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暇な時はシェーナと一緒に食事を取るカナスだったが、今日は部屋に引きこもって食べた。砂を噛むような何の味もしない食事だった。
「カナスさま、ひどいです。顔を見せるな、なんて」
「シェーナさまが何をなさったと言うのですか!」
中庭でただ外を見ていたカナスのところに、相変わらず遠慮のない双子が勢いのまま、怒鳴り込んできた。
「・・・別に・・・」
カナスは立てた膝に置いた腕で頬杖をついたまま、振り返りもせずにぼそりと答える。
その生気のない様子に、かしましい姉妹侍女は言葉を失ったようだ。
「カナスさま?」
「どうなさったのですか?お体の具合でも悪いのですか?」
おずおずと尋ねてくる姉妹に、何故だか笑いたいような気分になった。
「どこも悪くねえよ。いっそどっか悪いほうがマシかもな」
「「カナスさま・・・?」」
「お前らの相手する気分じゃねえんだ。下がれ」
こんな横柄な言い方をすればいつもはぶうぶう文句を連ねるジュシェとニーシェも、カナスの落ちた気分を察しているせいか、黙っていた。だが、下がれと言ったのに、姿を消す様子はない。
「ご気分が優れないのでしたら、シェーナさまに歌っていただいては?」
「シェーナさまはとても心配なさっておいでですよ」
それでもカナスが何も言わないでいると、やがてためらいがちにそんなことを言い出した。
カナスはため息をついて、ようやく振り返る。
「必要ない。シェーナにも放っておけと伝えろ」
「でも、カナスさま。シェーナさまはとても・・・」
「いいっつってんだろ」
食い下がるニーシェにすぐに苛立ち、カナスはにらみを効かせた。
ぎくりと彼女の顔色が悪くなったのを知る。ジュシェがなだめるように、ニーシェの手を握り締めていた。
ぷい、とカナスはまた双子と反対の方向へ顔を向けた。
「あいつには、今は会いたくない」
苦しい本音をこぼすと、絶句する気配が背後から伝わってきた。
「そんな・・・どうし・・・」
「二人とも、そこまでにしておきなさい」
シェーナのために食い下がろうとした双子を止めたのは、後からやって来たラビネだった。
「「でも、ラビネさま」」
「主様に、放っておけといわれたのなら、放っておいて差し上げなくては。さあ、行きますよ。カナス様、失礼いたしました」
双子は不満そうなまま、ラビネに連れ出された。
ラビネはたぶん、気が付いているのだろう。もうすぐ、母の命日だということくらい。
彼は、いつもこの時期になるとうなされ、落ち込むカナスを知っているのだ。
ただ、何故シェーナを側に寄せないのかはわかっていないかもしれない。
むしろ、シェーナがいるからこそ、今年は大丈夫だと思っていたかもしれない。
(でも、駄目だ・・・)
かえってシェーナが恐ろしい。
繰り返し、繰り返し見る夢が誘いかけてくる。
何を我慢するのだ、と。誰にも見せずに、誰のためにも歌わせずに、ただ囲ってしまえばいいと。風評も他の視線も何もかもから守る代わりに、檻の中に閉じ込めて、その中での幸せだけ与えていればいいと・・・。
そんなことを思う自分が嫌で嫌で仕方がなかった。
大嫌いで憎み続けた父と同じ欲望を持つことが嫌だった。
父と同じなのだと、思い知らされるのが嫌だった。
それでもどうしても抑えられない、醜い本心。
他の誰にも笑いかけないでほしい、優しさをかけないでいてほしい、救わないでほしい。
自分ダケヲ見テイテホシイ・・・。
「・・・っなんなんだよ、俺は!」
浅ましい自分に嫌悪感が走り、カナスは石積の壁を手の腹で何度も殴った。
そこが紫に腫れ、鈍い痛みを伝えるようになるまで。
カナスは痛む手を見下ろし、深い深いため息をついた。
こんな歪んだ渇望をする理由は分かっている。
好きになってもらいたかった母に憎まれ、信じていた父には裏切られ、心の支えだった姉と兄を簡単に奪われた。カナスはいつも追いすがり、置いていかれる側だった。
だから、初めて得た救いを、安らぎを、手放したくなくて、奪われたくなくて、みっともなくあがき、葛藤している。
相手の気持ちすら犠牲にしかねない傲慢さを自覚し、ほんの簡単なことなのに、と思う欲望を必死で留めているのだ。
「こんなことになるなら・・・あいつを助けなければよかった、か・・・?」
こんなに苦しいのなら。こんなに思い通りにならないのなら。
こんなに大切になると、分かっていたなら―――・・・。
カナスはぐしゃりと両手で額を抱えた。
苦しい、苦しい、苦しい。
もういっそ、シェーナを手放してしまいたい。シェーナを視界に写らなくしてしまいたい。
愚かなことをしでかしてしまう前に。嫌われてしまう前に。
失いたくないのに。手放したくないのに、どうしてそんなことを考えなければならないのだろう。
「気持ち悪ぃ・・・」
二つの正反対の感情に痛んだ胃が、吐き気を伝えてきた。
◇◇
それからも何日かシェーナを避けるような日々が続き、ぽつりぽつりとやるべき仕事が戻ってきた頃、やはり時折ぼぅっとしているカナスをいい加減見かねたのか、ラビネがため息と共に初めて尋ねてきた。
「何をいつまでもお悩みになられているのですか?」
「・・・あ?」
「こうも毎日、辛気臭い顔を見せられていては、うっとおしくてたまりません。いい加減、解決をしていただかなくては。ぐずぐずと腐っているのはあなたらしくありませんよ」
カナスにここまではっきり言うのは、ラビネだけである。
その小気味いいほどの辛辣な言いぶりに、かえって笑えてしまった。
「ああ・・・、俺でもグィンに同じことをやられたら、うっとおしいと二、三発は殴ってるだろうな」
「お分かりいただいているならば幸いです。それで、何故いつまでもその状態が続くのですか?ここまで黙って見守っていたのですから、いい加減、お話しいただいてもバチは当たらないと思いますが?」
ただ、それになんと答えるべきかを悩み、カナスはふぅ、とため息だけを返した。
「ご無礼を承知で言わせていただきたい。私は、あなたがシェーナ様を得たことでこの時期を今度こそ乗り越えられるとそう思っておりました。しかし、あなたの気鬱はいつも以上とお見受けします。何故ですか?あなたはもう十分苦しんだではないですか。何もあなたのせいではなかった。あなたはただ、翻弄されただけだった。それなのに、いつまでお母上の呪縛に苦しむのですか?」
「・・・・・・」
「それだけではない。ようやく、ようやくです。ラバース殿下やイリィ殿下の無念を晴らすことができた。この国を変えることができた。あなたはもっと、胸を張っていいはずでしょう。なのに、どうして・・・いつまで苦しみ続ける気なのですか?私は、見ていてもどかしい。あなたには何一つ、恥じることはないはずだ」
「・・・・恥じることはない、か」
ラビネの悔しさすらにじむ強い口調に、カナスは手元へ向けていた視線をようやく上げた。
澄んだ青の瞳は、どこか脆さを漂わせている。
「俺は、後悔はしていないつもりだ。たとえ、親殺しと罵られようとも。これが最善だったと信じているからな」
「民衆は誰も、あなたを責めたりしませんよ。むしろ、あなたが王であることに、期待と希望を抱いている」
「・・・・どうだかな」
「カナス様?」
自身に言い聞かせるような言葉を、補強したラビネに向かって、カナスはどこか投げやりな笑みを唇に浮かべた。
「今はよくても、いつか俺が親父と同じになると・・・心の底では思っているだろうな。俺は、親父と同じだから。親父もかつては慕われた王だった」
「あなたは、あの方とは違います!」
「同じだ。似てるんだ、基本的に。俺はあいつに。生き方も、考え方もきっと、何もかもが」
「カナス様!一体どうなさったのですか?あなたらしくない」
「じゃあ聞くが、俺らしいってなんだよ?」
必死に怒りを押さえたような声で尋ねるラビネを、カナスは暗い瞳でにらみつけた。
「俺は、あいつが大嫌いだった。憎かった。だから、あいつのなすこと全てが気に入らなかった。正反対のことばかりを望んだ。ただそれだけだ」
「あの方に迎合しない。それがあなたの考え方でしょう。あの方に屈しない、その意志だけとっても、あなたらしさはありますよ。自分の道をいく強さ、というものがね」
「自分の道を行く?それはまさに、あの男と同じだろう。あの暴虐不尽な男の真骨頂じゃねえか」
「揚げ足を取らないでいただきたい。あなたとあの方では考え方がまるで違うではないですか」
「違わねえよ。・・・あいつがいなくなって、初めて・・・俺は、あいつと同じ気質だと気が付いた。あいつがあんなことをした意味を理解した。目の前からあいつがいなくなって、シェーナがいて、あいつと同じことを考えてしまいそうになる自分に気が付いたんだ!」
湧き上がってきた苛立ち、怯え・・・そういった感情に流されて、カナスはばさりと机の上の書類を床に叩き落した。
やってしまってから激昂した自分をさらに嫌悪し、どさりと椅子に深く背を預ける。
こんな感情にまかせた行動は大嫌いだった。
父と同じ、愚かな行動。それなのに、どうして繰り返してしまうのか。
「・・・・呆れただろう?」
そっぽを向いたまま呟いたカナスの声は、泣きそうにも聞こえた。
彼は上方へ向けた瞳の上に腕を置いて、深い深いため息をついた。
「シェーナが他の奴と話しているだけで許せなくなる。あいつがどこかに行くんじゃないかと思う。馬鹿馬鹿しいと分かっているのに、どこにも出したくなくなる。あいつは外が好きなのは分かっている。やっと自由になれたのだから、好奇心が旺盛なことも知っている。だが、あいつが様々なことを知れば知るだけ、俺から離れていくような気がして・・・、俺の知らないところで、あいつが笑って、誰かに触れていると思うだけで、気がおかしくなりそうになる。シェーナを誰にも見せないように、囲ってしまえればどんなに楽かと、そうしてしまえばいいと、そんな最低な思いがどんどん強くなって。考えれば考えるだけ、そのエゴイストっぷりが、あの男にそっくりだと思い知らされて」
怖くて、シェーナに触れられなくなった。
双子に背中を押されでもしたのか、体にぶつかりかけたシェーナを腕で引き離してしまうくらいに、「触るな」とつい言ってしまうくらいに、怖くなったのだ。
「母の言うとおりだな。俺は、あの親父そっくりなんだ。認められるためにだったら、他国の民を傷つけることになんのためらいも持たなかった。子供だったら怖くなるのが普通だろうにな・・・俺の本質は、結局あの男をそっくりそのまま引き継いでいるんだろうよ。自分勝手で他人を尊重できない・・・」
「全く、呆れましたね」
こぼれ続けるカナスの自嘲に、ラビネがやれやれといった声で割り込んだ。
けれど続いたのは、侮蔑のものではなく、子供にでも言い聞かせるような口調だった。
「いいお年をして、そんな情けないことをおっしゃらないでください。これだから、初恋というのは厄介きわまりない」
「・・・初恋って何だ、おい」
まったく仕方がないですね、と呟くラビネに、カナスはむっとして視線を向ける。
その先でラビネは、微笑ましそうに笑っていた。
「まあ、あなたは今まで誰にも真剣になったことがないですから、ある意味仕方のないことかもしれませんね。自分だけを見ていてほしいとか、他にとられたくないとか、それくらいのことは誰でも思いますよ。相手が大切であれば、あるだけね。そんなにも思いつめるほどのことではありません」
「・・・だが、普通、外に出したくないとまでは思わないだろ」
「極端な思考でないとは言いきれませんが、程度問題でしょう。しかし、あなたはそれをしたくないと思ってらっしゃる。それをためらいもせず実行に移すのが、あなたのお父上だったでしょう。まったく違いますよ、お二人は」
そんなことくらいで、全部をこじつけないでください。
ラビネの声は落ち着き、ゆるぎなくて、カナスは反論の機会を見つけられなかった。
「お母上のことがあり、ナーバスになられていたのでしょう。あの方は、あなたを父君と重ねていらした。だから、見えなかっただけです。あなたはいつも、人を思い遣られていた方でしたよ。私が見ている限りでは、ずっとそうでした。前王とは、まったく違う人でした。だから、私はあなたに仕えると誓ったのです」
ラビネの瞳もまた、いくら見つめていても、「あの目」に変わることはなかった。
「もう、いい加減乗り越えられてください。あなたは、父君と母君をとっくに越えておられる。時折、わがままですが、ずっとできた人格者だと思って仕えさせていただいています。その主が、いつまでもこのように情けないことでは、主を選んだ私が恥ずかしくなります」
はぁ・・・とわざとらしいため息をつかれたカナスは、しばらく押し黙り、それからじろりと、ラビネをにらみつけた。
「それは何だ。俺がいつまでも親離れできていないガキだと言いたいわけか・・・」
「ついでに、本気のお相手には駆け引きがまったくできない初心なお方、という評価もお付けいたしましょう」
にっこり笑って毒を吐くラビネに、カナスは眉を寄せる。
しかし、やがてくっくっと笑い出した。
「・・・馬鹿馬鹿しい。何をやっているんだか、俺は」
「ご自身でご理解いただける我が主には心から敬服いたします」
ラビネはわざとらしいほど、恭しく頭を下げた。
馬鹿にされたのだとカナスが文句を言う前に、しかし、急に真面目な顔でラビネは「申し訳ありません」と言い出したのだ。
「なんだ、気味が悪い」
「本当は、こんな風にあなたを笑う資格はないのだと分かっています。私たちがあなたをそんな風にしたのに」
「ラビネ?」
「まだ少年のあどけなさが残っていたあなたに全てを背負わせて、早くから理性だけを優先させる大人にならざるを得ないようにしたのは周りにいた私たちです。だから、私は嬉しかったのです。あなたが本当はもっと幼い頃に経験するはずの当たり前の感情をやっと手に入れることができたのだと」
まさかここまで思い悩むとは思っていなかったのでしばらく放っておいたのだとまで言われた。
そんなことを思っていたのかとカナスは驚く。
思っていたよりもずっとラビネはカナス自身を案じてくれていたのだと。この国のため、あの父への復讐のため、と利害が一致していたから、この冷静で有能な男がこの血に賭けてずっと付き従ってくれていたのだと思っていた。もちろん、彼がカナスを厭っていると思ったことは一度もなかったけれど。
「本当に国のためだけならシェーナ様を選ばせませんよ」
黙ったまま驚いた顔をしていたカナスに、ラビネが苦笑した。
(ああ。そうか)
ふと胸からストンとわだかまりが落ちた。
ずっとずっと、苦しかった。
周りに支えられてると頭では分かっていた。
だから苦しいと認めたくなかった。
でも、どこかでずっと血縁にこだわっていたのだ。
だからいつもこの時期に気鬱になっていた。誰も彼もがいつかあの目になるという思いから逃れられなかった。
そんなものよりもずっと強い結びつきをとうに手にいれていたのに。
もう、いらなかったのだ。こんなこだわりなど、自分には。
カナスはある決意をした。
「ラビネ、まだもう少しは余裕があったよな?」
「え?ええ。それが、どうか?」
「リーヤンに行く」
「・・・カナス様、それは・・・」
突然の宣言にラビネが驚いたそのときだった。




