出勤命令を出したりする。

 出勤命令は、出るときもあれば、サラッと流されて出ない時もある。

 しっかりしているのか、テキトウなのか、どちらかにして欲しい。

(そういえば昨日、ケイくんも言ってたな……)

 昨晩、一緒にゆっくりと夕食をとった後、私は十五歳の少年のことをケイくんに話した。

 ケイくんは、彼のことを「気の毒に」と表現した後、

「きっと、明日にでも、もう一度来るだろうね」

 と言った。

「やっぱりそう思う?」

 私が尋ねると、ケイくんは少し考えてから言った。

「彼がどういう性格、性質の人間かが詳しくわからないと、どうにも言えないけれど……彼自身に生きるという強い力がなかった場合、明日の朝一番にでも来るだろうね」

「生きる、強い力」

 私が繰り返すと、ケイくんは苦笑いをして、

「今の時代、最も得るのが難しい力だよ」

 と言った。


「ユカちゃんは、今日は彼氏とゆっくりする予定だったんじゃない? 彼には怒られなかった? 出勤になっちゃって……寂しがったんじゃない?」

 私は、制服に着替え終えてロッカーを閉じる。ユカちゃんは髪をポニーテールにしながら、再びムスッとした。

「昨日の夜、喧嘩しました」

「え、またどうして……」

 私が聞くと、ユカちゃんは「だって」と情けない声を出した。

 どうやら、原因はユカちゃんにあるらしい。声の調子が子供の言い訳みたいだった。

「もういい加減結婚してってお願いしたんです。せめて、結婚するよっていう約束だけでもいいからって。何度もお願いしたのに、フミくんやっぱり煮え切らなくて。これはもしやと思って、私、疑っちゃったんです、浮気を」

「浮気!」

 思わず大きな声が出た。久しぶりに聞く単語だった。こんな世の中だ。恋人に秘密で別の誰かと恋愛をするなんて勇気のある行動、なかなかできない。

 バレてしまって、訴えられでもしたら、犯罪者になってしまう。

 どんなに罪が軽くても、一度でも有罪判決を受けてしまえば、尊厳死の権利は失われてしまう。

 そういう泥沼ストーリーなドラマが流行ったりもしているので、ユカちゃんくらいの年齢の子たちにとってみれば、浮気疑惑みたいなものは、一種の恋の刺激なのかもしれないけれど。

 一般的に言えば、心変わりがあったのならば、お互いにちゃんと話し合ってお別れをするべきだ。その方が、双方の為になる。早めの結婚が人生をイージーにしてくれるこの世界では、振る方も振られる方も、そうやって後腐れなく、さっさと次に行く方が合理的だ。

「明日、フミくんの誕生日なのに……最悪です」

 ユカちゃんは言った。その顔は、怒っているというよりも拗ねているみたいだと思った。

「浮気の事実は、あったの……?」

 私が恐る恐る聞くと、ユカちゃんは首を振った。

「そんなことするわけないって、それでフミくん怒らせちゃって喧嘩です。つまりまぁ……私が悪いっていうアレで……それで、居心地も悪かったんで、今日の出社は、頭冷やすっていう意味でちょっとだけ助かりました」

 ユカちゃんは曖昧な顔で笑った。

「なんか、自分がダサいなぁって思って、ちょっと落ち込みました。二十三歳、焦ってる女っていう感じで。私もハルミ先輩みたいに、なんかこう、落ち着いて構えていられる大人になりたいです」

 私はユカちゃんが思っているような大人な女ではない。人と人との間に起こる勘違いや思い違いというのは、本当に不思議なものだと思う。

「私は、ユカちゃんみたいに自分の意見をはっきり言える大人になりたかったよ」

 私は言った。ユカちゃんはキョトンとした顔をする。

「私、言いたいことバンバン言っちゃうから、そういうところが子供っぽいってフミくんによく言われちゃいますよ?」

「そう? 私はそういうの、羨ましいって思うよ。彼氏に対する接し方も、羨ましい。お互いにちゃんと好き合ってるっていう感じで」

 私はユカちゃんの彼氏に会ったことはないけれど、ユカちゃんの話を聞いていると、正しく恋人同士という雰囲気で好ましいなぁと思う。

「ハルミ先輩は、彼氏さんとラブラブなんじゃないんですか? 一緒に住んでるんですよね?」

「一緒に住んでるけど、お互い忙しいし」

 ケイくんと過ごす時間は、そこまで長くない。お互いに、一緒にいる時間を無理に作ろうとも思っていない。

「でも、結婚もしないでずっと一緒に暮らしてるって、それってもう愛しかないと思いますよ! それに、彼氏さんもハルミ先輩も稼いでるし、結婚もしないで、子供も産まないで生活出来てるって、それってすごいことだし……」

 ユカちゃんは一生懸命に言ってくれている。

 私は、自分の空っぽのお腹の中を考える。自分の本当の気持ちとしては、ただ楽だという感想だ。子宮がない、生理がない。それはとても楽なことだ。更年期障害のような症状は若干気になるけれど、病気の再発や悪化に怯えるよりはずっと良い。だから、子宮を除去したことに対する後悔はない。

 けれど、こうして、世間一般と交わっていると、時折、急にしらけてしまう。みんな必死に結婚しよう、子供を産もうとする。

 無意識のうちに、この国の言いなりになっている。

 尊厳死法が成立する前は、出生率がとても低い時代もあったそうだ。

 結婚する人も少なく、みんな自分で選択して自由に生きていた。

 その弊害のように、老人が増え、子供が減った。

 卵が先か、鶏が先か、みたいな。グルグル巡る、時代の流れ。

 ケイくんは、私が子供を産めなくても問題ないと言ってくれる。

 私のことも、子供のことも、道具のように使うつもりはないと。

 政治の内部にいる人間は、ある意味での「まともさ」を持ち続けている必要がある。世間一般に向ける要望や理論と、自分が元来持っている倫理観のズレを、上手に飼い慣らす。

 ケイくんは「今の時代、出産は死ぬことよりも過酷だよ」と言っていた。

 確かに、尊厳死は苦しみもなく穏やかに、ただ眠るように行われるけれど、出産はそうはいかない。

 医療の発展で、出産時に母子が亡くなるなんていうリスクは、ほとんどなくなったし、出産の九割が無痛分娩だ。

 けれど、悪阻やら陣痛やらは、なくならない。人によっては、死ぬほど辛いと話を聞く。私は、そういう経験をせずに済んだことを、幸運にさえ思う。

「ユカちゃんが言うほど、素敵な人でもないよ。私の彼、重度のシスコンだし」

 私が言うと、ユカちゃんは「え!」と大きな声を出して、すぐさま口元を手で覆った。

「すいません、めっちゃビックリ。シスコンって……どういう感じですか?」

 ユカちゃんが興味津々で顔を寄せてきた。

「彼のお姉さんね、名前がハルエさんって言うの。私、ハルミでしょ? ハルミは姉さんと名前が似ていて素敵だって言われたことあるよ」

「うぇえ……本気ですか、それ……冗談じゃなく? 本気だったらちょっと気持ち悪いかも……」

 ユカちゃんは正直だ。

「冗談とか、あんまり言わない人だから本気だと思うよ。それに、彼は三十五歳で死ぬって決めてるから、一緒にいられるのも、あと数年かなって感じ」

 私が言うと、ユカちゃんは、唇に力を入れて、変な顔をした。

「先輩の彼、先輩と同じ年でしたっけ?」

「そうね」

「じゃぁ、あと、六年くらいしか、一緒にいられないってことですか……? お付き合いして長いんですよね? 今までずっと一緒にいたのに、あと六年って決められてるんですか?」

「そういうことになるわね」

 私が淡々として言うと、ユカちゃんは盛大なため息をついた。

「もー、やんなっちゃう。この世の中の全部が」

 ユカちゃんは言った。

「私だって、ヨボヨボのお婆ちゃんになるまで生きたいとか思ってませんけど、死ぬとき、キレイな方が悲壮感ないし。でも、なんか一生懸命に相手見つけて恋して……それでも呆気なく失っちゃう……虚しいを通り越して、イライラしてきますね」

 私は、ユカちゃんの肩に軽く手を置いて「そうね」と同意した。

 この世は虚しい。一見して、虚しい。

 だからこそ、生き残るためには、ケイくんの言ったように「生きる強い力」が必要なのだ。

 虚しくとも、生きる。誰がなんと言おうと、生きる。そういう力。

 または、ケイくんのように、はっきりとした人生設計を己の手で作り上げる。そういう力が必要なのだろう。

「さて、そろそろ行きましょうか」

 今日も九時きっかりから業務が始まる。私はユカちゃんと一緒に更衣室を出た。

 出たところで、驚いた。廊下に、ガンガンという異音が響いている。壁を足で強く蹴りつけているような音だ。更衣室内は防音になっているので、気付かなかった。

「え、なに、なんの音?」

 ユカちゃんがキョロキョロと辺りを見回す。

 私も一緒になって音の出所を探す。

「せ、先輩、先輩!」

 ユカちゃんが私の制服を引っ張った。

 私がユカちゃんの視線の先を追いかけると、廊下の先にある窓の外、役所の裏門をガンガンと手で叩いている人間の姿が見えた。

 私は、ユカちゃんと同じくらい目を丸くする。

 役所の正面入り口は一階にある。待合室は二階。そして受付と更衣室は三階。

 一階は地下だし、二階も半分地下にある。けれど三階は地上だ。裏門は三階部分にある。

 まだ朝の九時前だと言っても、外の気温は三十五度を超えているはずだ。

 湯気の向こうにボヤケたように見える人影は、よくよく目を凝らすと、まだ細く覚束なく、小さい。

「……子供?」

 私が呟くとほぼ同時に、ユカちゃんが「昨日の子じゃないですか!?」と叫んだ。

 私たちが混乱している間も、小さな影は門をガンガン叩いている。

 あれで警報機が鳴らないのだから、AI管理システムとは一体……と疑問に思ってしまう。無理矢理に門を開けようとすれば鳴るのだろうか。

「先輩っ」

 ユカちゃんが小さく叫んだ。門を叩いていた影が、ぐにゃりと地面にうずくまっている。それでも、門を叩く手は止まらない。弱々しい音になったけれど、ガン、ガン、と鳴り響く。

「ユカちゃん、お水っ、お水を持ってきて!」

 私はすぐに裏門へと走った。この門は、本来は役所の職員しか使わない。それも、緊急用でしか使わないものだ。鉄製の簡易な門で、地震や火災があった時に避難するためにある。

 普段は職員だって地下にある門を使うのだ。

 私は、自分のIDカードをかざして、すぐに門をあけた。

 そこには、汗だくになってグッタリしている子供がいた。

 ユカちゃんの言うとおり、それは昨日役所を訪れた男の子だった。


 子供といえども、男の子だ。私とユカちゃんは二人で力を合わせて、彼を室内へと引きずり込んだ。

 男の子は……確か、ソラくんという名前だった。

 彼は、ユカちゃんの持ってきた水を浴びるみたいにして飲んだ。

 けれど、意識は朦朧としているようだった。視線が定まっていない。

 Tシャツもズボンも、汗でびっしょり濡れている。

 けれど、彼からは、汗くさい臭いはしなかった。まだ若い。普段から汗はかきなれているのかもしれない。健康的な腕が、日に焼けて赤くなっていた。

「ユカちゃん、急いで本部に連絡して。緊急事態ですって。あと、今日出勤だった子たちにも。すぐに出てもらうように要請だして」

 私が言うと、ユカちゃんは「はい!」とすぐに返事をしたけれど、少し間を開けて「でも先輩、もうあと五分したら正門開いちゃう」と戸惑いの声をあげた。

 あと五分では、到底なんやかんやの全てを処理しきれない。

「受付は私がなんとかするから、お願い」

 私は言った。ユカちゃんは、突然の事態に動転して、目がうっすらと涙ぐんでいる。けれど、すぐに動いてくれた。根っこが強くて真面目な子だ。

 今日、一緒に出勤だったのがユカちゃんで本当に良かった。

 ユカちゃんが本部への連絡へ走った。本部へ直接連絡が出来る端末が、更衣室に完備されている。そこから、他の職員へも連絡が可能となっている。

 私は、ソラくんをなるべく門から遠ざけて、室内の涼しい場所へと引きずった。

「君、大丈夫? 息が苦しいとかない? ここ、どこかわかる?」

 私が問いかけると、ソラくんは「へいき」と小さい声で言った。

 ユカちゃんが大量に持ってきてくれた水を、彼に飲ませたり、首元や脇の辺りを濡らしたりしてみる。医療の知識はほとんど持っていなくて、自分の無能さに震えてしまった。緊急事態に備えての研修も、過去に受けたはずなのに。あれは役所に勤めはじめたばかりのころの研修だった。もう十年くらい前のことだ。もっと真面目に、しっかり受けておけば良かった。

 私は彼の介抱をしながら、自分の仕事用携帯端末をいじる。

 勤続年数が長いだけ、私にはいろいろな権限が与えられている。

 会社のAI受付システムにログインして、他の課の受付ロボットを二台、人権課に回してもらう手続きをした。

 これで、取り急ぎの受付業務はこなせるはずだ。AI受付では、尊厳死の申請を受理することは出来ないけれど、緊急事態で受付が無人であることと、別日に予約を受け付ける作業は出来るはずだ。

 あとは、今日出勤予定だった子たちが到着してから、対応をしてくれる。

 そこで、九時を告げるアナウンスが流れた。

「先輩! いろいろ、連絡済みました! あと、ダメもとで、アカリに連絡してみたら、あの子、来てくれるって! 家近いから、すぐ来られるって! ゲストIDカードも発行してもらったから、あとはアカリがなんとかしてくれるはずです!」

 ユカちゃんが廊下を走り戻ってきた。

 アカリちゃんは、先日辞めてしまった職員だ。役所のすぐ近くに住んでいたけれど、結婚が決まり、辞めてしまった。彼の職場の近くに引っ越すと言っていたけれど、まだ引っ越しは済んでいなかったらしい。

 ユカちゃんは、手にスポーツドリンクを持ってきていた。

「お水ばっかりじゃマズいかもって思って買ってきました!」

 私は、ユカちゃんの方が先輩なのではないかと思ってしまった。

「ありがとう。ユカちゃん頼もしすぎて、泣きそう」

 ユカちゃんはすぐにソラくんにドリンクを渡した。彼は、なんとか体を半分起こして、両手でペットボトルを持ちながら、ゆっくり中身を飲んでいく。

「いっぺんに飲まないでね、ゆっくりゆっくり」

 ユカちゃんはソラくんの背中を支えながら言った。

 中身を半分ほど飲み干すと、ソラくんはようやく瞳をパチクリさせはじめた。

 顔に正気が戻ってくる。

「君、昨日来た、ソラくんだよね? 大丈夫? どこか苦しいところはない?」

 私は彼の顔を覗き込んで尋ねた。

 彼は小さな声で「ちょっと頭痛い」と言った。ぼんやりした声ではあったが、先ほどよりは力強い。

 よく見れば、ガンガンと門を叩いていた手が、真っ赤になっている。両手ともだ。

 救急車を呼ぶべきか、悩ましい。

「ねぇ、どうして裏門なんかにいたの? 表で並ばないとダメじゃん。受付は順番だよ? 並ぶのが嫌だったら、予約しないと……」

 ユカちゃんが、彼の耳元で、優しく声を出す。

 お母さんが小さな子供に言い聞かせるみたいな言い方だ。

 ユカちゃんは、きっと良いお母さんになる。

 ユカちゃんの声に、彼はみるみる顔色を変えた。

 真っ白だった顔が、ブワッと蒸気したように見えた。

「こ、これっ、これをっ!」

 ソラくんは、急に我に返ったように声を荒げた。

 これ、と差し出されたのは、白い封筒だった。

 封が乱暴に破られている。

「絶対、あけるなって、言われたんだけど、嫌な予感がして、あけちゃった、これ、ヤバいと思って、早く、あの、」

 ソラくんは一生懸命に封筒を押しつけてくる。

 私は全く状況が掴めないまま、封筒を受け取って、中身を見た。

 中には一枚の便せん。

 冒頭には、女性らしい筆跡で「遺書」と書かれていた。

「朝起きたら、サツキさんが、コレを持って役所まで行けって……どうせ、今日も役所行くつもりでしょうって言われて、僕が行くよって言ったら、コレ渡されて……役所のお姉さんに渡してって……中身は見ないでねって言われたけど、なんかサツキさん、顔が変で、怖くなって……」

 私はユカちゃんと目を合わせた。これは、思っていた以上に緊急事態なのかもしれない。

「先輩、私、警察に連絡します」

 私は、ユカちゃんが立ち上がるのを制した。

「ここに呼んでも仕方ないわ。私たちが警察に行こう」

 ユカちゃんは数度無言で頷いてから「はい」としっかり答えた。

 ソラくんが「僕も行きます」と言って、よろよろ立ち上がる。

 私がそれを支えている間に、ユカちゃんがタクシーを呼んでくれた。

 自動運転が当たり前になった昨今では、無人タクシーがそこら中を走っている。

 五分もしない内に、裏門へタクシーが到着した。

 表側から出てしまうと騒ぎになるかもしれない。私もユカちゃんも、受付の制服のままだし、ソラくんは顔面蒼白だし、ただ事ではない雰囲気に溢れている。

 私が前の座席に座って、タクシーに行き先を入力する。車は、スッと滑らかに走り出した。空調を調節して、車内温度を二十三度に設定する。

「ユカちゃん、寒かったらごめんね」

「大丈夫です。君、ソラくんだっけ? 大丈夫? 暑くない? 熱中症って死ぬこともあるんだよ、知らない?」

 ユカちゃんはソラくんと二人で後部座席に座っている。

 ユカちゃんの言葉に、ソラくんは少しムッとなりながら「知ってます」と答えた。その声には、活力が戻っている。やはり若いというのは回復も早いのかもしれない。

 私は、少し安心しながら、手元の便せんに再び目を落とす。

「遺書。私は、夫からの度重なる罵声に、心身共に疲れてしまいました。これ以上、夫から与えられる精神的苦痛に耐え切れません。私は、自ら命を絶ちます。私を殺したのは、紛れもなく夫です。夫には、然るべき罰を与えてください。サツキ」

 意味がわからなかった。サツキというのは、確か、昨日ユカちゃんが朝一番に受付をした女性の名前だ。

「ねぇ、ソラくんとサツキさんは、どういう関係なの?」

 私が尋ねると、ソラくんは前方席へと身を乗り出すようにして言った。

「昨日、役所で知り合って、申請受理されなかったって話したら、行くところがないなら、ウチに来る? って言ってくれて、僕、別に行くところなかったから、どうせ死ぬしと思って、サツキさんも、尊厳死の手続きをしに来てたんだと思ってたから、サツキさんも、僕も死ぬんだし別に良いかと思って、ついて行って……」

「なんか変なことされたの!?」

 ユカちゃんが青い顔になってソラくんに聞いた。

 ソラくんは首を振る。

「一緒にいろんなこと話して、果物食べて、サツキさんはお酒を飲んでたけど……僕はウーロン茶飲んで、それで、お風呂とベッド貸してくれて、僕はベッドで寝かせてもらった。サツキさんは、ソファーで寝たみたいだけど、朝起きたら、ソラは今日も役所に行くよね? って聞かれて……」

役所に行くなら、コレ、持って行って受け付けのお姉さんに渡してって言われて、それで、朝の九時前に、追い出された……

 ソラくんは言った。その時のサツキさんが、妙にテンションが高くて、けれど目が笑っていなくて、ギラギラしていて、怖かったと言った。

「封筒、絶対開けちゃダメだよって言われたけど、サツキさん、昨日までいろいろ悩んでたみたいなのに、今日はすっかりなんか……吹っ切れちゃったみたいになってて、こういうの、なんか、お母さんが死んだ時の感じとすごい似てて、ヤバいって思って、僕、封筒開けちゃって、中見たら、遺書って書いてあるし、急いで役所まで来たけど、もう表は結構人が並んでて、並んで待ってたら、なんか、間に合わない気がして、すぐお姉さんに手紙を渡さなくちゃって思って……僕だけで警察に行こうかとも思ったんだけど、どうやって事情を話したら良いか、もうわかんなくなっちゃって……」

 ソラくんの話を聞きながら、私とユカちゃんは、おそらく共通の違和感を覚えていた。

 昨日やって来たサツキさんは、夫が尊厳死の手続きをしてしまったんじゃないかと不安に思って朝早くから表門に並んだような人だ。「夫から精神的苦痛を与えられていた人」のようにも「どうしても死にたい人」のようにも見えなかった。

「僕のせいだと思う……」

 ソラくんが言った。車窓に警察署が見えてくる。

「僕が余計なこと言ったから……」

 ソラくんは、まるで自分が警察に捕まるような顔をして、フロントガラスを見つめていた。


 *

 その日の昼過ぎに、サツキさんの夫であるアキラさんが逮捕された。アキラさんは、駅前のビジネスホテルに滞在していて、警察が踏み込んだ時には、訳が分からない顔をしていた。

 私とソラくん、ユカちゃんは重要参考人みたいにされて、踏み込みの現場にまで同行させられた。私もユカちゃんも、事情がさっぱり飲み込めていないし、ソラくんは絶望したみたいな顔をしていた。

「この人で間違いないですか」

 と警察がアキラさんの顔の確認を求めた。私もユカちゃんも、答えられない。ソラくんだけが「間違いないです」と小さい声で言っていた。

「先輩、私、あの人どっかで見たことあります」

 ユカちゃんが言った。ソラくんは、気の抜けたような声で、

「サッカーの代表選手だった人だよ」

 と言った。そう言われてみれば、私にも見覚えがあるような気がした。

 アキラさんは、最初はいろんなことを喚いていて、どういう理屈で自分が逮捕されるんだと仕切りに聞いていた。

 けれど、警察から、サツキさんが自殺を図ったこと、遺書に夫からの精神的苦痛が原因であると書かれていることなどを説明されると、今度は酷く震える声で「サツキ、サツキが、自殺……?」と繰り返していた。


 私たちが警察に駆け込んだ後、ソラくんの案内ですぐにパトカーでサツキさんの家へと向かった。救急車もついてきた。

 サツキさんの家は鍵がかかっていて、インターフォンにも応答がない。

 仕方なく、警察の人が玄関を特別な道具を使ってこじ開けた。

 家の中はカーテンが引いてあるのか、昼間なのに暗くてシンとしていた。

 警察が家に踏み込み、サツキさんはバスルームで発見された。

 包丁で手首を切って、水を張ったバスタブにその腕を突っ込んでいた。

 水は真っ赤になっていて、サツキさんは雪のように白かった。

 警察と一緒になってサツキさんを探そうと踏み込んでしまった私たちは、その姿をばっちりと目に焼き付けてしまった。

 ソラくんが小さく口を開けて、棒立ちになっているのを見て、私は急いで彼の目を覆ったけれど、なんの意味もないこともわかっている。

 ユカちゃんは思わずというように「壮絶……」と呟いた。不謹慎な言葉のようでいて、けれど的を射ている。正しく壮絶だった。

 尊厳死の現場ばかり見知っている私たちにとって、自ら命を絶つというのは、壮絶としか言いようのないものだ。

 ユカちゃんは、泣きそうな顔をしていたし、唇を噛んで、僅かに震えていた。

 警察の人たちが、ようやく私たちが一般人であることを思いだしたように「外へ、外へ出ていて下さい」と言った。

 近年、警察官という仕事も、絶滅しつつある。犯罪がほとんど起こらない世の中で、警察官は給与も少なく、やることもほとんどない。昔は地域のパトロールなんかもしていたらしいけれど、そんなのはAIロボットに任せておけば良い話だ。ドローンだってそこら中を飛んでいる。人間の目でパトロールするなんて、非効率的でしかない。

 事件慣れしていない警察を心許なく思いながら、私たちは外に出た。

 昼間の太陽が容赦なく照りつけていて、私たちはいろんな意味で具合が悪くなりそうだった。

 ソラくんのために買ったスポーツドリンクの残りを三人で回し飲みまでした。

 サツキさんは、意識はなかったけれど、まだ生きていた。

 救急車で運ばれていき、その後のことはわからない。

 警察は、サツキさんの残した遺書に書かれていたサツキさんの夫「アキラ」さんを探した。

 アキラさんは、別に逃げたり隠れたりしていたわけでもないので、すぐに見つかり、私たちは、今度はそちらに連れて行かれたのだった。


 サツキさんが病院へ運ばれ、アキラさんが捕まり、私たちは警察署の廊下でポツンと座っている。事情聴取があるので、帰らないで下さいと言われてしまった。

 私は、自販機で三人分の冷たいお茶を買った。

「先輩、すみません。お金あとで払います」

 ユカちゃんが言った。私は「奢りよ、当たり前じゃない」と言った。

 それに、先ほどユカちゃんはソラくんのためにスポーツドリンクを買ってくれた。ペットボトルの飲料は結構高い。千二百くらいはするんじゃないかと思う。

「僕、奢られっぱなしだ……」

 ソラくんが言った。

「サツキさんも、昨日、待合室でジュース買ってくれた」

 ユカちゃんは笑う。

「子供は良いんだよ、それで」

「あと五年もしたら、僕も大人にさせられる」

 ソラくんが呟いた。大人に「させられる」という音が、悲しく響いた。

「ユカちゃん、警察の事情聴取だけど……」

 私は、念のためにと思ってユカちゃんの顔を見て言った。

「わかってます……何も、話しません」

 ユカちゃんは言った。

 私とユカちゃんには、守秘義務がある。

 警察が正式に役所へ要請をして、その要請が通らない限りは、私もユカちゃんも、ほとんどのことを証言出来ないのだ。

 逆に、役所への要請が通って、裁判などになった場合には、資料提供も証言も、きちんとする義務がある。公人というのは面倒臭い立場にあるものだと思う。

「サツキさんは、アキラさんに死んで欲しくないんだ」

 ソラくんが言った。何かの決意を握り込むみたいな声だった。

「アキラさんが犯罪者になれば、アキラさんは尊厳死できなくなる」

 ソラくんは「だよね?」と私の顔に確認した。

 私の背中に、冷たいものが走った。

 ソラくんは、ジッと私の目を見つめる。十五歳の瞳に気圧される。

 ここでこの視線を、とぼけて流せるのが本当の大人なのかもしれない。

 本当の大人が取るべき正しい行動なのかもしれない。

 私は、大人になれるだろうか。

 ソラくんは、本当に子供だろうか。


 その後、私とユカちゃん、ソラくんは別々に事情を聞かれた。

 そもそも私には、答えられることはほとんどなかった。

 サツキさんを担当したのはユカちゃんだったし、ソラくんとサツキさんが昨晩、どういう風に過ごしたのかもよく知らない。

 私はただ、サツキさんが昨日の朝一番に役所にやって来たことは事実だと伝えた。

 事情聴取が終わると、もうすっかり夜になっていた。

 朝からバタバタしてしまって、私たちは何も食べていない。

 警察署の中にある食堂で、三人でぐったりしながら食事をした。

 途中、私の電子端末に上司から連絡が入った。今日の仕事はアカリちゃんが中心となって、無事に回してくれたらしい。

 私とユカちゃんは、この件が裁判になったら真実を証言するようにと言われた。私は、真実がわからない。

「なんか、どっと疲れちゃいましたね……」

 ユカちゃんが言った。

 ソラくんが「巻き込んで、ごめんなさい」と俯く。

 ユカちゃんは、笑った。

「巻き込んだのはソラくんじゃなくて、サツキさんでしょ。なんで役所の受け付けに遺書を持たせるかなぁー」

 相変わらず、カラリとした感じでユカちゃんは言う。

「なんか、上手いことやってくれると思ったんじゃないかな。昨日、ユカちゃんが親切に対応してくれたから」

 私が言うと、ユカちゃんはため息をつく。

「サツキさん、大丈夫だといいな。私、しばらく夢に見そうです。足が震えました」

 ユカちゃんは、自分の両腕をさすりながら言った。

「アキラさんは、犯罪者になるかな」

 ソラくんが言った。私はおそらく、アキラさんは有罪で決定してしまうだろうと予測する。

 大学で法学についてもほんの少し学んだ。得意ではなかったが。

 本人の遺書があり、ソラくんの証言があり……ソラくんは、たぶんサツキさんの意図を組んで証言しただろうと思うし……それに、私とユカちゃんは、今のところ「サツキさんが役所に来たことは事実」という発言しか許されていない。

 どのくらい重い刑になるのかは、わからないけれど、無罪放免にはならないだろうと思う。少なくとも、尊厳死の権利は失われると思われる。

(サツキさんが意識を取り戻して……遺書を撤回したら、話は違うかもしれないけど……)

 サツキさんは、病院に運ばれて、一命を取り留めた。

 けれど、意識は戻っていない。

 入院費や治療費は、彼女の口座から自動で引き落とされていく。

 彼女の口座が空になったら、夫であるアキラさんの口座から引き落とされる。

 長引けば長引くほど、地獄のような展開しか思い浮かばない。

 アキラさんは尊厳死することも出来ず、サツキさんの治療費は日々積み重なり、お金もない中、生きていくしかない。それこそ、自殺でもしない限りは。

 死んだ方がマシだと思えるようなこの世界の構造の中で、私たちは一体、どうして息をしているんだろう。「生きる強い力」は、どうやったら身につけられるのだろうか。

 こんな世界なのに、尊厳死を無くそうという動きは大きくならない。

 みんな、自然の運命に任せて死ぬのは怖いのだ。死ぬことが穏やかであると約束されているからこそ、経済的な苦痛を伴いながらも、生を謳歌できる。

 けれどそれは、生きる「強さ」ではない。逃げる力の強さだ。

 人間は、逃げ続ける。いつの世界も、どんな世の中でも。

 自分に不利となる、様々なことから、ひたすらに、ひたすらに、逃げ続けている気がする。

「ところで、ソラくんは今日、泊まる場所はあるの?」

 私は、自分の中に渦巻く思考を打ち切るようにして言った。

 ソラくんはキュッと口元を結んで黙った。

「どこか、ホテルでも取ろうか。なんか私も疲れちゃった……家に帰るだけの気力が残ってないわ」

 警察署の近くには繁華街がある。ビジネスホテルもあるはずだ。

 急な出費は痛いけれど、今日は本当に疲れてしまった。心身共に疲れると、人間は少し投げやりになる。夜のタクシー料金とビジネスホテルの宿泊代。天秤にかけて、私は宿泊代を取りたいと思ってしまった。

「ユカちゃんはどうする?」

 私が言うと、ユカちゃんはほんの数秒だけ悩んで、

「私は帰ります」

 と言った。

「明日、フミくんのハタチの誕生日で……昨日、私が一方的に怒って喧嘩しちゃったし。彼の誕生日前に仲直りしたいです」

 ユカちゃんは、はにかんで笑った。

「そっか……ハタチの誕生日かぁ。素敵だね。仲直りするのにも、丁度良いね」

 私が言うと、ユカちゃんは「プレゼント、今からでも買えますかねぇ」と苦笑した。

 夜もだんだん深くなってきている。

「まだ開いているお店もありそうだけど……ユカちゃん、よくそんな元気あるね……」

 私は感心して言った。こういう時、若さというのは眩しいと思う。ユカちゃんと私の年の差は六歳。たった六歳と思う。

 私は、その間に、一体どこにそういう元気を置いてきたんだろう。少しずつ、少しずつ、砂のように落ちていってしまったのだろうか。

「ハルミ先輩。そこは元気じゃないですよ。愛です。愛」

 ユカちゃんは言った。

「ほんとはタクシーでビューンって帰って、帰ったらなんもしないでベッドに倒れ込んでグッスリ寝たいところです」

 その発言に、ソラくんが小さく笑った。

 今までちっとも笑ったりしなかったので、私とユカちゃんはちょっと驚いた。

「なんか、役所にいない時のお姉さんたちって、普通なんだね」

 ソラくんは、少し気の緩んだような声で言った。


 *マサミチ*

 夜の市場の灯りは優しい。まん丸くて赤い提灯が、そこかしこに吊されて、アスファルトを淡く照らしている。まだ私が高校生であった頃、夜中に兄がひっそりとした声で、

 「マサミチ、夜市に行ってみないか」

 と、言って家から誘い出してくれたのが最初だった。私の夜市デビューだ。

 今日の昼間の最高気温は四十度近くあったらしい。

 日が落ちて少しはマシになったとは言え、アスファルトが吸った熱気は衰えない。そしてこの国特有の湿気が肌をベタつかせる。

 人工の空調に慣れてしまっている身には堪える暑さだけれど、それよりも夜市に対する興奮の方が勝るのだから、私もまだまだ気持ちは若いのかもしれない。

 都心の繁華街から少し外れた細い路地。一歩踏み込めば、鼻先にさまざまなニオイが漂ってくる。

 こういった夜市は街中にあるけれど、表通りを歩く連中は知らんぷりをする。警察も同じだ。違法な物資の売買も当たり前のように行われているけれど、見えないフリで、よほど死人でも出ない限りは無視している。

 グレーゾーンというような括りにあるものだ。

 なにより嬉しいのは、夜市を歩いている際には、自分を異様なものとして見る視線をぶつけられない。

 誰も私のことを「なんでまだ生きてるの」という目で見ないのだ。このような夜市で生計を立てているものは、大抵が五十歳を過ぎているから同類というわけだ。

 それは、本当に呼吸のしやすいことなのだ。それは本当に、肩の力が抜ける、生きていて良いと言われているような、許されている気持ちになるのだ。

 夜市は私にとって、オアシス同然だ。

 日常の砂漠を歩ききって、ようやく辿り着いた憩いの場。

(今日はカステラを買うつもりで来たが……)

 自分の誕生日、自分にもっともっと甘くなっても良いのではないかという気持ちがわき上がる。

 通常の菓子店で売っているカステラよりも、夜市のカステラは美味い。

 菓子店で売っているものは、その甘みのほとんどを砂糖に頼っている。

 だが、夜市で売っているものは、菓子職人の拘りが詰まっている代物が多いのだ。砂糖だけでなく、蜂蜜を混ぜていたり、卵黄だけを使っていたり、砂糖にも凝っていて、今時珍しい黒糖やらキビ砂糖を使っているものも見たことがあった。

 値段も白目を剥くほどに上がるけれど、たまには贅沢をしたい。

(まだ死ぬ予定も立っていないくせになぁ……)

 金は貯めておくに越したことはないのに。

「それでも、食いたいものを食いたいし、人間は難儀だなぁ」

 思わず声が漏れた。

 せっかくの誕生日だ。酒も買ってしまおうかな、などと考えて連なる店を見て回る。移動式の屋台のようになっている店もあれば、店舗をドッシリ構えているところもある。飲食物だけでもない。医者の私の目から見ても「これはダメだろう」と思われる薬物なども置いてあったりする。衣服や装飾品もある。骨董品に、家電、本……とにかく、仕入れたものは、なんでも並べられるのが夜市だ。

(小さな頃、じぃちゃんに連れて行ってもらったお祭りのようだよなぁ……)

 あれは、都心の祭りではなかった。あの頃は、まだ税金もそこまで高くなくて、祖父と父母と兄も一緒に旅行をしたものだった。あれは、どこの地に行った時の祭りだったろうか。

 今と違って、自動車の自動運転が義務づけられていなかった時代だった。祖父の持っていた真っ赤な車を幼心にカッコイイと憧れていた。

 旅行先に向かう道中、祖父が自らハンドルを握って運転をしてくれたのを覚えている。

 私は助手席に乗っていた。

「いいか、マサミチ。男たるもの運転のひとつくらい出来ないと役立たず扱いされちまうからなぁ。自動運転ばっかりに任せてないで、運転の仕方くらい覚えておけよ」

 祖父は私にそう言って、よく自動車の仕組みについて教えてくれた。

 今となっては、その知識は無駄になってしまった。

 法律で、自動運転装置のついた自動車以外の運転は認められなくなった。

 自らハンドルを握ることは、罪に値する。

 祖父の生きていた時代では、交通事故や煽り運転で亡くなる人もそれなりにいた。けれど、自動運転が義務づけられてから、年間の交通事故発生件数は一桁だ。死亡者も数名いるか、いないか。

 平和なものである。

 皆が法に背くことを恐れて交通ルールを守る。自動車やバイクなどの乗り物も、全て自動で運転されて、人間は操縦する必要がない。

(良い時代になった、と言うべきなんだろうか……)

 それならば何故、自分はこんなにも息苦しいのだろうか。

 カステラを売っている屋台を見つけて、私は思考を中断させた。

 ほのかに甘く、上品な香りがしている。カステラの隣にはどら焼きもあった。そういえば、妻はアンコが好きだったなぁと思い出す。

「カステラに酒じゃぁ、ちょっとチグハグになってしまうかなぁ」

 私が呟くと、店主の女性が「ウチのは甘いから、辛口の酒と一緒にってのも、結構イケると思うよ」と笑った。

 年齢は六十歳くらいだろうか。まだまだ肌はピンとしていて、健康そうだ。しかし、手元を見てみると、カサカサと荒れていて、働き者の手をしていた。

「これは、女将さんが焼いたものですか?」

 私が問いかけると、彼女は店にある菓子の全部が手作りだと言った。

 毎朝早く起きて仕込みをして、夕方から焼き始めるそうだ。

「その日に焼いたものをその日に売ってるからね。おいしいよ」

 彼女は誇らしそうに言った。

 私は、彼女を好ましく思う。こういう、毎日のハリというか、生き甲斐というか、そういう何かを私も持ちたかった。

 私には、仕事しかなかった。仕事に就く前は、医者になるための勉強しかなかった。その前には、親の機嫌を損ねないようにすることにしか注力してこなかった。私の人生の本質は、結局どこにあるのだろう。

 今思っても、仕事は生き甲斐だった。唯一、自分で選んだ「生存医療」の道。家族からも「理解できない」という顔をされながら、それでも選んだ道だった。

 その仕事さえ、無くなった今。私は、どうやって生きていけば良いのだろうか。

 そのとき、フッ、と視界の隅に何かが映った。

 私がほぼ、反射のようにそちらを向くと、目の覚めるような鮮明な赤が見えた。

 カステラを売っている店の隣。

 他の店に比べて少し暗く、商売をしている雰囲気があまりなかった。

 その店は、屋台ではなく店舗になっていて、表側では、雑貨や半分ガラクタのようなものを並べていた。鉄パイプなんかもある。何に使うのだろうか。

 私の脳は、それらの外向けに売っている商品を冷静に見つめながらも、ほとんどが奥の「赤」に向けられていた。

 店舗の奥は、コンクリート造りの広い箱のようになっている。

 その箱の中に、ドンと王座に座るように、一台の真っ赤な車が停まっているではないか。

「カステラ、買っていくかい?」

 突然惚けてしまった私に、菓子屋の女性が諦めた声で一応尋ねた。

 私は上の空になりながら「また、来ます」と答えた。

 そのままユラリと隣の店に足を向ける。

 ゆっくりと、それでも吸い寄せられるようにして、店に近寄った。

 店の前で椅子に座って、鉄パイプを布で磨いていた男が、私をジロッと見た。

 店の中には、他に誰もいない。彼が店主のようだ。

 私が釘付けになって見ていた赤い車の隣には、真っ黒な車も停まっていた。黒い車の方は赤い車よりもずっと大きい。バンのような形状だ。

 よくよく見れば、二台の車には、排気ガスを出すマフラーがついている。

 昨今、見慣れた車には付いていないものだ。今時代の公道では、全自動の電気自動車しか走っていない。

「これは……ガソリンで走る車ですか……?」

 私はただ、真っ赤な色に恋でもしてしまったかのように、車だけを見つめて尋ねた。

 店主は「そうだよ」と短く答えた。

「運転は、自分で……?」

「そうだね」

 再び短い答えが返ってくる。

「おいくらですか……?」

 自分でもびっくりする問いが口から漏れた。

「あんた、これを買う気があるの?」

 店主が値踏みする目で私を見た。

 買う気があるのか、私は自分に問いかけた。なんで私は、値段を聞いたのだろうか。なんでこんなに、この赤に目を奪われるのだろうか。

 祖父が運転していた車にも、少し似ている。けれど、それだけだ。

 思い出を抱きしめて、それを大事に大事に手元で撫でさするような趣味は私にはない。

 私はそういうタイプの人間ではない。

 ではなぜ、私は、こんなにも夢中なのだろう。

「あんた、これ買って、運転できるの? 運転できないなら、デッカイ飾りもんだよ」

「できます」

 私は、食い気味に答えた。

「運転できます。ある程度、構造についての知識もあります」

 自然と早口になる。心臓がドッドッと体の中で大きく鳴り響いている。

「あんた、わかってんの? 運転できても、バレたら犯罪者になっちまうよ?」

 そこで店主がはじめて笑った。目を細めて、ニヤリと笑った。

 目の奥が光っている。悪いことをするのを楽しむような、そういう目だ。

 まだ学生だったころ、度胸試しが流行ったことがある。犯罪になるか、ならないか、ギリギリのところを綱渡りしてみるゲームだ。

 今思えば馬鹿らしいとも若者らしいとも思えるゲーム。そのゲームを主導していた生徒が、確かこんな目をしていた。

 私が学生の頃は、まだ未成年への犯罪判定は緩かった。今、あのようなゲームに興じる学生がいたならば、即刻注意してやめさせたいと思う。

 今の時代では、とてもじゃないが洒落にならない。尊厳死で人生を終えたいという希望が少しでもあるのなら、悪いことは言わないから、大人しく学生生活を楽しんだ方が良い。

「あなたは、どうして車を売っているんです?」

 私は、店主に尋ねた。この車が売れるということは、店主の言うとおり、デッカイ置物にするためか、はたまた犯罪者になることを恐れずに、自らがハンドルを握りたいがためかのどちらかだ。

 店主は何を思ってこんなアンティークな車を売っているのだろう。

「度胸試しってやつだよ」

 彼は笑った。私は思わず、その顔の面影に学生時代の級友の顔を探してしまった。そんなはずはない。店主は私よりもずっと年上に見えた。おそらく、七十歳あたりだろう。

「こんなになるまで生きているとね、逆に楽しくなるもんなんですよ。世の中に生きてる人らのね、心の葛藤とかね、そういうのを観察するのが」

 店主は言った。

「浮き世離れの心持ちとは、そういうものですか?」

 私が言うと、店主はヘッヘッと息のついでみたいに笑った。

「もっと下品な理由ですよ。単なる私の道楽だ。俺ぁ、自分が捕まらなけりゃ、それでいい」

「こんな昔の車を売るのは犯罪では?」

「いんや、これは置物さ。ガソリンは抜いてある。別売りなんでね。この車に燃料を入れて売ってたら、そりゃ犯罪さ。でも別々に売ってたら、そりゃーもう、犯罪にはならねぇな。スレスレのところさ。ただのデッカイ置物と油を別々に売ってるだけ。まぁ、売った先の客が、置物にガソリンを入れ込んで運転しちまうかもしれねーけどさ、それは俺には関係のない話だ」

 彼は言った。なるほど、やはり夜市で商売をしているだけのことはある。いざという時の言い訳は、いろいろと考えてあるらしい。

「今までに、誰か買った人はいますか?」

 私が言うと、店主はハッと威勢良く笑って、「最近は夢やら野望やらを持つヤツぁ、絶滅しちまったみたいだなぁ」と言った。

「昔はそれなりに売れたんだけどな。最近はサッパリだ」

「ずっと車を仕入れてやってきたんですか?」

 それはそれで凄いことだ。店主の言葉を借りれば、もうとっくにこの世から絶滅してしまったと思っていた宝物が、どこかには存在するらしい。

「……で、値段は、いくらくらいなんです?」

 私はもう一度尋ねた。

「冷やかしだけなら帰りな。値段を聞いてもアンタには払えないだろうよ。さっきの店で美味いカステラと酒でも買ってパーティーした方が現実的だぜ」

 店主は、片目だけを細めて私を見た。夜市には、時折、郊外に住む富裕層もフラリと訪れる。尊厳死などせずとも、蓄えている金だけで一生を暮らせる者たち。私の患者と成り得るような、治療費も薬代も手術費も、なんでも全部支払える人たち。

「私は医者です。ああ、昨日までの話ですが。ですから、それなりの蓄えはあります」

 あまり舐められては困ると思って言うと、店主はまた、ハッと言って笑った。

「お医者様なら腐るほどいるじゃねーか。それでも手が足りないくらいだって聞くがね。安定してるが、安月給だとも聞く」

「私は終末医療の医者ではなく、生存医療の医者です」

 今度こそ私は胸を張って言った。自然と、顎先まで少し前に出てしまう。私は自分が思っている以上に、自分の仕事を自慢に思っていたらしい。

「……へぇ、生存医療ね……」

 店主の目付きが変わった。私は、念のためと思って、財布の中に入れていた医療免許証を出した。昨日の日付で失効済みだが、顔写真も指紋も登録されていて、証拠には十分だろう。

「なるほど、合点がいった。あんた、生存医ってことは、アレか、自然派に肩入れするタイプの人間か。だからその歳まで死なずにきちまったんだな?」

 店主は、意外と用心深い性格らしい。店の奥に並ぶ商品たちが、よほど大切なのだろう。然るべき人間にしか売りたくないという気配が漂っている。

「私は自然派を否定はしませんが、あれは宗教だと思っているので、肩入れはしませんよ。宗教は、ハマる人間だけハマれば良い……いえ、言い方が悪かったですね。信じる人だけが、信じるのが宗教でしょう。私は自然派には詳しくないし、彼らの信仰の対象がどこにあるのか、それさえ理解していません」

 私は正直に言った。

「じゃぁ、お前さん、なんでそんな歳まで生きてる」

 店主が言った。私は問い返した。

「あなたは? 私よりも年上に見える」

「俺ぁ、商売が好きで生きてる。デカいものを仕入れて、デカく売り上げる。好調な時は金勘定をしていると興奮して下半身が疼くくらいだ。商売に失敗したら、潔く尊厳死するよ。あとは、アレだな。大病したら仕方ねぇ。苦しむ前に楽に死ぬさ」

「売り上げが好調なら、治療費もいくらか支払えるのでは?」

「そんな無駄なことするもんかね。病気したり、もう後がねぇ、死ぬばっかりだって思ったら、有り金はたいてパーっと遊んで。遊び尽くしてから役所に行くよ」

 店主はヒッヒッヒと笑った。私は、なるほどと思う。悲しい考え方だが、合理的だ。

(悲しい……? どこが悲しいんだろうか……)

 終末医療を受けに来る人を病院で見る度に、私はいつもこういう気持ちになった。悲しい。虚しい。切ない。やる瀬ない。

 そして、自分の仕事場である生存医療の現場に戻ると、気持ちが上向くような気がした。生きたいと願って、一生懸命に治療をする人や、家族の命を守って欲しいと必死に訴えてくる患者を見ていると、絶対に救ってみせると、体の芯からエネルギーが湧いて出てきたものだ。

(私は……差し迫る理由がないのに、死ぬ意味がわからない……ただ、それだけなんだがなぁ……)

「で? あんたは、どうなんだい。まさかアレか? この車ぁ、買って、少し楽しんだら尊厳死するつもりかい? 冥土のみやげってか? それにしちゃーちょっと、デカすぎるな。車は一緒に燃やしてもらえねーぜ?」

「私は、今まで仕事が生き甲斐で生きてきた。店主、あなたと同じだ。私も自分の仕事が好きで生き延びた。でも、仕事もなくなり、生きる理由はなくなった。でもだからと言って、死ぬ理由もない。それに加えて、実を言うと、私は昔から車が好きでね。もちろん、自動運転の車じゃない。自分で運転する車だ」

私は、医者じゃなければ、レーサーになりたかったんだ

 スルリと出た言葉に、自分で驚いた。

(ああ、そう言えば、そうだったな……)

 祖父に車の良さを教えてもらい、すっかり夢中になった幼い私は、将来の夢を考えた時に、生存医療の医者か、レーサーか迷った。レーサーにしなかったのは、散々と車の良さを教えた祖父自身が「それでも時代は自動運転になっていくだろうなぁ、こんな、自分で運転する車はそのうち、なくなっちまうよ」と言ったからだ。

 私は、自動運転の車のレーサーになりたいわけではない。自分で操縦する車が好きだったのだ。

 だから医者にした。終末医療ではなく、生存医療にしたのは、そっちの方が格好良いと思ったからだ。人数も少なく、富裕層を相手にできる。世間からは、嫌な目で見られることも多いけれど、それでも良かった。人と違うことは、少しばかり格好良いと私は思う。

「レーサーか。良いね。今のレースはちっとも面白くねぇからな。人間を乗せないんだもん。ただの企業同士の性能勝負。あれじゃ製品化する前の実験見せられてるのと同じだよなぁ」

 店主はウンウンと頷いて、そして立ち上がった。

「入っておいで。どっちの車がお好みだい」

 店主の言葉に、私は浮き足だった。興奮して、口を震わせながら「あか、赤! 赤い方を!」と言った。

 足の先に、ジワッと熱が灯ったように感じた。


 店主の案内で、店の奥へと進んだ私は、感嘆のため息を漏らした。

 赤い車は、別に特別美しいスポーツカーのようなものでも、なんでもない。

 ただの四人乗りの乗用車。家庭用という感じのものだった。祖父の車は、もう少し格好が良かった。けれど、私には十分すぎるほど、魅力的に見えた。

「アンタなら、ガソリンとセットで二千万でいいぜ。破格だろう?」

 店主は言った。私は、覚悟をしていたつもりでも、たじろいだ。

 生涯働いて稼いで貯金した金が、ほぼ全てなくなる。

 しかし、男の言うように、破格であることには間違いない。

 そもそも、アンティークの車になど、今後出会えるかもわからない。

(私の貯金、かき集めて、かき集めて、せいぜい二千五百万というくらいだ……ここで二千万使うとなると、残り五百万……仕事はクビになった……再就職など、出来るわけもない……)

 私が棒立ちで黙っていると、男はハハハと笑った。

「じゃぁな、千八百万でどうだ? いや、もう思い切ってもらおうか。千五百万でどうだ!」

「買った!」

 完全に乗せられる形で私は大声を出した。喉の奥がジンと痺れた。

「よっし、売った!!」

 店主はニヤリとした。きっと、仕入れ値はもっともっと低いのだろう。

 けれど、それでも。

(千五百万なら、貯金の残高は一千万は残る……それなら、なんとか質素倹約で半年……いや、頑張れば一年は暮らせるかもしれない……!)

 その間に、自分の進退、生きる死ぬについては考えてみようと思った。いざとなれば、この車を私が売っても良いのだ。場所代を払って夜市で店を出して、ここの店主のように商売を楽しんで生きていくのも悪くない。

(ああ、結局は、こうして生きる算段をする。ああ、でも、そんなことより……)

 幸せだった。久方ぶりに、手に握れるほどハッキリとした形の幸せ、興奮、喜びを感じている。

 私は店主に自分のIDカードを渡した。今の時代、IDカードと預金口座は連携していて、カードさえあれば、決済は終わる。

 店主に促され、私は端末に自分の指紋を照合させた。それに、虹彩スキャンも。普段の買い物では、指紋認証だけで良いのだが、高額な買い物の際には、虹彩認識もセットで必要となる。

 ピッという軽い音がして、車は私のものとなった。預金から千五百万が引かれる。

 その瞬間だけ、ほんの一瞬、ほんの数秒、スッと背筋が冷たくなったけれど、もう後には退けないし、退く気もない。

「さて、これでこの車はアンタのもんだが……どうする? 明日にでもアンタの家まで届けさせるか? ガソリンとは別便になるがね。送料はまけとくよ」

「いえ、あの、乗って帰ります。今」

 私は言った。明日までなんて、とても待てない。すぐに乗りたい。

 店主はワハッと大声で笑って、私の背中を強かに叩いた。

「アンタ、見かけに寄らずアレだな、破天荒だな! 今から乗って帰る? まだそんなに夜も更けてないぜ? どうせ乗るなら深夜にしなきゃぁ、帰り道ですぐに警察に捕まっちまうぜ?」

 私は、口元を上げて笑った。

「昨今の警察は、あまり仕事に熱心でないと聞きます。平和なのはこの上なく良いことだ」

「アンタ、昔はワルだった口か?」

「ずっと医者をしていますから、そうでもないかと思いますけど、まぁ、生存医療を選ぶくらいですから、悪いと言えば、悪いのかもしれないですね。金持ちだけを相手にする仕事です」

 私は言った。私の仕事を疎まずに見てくれたのは、妻だけだった。尊い仕事だと思うと彼女は言っていた。けれど、五十歳でさっさと尊厳死を遂げた。彼女は私を受け入れたけれど、彼女には彼女の考えがあって、それを曲げることまではしなかった。

 息子は物心ついてからずっと、私を少しだけ嫌な目で見る。根が優しい子だから、あからさまに避けたりはしないけれど、親の仕事について、学校でいろいろ言われたりもしたらしい。

 友達からではなく、教師から。そういう変な目を向けられる度に、なんでお父さんは終末医療じゃないんだろうと思ったに違いない。

「もし、帰り道で捕まったら捕まったで、それまでですよ」

 私は言った。諦めと、そして少しの清々しさがあった。

「妻も、もう十四年も前に尊厳死をしています。息子にも、いつ死ぬのかいい加減決めて欲しいと頼まれたりして……それでも、私は死ぬ気にはなれず……自然派というわけでもない。捕まったら、それはそれで、生きねばならないという規則ができますから、ちょっとばかり楽になる気がします」

 私は言った。店主はそこで初めて、少し気の毒そうな顔で私を見た。

「アンタの言ってること、わからんでもないぜ。俺もまぁ、弱気になって言えば、似たようなもんだ……さ、ちゃっちゃとガソリン入れろ。裏門開けてやるから、そこから出な。表の通りに通じてるからよ」

 店主に言われて、私はさっそくガソリンを入れた。祖父が教えてくれた知識を、私は驚くほど明確にに覚えている。

(それほど、好きだったんだなぁ、車が……)

 自分の奥の奥に仕舞い込んで、自分でさえ忘れていた「好き」という気持ち。埃を払ってそれを取り出せば、キラキラと未だに輝いていた。

「手際がいいなぁ、感心した」

「ナンバープレートは取り外しても良いかな」

 私が言うと、店主は「あんたの車だよ」と笑った。

 私は、店主から最後に車の鍵を受け取った。

「気をつけてな。まぁ、捕まらずに帰り着いたら、また遊びにおいで」

 店主は言った。私は「その時は、カステラを買いますので、一緒に食べましょう」と笑った。


 車のシートに腰掛けると、それだけで脳内からアドレナリンがブワッと吹き出る感覚があった。

 エンジンをかける。懐かしい音を立てて、車が震え出す。

 独特のニオイ。シートベルトをつける。

 バックミラーを調節して、背後を確認した。

 店主があけてくれた裏門を、バック走行でくぐり抜ける。

「うまいもんじゃねーか!」

 店主の声が遠く聞こえた。私は窓越しに店主に向かって一礼すると、ゆっくりとアクセルを踏んだ。

 滑らかに、軽やかに。車が発進する。

「ああ……」

 私は、ため息をついた。目が潤んできさえする。

 昔、「ハンドルを握ると気が大きくなるヤツもいる」と祖父は言っていた。

 あの頃はその意味がちっともわからなかったけれど、今ならわかる。

 自分で操縦する、自分の手で、ハンドルを握る。

 自分の思うようにこの鉄の乗り物を操る。

 なんという、恍惚、そして全能感。

 私は、自分の本能が、今日この瞬間に、生まれたのだと感じた。


 *ユカ*

 去年の誕生日には、腕時計を贈った。

 結構高くて、喉の奥がヒリヒリしたけれど、フミくんがめちゃくちゃ喜んでくれたから、後悔はなかった。

 今年は何を買おうかと考える。IDケースか、それとも少し前に「気になる」と言っていたサンダルにしようか。

(でもサンダルはなぁー、夏しか使わないしなぁー)

 こうなったら、私が結婚指輪を買ってやろうかとも考えたりした。

 でも、それはちょっと、私の気持ちが萎えてしまう。脅迫して結婚したいわけじゃない。

 私はプロポーズも含めて、フミくんからして欲しい。

(指輪は割り勘で良いからさー……)

 大通りを歩きながら、私は唇を尖らせた。

 今日は本当に色々なことがあって、心も体も、ドッと疲れている。

 さっき警察署の中でハルミ先輩たちと食べた夕食も、半分くらい味がしなかった。

(……サツキさん……大丈夫だといいな……)

 頭の奥では、その事ばかりが巡っている。

 フミくんの誕生日プレゼントを考えつつ、けれど十秒に一度くらいの割合で、サツキさんのことを考える。

 湯船に張られたお湯の、真っ赤な色。

 私が見てしまった時にも、まだ手首から、ユラユラと赤い液体が外側に放出されていた。

 真っ青な顔、ぐったりした肢体。

 私は、もう少し彼女の話に耳を傾けるべきだったんじゃないかと思ってしまう。

 彼女の受付をしたのは、私だ。

 責任を感じる、というのとは少し違う。

 けれど、なんだろうか。自分の無力さを、明確に見せられた気持ちだった。

 もっと親身になって話を聞けたんじゃないか。もっと、彼女の抱えている問題とか、彼女の考えとか、そういうことを聞いていたら。

 私は、彼女と受付で話した時、ああ、この子は死ぬ気はないなと思った。旦那さんを大事にして、これからも生きるつもりだろう、だから旦那さんのことをとても心配しているのだ。

 彼女のID情報を見た限り、まだ子供はいないようだった。

 これから、子供のことも、子育てのことも考えていきたいと思っていたかもしれない。

 それなのに、あんなことになるなんて、思っても見なかった。なんで、彼女はあんなことをしたのか。死にたがっていたのは、旦那の方だ。

 昨日、サツキさんと一緒に過ごしたらしいソラくんも言っていた。

「サツキさんは、アキラさんに死んで欲しくないだけだよ」

 私も、そうだと思う。

 彼女の遺書によって、旦那さんは犯罪者になるのだろう。尊厳死の権利が失われて、もう自然死や病死を待つより他に選択肢はなくなる。

「切な……」

 思わず声に出た。

 私も、もしフミくんが死にたいって言い出したら、きっと止めると思う。

 死んで欲しくない。当たり前だ。好きなのだから。

 でも、それはまだ私もフミくんも若いからだ。

 五十歳くらいになったら、いや、それよりもう少し若くても良い。

 そしたら、一緒に死ぬのも良いなと思う。家族で尊厳死も珍しくない。幸せに、穏やかに。最後まで一緒にいられる。手を繋いだまま、二人で眠るように死ねたら最高だ。

 サツキさんは、自分の手首を自分で切った。

 私には、そんな勇気は到底出せない。

 サツキさんは強い。だからどうか、意識を取り戻して欲しい。その強さでもって、生き抜いて欲しい。

 サツキさんの意識が戻ったら、私はお見舞いに行きたい。

 高いかもしれないけれど、フルーツのゼリーとかを持って行って、冷やして一緒に食べたい。それで、女同士の話をしたい。

 役所の職員としてではなく、友達になって、話をしたい。

 繁華街をフラフラと歩いて、横断歩道の向こう側にフミくんの好きな店を見つけた。ブランド店ではなく量販店だけれど、フミくん本人が好きなものをプレゼントするのが一番良いだろう。

 疲れすぎていて、あんまり頭が回っていない。

 なんとなく店に入ってみて、品物を見ながら考えてみよう。

 私は、ボーッとしながら横断歩道の前で赤い信号を見ていた。

 信号が、パッと青に変わって、重い足取りで歩き出す。

 歩き出した時、耳元に違和感を覚えた。

 聞いたことのない異音、ギュギュッと何かを激しく擦り付けるような音。「キャッ」とか「うわっ」という驚きの声。

 何だろうと思って、音のする方角を向いた。

 向いたところに、赤い何かが、赤くて、大きな何かが、見えた。

 見えたと思った次の瞬間には、視界いっぱいにそれが広がって。

 私の口から「グブッ」という、自分でも聞いたことのない声が出た。


 *マサミチ*

 店主が教えてくれたとおり、裏門は表通りに直結していた。私は細心の注意を払って、そっと裏道から広い道路へと合流した。

 周囲を走っているのは自動運転の車ばかり。

 運転手はいない。みんなただ、目的地を入力して、あとはもう乗っているだけである。

 車間距離も保てるし、信号も交通ルールもしっかりと叩き込まれているAIシステム。年間の自動車事故件数はほんの少ししか報告されていない。

 人間の体調や気分と運転が関わらない、誤操作はありえない、安心安全。

 そのため、繁華街でも制限速度はかなり速い。昔は人間が運転していたから、人通りの多い道などでは制限速度が三十キロだとか、そんな風に設定されていた。

 今は、いざという時も、ちゃんと人を認識して車の方が止まれるようになっている。昔はブレーキを踏んでも数メートルは動いてしまった車も、現代では人や障害物を認識した瞬間に、止まれる。何キロスピードを出していても、止まれる。その上、車内への衝撃も極僅かだ。

 私は、他の車に遅れをとらないよう、目立たないよう、スピードを出して運転した。

(そういえば……母さんは昔、車酔いなんかしてたっけなぁ……)

 今自分が運転している車もそうだが、やはりアンティーク車は揺れる。

 現代の車では考えられないほど、揺れる。まるで馬の背に乗っているかのように思う。けれど、それが私には心地よかった。

 目前の信号が変わる。青から赤へ。

 私はゆっくりとブレーキを踏み、他の車と同じように滑らかに車を止めた。

(上手いもんじゃないか……)

 思わず自画自賛してしまう。車の後ろにマフラーがついていて、ちょっとばかりニオイがする他は、目立たずに運転ができている気がする。

(これは本当にバレずに帰りつけるのかもしれないな……)

 私は思った。

 帰ったら、この車を家のどこに停めようかとも考える。あまり目立ってはいけない。

 古いけれど、広い家だ。裏庭に停めようかな、それならば椿の木を植え替えないとならないかな、などと考える。なにせ仕事もない。時間はいくらでもあるのだから、椿の植え替えなど造作もないことだ。

 信号が青へと変わった。

 再び、アクセルを踏む。思い切り踏まないと、他の車と協調できない。

 一気に加速して、再び流れる車たちの一部となる。車窓に流れていく繁華街のネオン。道行く人々は、みんな質素に見える。けれど、体内から自然と輝けるだけの若さがある。

 この国には老人がいない。いないことにされている。いつからこうなった。いつからこうなって、いつまでこうあって、そしてこの先、どうなっていくのだ。

 自分の息子も含め、若い人たちがこの尊厳死が当たり前になっている世の中をすんなり受け入れているのが、理解できない。

 だからといって、私には、なにか行動を起こすだけの気力や気質もない。

 そういうことを考えても、今の私は絶望したりしなかった。

 千五百万で買った私の愛車。

 私のこれから先の人生の誇り、生き甲斐は、きっとこの車になるのだろう。

 ウィンカーを出し、角を二つ曲がった。

 いよいよ賑わう駅前に差し掛かり、再び眼前の信号が赤になった。私はもう慣れきった動作で、ブレーキペダルを踏む。

 しかし、ブレーキはビクとも動かなかった。

「……え」

 思わず声が漏れた。慌ててはいけない。踏み方が悪かったのだ、落ち着いてもう一度。

 足は、確実にブレーキペダルの上にある。

 グッグッと力を入れても、何かが挟まってしまったかのように、ピクリとも動かない。

 全体重をかけてみる。私はほとんど、シートから立ち上がる格好でブレーキを踏んだ。

 私の前を走る車はない。けれど、先には横断歩道がある。信号があったということは、そういうことだろう。

「止まれっ! 止まれっ、止まっ、てくれっ!」

 誰もいない車内で私は絶叫した。

 車は百キロ以上出して走り続ける。

 ブレーキを踏むことだけに必死になっている私は、ハンドルの方を疎かにした。

 車が右へ左へと、速度を保ったまま蛇行する。

 フロントガラスに映る景色が、グルグルと回る。

 ギュッギュッと道路をゴムタイヤが擦る音がする。

 私はなんとかハンドルを握りなおして、車体を落ち着かせた。

 その時、目の前に女性がいた。

 私の車は、もう横断歩道の目の前に来ていた。

 ドンッという鈍い音、フロントガラスに、急に蜘蛛の巣が張られた。いや、違う。放射線状にガラスが割れたのだ。

 その後、続けざまにガン、とかグシャッとか、そういう音がして、車は止まった。私の前に大きな風船みたいなものがバッと広がって、無防備な肺や腹を圧迫した。

「ぐっ」

 私は前のめりになって、風船にもたれ掛かる。

 さんざん左右に振られて、最後には前後に振られて、頭がクラクラした。

 視界も回っている。吐き気がした。

 車内には、しばらく私の荒い呼吸だけが響いていた。

 何が起こったのか、わからない。

 頭が真っ白だ。

 とりあえず、車が止まったことに安堵している。

 呼吸を整えて、何度も瞬きをした。

 フロントガラスは飛び散り防止の仕様がされていたようで、ガラスの破片を浴びずに済んだ。けれど、私の予想では、私のこれから先の夢であり希望であり、生き甲斐であった車は、無惨な姿になっていることと推察される。

 悲しみは、まだなかった。混乱しかない。

 私はゆっくりと顔をあげた。

 フロントガラスのひび割れが、赤く染まっている。私は、体の前にあるエアバッグを抱えるようにして、ガラス部分にそっと腕を伸ばした。

(車体の塗料が、削れて……フロントガラスにまで、飛んだ、のか……)

 そんなことを考えた。正常な思考であれば、そんなことはあり得ないことはすぐにわかる。しかし、混乱している私の頭には、赤い色というのは、私の愛車の色という認識しか残っていなかったのだ。

 私は、どうにか体を捩って、シートベルトを外す。

 そして、ドアをあけて、車の外に出た。

 私の車は、中央分離帯につっこんで、前側がひしゃげていた。

 タイヤも擦れて、左側前輪がパンクしている。

 そこでようやく、気が付いた。私の周りには、人だかりが出来ている。皆が私を唖然とした顔で見ている。

 しまった、バレてしまった、と思った。

 事故を起こした。これはもう、警察を呼ばれて逮捕されることが決まったと思い、唇を噛んだ。そもそも、この車、いつからあの店にあったのだろう。誰か、車のメンテナンスをしていた人はいるのだろうか。いないだろうな。なぜ、そんな簡単なことを考えなかったのだろうか。

 よろよろとしながら、私は車のボンネットに縋って立ち上がる。

 ヌルりとした感触に、私は視線を自分の手の方へやった。

 手のひらが、べったりと赤く濡れている。

 蒸し暑い夜の空気、気怠い湿気に混ざって、鼻腔にこびりついて消えないような鉄のニオイがした。よく、嗅いだことのあるニオイだ。手術室で、オペをしている時の、あのニオイ。

 私は、ボゥっとなって、車の先にある景色を見た。

 三メートルほど先、何かの塊が、ポツンと道路の真ん中に落ちている。

 なんだろう。

 私はやっぱりヨロヨロしながら、その塊の方へと寄っていった。

 一歩、また一歩。

 もう、頭の中では理解していた。

 心を置き去りにして、理解していた。

 はじめに、髪を認めた。茶髪寄りの、きれいな髪が、所々赤く束になっている。その次に、腕と指が見えた。明後日の方向を向いた足が、見えた。

 可愛らしいヒールの靴が、私の足下近くと、彼女の体よりも後ろの方とで散り散りに飛んでいる。

 髪で隠れて、目元は見えなかった。

 口の先から、鼻から、吐き出したように血液が漏れていた。

 私は、彼女まであと一メートルのところで、立ちすくんだ。

 生存医療を続けて、何年経っただろう。

 私は、人の命を救い続けてきた。

 全身から、力が抜き取られた。筋肉の全部を、神様に剥奪されたように。

 私はその場に座り込んだ。

 私は、人を、轢いてしまった。

 私は、人を、殺めてしまった。

 この子は、絶命している。それは、例え私が医者じゃなかったとしても、すぐにわかることだ。頭の一部が陥没している。

「は、ぁ……」

 力なく息を吐いた際、涎も一緒に落ちていった。

 夏の熱されたアスファルトが、座り込んだ私の尻やら足を焼いている。ジリジリと、責め立てるように。

 遠く、サイレンが聞こえた。

 その音に、不謹慎極まりないことに、私はホッとした。

 これで、私は尊厳死が許されない人間になった。

 私は、もう「死ね」という目で見られなくなる。

 「死ね」という目で見られることと、「苦しんで生きろ」という目で見られることと、どちらがツラいだろうか。

 それは、今後の自分の人生で、実感していくことになるのだろう。

「あ、ぁ……」

 私は、夜の空を見上げた。

 救った命、たくさん、感謝をされてきた。

 それなのに、本当の私は、本当の自分自身は。

「人を、殺してまで……」

 人を殺してまで、私は生きたかったのだろうか。

 私は、どうしてこんなに安心しているのだろう。

 どうしてこんなに。絶望でなく、安心しているのだろうか。

 車を買った時以上に、何故だろう。

 私は、清々しい気持ちになっている。


 ***

 体中の空気を、無理矢理一気に引き抜かれたような感覚があった。

 肺から喉までがグッと押しつぶされる。

 喉の奥が燃えるように熱くなった瞬間、体が飛んだ。

 ポーンと風船のように。

 驚くことに、私は浮いていると理解していた。

 浮かび上がりながら、夜空が近づいたのを見た。

 思考が追いつかない。

 どこまで飛ぶんだろうなぁと思った瞬間、頭にガッと衝撃が来て、それから上半身が熱いアスファルトの上を滑った。長く滑った。

 体の右半分が全部擦り切れたと思った。発火したのかと思うほど熱かった。

 それから、足が勝手に変な方向へブンと振られて、ゴキッと鈍い音、激痛が走って、体全部がビクンと震えた。

 私は、身体と思考がバラバラになった。

 何が起こったのか、何もわからない。

 混乱の渦の中で、ゴホッと咳が出た。

 鼻につくニオイは、サツキさんを見た時、お風呂場で嗅いだニオイだ。

 口の中がネバネバする。

 生温かい。鉄の味がする。

 体が全く動かない。けれど、私の意思とは関係なく小刻みに痙攣する。

 痙攣するたび、何もかも全てを痛みが支配する。

 世界中が痛みに満ちている。

 アスファルトに触れている右側が熱いのに、左側が急速に冷えていく。

 体が、濡れていくのがわかる。

 なんで濡れているのか。

(わたし、の、血……)

 認識した瞬間、恐怖の圧力に押しつぶされた。

何これ、なにこれ、どうしてこうなって、なんで、わたし、どうしちゃったの、これ、なんなの、痛い、痛いイタい

 パニックになって、息苦しくなって、深く呼吸しようとしたけれど、出来なかった。

 鼻にも口にも、何かが詰まっているみたいで、酸素が吸えない。

苦しい、苦しい、苦しくて、ますますパニックになって、呼吸しようとしても出来なくて、体がビクビク震えて、また痛い、熱い、寒い

 なんでだろう、死ぬんだなと思った。

 どうして、死ぬんだろうと思う。

 フミくんの誕生日プレゼント買わないと。

 昨日の喧嘩も謝らないと。

 心臓が変なリズムで動いている。ドドドと鳴ったり、ドッドッと鳴ったり変則的で、その度に息苦しい。

 死ぬのは、怖くなかったはずだ。

 死ぬのは、普通のことで、私は平均寿命よりも早めに死ぬ予定だった。

 でも、それは、まだ先の話だ。

(今じゃない)

今じゃない、今じゃない、今じゃない!

 死ぬのは、今じゃないはずなんだ。

今じゃない、だってまだ、まだわたし、私、まだ全然、これから

 意識が、後ろ側に引っ張られていく。

 頭が冷たい。

 視界がブレる。寒い。ガタガタ震えている。

「……誰、か、」

助けてください

誰か、助けてください。今じゃないんです、私、まだ

こんな風じゃないはずなんです

普通に、私、普通に苦しまないで、普通に死ぬはずで

だって、なんにも悪いことしてない

尊厳死は、誰にでも平等に与えられている権利だって、そうでしょ

なんで、なんでわたし、わたし、こんな

 本格的に息ができない。

 苦しい、苦しくて、ヒュッヒュッと喉が鳴る。

 今までで一番激しく、ガタガタガタと体が震えて、痛みで気絶しそうになった。

 再び、視界が白む。

 涙がボロボロ流れた。いや、血かもしれない。わからない。

 耳の鼓膜は、破けているのかもしれない。

 近くで人の気配がするのに、何も聞こえない。

 深海に潜っていくみたいに、あらがえずに、深く深く沈んでいくように。

 フミくん、フミくん、ごめんね。

 謝りたかった。ちゃんと。

 プレゼントも買えてないや。

 ああ、こんなのってない。

 虚しい人生でも、苦しい人生でも。

 それでも私は。

「ま、だ……」

生きていたい



 *ハルミ*

 ユカちゃんは、オイタナジー記念日には、出勤しようかな、と言っていた。特別な手当が出るなら、地獄のような忙しさでも、出勤しても良いかも、と言っていた。

 ユカちゃんは、九月のオイタナジー記念日が来る前に、死んでしまった。

 ストシャイよりも先に、逝ってしまった。

 私は、その知らせを聞いた時、一度全ての言葉を失った。


 ユカちゃんのお葬儀は、尊厳死をした人の簡易的なものではなく、ちゃんと行われた。そういう風にしたのは、彼女の恋人だったフミオくんだった。

 ユカちゃんが亡くなった翌日、二十歳になったばかりの男の子。

 ユカちゃんのご両親はもう亡くなっていて、お姉さんたちも自分の家庭があったので、彼が懸命に喪主を務めていた。時折、嗚咽をもらして、泣きはらしながら、懸命に。

 まだ細い背中だった。

 私は、ソラくんと一緒に焼香に行った。

 フミオくんは、私の顔を見ると、真っ赤な目で「ハルミ先輩、ですか?」と尋ねてきた。

「はい、そうです」

 私が答えると、フミオくんは自分の名とユカちゃんとの関係をしゃくり上げながら説明した。

「ユカちゃんから、よく話しは聞いています。フミくんフミくんって、楽しそうに……」

 私もここで、喉が詰まった。涙がドッと溢れる。

 ユカちゃんは、亡くなった後の顔も、見られないような状態だったそうだ。

 私の中のユカちゃんはフミくんのためのプレゼントを買いに行く前の、はにかんだような笑顔のままだ。

「僕、も、ハルミ先輩のこと、よく聞いてて……すぐにわかりました。ユカが言ってた通りの雰囲気の、人でっ」

 フミくんは、私に頭を下げながら、いや、頭を下げていたのではないのだ。頭が重くて、支えきれなくて、頭を垂れてしまうのだ。

 自分の頭を支えられるだけの気力も、今は残っていないのだ。

「僕、あの日の翌日、誕生日でっ、ユカはプレゼントを……僕が誕生日じゃなかったら、ユカは、あんな……」

 一度ヒュッとフミくんの喉が鳴った。

「あの日、プロポーズを、する予定だっ、たん、です……」

 フミくんは震える手で、小さな可愛らしい箱を見せてくれた。

 中にはキラキラ美しい指輪が入っている。

「バイト代、なんとか、ためてっ……ユカは、僕にプロポーズされたがって、たからっ、だから……」

 私は、両手で顔を覆うしかなかった。

 ユカちゃんは、ずっと待っていた。フミくんからプロポーズされるのを待っていた。でも、少しヤンチャで明るくて、とっても元気で裏表のないユカちゃんは、何度も催促をしてしまった。

 催促をされたからプロポーズしたのでは、格好が付かないとフミくんは思ったのかもしれない。

 ちゃんと自分の稼いだお金で指輪を買って、ユカちゃんに催促されていない状態で、プロポーズしたかったのだろう。

 まだハタチだ。まだハタチの男の子だ。そのくらい格好付けたってダサくもなんともない。格好いい。きっとユカちゃんは、泣くほど喜んだだろうと思う。

「さっき、葬儀社の、人に聞いたらっ、指輪、ユカにはめても良いって言われたので……燃え残っちゃうかもしれないけどっ、でも、はめようと、思います……今日は、来てくださって、ありがとうございました……」

 フミオくんは、何度もしゃくり上げながら言った。誓いの言葉のようだった。誠実で、愛に溢れている。

 ユカちゃんの人を見る目は正しかった。

 フミオくんは良い人だったし、あの日、死ななかったら、きっとユカちゃんは幸せになれたと思う。

 そういう、考えても仕方のない「もし、あの時、こうしていたら」というのを、ユカちゃんが亡くなってから、何度も考えた。

 何度考えても、結局は現実しか残らない。

 なんて虚しい、なんて意味のないことだろう。

 でも、私には必要な時間だった。きっと、フミオくんにも、ユカちゃんと親しかった他の人たちにも、そういう時間は必要なのだと思う。

 亡き人を「悔いる時間」というのは、いなくなった人が、どれだけ愛おしかったか、どれだけ大切な存在だったかの証明になるだろう。

 私は、悲しい。苦しい。切ない。

 ユカちゃん、あなたがいないのは、とても寂しい。

 寂しい。寂しいよ。着替えにどれだけ時間がかかっても良いから、どれだけ愚痴を言ってもいいから。私はユカちゃんと、またお喋りがしたいし、笑い合いたい。なんでそれがもう叶わないのだろうか。全然わからない。納得できない。受け入れられない。人の死は、本当はこんなにも悲しくて寂しい。痛くて痛くて、たまらないものだ。

 

 

 その後の私は、二つの裁判に出ることになった。

 ユカちゃんを轢いた犯人である人物の裁判と、サツキさんの旦那さんであるアキラさんの裁判。

 事故事件に私が直接関係するわけではないけれど、一応証言をして欲しいと言われた。断る理由もなかった。

 両裁判は、同日に行われることとなった。私を二度呼び出すのは面倒だと思ったのかもしれない。

 私は、その日、はじめて裁判所に踏み込んだ。役所に勤めて長いけれど、裁判沙汰になるような場合は、上司が出廷することがほとんどで、私は今まで一度もそういう件に縁がなかった。

 裁判所は、真新しい木の匂いがした。そういえば、建て替えられたばかりだったと思い出す。裁判所を使う機会があまりにも少ないので、建て替えついでに縮小されたのだ。

 裁判には、ケイくんとソラくんが付き添ってくれた。ケイくんは、わざわざ休みを取ってまで来てくれた。

 ソラくんは、サツキさんの事件があってからずっと、我が家で寝泊まりをしている。

 ユカちゃんのことは、ソラくんも相当なショックを受けていて、最近私は、彼の声さえ聞いていない。

 午前中に、ユカちゃんの事故の裁判が行われた。ユカちゃんを轢いた人は、優しそうな見た目のオジサンだった。

 裁判官の読み上げるところによると、六十二歳であるそうだ。

 元医者で、それも生存医療の医師だったと言う。皮肉な話だ。

 裁判が進んでいく中、オジサンもフミオくんも、ただ黙っていた。

 もう判決は決まっているのだ。人を殺したら、どんな理由であろうと、一生刑務所の中。尊厳死の権利も失われる。それだけだ。この国に死刑制度はない。ずっと昔に廃止された。裁判は、ただの確認だ。

 オジサンがどうやって車を手に入れたのか、どうして運転していたのか、なぜ事故は起こったのか。それらを確認していく。

 私は、事故の前のユカちゃんの様子を尋ねられて、それに答えた。

 フミオくんは、葬儀の時よりも一回り、二回り、小さくなってしまったように見えた。

 最後に、裁判官がフミオくんに言った。

 犯人に、何か聞きたいことはありますか、と。

 フミオくんは、しばらくボーッとオジサンの顔を見た後で、ポツンと言った。

「あなたは、六十二歳まで……どうして、生きてきたんですか……? 尊厳死を選択せず、六十二歳まで……なにか、理由があるんですか……?」

 フミオくんの質問は、ユカちゃんの死に直接関係のあるものではなかった。そして、純粋な子供のような声での質問だった。

 オジサンは、その手の質問には慣れているというような、本当に柔和な顔をして、優しい声で答えた。

「生きるのに、理由が必要だと、思ったことが、なかったんです」

 その答えに、フミオくんは、はじめて表情を崩した。嫌悪のような、憎悪のような、そんな顔をして、膝の上に置かれた拳が震えていた。

 オジサンは、フミオくんから目を逸らして、

「でも、死ぬのには、理由が必要だと、思っていました……」

 と、今度は呟くように言った。

 フミオくんは、静かに、けれど強い声で言った。

「そうですか……生きるのに理由はいらないのに、死ぬのには理由が必要ですか。ユカは理由もなく死にました。あなたに殺された。理由もなく。あなたも生きてください。理由もなく。刑務所の中で、永遠に。あなたに穏やかな死は与えられない。出来れば、ユカよりもずっと長く、ずっと多く苦しんでください。それが願いです。あなたにとっては、死刑の方がよっぽど辛いんでしょうかね。死刑制度がなくなったことを、僕は悔やみます」

 オジサンは、反論などせず、ただ静かに頭を下げた。


 午後になると、今度はサツキさんの裁判に出た。

 サツキさんは、未だに意識不明のままだ。

 ユカちゃんの裁判と違って、犯人側であるサツキさんのご主人、アキラさんは出廷していなかった。精神的なバランスを崩してしまって、今は警察病院に入院しているそうだ。

 私は、警察から提出依頼を受けていた役所のAIデータを裁判所側に渡していた。

 あの日、サツキさんが役所に来た時の映像と音声の記録だ。ユカちゃんが対応をしている映像。

 裁判では、その映像の確認がされた。

 顔色の悪いサツキさんが一番乗りで人権課の受付にやって来る。隣にソラくんもいる。

 サツキさんはユカちゃんに丁寧に対応をされながらも、時折震えたり、放心したりしている。サツキさんは、早口で一生懸命に喋っている。

「旦那が暴力をふるうんです。毎日のように、見えない場所ばかり狙ってきます。言葉の暴力もあります。本当に辛くて、辛くて、でも私は旦那を愛しているんです。今、旦那は出掛けていて、今のうちにと思って来ました。でも、やっぱり私、死にたくないかもしれないです」

 ユカちゃんが水を持ってくる。サツキさんに「落ち着いて」と話しかけている。

 サツキさんは、同じような内容の話を繰り返し、繰り返し、最後には勝手に納得したようになって、受付をフラフラと出て行った。

 この映像と、サツキさんの遺書で、アキラさんの有罪は決定した。

 しばらくは病院に入院して、精神状態が安定したら、刑務所に入るそうだ。アキラさんからも尊厳死の権利は失われた。彼もまた、彼自身に与えられている本当の、運命の死期が訪れるまで、生き抜かねばならない。


 二つの裁判が終わると、私はぐったりしてしまった。

 ケイくんとソラくんはずっと傍聴席にいてくれた。

 二人と合流して、近くのレストランで食事をした。

 昼を抜いたことと、役割を終えたことで、私は空腹を覚えていた。

「サツキさんの映像がおかしかった」

 料理を注文し終わると、ソラくんが言った。

「僕が聞いてた話しと違う。サツキさんは、アキラさんが尊厳死の手続きをしに来たか、それを確認したかっただけだ。暴力なんて、絶対嘘だ」

 正義感に溢れた顔が、私を見ている。

 ケイくんも、私の顔をツッと見て、

「ハルミ、やったな?」

 と言った。

「なんのこと?」

 私はとぼけて、気持ち大きな声で「お腹すいた……」と言った。

 ソラくんは納得していない顔で、私とケイくんを交互に見る。

「ハルミさん、何をしたの」

「彼女は大学の時から、僕より頭がいい。それに、学生時代AI技術を専攻していた。ああいう映像をいじるプロフェッショナルだよ」

 ケイくんが小さな声でソラくんに言う。

「言い過ぎよ」

 私が苦笑すると、ケイくんは「謙遜謙遜」と笑う。

「足取りは消してあるね?」

 ケイくんが慎重な声で言った。

「だから、なんのことかわからないわ」

 私は答えて、レストランの窓の外を見た。今日も暑そうだ。

「裁判所で嘘をつくのは、ダメだと思う」

 ソラくんは、ムスッとした顔をした。私は、彼の心の中にある正義感が眩しい。良い子だと思う。

「これで、アキラさんは死ななくなったから、サツキさんも安心できるね」

 私は言った。ソラくんがハッとした顔をする。

「私、今回のいろんなことで、わかったの。当たり前のことだけど、やっぱり好きな人には……大事な人には、死んで欲しくないのよ」

 ソラくんは、大きな目をゆっくり瞬かせて、それ以上は何も言わなかった。

 サツキさんが自殺をした時、警察で事情聴取を受けている時。

 たぶん、ソラくんは私と同じことを考えた。

 このままアキラさんを犯罪者に出来れば、サツキさんの願いは叶えられるのではないか、と。

 ソラくんには、まだ術がない。

 私には、ある。

 私には、そういう小狡いことをするだけの知識とか、そういうものが備わっていた。それだけのことだ。

 サツキさんの想いが、少しでも浮かばれることを願うばかりだ。


 *マサミチ*

 屈強とはほど遠い体格の警察官に連れて来られたのは、小さな部屋だった。天井近くに小窓がある。窓と言っても片腕が通るくらいのサイズだから、明かり取りというところだろう。

 固そうなベッドと小さな机、木製の椅子。

 風呂やシャワーはなく、トイレだけは簡易的な仕切の中にあった。

「風呂や洗面は共用。使用時間が決まっているので守るように。ここでは医療行為は禁止されている。お前は生存医療の医者だったそうだが、他の受刑者に医療行為を施すことは禁止だ。破った場合は、それなりの罰がある」

 私を部屋に放り込みながら、警察官は言った。

「食事は一日に三回。内一回は軽食。本日午後より労働開始。開始時刻には係りが鍵を開けに来るので、従うように。毎日、朝は五時に起床。一時間の運動と一時間の清掃業務を終えてから朝食。労働に関しては、いくつか種類がある。最初は色々と試して、己の技量に合ったものを選択するように。どの職に就いても日当は千五百」

「千五百、ですか……」

 私は思わず口を出した。

 警察官は目を細めて、私を軽蔑視した。

「罪人に給与が出るだけありがたいと思いなさい。あとは己の貯蓄でどうにか暮らすことだな」

 私は、肩を落とす。そうだ、私は人殺しなのだ。

 車を買ってしまったから、残った金は少ない。一千万くらいだ。

 加えて、殺してしまった女性の恋人に、慰謝料として五百万渡した。命の対価としては少なすぎる額だが、私に出せるのはそれが精一杯だった。

 残りは五百万。食費や光熱費がかからないのが救いだが、一度でも病気や怪我をしたらアウトだ。治療が長引けば、医療費は支払えなくなる。

「殺人の場合、何かあっても医者に看てもらうことはできない。薬を買うこともできない。そういう規則だ。日当千五百あれば十分に暮らせる。安心しろ」

 警察官は、私の思考を読み取ったかのように言った。

「……薬を、買うことも……? 自分の金ででも、ですか?」

 それは、初耳だった。知らなかった。刑務所の中のシステムなんて、詳しく知るはずもない。こんなところに世話になる予定はなかったのだ。

「自分の金があっても禁止だ。殺人の場合はな。罪の重さにもよるが、軽い罪ならば、自分の金で医療を受けられる場合もある。だが、お前の罪は一番重い類のものだ。せいぜい健康に気をつけるように。他に質問は?」

 私は黙ったまま、首を横に振った。

 警察官は「よろしい」とだけ言って、部屋を出て行った。ピーという電子施錠の音が低く重く響いた。

 私は、もう「いつ死ぬつもりなんだ」と言われなくて済む。

 たった一つの自分の命を、体を、心を、誰の助けも借りず、守り抜くのがこれからの人生らしい。

 たったひとりで、自分を守って、生きていく。

 一見、当たり前のことのようで、そうではない。

 人は、いつでも知らぬ間に、誰かと支え合って生きているのだと、今、実感している。

 この部屋に案内される前、刑務所のロビーで、一緒になった男がいた。

 見た目には、まだ二十代に見えた。目鼻立ちのくっきりした、美丈夫だった。

「オジサン、なにやったの?」

 静まりかえっているロビーに、彼の声が響いた。

 近くには見張りの警察官が立っていて、声を出した彼を睨んでいた。

「……人を、間違って殺してしまったんだ」

「……なにそれ、間違って殺すとか、普通ある?」

 彼は少し笑った。

「君は?」

 私が尋ねると、彼は「盗み」と答えた。

「金がなくてさ。俺、ゲイだから結婚もできないし、子供もつくれないし。ずっと金に困ってて、マジでどうしようもなくなって、仕事もしてたけど安月給で、でも俺、バカだから、あんま良いとこで働けないし。ほんと、どうにもならなくてさ」

 私は、彼の美しい顔立ちを見つめた。さぞかしモテただろう。

 男同士の恋愛というのは、私の人生にはあまり縁がなかったが、結婚もできず、子供も無理となると、辛かったろうと思う。

「昔は、ジェンダーレスなんて言葉もあったらしいのにね……」

 私は言った。生存医療の現場で、ごく稀に、そういう患者と行き合うことがあったので、知識は持っている。生まれながらの性と自覚している性が違う人も存在する。

 同性しか愛せない人。そもそも人を愛せない人というのも存在する。

「やっぱオジサンは生きた年数が違うな。大昔の話だぜ、それ」

 彼はフフと笑った。柔らかい笑い方で、品がある。

「今の時代は、結婚できない、子供が持てないってだけで、役立たず扱いだ」

 彼の言葉に、私も意味もなく笑った。

「長生きするだけでも、役立たず扱いだよ」

 彼は「あはは」と、先ほどよりも少し大きく笑った。

 私と彼は、しばらく笑い合っていた。

 悲しく、虚しく、涙が出そうになるのを堪えながら。


 

*ハルミ*

「私、久しぶりに実家に行ってみようと思うんだけど、どう思う?」

 食事をして、家に帰り着いて一息ついた後、私は言った。

 ソラくんは、私ではなくケイくんの顔を見て、

「ハルミさんの家族って生きてるの?」

 と言った。久しぶりに彼の声を聞いた。ケイくんは、ソラくんの背中をポンと叩く。

「生きているよ。ハルミの両親は自然死を良しとしている人たちだからね。ソラは、そういう人たちに偏見がある?」

 ケイくんは、ソラくんの存在にすっかり慣れて、最近では彼のことを呼び捨てる。ソラくんも、ケイくんに懐いているように見えるので、私は少し嬉しい。私が子供を産めない分を、ソラくんが少し肩代わりしてくれているような気持ちがあった。

 そもそもケイくんは子供を望んでいないのだから、この気持ちは私の完全なる自己満足なのだけれど。

「偏見はないけど、大変そうだとは思う……」

 ソラくんは、言った。そして、今度は私の方を見て、続けた。

「大変そうで、でも、大変そうなのは、間違ってるとも思う」

 ケイくんが小さな声で「ほぉ」と言った。

 私は、キッチンでお茶をいれた。まだ外は暑いけれど、空調の効いている室内では、温かいお茶も欲しくなったりする。

 夜も少しずつ更けてきたし、何よりケイくんが「ほぉ」とか言うときには、だいたい話が長くなるのだ。

「お茶、どうぞ」

 私はソファーに腰掛ける二人の前に湯飲みを置いた。

「ハルミがご両親のところに行くのは、良いと思うよ。ずっとそうした方が良いと思ってたし。ゆっくり話してくると良い。どういう結論に至っても、話し合うのと合わないのでは、納得の度合いが違うと思うよ」

 ケイくんは言った。

「ねぇ、ハルミさんとケイさんは、どうして結婚しないの?」

 唐突に、ソラくんが尋ねた。ずっと疑問に思っていたらしい。そもそも、初対面の時は、結婚しているものと勘違いしていたそうだ。

「私が子供を産めない体質だからだよ」

 私が言うと、ケイくんは「違う」とすぐに言った。

「僕が、結婚したくないからだ。結婚したり、子供を持つことで楽をしたいと思わないからだ。僕は、もしハルミが子供を産める人だったとしても、結婚はしないと思う。妻や子供を、自分が生きやすくなるための道具にしたくない」

 ケイくんは、いつもと変わらぬ論調で言った。ソラくんが首を傾げる。

「でも結婚すれば、ハルミさんも楽になるんだよね?」

 ケイくんは、少し難しい顔をして、

「経済的な面は、結婚をしていなくても援助し合える。僕のお金をハルミにあげたって良いわけだし。そもそも、ハルミもしっかり稼いでいる」

「でも結婚したら節約になるよ?」

 ソラくんは、普通のことのように言った。私は思わず笑ってしまった。その通りだ。ケイくんは、家柄的に財政的に困窮したことがない人だから、「節約」という概念が少し抜けているところがある。

「僕は、三十五歳で死ぬ予定だから、あと六年もすれば、いなくなる。それなのに結婚するというのも、なんだか詐欺みたいだろう?」

 ケイくんは、頑張って言った。相手はまだ十五歳だ。彼が誰かの説得に手こずっている様子は新鮮だった。

「そんなの、ケイさんが三十五歳で死ななきゃいい話じゃないの? 平均寿命だって五十歳とか、そのくらいなんだから、そこまでは生きれば良いじゃん。元気なんだから」

 ソラくんは唇を尖らせている。役所に来た時の彼とは大違いだった。

 彼は、死ぬつもりで役所に来た。受付を受理せずに一度帰したのは、正解だったと心底思う。本当のソラくんは、こんなにも生き生きとしていて、こんなにも無意識に生きたがっている。

 ユカちゃんやサツキさんの件も、彼の気持ちに、大きな影響を与えただろう。

「ねぇ、僕をハルミさんとケイさんの子供にしてよ」

 ソラくんは言った。私は目を見開いた。ケイくんはもっとだ。

「養子縁組みしたらさ、本当の子供がいる人と同じだけの援助が受けられるんだよね? ハルミさんとケイさんが結婚して、僕を養子にすればいい。そうしたら、節約になる」

 そうだよね、とソラくんが私を見る。

 私は、自分の湯飲みを無意味にくるくる回しながら「そうね」と答えた。

「だから、僕は三十五で死ぬ予定だから……」

「僕だって、二十歳になれば、ひとり立ちしないといけない。あと五年だ。ケイさんは三十五歳で死ぬとしても、あと六年でしょ。僕のひとり立ちの方が先」

 ソラくんは、最近喋っていなかった分を取り戻すように、口を動かす。

 私は、そんなソラくんを見て、ケイくんに似ていると思った。

 ケイくんは、少し考え込むような顔をして、それからソラくんに向き合った。

 すごく真剣な顔をしている。

「少し、難しい話をしよう。難しいけど、僕はソラになら理解ができると思う。わからなかったら質問して」

 ケイくんが言った。私はソラくんに「長くなるよ」と耳打ちした。

 ソラくんは、ケイくんの顔をじっと見て、聞き入る体勢に入った。

 そして、ケイくんは目を閉じて、呼吸を整えた後、ゆっくりと話し始めた。


「僕は、代々政治家をしている家柄に生まれた。小さいころから、政治について、ありとあらゆる勉強をしてきたよ」

 ソラくんは、ケイくんが政治家であることをもう知っている。はじめましての時に、両者とも自己紹介をした。

「僕は常々思っているんだけど、この国の同調圧力には目を見張るものがある。同調圧力っていうのは、ひとりひとりの意志など飲み込んで、全てを平らに馴らしてしまうことだ。右を向けと言われれば右を向く、今度は左だと言われれば、左を向く。この国の人々は、長い年月をかけて、調教されてきたんだよ」

 ケイくんは言った。平らな声の中に、ほんの少しの嫌悪が含まれている気がした。

「もちろん、この国にも時折、右を向けと言われた時に、それを聞かないで左を向く人もいる。でも僕は、それはただの愚行だと思う。圧力に屈しないという姿勢は天晴れだけど、ただ人と違う行動をしたり、規則に背くだけでは、ただの悪目立ちだ。その行動にはなんの意味もない」

「だったら、どうすれば良いの」

 ソラくんが言った。疑問系にもならないような、攻めるような強い口調だ。

 ケイくんは、ソラくんに負けないくらい強い声で続けた。

「右を向けと国民に号令をかけた人間を探せ。誰が言ったのか、突き止めるんだ。そして、その人間が、なぜ国民に右を向かせたかったのかを考えて、とことん、突き詰めるんだ。真実を」

 誰が、何のために、どうしてそういう号令をかけたのか。

「歴史があるなら、紐解くべきだ。どんなにその闇が深くても、覗き続けろ。それが、生きる力になる。真実がわかれば、自分がその真実に対してどういう気持ちを持つのか、自分の本当の考えを見つけることができる」

 僕は、この国が尊厳死を一般化させたことは、間違っていないと結論付けた。歴史を遡り、様々な立場の人の話を聞き、毎日気が狂いそうなくらい、考えた末に出した答えだ。

「だから僕は、胸を張って生きていけるし、僕は僕の正義に則って、三十五歳で尊厳死を実行する。それが、考え抜いた先に見つけた僕なりの答えなんだよ」

 僕は、僕と違う考えを持つ人を否定しない。

 人それぞれ、考え方も感じ方も違うのは当たり前のことだ。

 でも、何も考えずに答えを出すのは、愚かだと思う。

 この世界の規則に同調するにしても、背くにしても、自分で出した答えが必要だ。

「ソラ、君には考える力があるかな? 生きる力がある? それとも、そんな面倒なことは考えず、ただぼんやり生きて、良い年齢になったら尊厳死を選ぶか? どういう選択をするのも、君次第だ」

 ケイくんは、まばたきもせず、ソラくんを見る。

 ソラくんは、時折、眉根を寄せながら、懸命に話を理解しようと頑張っているようだ。

「いいかい、ソラ。この世の中がオカシイと思うのなら、変えていくのは君たちだ」

 政治家のことを、みんな「今の時代を代表する人」と考えがちだ。それも間違いではない。でも、本当のところ、僕たちが考えているのは百年先のこの国の未来だ。

 今、僕たちが生きているのは、百年前の政治家が考え抜いた末に作り出した世界だ。

 百年以上前、この国は少子高齢化が深刻な問題となっていた。百歳を超えても生きている人が多く、平均寿命は九十歳以上だった。その割に子供は少なく、三人に一人は高齢者だった。その高齢者を支えなければいけない若者も当然少なくて、若い人にばかり重い税金が課せられた。

 若者だって疲弊する。結婚して子供を育てるなんていう余裕もなくなり、さらに少子化が進んだ。

 若者が困窮する一方で、ある一定層の景気の良い時代に生まれた高齢者は裕福だったりもした。格差が広まったし、その歪みによって犯罪も多くなった。自殺者もどんどん増えていった。

「そんな世界を変えるために、百年前制定されたのが、尊厳死法だ」

 結婚して子供を生めば、生活が楽になる。だったら結婚しよう、子供を持とうと思うだろう。

 医療費が信じられないほど高ければ、長生きも難しい。

 けれど、そこには尊厳死がある。苦しまずに穏やかに、ただ眠るように死ねるのであれば、長患いで苦しむよりずっと良いと考える人が少しずつ増えてきた。

 自殺者は、ほとんどゼロになった。自殺ではなく、みんな尊厳死を選ぶからだ。

 高齢者が減った分、国は若者や子供にお金をかけられるようになった。

 子供の教育格差をなくして、誰でも無償で教育が受けられるようにした。

 この国の子供の大学卒業率は、八十パーセントを超える。就職率も高い。今までは、高齢者が職場を圧迫していたけれど、今では五十歳以上で働き口を見つけるのは、ほとんど不可能だ。その代わり、若くて頭の回る人たちの働き場所は確保される。

 僕は、この世界を容認するし、百年前の政治家たちの考えに賛同する。この世界の、今のルールを「良し」と結論付けたんだ。

「……でも、この先の未来もずっとこのルールのままで進んで良いかと言われると、そうは思わない」

 ケイくんは言った。

「今の世界は、再び偏りが行き過ぎてしまっている。尊厳死が、まるで人権の全てのように勘違いされがちだ。なにも死に方だけが人権ではない。本来は、生き方にこそ人権があるべきだ。だからこそ、僕は、君にこんな話をしている。君がおかしい、間違っていると思ったのなら、「次」の百年を変えるのは、君たちだ」

 ソラくんは、口元をキュッとさせてから言った。

「ケイさんは、変えようと思わないの?」

 ケイくんはニヤリとした。

「変えようと思う。さっきも言ったけれど、このままのルールで進んで良いとは思っていないからね。でも、変革には長い時間が必要だ。国民からの反感を買わないよう、細心の注意を払って進めなくてはいけない。でも、僕の代でも、いくつか布石は打ってある」

 ケイくんは「政治家だけの、企業秘密だけどね」と付け加えた。

 ソラくんの目には、だんだんと何かの力が湧いてきているように見えた。

 希望とか、未来とか、そういう種類の力だ。

「ソラ、君がどういう結論を出すのかは、君次第だよ。無関心を貫いても良いし、何かを変えたいと強く思って、信念を持って行動しても良い。それで何かが変わるか、何も変わらないか、それはわからない。君の力次第だし、君に同調してくれる人がどれだけいるかにもよる。君の人徳や説得力、つまり頭の回転とか思考力とか、そういうものにもよる」

 努力が必要だ。

 しかし、努力は生きる力でもあるよ。

 ケイくんはソラくんの頭を優しく撫でた。

 ケイくんの真剣だった表情が、いつも家にいる時の、リラックスしたものに戻った。

「僕が今のこの世の中で最も気に入っているのは、何もかも全てを、死ぬ時期さえも、自分で選べるということだよ」

 考えて、選んで、迷って、それでも進む。

 そういう努力は、すなわち生きることそのものだ。

 そうやって生きて、良い時期に自分の意思で人生を終える。

「やっぱり僕は、ケイさんとハルミさんの子供になりたい。それで、ケイさんにいろんなことを学びたい」

 ソラくんが言った。

 私はだんだん面白くなってきた。

「私はソラくんを子供にしても良いよ」

 私はニッコリ笑った。そんな私の顔を見て、ケイくんは「ゲ」という顔をした。

「二対一か……しかもハルミがそっちに付くというなら厄介だな」

 ケイくんが言った。ソラくんは笑う。

「ハルミさんって全然強い感じしないのに、実は最強なんだね」

「最強だよ。なにせ、僕より頭が回る」

 ケイくんが言った。

 私は知らん顔で口笛を吹く。実際、大学のころは私の方が成績が良かったけれど、今はわからない。私は役所の受付しかしてこなかった。ケイくんは、その間も政治の世界で揉まれていたのだ。

「僕は小さい頃から、きちんと人生設計をしている。綿密な設計の結果、三十五歳で死ぬのが一番良いんだ。だから、ソラ、君に何かを教えているような、そんな暇はないよ。他にやることがたくさんある」

 ケイくんの言葉に負けず、ソラくんは反論する。

「僕がケイさんの予定を壊す。ケイさんは三十五歳では死なない。僕にいろんなことをキッチリと教えてから尊厳死してください」

「えー、嫌だよ。ソラとはまだ会ったばかりなのに、僕が苦心して作った人生設計を狂わされてたまるか。どれだけ長いこと考えて作り上げた設計図だと思ってるの?」

 二人の会話は、まるで兄弟のようだった。

 私は平和な気持ちで、ただ聞いている。

「ねぇ、ハルミさんはどう思う?」

 ソラくんが私の腕をチョイチョイと引いた。

「好きな人には、死んで欲しくないわね」

 私は笑って答えた。ここ最近、よく口にする言葉だ。

「ハルミ、今までそんなこと一度だって言ったことないじゃない!」

 ケイくんが驚いた声を出した。

「考えが変わったの。人間は変化のイキモノよ」

 隣でソラくんが「うんうん」と頷いている。ケイくんはやっぱり分が悪いような顔をした。

「でもさぁ、そもそもなんで今まで誰も、尊厳死はオカシイって思わなかったのかな……みんな受け入れてて、五十歳くらいで死ぬのを当たり前って思ってる。僕も学校でそういう風に習ってきた」

 ソラくんが言った。今までシャキッとさせていた背中が、少し丸まる。

「生きてると、楽に死ねるんなら、死んだ方がマシだって思うことが腐るほどあるからだよ」

 私が答えると、ソラくんはびっくりしたような顔をした。

「ハルミさんは死んだ方がマシって思ったことあるの?」

「たくさんあるよ」

 ソラくんは俯いて「まぁ、僕もあるけど」と言って、ひとり頷いていた。

 お母さんや弟が亡くなった時のことを考えているのかもしれない。

 ソラくんは、再びケイくんの方を見て、

「なんでケイさんは、三十五歳で死ぬって決めてるの……?」

 そう質問した。その答えについては、私も気になるところだ。

 私も、なぜその年齢なのか、理由は聞いたことがない。

「三十四歳になったタイミング……いや、もちろん情勢を見極めてだけれど。そのあたりで、僕は尊厳死を行う際にかかる費用を引き上げようと思っているんだ。もちろん、ここまで尊厳死法が浸透してきているから世間からのバッシングは免れない。そういう批判や批評の嵐を一年間潜り抜けた後に、僕は自分の持っている財産の半分くらいを国に献上しながら尊厳死をするシナリオだよ。国の財政難を考えて、どうか国民も協力して欲しい、尊厳死をする際の費用が上がることを許して欲しいという願いと、あの世に金は持っていけないという実証をそこでするつもりなんだ」

 ケイくんは真面目な顔で言った。それからおもむろに立ち上がると、自室からノートを一冊持ってきた。

「そういうシナリオは、全部このノートに記してある。僕の次に続く誰かに引き継ぐつもりで」

「どうしてそんなことするの? 尊厳死って、たくさんお金がかかるようになったら、金持ちしか出来なくなっちゃうじゃん」

 ソラくんは言った。

「平均寿命が下がり過ぎたからだよ。高齢者の割合は、もう少し増やしても良い。尊厳死のハードルを上げることで、国民は今よりも長生きになる。まぁ、昔みたいに老人ばっかり、みたいにしたいとは言わないけれどね」

 ケイくんは平然と言う。

「歴史は繰り返すってよく言うけれど、ある一定の部分においては、歴史は人為的に繰り返されているものなんだよ」

 ソラくんは小さな声で「うーん」と唸った。

「なんで財産の半分なの?」

 今度は私が尋ねた。私としては、尊厳死の費用を上げる案については、ケイくんの考えそうなことだなという感想だったので、あまり驚かなかった。考え抜いたようでいて、とても単純。昔からそうだ。ケイくんは純粋な子供のまま大人になったような人だと思う。

 または、考え抜いた先にある答えというのは、案外単純なものなのだ、ということか。

 ソラくんは、黙って、ケイくんの持っているノートの表紙を見ている。ケイくんの言葉の意味を、自分なりに考えているのかもしれない。

「財産の半分は残して、姉さんに渡すつもりなんだけど。そこまで姉さんが生きていたらの話しで、生きていなかったら、ハルミに渡すつもりだよ」

 ケイくんは言った。私は、フッと鼻で笑ってしまって、でもすぐさま軽く咳払いをして誤魔化した。

「ケイさん、お姉さんいるの?」

 ソラくんが言った。

「お姉さんも政治家の人?」

「いや、ギャンブル中毒の人だよ」

 ケイくんは、嬉しそうな顔をして言った。

「ケイくんはシスコンなのよ」

 私が言うと、ソラくんは私に対して、ものすごく嫌な顔をした。

「シスコンってお姉さんのことが好きってことでしょ? 兄弟のことが大好きなのって、そんなにオカシイこと?」

 私は、すぐさま反省した。そんなつもりで言ったわけではなかったのだけれど、相手にとって不快だったのならば、それが全てだ。

「おかしくないです。ごめんなさい、言い方が悪かったです」

 私が言うと、ケイくんがカラカラ笑った。

「ハルミが謝ってる」

「私だって謝るよ」

「ハルミは、そもそも間違わないから、謝っているところが新鮮なんだよ」

 ケイくんは、褒めているのか、バカにしているのかわからない感じのニュアンスで言った。そして、ソラくんに向き直る。

「僕の姉さん好きはね、ちょっと病的なんだ。ハルミがシスコンって言うのも、間違ってないなぁって自分で思う」

 僕は彼女が好きだ、ケイくんはうっとりと言う。

「僕の姉さんは、中学生のころから親にも秘密で賭事をしていて、今では立派なギャンブル中毒。いつでも有り金を全部賭けてる。それで、所持金がゼロになったら、自己破産申請をして、国のお金で尊厳死するんだって。そう宣言して、もう何年経つだろうな。彼女はまだ生きてる。親にも僕にも、一度も借金をしたことがない。もちろん、自分で働いたこともない。運が強いんだろうね。姉さんは今年で三十二歳だ。僕は姉さんが好きだけど、姉さんは僕みたいなタイプは嫌いらしくて。三年に一度くらいしか会ってくれないんだ。でもね、会う度に思う。彼女はね、全力で「生きる」ことを謳歌している。そういうところが、たまらなく好きで、憧れるんだ。僕はそういうタイプの人間にはなれない。姉弟なのに、おかしいよね。ちゃんと同じ父母から生まれてるのに。姉さんは僕と最も遠いところにいる人だからこそ、憧れてやまないんだ」

 ソラくんは、ケイくんが熱く語るのを「わかるよ」と言って聞いた。

「僕もウミのことが大好きだった。だから、ウミが死ななきゃいけなかった今の世の中をオカシイと思う。ウミは良い子だった。死ななきゃならない理由なんてなかった。そういう子が死んでいるんだから、世の中の方がオカシイんだ」

 ソラくんは、ケイくんの腕を握った。

 ソラくんはまだ十五歳で、まだ子供で、でもケイくんの腕を掴んだ手は、大きかった。

 ケイくんに、負けないくらい大きい。私はそれにびっくりした。

「ケイさんに、教わりたい。そのノートに書いてあること、僕が引き継ぐことって、できないの? ケイさんには子供がいない。全然知らない人に引き継ぐより、僕が養子になって引き継げば良い」

 ケイくんは、ソラくんを値踏みするような目で見た。あまりにも不躾な視線に少しハラハラしたけれど、ソラくんは怯まなかった。

「本気で言ってる? それって、将来は政治家になるってことかな?」

 ケイくんは言った。

「オカシイ部分を変えるのに、政治家になった方が良いなら、僕はそうする」

 凛とした声が響く。私には、ケイくんの目が、久しぶりに楽しげに光ったように見えた。これはひょっとすると、ひょっとするのかもしれない。

 ソラくんの存在は、ケイくんを生かしてしまうのかもしれない。

 三十五歳で死ぬと決めていたケイくんを、もっとずっと長く、生かすのかもしれない。

 自分の存在に意味や価値があるということは、その人に、本当の生きる力を与えるのかもしれない。

 ケイくんは、ソラくんに政治世界のアレコレを教えるという理由や、そのことによって未来が変わるかもしれないという価値によって、生きる意味や力を得るのかもしれない。

 それは、ケイくんにとっては嫌なことかもしれないけれど、私は嬉しい。ケイくんも、ソラくんも、元気に長生きしてくれた方が嬉しい。

(私の、両親も……)

 私は、両親のことも、ケイくんのことも好きだ。ソラくんのことも、好きになった。みんなに、長く、楽しく、元気で生きていてほしい。

 私には、両親のような自然派と呼ばれる人たちのような生き方はできない。自給自足みたいな生活ができるほど、タフではない。

 やっぱり、重い病気にかかったりしたら、闘病よりも尊厳死を選んでしまう気がする。でも、そうでない限り、生き抜きたいとも思う。辛いことも、多いけれど、それでも。

 生きていれば、こういう、予測できないような人間同士の化学反応が起きたりする。

 私だけでは、ケイくんの寿命を引き延ばせなかった。私はケイくんと長く付き合っているけれど、そういう力は持っていなかった。

 ソラくんは、お父さんやお母さんが亡くなっていなかったら、弟のウミくんが亡くなっていなかったら、政治家になんて興味を示さなかったかもしれない。

 この世界のオカシさにも気付かずに、もしかしたら、平均寿命よりも若くして尊厳死を選んでいた可能性だってある。

 人生は、予測できない未来ばかりで出来ている。

 恐ろしいことだとも思う。

 けれど、そこにはちゃんと希望もある。

 希望のカケラは見えにくいし、反対に、不安の方は見えやすいから、信じることは難しいけれど。

 人生は、そんな単純なものでもないらしい。

 人生、という言葉を噛みしめる。

 人が、生きると書いて、人生だ。

 どこにも「死」の文字は入っていない。

 死に方なんて、人生の中には含まれない。

 怖い。恐ろしい。死ぬことは、計り知れない。

 でも、私たちは今まだ生きている。

 人生の、途中にいる。

 まだ死なない。まだ、今日も人生を歩いている。

 ユカちゃんのように、突然道を塞がれることが、私にもあるかもしれない。

 何かのきっかけで、サツキさんのように、私も自らの命を、何かと引き替えに差し出すことも、ないとは言えない。

 全部わからない。

 わからないまま、生きていく。

 私たち、全員、生きている限り、全員だ。

 私は、ケイくんとソラくんのやり取りを、愛おしく見守った。

 誰もが、死ぬことと同じだけ、生きる権利を持っている。

 穏やかに、生きることを、望む権利を。


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