後編
仏像に変身したよもぎさんは、ものの数秒でりん子を踏みつぶしてしまうかと思われたが、そうはいかなかった。石でできた重い足を、誰かが押し返したのだ。
「風太くん!」
りん子は驚いた。自分の前に立ち、仏像の足を持ち上げているのは、月ノ介さんの弟の風太だ。高校の制服を着て、肩には大きな鞄を提げている。兄より少し筋肉質な体つきだが、仏像よりはずっと細い。
「お前、死んだと思ったのに!」
よもぎさんは無表情のまま、半開きの口から声を出した。岩の間を吹き抜ける木枯らしのような声だ。
風太は笑い、バカだなあ、と言った。
「あんなんで死ぬようじゃ、俺は生まれた時から死んでるよ」
よもぎさんはバランスを崩し、後ろに倒れた。ドンと地響きがして、砂煙が舞い上がる。月ノ介さんは空に向かって指笛を吹いた。
雲が渦を巻き、光が交差して地上を照らす。嵐の前のような、夜明けが訪れる瞬間のような、混沌とした空模様だ。
「悪あがきはやめなさい。さもなきゃこの子をひねり潰すよ!」
よもぎさんは太い腕でりん子を捕まえようとした。りん子は飛び跳ね、地面に伏せ、前転をして避けると、月ノ介さんのそばに立った。風太も隣にやってきて、口に指を二本当てる。りん子も同じようにした。
「やめなさい……やめなさいったら!」
構わず三人で指笛を吹いた。空に稲妻が走り、うめき声のような音を立てて落ちる。
吹き荒れる風の中から白鳥が生まれる。声はけたたましく、体はずんぐりとした、美しくない白鳥だ。雷の落ちた地面からは、八本の長い手足を持つ蜘蛛男が現れた。こちらも醜い。二匹は不気味な細い目をして、よもぎさんを狙っている。
「獲物だ」
「獲物だ、獲物だ」
白鳥はよもぎさんの両目をくちばしで突き、蜘蛛男は足に噛みついた。石でできた体がぼろぼろと崩れ、風に舞う。よもぎさんは腕を振り回し、二匹を追い払った。しかし、その腕もえぐれてしまった。
りん子は大きく息を吸い、指笛を吹き続けた。月ノ介さんと風太は、いつ息継ぎをしているのかわからない。やがて空が赤い色に変わり、雨が降り出した。ピリッと辛いにおいのする、真っ赤な雨だ。
雨に混じり、太った男が落ちてくる。頬肉と腹の肉を揺らしながら、チャーシューアタック、と叫んだ。熱々のチャーシューが降ってくると思ったのか、よもぎさんは頭をかがめた。そこを男の尻が直撃し、よもぎさんの後頭部には大きなひびが入ってしまった。
チャーシューは降って来ず、太った男は尻を押さえて逃げていった。
赤い雨しぶきの中を、たくさんの影が行き交う。こけしが転がり、よもぎさんのくるぶしを打つ。細長い猿がいくつもいくつも、よもぎさんの体にとりつき、肩や背中を舐めて溶かしてしまう。黒いオーラをまとった少年が現れ、皆の者よく聞け、と叫んだが、誰も聞かなかった。
最後に小さな生き物の影が見えた。雨の中をすいすい泳ぐ、カワウソだ。体を振って水滴を飛ばし、りん子のほうに顔を向けて笑う。
「あの仏像を始末すればいいのか。報酬はいくらだ?」
「何バカなこと言ってるのよ!」
りん子は思わず指を口から離してしまった。その途端、調和のとれていた音が乱れ、雨が弱まった。空の半分が見えなくなり、黒く切り取られたようになっている。
「りん子さん、気をつけて!」
「りん子!」
月ノ介さんと風太は、後ろに吹き飛ばされた。よもぎさんが立ち上がり、崩れかけた体でりん子を押しつぶそうと迫ってくる。カワウソはいない。少年も猿たちも、もうどこにもいなかった。
「ふふふ、もうこれまでだ。私をコケにした報いを受けろ!」
「嫌よ!」
りん子は両手を出し、十本の指を全て口に当てて吹いた。指笛というより、鼻をかむような音になってしまったが、確かに空気が震えるのを感じた。りん子はさらに力を込め、体の中のものを全て絞り出すように息を吐いた。
川の向こうから、ぞっとするような冷気が押し寄せてきた。灰色の風に、きらきらと光る氷の粒が混じっている。
よもぎさんは目を見開き、りん子から離れた。
「なっ……何なの、あれは!」
光が集まり、氷の塊になる。りん子の指笛に合わせて形を変え、すっと手足が伸び、顔と体ができ、透明な帽子とコートをまとった男の姿になる。アーモンド型の目がクリスタルのように輝いている。
「りん子、僕を呼んだね?」
男は川岸に降り立った。足がわずかに地面から浮いている。
りん子は答えず、指笛を吹き続ける。風太と月ノ介さんが両脇に立ち、仏像と氷像が向かい合うのを見た。
「うう……何か、厄介な奴を呼び出しちまったんじゃね?」
「仕方ありません。不本意ですが協力してもらいましょう」
氷像の男は見下すような目で、オーケー、と言った。
「ただし僕について来られるのならね」
氷とは思えない柔らかさで、髪とコートの裾がなびく。男はふわりと浮き上がり、竜巻のような速さで飛んでいくと、よもぎさんの首に手をかけた。途端に首が凍り付き、よもぎさんは動かなくなった。
これだけじゃ死なない、と男は楽しそうに言う。
肺の中にもうほとんど空気がないのを、りん子は感じていた。それでもひとりでに息が続き、指笛の音は大きくしなやかになった。これ以上ないほど長く、高らかに吹き鳴らした時、音が形になった。氷の粒でできた、透明な絨毯だ。
「行きますよ!」
月ノ介さんと風太は絨毯に乗り込み、空中を駆け上がっていった。氷像の男と同じ高さまで来ると、風太はよもぎさんのひび割れた頭に体当たりし、月ノ介さんはどこからともなく鉈を抜き出し、凍った首に斬りつけた。
キンと音がして、よもぎさんの頭が転がり落ちる。木よりも高いところから落ちたので、粉々に砕け散った。鼻がもげ、耳が千切れ、頭蓋が散り散りになりる。りん子の足元に、丸い形をした美しい石が飛んできた。仏像の目玉だ。
りん子は指笛を止め、目玉を拾った。残されたよもぎさんの体が、砂の城のようにさらさらとほどけ、風に消えていくのが見えた。
「では、代価をいただくよ」
氷像の男が笑みを浮かべて急降下する。りん子を捕らえようと手を伸ばしてきた。月ノ介さんと風太が立ちふさがろうとしたが、氷の絨毯はゆっくりとしか動けず、男のほうが速かった。
「りん子さん、狙って!」
「わかってるわよ!」
りん子は石の目玉を投げ上げた。それは男の胸に真っすぐ当たり、ぴしゃりとひびを走らせた。その途端、男の体は溶けて霧になり、川の向こうへ流れていってしまった。
月ノ介さんと風太はりん子のそばに降りてきた。何もかも元通りだった。
「二人ともごめんなさい。私がうっかりこんなところに来たせいで」
違うよ、と風太は大げさに首を振って言った。あまり似ていない兄弟だが、こういう時の反応と仕草はそっくりだ。
「りん子は悪くない。兄ちゃんのせいだよ、勢い余って俺を真っ二つになんてするから!」
「風太が鉢植えを壊したせいです。自業自得でしょう」
「鉢植え……あ、そうだ!」
風太は鞄を開け、小さなサボテンの鉢植えを取り出した。ピンクの花が一つ咲いていて、とても可愛らしい。鉢は黄色いティーカップだ。
「これ、代わりに買ってきたんだけど……どうしよう」
風太は足元を見た。りん子も同じ場所に目をやる。
何もかもが元通り、つまりは元の姿のよもぎさんが、よもぎまんじゅうの包みを抱えてそこに倒れているのだった。
「放っておいてあげましょう」
月ノ介さんが言った。
「どうせすぐに引っ越していくでしょうから。どうしても相容れないものや共存できないものが、この世にはあるんです」
「そうね。私もそう思う」
りん子は風太の持っていた鉢植えを受け取り、頬を寄せた。柔らかい棘がちくちくと肌をくすぐる。
「こんな棘でも、きっと痛いと思う人がいるのよね」
りん子は空を見上げた。何もなかったような、澄み切った空だ。
帰りましょう、と月ノ介さんが言った。三人はよもぎさんを残し、川辺を立ち去った。
空は町を覆い、遥か遠くまで続いている。色を変え、重さを変え、手ざわりを変え、どこまでも続いている。だからどこへ行っても、本当に逃げたいものからは逃げられないのだ。
りん子は最後に一度だけ、よもぎさんを振り返った。川の向こうの霧が、まだ揺らめいていた。
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