ひとり、居なくなった夢
こんな夢を見た。自分はホウキとチリトリを手に部屋の掃除をしている。自分の部屋ではない、だだっ広く殺風景な、それでいて汚れた会議室のような場所。隅の方に畳まれた長テーブルが積まれていたかもしれない。
薄暗い室内は至る所に染みが浮き出、ヒビが走り、建物が出来てから現在に至るまでの月日が至る所に刻みこまれている。煤けた天井に並ぶ蛍光灯は半分ほどがマトモに点灯せず、明滅を繰り返す照明の下では常に落ち着かない気分にさせられた。
こんな環境下での掃除ほど非効率的な作業が他にあるだろうか。ホウキで床を掃きながら綿埃を集めて回るのだが、床をギトギトと汚している油とも何ともつかない粘液に埃はこびりつき、いくらホウキで表面を撫でたところで取れるはずもない。
かといって、他に掃除用具はない。かがんで素手でこの汚れを剥がすのなんて絶対にゴメンだ。
「おい、見ろよ。」
名前も顔も知らない隣人がそう言うので彼の視線の向かう先を見てみれば、鼠が集団で壁の割れ目から這い出して来るところであった。
正確には、一匹の鼠の後ろを多数の鼠が追跡していると称すべき状況である。先頭の鼠にはどうした訳か、体中に生白いものがびっしりと付着し、それが細かくうごめいている。
何らかの虫の幼体が死にかけの鼠にたかっているのだと分かった後は、その様子から目を離せなくなった。
「もうすぐご馳走が勝手にこと切れるんだな。」
彼がそう言ったとおり、力尽きた先頭の鼠がパタリと動かなくなった直後、集団でそれを追跡していた鼠たちはいっせいにその死骸に噛みつき始める。
すべては微かな音と共に進行した。死肉と化した仲間の身体を齧る鼠の集団へ、ぬたうつ幼虫の群れがみるみる広がっていく。健康だった連中も互いに互いの身体を齧りあっているのか、時折細い悲鳴をあげながら動かなくなっていく奴が増えていく。
ほぼ動かす意味のなくなったホウキにもたれかかり、眺めている目の前で鼠たちは次々に死肉と化していく。それらはあっという間に幼虫によって食い荒らされ、一つのべったりとした肉塊が出来上がった。
「おーい!おい、誰か聞いてくれ!」
目の前の小さなグランギニョルに夢中になっている自分の視線は、唐突に部屋へと駆け込んできた別のひとりが発した怒号によって持ち上げられる。
彼は大層慌てた様子であり、青ざめて震える額からは次々と脂汗がにじみ出ていた。大声を上げて駆け込んできたは良いものの、訴えるべき相手を定められない彼はしばらく口をパクパクさせながら仲間たちの集まってくるのを待っている。
「どうした。何があった。」
「ひとり、居なくなった!こんな場所で行方不明になったら、どんな目に遭ってるか…」
言いながら、足元にへばりつく小動物の残骸の塊を見下ろしている。
が、間を置かず、一つの反論がどこからか彼に投げかけられた。
「どうして、ひとり居なくなったって分かる?俺たち、お互いに誰も知り合いじゃないだろ。」
言われてみればその通りである。我々は、この場所が何であるかを知らないし、誰がここに集められているのかも分からない。見渡しても赤の他人ばかりである。何故、自分たちがこれほどまでに壊滅的な衛生状態の閉所に押し込められているのか、知る由もない。
自分自身、いつから誰に命じられてこの部屋の掃除をさせられていたのか、思い出せない。そう考え、今まで律義に構えていたホウキを床に投げ出す。
「そうだ、誰かが居なくなったって、そもそも知り合いじゃないんだから、分かるはずがない!」
「お前だけが、何を知ってるんだ!」
最初に「ひとり居なくなった」と言い始めた男は集団に囲まれ、口々に詰問を投げかけられる。返答する余裕も与えられない彼がただ口をパクパクさせるうちに、周囲の声々はますますトゲトゲしさを増していった。
その男がもしも目の前に居れば、最初に詰め寄っていたのは自分だったかもしれない。現状への説明を求める気持ちは他の者と同じだったが、先んじて激昂する存在が他に居ると不思議と気持ちの昂ぶりは抑えられてしまうようだ。
「喋れ!俺たちは何故こんな所に閉じ込められている!」
「この場所は、何なんだ!俺たちを閉じ込めてどうする気だ!」
同じような声が飛び交う中でこの場の興奮は最高潮に達し、ついに拳が振り上げられ始めた。皆、一様に薄汚れた服を着て、髪型も不精髭も同じで見分けがつかない。薄暗いせいで明瞭には確認できなかったが、顔も全く同じだったかもしれない。
殺到する中心で集団から容赦ない殴打の雨を浴びているのであろう男の姿は見えない。もしかすると、見た目で判別できないすぐ近くの者も巻き込まれて同じように殴られているのかもしれない。
「全部吐けぇえええ!」
「お前は何なんだぁあああ!」
怒号と悲鳴で満たされた部屋全体が震え、備え付けが悪かったのか天井の蛍光灯が幾本か落ちて床で砕ける。完全にパニックの渦中へ沈んだこの部屋に居合わせた自分は、その時、決定的な光景を目撃した。
自分と同じくこの騒動から距離を取って外野から眺めていた男のひとりが、壁際まで後ずさった時、壁の亀裂が一気に開いて彼の身体を呑み込んだのである。
「あ……。」
彼が悲鳴を上げる間も助けを呼ぶ間もない。声もなく、ただ驚きに見開かれた眼差しだけをこちらに寄越し、一瞬でその姿は壁の中に消えた。後には、何ごともなかったかのように細くヒビの入った壁が残っているばかりである。
「『ひとり、居なくなった』……!」
その言葉を小さく呟いた自分は、咄嗟に口を抑え、今の発言を聞き咎められていないかと周囲を見回す。これと全く同じ発言をした男は、今まさに目の前で集団から暴行を受けているのである。
幸いにも目の前で起きている大騒動が小さな声をかき消してくれたらしく、事なきを得た。
部屋を押し包む喧噪はいよいよ耳をつんざくほどの様相となっていた。もはや、興奮状態にある者たちは何の目的があって暴れているのかすら忘れてしまったらしい。互いに振り回す拳をぶつけ合い、床にのびて倒れている者の数は一名どころの騒ぎではない。
先ほど鼠たちの死骸に集っていた無数の幼虫が、床に倒れた人間の身体にも這い上がり始めたところで自分は目を背け、その部屋から逃げ出した。
建物から出ていくのは簡単だった。窓枠を乗り越えるのも容易い窓がいくつも大きく開かれ、この建物は一階建てである。雑草がまばらに生える外の庭へと踏み出て振り返ってみれば、外へと逃げ出しているのは自分ばかりではない。
「なに立ち止まってる。こんな場所、とっとと逃げようぜ。」
「……おう。」
返答の前に多少口ごもってしまったのは、その声が自分のものと全く同じであったことに気づいてしまったためである。彼の顔を見るのが怖く、自分は目を伏せた。
夜中であるためか、建物の外は先ほどまでの狂騒が嘘のように静まり返っている。ゴミ一つ落ちていない街路に等間隔で照明が灯り、夜の街は美しく佇んでいる。たまに道行く人々も先ほどの建物内にいた者たちとは違い、不潔な格好はしていない。
これこそが正常な場所だ、常識の支配する世間だ。自分はそう安心して街の中を歩き始める。が、いくらも行かないうちに足が止まった。
自分がことごとく周囲の通行人から白い眼を向けられていることに気づいたのだ。薄汚れた格好は先ほどの建物内では当たり前のものであったが、お洒落な夜の街並みを歩くには相応しくないとでも言いたいのだろうか。
それに自分は、あの場所にホウキを置いて来てしまった。あの部屋を掃除するのが自分に与えられた役目だったのに。このよそよそしくきれいな街の中をいくら歩き回っても、自分の居場所、自分の役割は見つからない。本来の自分を見出せるのは、あの汚らしい建物の中でしかない。
不潔な身なりを咎めるような冷たい視線を周囲から突き刺されつつ、自分は先ほどの建物へと戻っていった。
「こんな居心地の悪い場所があるか。」
そう呟きながら、自分は目を覚ました。