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「カナス様?どうなされました?」


地面がぐらついたような感覚をもてあまして柱に手をついたカナスに、後からやってきたザーラが声をかけた。

その声に、シェーナたちがぴくりと反応する。


「陛下?!」


年若い彼らはカナスの姿を見つけた瞬間、慌てて膝を折った。本物だ・・・と、そんな小言がカナスの耳に届く。感嘆を込めてカナスをちらちらと見つめる彼らの瞳を知りつつも、カナスにはそれが次第に大嫌いな「あの目」になるように感じていた。

何故今日は、こうも煩わされるのだろう。

被害妄想なのは分かっている。だが、どうしても離れなかった。


「・・・・っ・・・」


―――お前もあの野蛮な父親と同じ目をしているわ。汚らわしい。近寄らないで。人殺し。


何故、今になって死に床の母の言葉が思い出されるのか。


―――お前など、欠片も愛していなかった。あの憎い男の子など、愛せるものですか。せめて私の血を王座につかせることが、私の復讐だったわ。国母になって復讐してやるの。私をこんな目に合わせたこの国に。お前はその道具よ。ただの道具よ・・・息子なんかじゃない。お前など、汚らわしい。誰が愛するものですか。嫌いよ、大嫌い。憎らしくてたまらない。オマエハアノ男ニソックリ


信じていた母の仕打ちに、カナスは傷ついた。

母は父を愛しているのだと信じていた。だから父のようになりたかった。父に認められれば、母も喜ぶと思った。ただ、それだけだった。

でも、全部間違いだったのだ。

あの、血のにじむような努力も、決して好きではなかった戦場も、何もかも無意味だった。

残ったのは後悔と、人の命を奪っていたことへの恐怖と・・・そして、父からの冷遇と周囲の「あの目」。

強さを身につければそれだけ、多くなっていった「あの目」。

お前もいつかあの父のようになるだろう、と、その力を誇示するのだろう、と侮蔑と恐怖と、哀れみを含んだその目にいつもつきまとわれている気がする。


欲しいものは何でも手に入れたがった父。どんな手段も厭わず、実の娘さえ手に入れ、最後にはボロ雑巾のように捨てた父。ああなりたくない。絶対になりたくない。自分は違うのだ。父の血を引いていても、絶対に違うのだ。

デモ本当ニソウナノカ・・・?


ぞっと悪寒が全身に走った気がした。


「カナス様っ?大丈夫ですか?」


鈴を鳴らしたような、涼やかな声が眉を寄せるカナスの下の方から聞こえる。

視線を下げれば、シェーナが下から必死に覗き込んできていた。


「お顔の色が優れないです。お部屋に戻って休みましょう」


泣きそうに瞳を揺らめかせるシェーナは、そっとカナスの袖をひっぱろうとした。

その瞬間、カナスは小さな白い手を振り払っていた。


「触るな。一人で戻れる」


怖かったのだ。シェーナに触れることが。

触れたら最後、また、誰にも見せたくなくなる。

自分のためにだけ歌い、笑い、話しかければいいとさえ思う。

それが怖い。父と同じ轍を踏むことが怖い。

だからこんなにも「あの目」が気になるのだ、きっと。同じ過ちを繰り返そうとしているからこそ。


「お前はそいつらと馴れ合ってればいいだろう。俺にかまうな」


その恐怖に駆られたカナスから出てきたのは、ひどく突き放した言葉だった。

目の前でシェーナの黒い瞳が見開かれ、傷ついた色を浮かべる。

それにまた、頭痛がひどくなった気がした。

カナスはぷいと、視線をあさっての方向へ向けた。これ以上シェーナを見ていたくない。


「カ、カナス様?」


ザーラが面食らったように、カナスとシェーナを交互に見つめる。


「あ・・・の・・・私・・・何か、お気に召さないこと、を・・・」

「召すも召さないも、お前の好きなようにしろと言ってるんだ」


怯えたシェーナの声に、返すのは苛立ちだった。シェーナがますます怯えた気配が伝わってくる。それがまたカナスの苛立ちを加速させた。

すぐ怯える。カナスには、いつも遠慮がちで、どこかびくびくしているシェーナ。新兵たちには屈託なく笑ったシェーナ。それを許せない自分。

どれもこれもが、嫌でたまらなかった。


「部屋に戻る。ついてくるな」

「カナス様?!歌姫様、それでは私めはこれで」


さっさと踵を返したカナスの後を追って、ザーラがついてくる。


「カナス様、いかがなされました?彼らが何かお気に召さないことでも・・・」

「気に入らないことなんか、何もかもだ・・・っくそ・・・」

「カナス様?」


小声での呟きを聞き取れなかったのだろう。ザーラはますます困惑した声音でカナスの名を呼んだ。カナスはそんな年上の彼をにらみつけそうになって、すんでのところでできる限り平静な視線を返す。


「下がれ、ザーラ。・・・今日は、押しかけて悪かった」

「いえ・・・そのようなお言葉、滅相もございません。こちらこそご気分を害させてしまったようで、申し訳ございませんでした」

「お前が謝ることは何一つない。じゃあな」


そっけない挨拶ではあったが、これが今のカナスの精一杯だった。

苦いわだかまりを抱え、カナスは、しばらく近づきたくないと思っていた執務室の方に向かった。



書類の整理をしていた文官たちにぎょっとされながら、カナス自らやる必要さえない仕事の書類をかたっぱしから机に積み上げる。

仕事でもしていなければ、とても耐えられる気分の悪さではなかった。


「うわ・・・っ、何ですか、これは!?」


読み漁り、決裁した書類が床に散乱する状況に、文官たちの報告を受けてやってきたグィンが驚きの声をあげたときも、カナスは視線ひとつ動かさなかった。


「これ・・・期限前じゃないですか。こっちも、まだちゃんとした結果が出てないって・・・、あ。ギッシャ州長のご婚礼に勝手に返事を書かないでくださいよ!代理をまだ決めていないのですから。・・・カナス様、どうなさったんですか?」

「うるさい。邪魔だ」

「邪魔って・・・、とにかく、おやめください。雑務処理は文官に任せてくださいよ。何なんですか、いつも休みたい休みたいって文句を言うくせに・・・」


実際に休みがあればこれだ、とグィンが書類を拾いながらぶつぶつ文句を言う。

それを聞いたカナスに、いつもの余裕はなかった。


「うるせえっつったのが聞こえなかったか、グィン」


その低い声に尋常のなさを感じ取ったのだろう。グィンはすぐに押し黙った。

黙ってじっと視線だけを向けてくる乳兄弟に、やがて、煮え立っていたカナスにもようやく冷静な思考が戻ってきた。彼はぱたりと握っていた羽ペンを置いた。


「・・・・・・そうだな、こんなことをしても、無意味だな」


それを聞いて、ほっとグィンが息を吐く。


「カナス様、どうなされたのですか?」


だが、カナスはその問いに答えなかった。ただ無言でグィンを見る。

不思議そうに首をかしげるグィンの目を直接見つめていても、彼は困惑するばかりで、いつまでたっても「あの目」に見えることはなかった。

そのことに少しだけ気が治まる。少しだけ・・・安心した。居場所がまだ、ある気がして。


「あの~、カナス様?本当にどうしたんですか?」

「別に。喉が渇いた。部屋に何か持ってこさせろ。あと、ここを片付けておけ」

「は・・・はあ・・・」


さっぱり理解できないとばかりに目を白黒させているグィンを置いて、カナスは王宮の裏の自室に戻った。

廊下の衛兵にワゴンを受け取る以外、誰も取り次ぐなと告げ、彼は広いベッドに横になる。

さきほど読み散らかした本を床に投げ捨てる乱暴な仕草に、まだ苛立ちが見え隠れしていた。


(ガキか・・・俺は)


気に入らないからといってシェーナに八つ当たりをした。何一つ、彼女は悪いことなどしていないのに、怯えさせた。

泣きそうな黒い瞳が脳裏から離れない。


「・・・・くそ・・・!」


カナスは天井を仰いでいる瞳を組んだ指で覆った。

苛立ちとわけのわからない感情が膨れ上がり、頭が痛いと感じながら。


◇◇


“かあさま、かあさま。みてみて。野うさぎをつかまえたんだ。僕一人でだよ。弓が上手だってほめられたんだ”

“そう。陛下の才能を継いだのね。その調子でラバース王子に負けないように頑張りなさい。いい?ラバース王子よりもあなたが王太子にふさわしいということを陛下に見せるのですよ。お前のほうがふさわしいんだから、私の血を引いているお前のほうがあの薄弱な王子よりもずっと王にふさわしいのよ。いい?わかったわね?”

“・・・でも僕、一度も兄上とお話したことがないから、兄上がどんな人か知らないよ?”

“口を聞く必要はないわ。あちらもお前を嫌っているのよ。お前が優秀だから、いつその座を追われるかと、いつも不安に思っているの。ずるがしこくて、卑怯な臆病者よ”

“そうなの?優しそうにみえるけど・・・”


ぱん、と母の平手が飛んだ。そして鬼のような形相で言い募る。


“口答えをするんじゃないわ。いいから、お前は私の言うことを聞いていなさい。私に任せていれば、必ずお前はこの国の王になれるのだから。さあ、さっさと勉強をしなさい”

“はい。・・・あ、かあさま。これ、見つけたんだ。綺麗なお花でしょう、かあさまにあげようと思って”

“そう。ありがとう。さあ、早くお行き”


差し出した白い花を、母は侍女に受け取らせた。感情的に手をあげるとき以外、彼女は決してカナスに触れようとしなかった。

そのすぐあとに、あげたはずの花を見つけたのは、ゴミ箱の中だった。


そんな仕打ちの理由を知るのは10年近くも経った後のこと。


“ねえ、お願いだから、お兄様に会って。一度でいいから、話し合いを持って。ラバース兄様は、正しいことをおっしゃっているわ。この国に必要なのは戦争などではないのよ。カナス、お願いよ。あなたは頭がいいもの、きっと何が本当のことか、すぐに分かるわ。お母上様の呪縛からいい加減自由になって。目を覚まして。お兄様に会って、話を聞いて差し上げて。お願いよ、あの方とこれ以上対立しないで”

必死に兄との融和を望む姉に、カナスは暗い目を向けた。

“・・・イリィ姉上は、兄上側なんだな”

“違うわ。私は、あなたたち兄弟はいがみ合うべきじゃないと言っているのよ”

“同じことだ。俺に、兄上の下につけ、と。あの臆病者の下に甘んじろと”

“違うわ、協力し合うべきだと言っているのよ。カナス、聞いて。・・・お父様・・・陛下はあなたが信じているような人では・・・”

“うるさい!そんなくだらないことを言いに来たのなら帰ってくれ!”

“カナス・・・”


優しい姉が大好きだった。けれど、このときばかりは、嫌いになった。

何て愚かだったのだろう、姉のやせ細った顔を見ていたのに。あんなに必死だったのに。泣いていたのに。


“母上!しっかりなさってください!”


病床の母がいよいよ危ないと聞かされ、駆け込んだ先で、花瓶を投げつけられた。


“来ないで、汚らわしい!お前たち父子がすべて壊したの・・・あの方との幸せな未来を、全部、全部、全部!呪われればいいわ!お前も、あの父と同じように呪われればいい!”

“はは、うえ・・・?”

“幼少から生き物を殺すことにためらいもみせない子・・・、あの男と同じね。人を殺すことにすらなんの疑問も持たない。私の大切な人を虫けらのように殺した・・・自分が欲しいもののために、邪魔なものは力ずくで排除するお前の父親。お前はあの男にそっくり。喜び勇んで戦場で殺戮を繰り返す野蛮人の血”

“な・・・に・・・言って・・・、俺は・・・母上が・・・母上が、父上に認められるようになれと、そう言うから、だから俺は・・・っ!”

“人殺し”


どろりとにごった青い瞳を向けられた瞬間、呼吸ができなかった。

般若のような表情のまま、母は苦しみ、息を引き取った。

それから知った父の所業の数々。狂う寸前の自分を助けてほしくて、兄を頼った。一方的に疎んでいた兄を、都合よく。


“君と話せてよかったよ”


けれど、そうやって笑ってくれた兄に、すぐに心酔した。

彼は、カナスの肩にぽん、と温かな手で触れてくれた。戦場に出ていたカナスよりも、線が細く、でも芯がとても強い人。


“兄上・・・”


だが、表情を緩ませたその瞬間、背後がオレンジ色に染まった。

あの頃、同じ目線にあったはずの兄の顔が、10センチほど下にあった。

カナスの姿はいつの間にか、今の、あの頃の兄と同じ年の姿にまで成長していた。


“後は、頼んだよ。君なら任せられる”


儚い笑みとは裏腹に、肩をつかむ指に強い力が込められていた。


“待ってください、兄上!”

“信じているよ、カナス”

“兄上!”


すっと離れかけた手を、カナスは追った。腕をつかむと、肩のあたりで一まとめにされていた茶色の髪をさらりと散らし、兄が振り返る。足を止めたくれた兄の姿にほっとカナスは息を吐いた。


“俺はまだ、あなたと話したいことが・・・”

“弱音を吐くなんて、君らしくないね”


え、とカナスは驚いた。こんな言葉、話した記憶にも、受け取った手紙にもなかったはずだ。

アイスグレーの瞳が、覗き込むほどの近さで、光をはじいた。


“私は、君を信じて後を託したことを後悔していないよ。でも、何故、私ではなかったのだろうね?”

“兄上・・・?”

“君は何も知らなかった。知ろうとしなかった。無意味に人の命を奪ってきた。それなのに、どうして君が生きていて、私が死ななければならなかった?君は間違っていた。間違い続けてきた。それなのに、どうして?”


あにうえ、と声が喉に詰まった。


“君は、父によく似ている。圧倒的なまでの剣の技術、戦術の才能、カリスマ性、本当は激情に溺れやすいところも、すべて。君は、あの父にそっくりだ”

“・・・・っ”

“どうしてだろう。父を排して立ったのは父とよく似た君なのは・・・。でも、それが天命というものなのかもしれないね。しかし、気をつけたまえよ。君は父と同じなのだから。そう、罪でさえもね”

“兄・・・?”


ふっと兄の姿が掻き消えた。代わりに、左腕にぬるりと生温かい濡れた感触がまとわりついたのを感じた。

そちらへ視線を向け、カナスは顔を引きつらせる。

それ(・・)は一気に、カナスの目の前まで寄ってきた。カナスの瞳の中でにたりと笑ったのは、血まみれの父だった。忘れたくても忘れられない、死に際の顔。


“お前も余と同じところまで堕ちてくればよい”

“は・・・離せ!”

“余の血を引く、ただ一人の息子よ。お前は余に認められたかったのだろう、余のようになりたかったのだろう?”

“誰がお前なんかに!”

“余は知っておるぞ。カナス=フェーレ、お前は余と同じ。(ラセル)の愛が欲しかった、(イリィ)の愛を独り占めしたかった。ただ、お前にはその力がなかっただけだ。お前が余と同じ権力を持っていれば、余と同じことをしただろう?手元に置くためにどのような手段も厭わなかったはずだ”

“俺は貴様とは違う!”


カナスは父を振り払おうとしたが、金縛りにあったかのようにぴくりとも体が動かなかった。


“そうか?では、何故お前は逃げている?あの歌姫から。初めて欲しいと思った女から”

“―――!?”

“余と同じことを考えたのであろう。閉じ込めて、自分だけのものにしたいと。そうだ、そうすればよいのだ。くだらぬ体面など取り払い、己の欲望のままに行動すればよい。お前はそれができる立場にあるのだからな。誰も責めはせぬぞ。お前は支配者なのだから”

“う・・・るせえ、うるせえ!黙れ!”

“理性など欲望の前では何の役にもたたぬ。さあ、我が子よ。父と同じところまで堕ちればよい。思い通りになる世の中は快楽に満ちているぞ”


べちゃり、と頬に血に染まった父のしわがれた手が触れた。怖気が全身に走り、カナスはせめて視線だけでもそらそうとするが、それさえも許されない。


“さあ、愚かな我が子よ・・・”

“ちがう・・・俺は違う、違う、違う!やめろ―――ッ!”


はっ、と目が覚めた。その瞬間、べっとりと服が汗で張り付いた気持ち悪さを感じる。

飛び起きたカナスは、ぐいと手で顔をぬぐった。


(・・・なんていう夢だ・・・)


心臓が早鐘を打っている音が耳障りで、彼は勢いよくカーテンを開ける音でごまかそうとした。

だが、そこでまたしてもカナスは、ぎくりと体の動きを止める。

空に赤い星が一つ輝いていた。


「そうか・・・はは・・・忘れていた・・・」


乾いた笑いがカナスの口から漏れる。

彼は汗で張り付いた前髪をぐしゃりと掻き揚げた。そうして露になった眉間には深い皺が刻まれている。そのまま、青い瞳が栗色の長い睫の下に隠れた。

忘れてはならない日、すべてが狂い、壊れ始めた日。

太陽の沈むそのとき、赤い星が南の空高く光っていたその日、カナスの母ラセル=フェーレ=アキュレイが、すべてを呪いながら息を引き取ったのだった。



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