7
道を進むにつれ、聞こえてくる怒号、煙の臭い。
アルセイは必死に駆けた。時折、足がもつれ、転びそうになった。
里の門の土鈴は無残に割られて砕けている。
里はいたるところで炎が上がり、煙が充満していた。
響く剣戟、重なり合う雄叫び。穏やかだった里は戦場と化していた。たくさんの衛士が白刃を煌めかせている。
「あぁ、なんということだ」
アルセイは呆然と立ち尽くす。
「おい、火を消せ!」
サラスイの声にアルセイは顔をあげる。
サラスイは木立の下にランを座らせて、何かを探すように視線を動かしている。
そして、サラスイは、太刀を合わせる者たちを交わしながら、小屋にこもっている者に火を消すよう声をかけ、絶え間なく、何かを探している。
アルセイもサラスイについていく。
「あっ!いた!」
彼方を見つめ、短く声をあげる、その先には、高く舞い上がったキーレンが見えた。
「あぁ、キーレン!早まった真似を!」
キーレンの視線の先には、指揮官のモルコスがいる。
短刀を手にして、モルコスに一直線に向かっている。その姿は獲物を仕留める、獰猛な鳥のようだった。
立ち込める煙に怯むことなく、サラスイは人をかき分け、キーレンに向かっている。
制止の声は聞こえていない。
その瞳はモルコスだけを捉えている。
――キィンッ
風のように現れた亜麻色の髪がその刃を弾いた。
広がるミランナの呪術の香り。
「モルコス様、下がってください」
細身の刀を構え、ミランナは油断なくモルコスの前に立つ。
モルコスは慌てふためき、その場にへたり込んでいる。
弾かれたキーレンは、にやりと笑う。
「ミランナ、そんな淀んだ目で私に勝てると思ってる?」
「…何者か?!」
一振りの短刀を軽く握り、身構えることなく佇むキーレンの身体は細く、向かい合うミランナの鍛えられた体躯とは、比べものにならない。
しかし、キーレンが発する覇気にミランナはたじろぎ、体を固くする。
「ミランナ、私の刀を弾くことが、どういうことかわからないわけではないね」
キーレンは再びふわりと飛び上がり、モルコスに向かって、急降下する。
しかし、またミランナに弾かれる、キーレンはその勢いのまま、地を蹴って、モルコスと間合いに飛び込むが、それもまたミランナに弾かれた。
止まることなく繰り出されるキーレンの鋭い攻撃を寸前のところで、ミランナは弾く。
次々に向けられる猛攻にミランナの呪力はほとんど残っていない。
また、体力の消耗も激しく、ミランナの頬は紅潮し、額からは汗が流れている。
はぁはぁと肩で息をするミランナにキーレンはふと、向き直る。
「先にミランナを止める」
「!」
キーレンの握り直した柄には、繊細で緻密な青い装飾が施されていた。
「その刀は?」
ミランナは短いながらも、ゆるやかな美しい刃紋の見事な刀身、そしてその柄の意匠の意味を知っている。
それは蒼の王以外に持つものはいない短刀。
「王の短刀……?」
「考えることを止めて、心を閉ざした」
キーレンは呪術の香りを濃くまとい、大きく跳躍する。
まっすぐに振り下ろされた一撃を、正面から受け止めたミランナは、その予想を超えた重さを受けきることができず、刀を弾かれた。
ミランナの手の届かないところに、太刀はカラリと転がった。
「ミランナ、なぜ迷った?なぜ心を痛めた?……それは良心だろう。でも、それを閉ざした」
キーレンは、膝をついて肩で息をするミランナに刀を向ける。
「考えることを止めて、たくさんの人を殺めることをなぜ、受け入れた?上官の命令だからか?それが、呪術師の役目か!……なぜ神は力を分け、民に与えた?過ちを繰り返さないためだろう?違うか、すべての生き物に慈悲深くあれ。考えることを止めるな、迷い、苦しめ!」
ミランナの瞳からは、涙がこぼれ落ちる。地を掴みミランナは泣き崩れた。
「あぁ」
「キーレン!短慮が過ぎる!先に火を止めろ!」
駆けつけたサラスイの声を聞き、キーレンは肩をすくめる。
「一番、手っ取り早いと思ったんだ。争いを終わらせるには、大将を討ち取るのがいいだろう?無駄な争いは、無駄な死を招くだけだ。……上手くいかなかったけど」
「まずは火を止めろ!」
キーレンは頷くと、呪文を口にする。
あたりに濃く広がる、森の奥深くにいるような爽快感。
風が吹き始め、黒く低い雲が流れてきた。
ポツポツと落ち始めた雨粒は、瞬く間に勢いよく降り始める。
降りしきる雨に打たれながら、アルセイはうずくまるミランナに駆け寄る。呪力を使い切ったのであろう、意識を失っていた。
「なぜだ?あの娘はどうしてこんなことができる」
アルセイはミランナを抱き起こし、見上げてサラスイに問う。
「彼女には可能だ。雨が降る理を知ればなおさら」
サラスイは目を細めて、キーレンを見る。呪文を小さく口にしているのだろう、しかし、聞き取ることも予想することもできない。
「理を知る?」
「そうだ、地の熱を湿らせて、空に向かって立ち上ることで、雲を作り出す」
「いや、雨が降る理を知ったからと言って、簡単にできるものなのか?……そんな能力を持つ呪術師なのか?」
「……理を知らなくてもできるが、呪力の消耗が違うそうだ」
キーレンの声が響いた。
「争いを止めよ!刀を納めよ!無益な争いをやめよ」
キーレンの傍らには、うなだれたモルコスの姿があった。
雨の勢いはすさまじく、いたるところで燃えていた炎の勢いは衰え、火は消えた。
争っていた人々は、雨で視界を遮られ、ぬかるんだ土に足を取られた。雨に濡れた手は柄を握れず、頭や肩に叩き付ける雨に我に返った。
雨が落ちていた時間は半時に満たなかったが、火を消し、争う人々の戦意を消失させるのには、十分であった。人々の怒号は消え、ほどなくして、雨の音も消えた。
先ほどまでの雨が嘘のように、空には晴れ間が見え、日が差し始めた。火は消え、炭となった家屋から、わずかに煙が上がっている。
人々も獣人たちも立ち尽くし、小高い丘に立つキーレンを見つめていた。
「争いをやめよ、刀を下せ。怪我人を運べ、手分けして手当てを」
アルセイはキーレンを見る。
凡庸な容姿の少女だ。しかし、あのような圧倒的な呪力を見たことがなかった。
「何者だ……」
アルセイの腕の中のミランナの瞼が震え、うめき声を漏らした。
「ミランナ殿、しっかりされよ」
「あ、あぁ、」
呆然としたミランナは視線をさまよわせた。抱きかかえられていること、そして、その人物が誰かよくわかっていないようだった。
起き上がろうとしたミランナは、体に力が入らないようで、そのまま、またアルセイの腕に抱えられた。
「無理をしないで、動かないほうがいい。呪力の消耗が激しい」
「あぁ、サラスイ様が……」
「ミランナさん、あの人を知っているのか?」
「あの人は、サラスイ様は、青龍の宮の呪術師だ。王台の任を受け、各地をまわっているという。ナラティス様はいまだに王台に上がる者を見いだせていない。サラスイ様は極秘に次期青龍の宮の長を探しているという」
王台、その言葉を聞いて、アルセイはすんなりと腑に落ちた。王台に上がる者ならば、あの圧倒的な呪力もうなずける。
しかし、王台に上がる者がどうしてこのようなところにいるだろう。契約を済ませれば、王城から出ることなく、その任を任されたもの達の手によって、丁寧に養育されるのが常である。
「ミランナ殿、キーレンが無茶をして、すまない。久しいな、もうどれくらいになろうか」
ミランナの傍らに膝まづき、サラスイはにこやかに話しかける。起き上がろうとするミランナをサラスイは制す。
「……サラスイ様、このようなところでお会いするとは思ってもみませんでした。……あの方は王台に上がる方なのですか?」
「そうだ」
「なぜだ?もう契約は交わしているのだろう?なせ、王城から出ているのだ?こんなところにいるべき人ではないだろう?」
アルセイはサラスイに疑問をぶつける。
「呪術師を逃げ出したあんたに話してやる義理はない」
いつの間にか傍にいたキーレンがアルセイに冷たく言葉を返す。
「キーレン、よさないか」
サラスイの咎めるような声をものともせず、キーレンは言葉を続ける。
「獣人たちの生活に尽力したあんたを私は評価している。しかし、なぜ、呪力を還した?ナラティス様は理解を示さないと思ったか?青龍の宮は拒むと思ったか?……私は呪術師として尽力してほしかった」
「キーレン、よせ」
「獣人に対する目は、あんたが思うよりも、ずっと根が深いんだ。呪術師としての役目と兼ねることは簡単ではない。この街の人は皆、獣人が理性も知性も持つと知っている、しかし、獣だと侮ることで、あいつらよりはマシだと、優越感を得ているのも事実。でもこれは青龍の宮の策であろう?そんな者たちを信じることなどできるわけがない」
「……なんだそれは。そんなことをナラティス様が認めているわけがないだろう」
じっと黙り、一点を見つめたままのキーレンは息を吐く。
「……私が見えていることは、本当にごく一部なのだな。まったく、見通しの術など、役に立った試しがない」
キーレンは苦虫を噛んだように顔をしかめ、吐き捨てるように言う。
呪術による見通しはあいまいで、霞がかかったようにあやふやだ。はっきり見えても、その意味するところがつかめなければ意味がない。
「俺たちに青龍の宮が、いったい何をしてくれるのだ」
「ナラティス様はあんたに、思うようにせよと言われたであろう」
「……どうしてそれを」
「この程度なら見えるから。おそらくナラティス様にはその時のあんたに力を貸してやることはできなかったのだろう。……しかし、私はともにありたいと思う。悩み苦しむ、呪術師の助けとなりたい。私の名を呼べ、迷うとき、苦しむとき、応えよう。私は頼られる長でありたいと思う。ミランナ、罪なき者を殺めることはどんな理由をつけても正当化されることではない。呪術師は呪術師の道がある、踏み誤るな」
「はい」
「あんたは、王台に上がっているんだろう?なぜここにいる?」
「私に必要だからだ」
「事情がありましてね、こうして王城を離れて旅をしているのです」
「王台に上がった者がいることも、その者が王城を離れて、養育されていることも、知らなかったな。……いったいどうなってるんだ」
「アルセイ殿、私も王台に上がる者がいることを知りませんでした。しかし、それは」
そっとサラスイを見る。
「ミランナ殿は、私の呪術をご存知でしたか」
「ええ、まあ」
「なんだ?」
「サラスイ様は、人の記憶に関与できる呪術をお持ちだ。その能力をかわれて、青龍の宮に配されたと聞く」
「え、記憶に?それは記憶を消すことができるということか?」
「悪用しやすい呪術なのですよ。ですから、あまり知られてはおりませんし、王都から離れることを許されておりませんでした」
「すると、契約の際に王城全体に呪術を施されたということなのですか?」
ミランナの問いに答えることなく、あいまいに笑ったサラスイ、アルセイは否定しないことに驚く。
「そんな広範囲に、わけのわからん呪術を施せるのか?」
「一人ではない、ナラティス様と同調して術を成した」
「そんなことをできるやつがいるなんて考えたこともない。おとぎ話のフローセイみたいだな。まぁ、雨を降らせる呪術なんてのも、聞いたことないな」
辺りを見回し、視線をさまよわせているキーレンは凡庸な容姿の細身の少女だ。
青龍の宮長はどれほどの呪術をつかうのであろうか。呪術師であるアルセイにも想像がつかない。
「サラスイ、衛士に術を。ただの隠里。獣人はこの里に一人もいない」
「それでいいのか?」
「あぁ、見通しはもう使わなかった。私にはわからない。なら、わかるまで、ここは隠すべきだ。今の私はこの問題を解決する術を持たない。私は、何の役にも立たない……。しかし、獣人たちが隠れずに街に住む日が来ることに、私は力を尽くす。時間をくれ」
アルセイはそう言ったキーレンを信じることなどできはしなかった。
この里はもう、これだけの衛士に知られている。この里をここまでにするためにかかった時間と労を思うと、ため息がこぼれた。
サラスイは記憶に関与できる呪術という。しかし、その術が、アルセイにはわからない。このことがなかったことになるなど、理解できない。
雨に濡れて、黒く煤けた屋根がゆらりと白い煙を上げていた。
「サラスイちょっと、範囲が大きいか?」
「このまま、ここにとどまるなら問題ないが街に戻る体力を残せない」
「わかった。私が同調する。同時に幻視の術をかける。あの、可愛らしい尻尾は見えなくなるぞ。少しの間だけど」
水を運ぶ獣人の子の長い縞模様の尾を指さし、キーレンは笑った。
その微笑は、年頃の娘のようにあどけないものだった。
アルセイはその横顔になつかしい人を重ねた。
呪力を還し、呪術師を辞したアルセイに声をかけて、薬草の知識を与えてくれたのは、祖母の薬草師であった。祖母はもう一人、教え子がいて、キーレンの笑顔はその姉弟子、ニイラーンを思い出させた。懐かしい笑顔が心に浮かび、アルセイは目を細める。
キーレンとサラスイは向かい合って立ち、瞳を閉じて、小さく呪文を口にした。
深い森の中にいるような清涼が胸いっぱいに広がる、そして、爽快でありながらも甘く温かみのある香りが辺りを包み込む。そのまじりあった香りは、隠里いっぱいに広がり、包み込まれた。
アルセイがその香りを吸い込んだ時には、獣人の子の尾は見えなくなっていた。
「げ、幻視なんて術を同時に使うなんて、王台に上がる呪術師ってやつは、ばけもんだなぁ」
自分の想像をはるかに超える、呪術。この呪術を持ってすれば、不可能なことなどないように感じた。
「私は無力だ」
アルセイの期待を込めた視線に気づいたのか、キーレンはアルセイに言う。
「この里も誰にも気づかせることなく、わずかな損失を与えることなく、やり過ごしたかった。しかし、この里に黒煙が上がる未来を避けることができなかった。見通しは様々な未来、雑多な過去、どんなに情報があっても、それを生かせなければ、なんの意味もない」
キーレンには、様々なものが見えているのであろう、それの意味することがくみ取れなければ、意味のないものなのだろうか。見通しの術を使うことのできないアルセイにはわからなかった。
「探し物をするには便利なんだがな」
少しおどけたように言うキーレンに応えて、サラスイは笑う。
「道にも迷わないじゃないか」
「確かにそうだな」
穏やかに笑う二人にアルセイは言う。
「それ、十分だろう」
アルセイも笑う。
やわらかな風がすり抜けていく。
その時の二人の微笑は、強力な呪術を使う、呪術師であるとか、王台にあがっているとか、そんなことは微塵も感じさせないものだった。
まるで夢を見たかのようだった。誰の記憶にも獣人の隠里のことが残っていない。少しずつ曖昧になり、いつしか、誰の口にも上がらなくなった。
ミランナでさえ、記憶がおぼろげな様子だった。一度、探りを入れるように話題にしてみたが、獣人の里と思って攻撃したが、ただの隠里、とんでもない失態と、苦く話した。他の衛士も同じ様子で進んで、口を開くことはない。
また、ロイも記憶はおぼろげな様子だ。また、火事があったという記憶になっており、そのあとの豪雨と記憶が錯綜しており、落雷による火災となっているようであった。
幻視の呪術は、程なくして解けたが、記憶の呪術は解ける様子はない。
すべては、自分の夢幻だったのではと、何度も思う。しかし、頬から耳にかけて、長い傷痕が、夢ではないと教える。
――とんでもない呪術師だ
一年と少し、青龍の宮長が退任し、新しい宮長が就任した。
その新しい宮長の絵姿は、足先まで隠れる青い長衣、珍しくない薄茶の髪、薄茶の瞳の凡庸な少女、まぎれもなく、キーレンであった。
あどけない笑顔の少女の笑った顔が浮かんだ。
「キーレン、俺の記憶を変えなかったことに、意味はあるのか?あんたには、どんな未来が見えていたんだ。あんたの名を呼べば、応えてくれるんだろう?」
誰に聞かせるではなくつぶやいた言葉は、風に消え、レイとランの笑う声に紛れた。
「おい、おっさん。ぼやっとして、腹でも減ったのか?」
「おっさんって、言うな」
「アルセイさん、レイ、今日の夕食、何にしようか?」
日は傾き、山脈を赤く染め、西の空には闇が迫って、気の早い星が一つ、二つ、瞬いていた。
終わり