花畑の中で
「う・・・わああ」
さすがに回廊の裏手、というだけあって、整備された塀を乗り越えなければならなかったが、越えてみればそこはシェーナが思い描いていたとおりの美しい光景だった。
フィルカほどじゃないだろうとカナスは言ったが、ちっともそんなことはなかった。
貧弱な大地に根を張るキツメグサ(タンポポ)は、より色鮮やかに、密集して咲きほこっていた。
「すごいです!すごくたくさん・・・、綺麗!」
塀を乗り越えるためにカナスに抱えられていたシェーナは、大地に足が着くと一目散に駆け出した。
「おい、走ると転ぶぞ」
そう注意されたとたん、ころりと転ぶのがシェーナのお約束である。
「馬鹿!だから走るなっつっただろうが」
慌てて駆け寄って来たカナスが、寝転んだままのシェーナに手を差し伸べてくる。
しかし、シェーナはその手を取らず、空を仰ぐために体の向きを変えると、くすくす笑い出した。
それを見たカナスが息を呑んだのも知らずに。
「すごい!お花がたくさん!お花の中に寝そべってるの、嘘みたい!」
くせっ毛の黒い髪に葉っぱをつけ、少し湿った土で頬を汚しながら、シェーナは無邪気な笑い声を上げ続けた。
「春の匂いがする。空も青くて、すごくすごく綺麗。風も気持ちがいい。タンポポの感触は思っていたよりも柔らかいんだ、でもあんまり匂いはないの。知らないこと、たくさん!」
シェーナはまたころりと反転して、ようやく半身を起こした。
「ありがとう、カナス様!私、すごく嬉しい!こんな綺麗なところに連れてきてくれてありがとう!」
カナスを覗き込むようにして感謝を述べるシェーナの頬は、薔薇色に染まっていた。
潤みがちの黒い瞳が、春の日差しを受けてきらきらと輝いている。
唇からは、惜しげもなく白い歯がこぼれていた。
カナスはその様子を、じっと見つめていた。最初は呆然と、しかし次第に感に入ったように目を細めて。
するとシェーナが、突然目に見えて慌て出す。
「あ、ご、ごめんなさい。生意気な口を聞いて・・・、ありがとうございます。連れてきてくれて、ありがとうございました」
「馬鹿」
こつん、とカナスはシェーナの額を指の背で叩いた。
「いつも言ってるだろ。普通にしゃべれるなら普通にしゃべれって」
「でも・・・失礼じゃないですか?カナス様は国王陛下なのに」
いつもの返答を繰り返すと、カナスがため息をついた。
そして、意を決したように話し始める。
「あのな、シェーナ。前から言おうと思っていたんだが」
「はい」
「お前はすぐ俺を特別視したがるがな、俺は別に偉くねえぞ」
「え?でも・・・陛下ではないですか。国王様はその国で一番偉いのではないですか?」
首をかしげるシェーナの頭についた葉っぱを指で摘みながら、カナスは思いのほか真剣な表情で続ける。
「そりゃ肩書きだけはな。けどな、国ってのは王がいればいいんじゃない。領土があって、そこに住む人間がいて、その一人ひとりの働きがあって、初めて“国”になる。国王は、民の声を聞き、問題を把握して、よりよいと思う方向に導くだけで、現実に民が働かなかったら何一つできねえんだよ。そうだな・・・上手い言葉かはわからねえが、俺は王ってのは“国民の雑用係”だと思っている」
「ざ、雑用係・・・ですか?」
「そうだ。あっちこっちにある我侭な言い分をまとめて、困ってる奴がいるならそれを助けるために知恵を出して、他国が攻め入ろうとするなら体を張って守る。はっきり言って、面倒くさいだけであんま報われねえぜ。日々、どこかの誰かのために働かなきゃなんねえんだ。雑用係としか思えねえ。けど、俺はそれでいいと思っている。民のために働けてナンボってな」
だから偉くないのだと、カナスはようやく笑みを見せた。
シェーナはそんな彼を、理解できるようなできないような不思議な気持ちで見つめていた。
「まだお前にはわかんねえかもな。けど、いつか、お前にも分かってもらいたい。お前も俺と一緒に生きていくんだからよ」
最後にぱっぱっとシェーナの髪を少し乱暴にはたいたカナスは、今度は土に汚れたシェーナの頬をぬぐいながら、その青い瞳で瞳を覗き込んできた。
「この先ずっと、俺の隣にいるんだからな」
「・・・隣、に・・・?ずっと・・・?」
「ああ」
鸚鵡返しに呟いた言葉に彼は、強く頷いた。
「嫌か?」
「いいえ・・・っ!」
拒絶の問いかけを、シェーナは即座に否定する。
許されるのならば、ずっとカナスの側にいたい。ずっとずっと、一緒に年を重ねていきたい。
その願いを口にすると、彼は「そうでなくては困る」と穏やかに笑った。
「お前がいてくれないと、眠れない夜に困るからな。誰に何を言われたときも。腹立たしいことがあったときも。自分の無力さに情けなくなったときも。お前がいてくれれば、また前を向ける。だから、俺の側にいろ。一生だ」
「カナス様・・・」
とても嬉しいことを彼は言ってくれた。
シェーナの瞳から涙がこぼれる。
それを彼は袖口でぬぐってくれた。そして、シェーナの頭を自分の肩に押し付けて、ぽんぽんと後頭部を撫でる。
「泣かすつもりじゃなかったんだが」
「ご、ごめ・・・なさ・・・」
「別に謝らなくていい。そうじゃなくてだな、だから、ずっとお前は俺の隣にいるんだろ。俺と同じ未来を見続けるんだろ。つまり、俺とお前は対等ってわけだ。だから、二人でいるときは敬語使うなってことだ」
「対等、ですか?」
「そうだ。いくら特別視する必要はない、雑用係だっつったってそれなりに威厳ってもんもいるから、そうそう誰にでもタメ口で話させるわけにいかねえけど、お前は俺の選んだ伴侶なんだ。だから同じ立場、同じ目線なんだよ。だったら、まあ、人前は無理としても、他に誰もいないときには普通に話すのが筋だろうが」
「筋・・・?」
多少強引な理論ではあったが、そこまで言われてはシェーナの常識も揺らぐ。
さらに追い討ちを掛けるようにカナスは言った。
「それに、いつまでも敬語だとうちとけられてねえ気がする。俺は身内には普通に話してもらいてえんだよ。・・・もう、そうやって話してくれる人がいないからな」
どこか寂しそうな表情を浮かべるカナスは、今は亡き異母姉や異母兄や・・・そして、父母を思い出しているのかもしれなかった。
それを見て、シェーナの胸がツキリと痛む。
「わ、わかりました。カナス様がそうお望みなら、二人のときは普通に話すように努力します!」
「こら」
ぎゅっと両手で拳を握りこんでの宣言であったが、すぐにカナスに鼻をつままれた。
「今の、どの辺が普通にしゃべってんだよ」
「す、すみません・・・」
「おい」
「ごっ、ごめんなさい!」
「お前なあ」
「う・・・申し訳ありません・・・」
しかし指摘されればされるだけ、シェーナは丁寧語になってしまう。
カナスがはあっとため息をついた。そして、突然ちゅっと唇を掠め取ってくる。
「!!?」
「まあいい。お前が普通にしゃべれなかった分は、こうやって取り立てる。言っとくが、いつ取り立てるかは、俺の気まぐれだからな。ついでに俺は人前とか全く気にしねえし。やられたくなかったら、さっさと直せよ」
「ひひひ人前って!?」
「まあ、嫌がらせついでにリア=バースとか、グィンとかな。ラビネは動じねえの分かってるから面白くねえ」
「や、やめてくださいっっ!!」
「残念だったな、今のでまた積み立ったぞ」
「やめ、やめ・・・やめてっ!絶対やだっっ!」
「やればできるじゃねえか。その調子で頑張れよ」
「・・・うう・・・ひどいです・・・カナス様、ひどい・・・」
にやにやと笑うカナスが、今度ばかりは悪魔のように見えた。
いじけてキツメグサの畑にふたたびつっぷしたシェーナは、カナスが空を見上げて呟いた言葉を聞き逃した。
「あんな無表情だった奴が、それだけ可愛く笑えるようになったんだ。言葉だってちゃんと直せるときがくるだろ」
「・・・何か言いましたか?」
「いや。てか、また敬語だったな」
「あっ・・・!」
口を開けばそれだけ失敗するシェーナは、もう話すものかと口をローブの首元についている大きなリボンに沈める。
ちょうどそのとき、ジュシェとニーシェが食事の準備ができたと二人を呼んだ。
草むらにシートを広げ、その上にフォチャや果物が所狭しと並べられている。
いわゆるピクニックの状況にシェーナは瞳を輝かせて駆け出していった。
残されたカナスにくっくっと笑われながら。




