6
残酷描写、流血表現あり。
夜明け前に立ち込めていた霧は日が高くなるにつれ、晴れていった。
「邪魔するよ」
朝、早くに、開け放たれた戸をくぐってきたのは、佩刀したむさくるしい男、衛士だ。
髭のある口元をゆがめて、微笑んでいるのだろうが、油断なくあたりを見回して、警戒をあらわにしていた。
「あんたがアルセイ殿か?」
「はい、私はアルセイです。今日はどうされたのですか?」
「いや、あぁ、ちょっと薬を用立ててもらおうとおもってな」
「そうですが、いったいどのような?お見かけしたところ、体調は問題ないようですが」
男は目をぎらつかせており、顔の色つやもいい。薬がいるという、嘘を吐いていることは明白であったが、目的がはっきりしないうちは、どうすることもできない。
「いや、俺じゃないんだ、あの…、あぁうちのガキが、よく腹を下すんだ」
「そうですか。では、お子さんの年齢と性別を聞かせていただけますか?」
窓から吹きこむやわらかな風に乗って、虫とレイの声が聞こえる。
嘘とわかっていても、いつもの要領で筆を手に取った。
衛士の返答を待っていても、聞こえては来ない。手元から目をあげて、衛士を見る。アルセイが返事を待っていることに、はっとした様子の衛士は慌てて、言う。
「男だ、年は八つだ。あんたのところの、子供と同じくらいか」
「はぁ、あの子は、拾い子なので、はっきりとした年はわからないんですよ」
「そうか、その子をどうする?」
「いや、まだ決めかねています。……腹を下すのは食事の後ですか?それとも、特に決まっていませんか?」
「……」
返事のない衛士を見ると、じっと外の様子を窺っている。
そして、にやりと口元をゆがめると刀の柄に手を置き、そっと抜きはらう。
窓から差し込む光を受けて、鈍く光る、その、切っ先をまっすぐにアルセイに向けた。
「……そのようなことをしなくても、私はあなたを害したりしませんよ」
「動くな」
アルセイは聴こえていたレイの声が聞こえないことに気付く、じっと耳を澄ますと、ランの抗うような声と、男の足音が聞こえた。
戸をくぐったのは、大柄な衛士、その肩にはぐったりとしたレイが乗っている。
抵抗したのだろう、土と泥にまみれ、引きずられてきたランはアルセイの前の土間に投げられた。うめき声をあげ、土間にうずくまる。
「ラン!」
「動くな」
ランに駆け寄ろうと浮かした腰を、衛士の切っ先がランに向くのを見て、ゆっくりとおろした。
「なんの用があって、こんなことをする!」
アルセイの問いに答えることなく、あらかじめ手筈を整えてあったのだろう、二人は言葉を交わすことなく、視線だけを交わし、大柄な衛士がまだぐったりとしているレイを柱に括り付け、ランとアルセイは両手を背中で合わせて、縄できつく括られた。
その痛みにランは顔をしかめるけれど、叫ぶことも、泣くこともなく、心配そうにじっとレイを見つめている。
衛士は手にした光る切っ先を再びアルセイに向ける。
「ちょっと、道案内をしてほしいだけだ」
「……私が知っている道など、あんたたちも知っているだろう」
「獣人の里だ」
「…そんなものがあるのか?聞いたこともない」
衛士はアルセイの言葉を聞くや否や、迷いなく刀をアルセイに振り下ろす。
アルセイの耳から頬にかけて、衝撃が走り、火がともったような熱を感じた。次の瞬間、鋭い痛みが広がり、アルセイの頬から首にかけて、赤い血が流れた。
「いや、いやー!」
ランの悲鳴が響く。
拍動に合わせて痛みがアルセイを襲う、息が苦しく、意識が薄れそうになるのを堪えた。
「獣人の里に案内してもらおう」
「……」
ロイの丸い目が悲しそうに揺れている様子が、瞼に映る。
この五年、彼らの努力を見てきた。家を建て、荒れた土地を耕した。わずかながらに収穫できるようになってきた。人であるアルセイはできることなど限られていた。そして、人に対する警戒心の強い彼らの信頼を得ることは難しかった。
やっと、ここまで来た。
薬草を売り買いすることで、彼らの里にわずかながらの銭を落とすことができた。街で見かけら獣人の子を里に送ることができた。
やっとここまで来た。
ここで、衛士に里を教えるということが、その努力を無に帰すこととわからないアルセイではない。
ここで死を厭うことをためらう理由などない。
「……そんなもの知らない!」
来るだろう衝撃に身構えるが、その衝撃は来なかった。
衛士を見るとアルセイに笑いかけ、振り上げた刀を振り下ろした。
「やめろーーー!」
ぐったりと柱に括り付けられていたレイの左肩から胸にかけて、白刃が走り、赤い血が衣を濡らした。
「いやー!レイ!レイ!」
ランの悲鳴が響く。
土間で横たわっていたランは身を起こし、レイににじり寄ろうとした。しかし、血に濡れた刀を手にした衛士にしたたかに蹴り飛ばされた。
「おとなしくしていろ」
「……やめろ、やめてくれ」
「難しいことじゃない、あんたはただ、獣人の里に行けばいい。誰かが付いてきていたとは知らなかった。それでいいだろう?」
「やめろ、やめてくれ。どうしてなんだ、どうして、里を知りたいんだ。彼らが何をした?彼らはそこで生きているだけだろう彼らはただ生きることも許されないのか」
「あいつらは獣だ、人に害をなす獣だ。狩られて当然だろう?そんなことも忘れてしまったのか?あんたは呪力と一緒に人の心も忘れちまったんだな。こんな無駄話してる時間はない、立て」
縄を引かれて、アルセイは立ち上がる、血が流れているためか、痛みのためか、絶望のためか、クラリと目の前の景色が回る。
「おい、しっかり立て」
その声がぼんやりと聞こえ、腹に衝撃が来る。あまりのことに膝をつく、息が苦しく、目がかすむ。
「アルセイさん、大丈夫?」
涙で目を濡らしたランがアルセイの顔を覗き込んでいた。
「……ラン」
「おい、行くぞ」
ぐっと縄を引かれ、足がもつれる。転んでしまいそうになるのを堪え、ランに無理やり、笑った。
「ラン、大丈夫だ。レイの傷もそんなに深くはないだろう」
正直なところ、レイの傷は浅くはない。しかし、ランをこれ以上、不安にさせたくはなかった。
衛士に促され、アルセイは裏の泉にむかう。置いていくものと思っていたランの縄を引いた衛士を見つめる。
「おい、その子は関係ないだろう。置いていってくれ」
「いや、あんたが正確な道を教えてもらうための、お守りってとこだな」
「そんなことをしなくてもいい」
「あんたは黙って、行けばいい。早くしないと、この可愛い顔に傷がつくかもしれないな」
衛士は刀を鞘に戻し、懐の短刀を手にした。にやりと笑うと、ランの首に刃を向け、柔らかな皮膚を切り裂いた。つうっと、赤い血が首を伝う。
「や、やめろ。やめてくれ。もう、たくさんだ」
「行け」
アルセイは何度も通った山道を歩く。意識が時折、遠のくけれど、足が止まるたびに後ろから、したたかに蹴られた。
右手に大きな樹木が見えたところで、沢をあがる。顔をあげ、空を仰ぐと、まっすぐに上る一筋の黒煙が見えた。それは獣人の里の方角だった。
「あ、」
「おい、始まっているぞ。畜生、遅くなったか!もう、ここまで来たらわかるだろう」
衛士は荷から、何かを取り出し、火をつけた。それはモクモクと激しく、煙を吐き、その煙はまっすぐに伸びている。そして、沢の横の木の幹に赤い紐を括り付けている。
「なんだ、何がどうなっているんだ?」
アルセイは衛士に問う。
「俺たちは奇襲部隊だ。もうすぐここから、衛士が来る。獣人の里への通路を何としても、二方向確保したかった。一匹も逃さない」
そう言い捨てると、二人の衛士はアルセイとランを残して、走り去ってしまった。
アルセイは呆然と黒煙を見つめる。青い抜けるような空に禍々しさを感じるような黒い煙は、二本、三本と数を増やしていく。
その場に座り込み、動くことができなかった。里の者たちを思うと、駆け付けたかったが、体は動かない。
ロイは刀を振っているのだろうか、ミランナは術を使って、ロイや里の者を斬っているのだろうか。
ロイなら容易くミランナを斬ってしまうだろう、しかし、たくさんの衛士が押し寄せている。ロイのほかに戦えるものがいるのだろうか。
思考はとめどなくあふれている。
「アルセイさん、泣かないで」
目を真っ赤にして、涙をこぼしているランがすり寄ってきた。ランの涙をためた目をみて、アルセイは自分が泣いていることに気づく。
「……ラン。すまない。怖い思いをさせてしまった」
縛られた手は動かないため、この小さな肩を抱き寄せることもできなかった。
――あぁ、神は、なんと残酷なのだろう。
とめどなくあふれる涙で黒煙さえも見えなくなった。
「ラーン!」
遠く響く声にランはパッと身を起こす。
「レイ!」
「ラーン!!」
その声は大きくなってくる。
「アルセイさん、レイだ。レイだよ!無事だったんだ!」
涙で濡れた目を細め、ランは大きく声をあげ、レイを呼ぶ。
「レーイ!」
突如、ふわりと森の奥にいるような爽快な香りが広がった。
すると、草を分ける音なく、トンとアルセイとランの前に一人の女、キーレンが降り立った。
その女はまるで空から降り立ったように突然、その姿を現した。
その背から勢いよく飛び降りて、ランに抱き着いたのはレイだ。
打ち据えられ、腫れていた頬はすっきりとしており、斬りつけられ、血を流していた肩も難なく、動かし、ランの肩を抱いている。
「レイ!良かった」
「ラン!」
二人は眩しく笑った。
旅の途中だというキーレンはいつも身に着けていた長い外套を身につけていない。ほっそりとした体、とがった顎、凡庸な茶色の髪は高く結われている。どの村にも居そうな少女だった。
しかし、髪と同じ茶色の瞳は炯々と光り、どう猛な鳥のような鋭さがあった。
アルセイはその瞳を見た瞬間、背筋に冷たいものが当たったように背を震わせた。
そして、キーレンのその纏う香りは、間違いようのない呪術の香り。
「あ、あんたは一体」
ガサリと下草が揺れ、息を切らせているのは、サラスイだ。
「サラスイ。遅い、先に行く」
「あぁ、キーレン、待て!」
そのサラスイの姿を見るや否、キーレンはふわりと飛び上がり、木の枝につかまると、その勢いのまま、足を振って、隣の木に飛び移る。
次々に木々の枝を捕らえ、すぐに見えなくなってしまった。
しかし、呪術の香りだけはまた濃く漂っている。
その背にサラスイは仕方のない人だと、小さく息を吐いた。
そして、アルセイのきつく縛られた縄を解き、血に濡れた頬にそっと手を伸ばす。
「アルセイ殿、怪我はこの顔だけですか?」
「あ、あぁ」
ふうと息を吐いたサラスイは小さく呪文を口にする。辺りには濃く爽快でありながらも甘い香りが漂う。
サラスイの手がそっとアルセイの頬に触れた。じんわりと温かく、心地よかった。
思わず瞳を閉じて、大きく息を吐く。
ゆっくりと瞳を開けると、赤にも青にも見える不思議な瞳があった。血に濡れ、拍動に合わせて痛んでいたはずの頬に手をやると、傷は閉じ、乾いていた。痛みもわずかに残ってはいたが、ほとんど気にならない程度だった。
「あなたは、あなた方は呪術師なのですね」
サラスイはほんの少し頷いた。
後から、衛士がやってきていることを思い出したアルセイはとっさに後ろを窺う。
「衛士が、後からやってくると!」
「大丈夫です。さぁ、聞きたいことはたくさんあるでしょうが、急ぎましょう。キーレンの暴走を止めねば」
「すごい!すごい!おっさんの怪我が治った!」
「レイの怪我も治してもらったんですね。ありがとうございます」
「いや、これはキーレンだ。私は打撲痕まで治せはしない」
レイの腫れていた頬はそんなことがなかったかのように跡形もなく消えていた。ここまでの治癒は見たことがない。
キーレンという女はいったい何者なのだろうか。アルセイにはわからなかった。
サラスイはためらうことなく、ランを背負い、アルセイを立たせると、駆け出す。
「アルセイ殿、血の気が減っています。ふらつくでしょうから、気を付けて」
「よし、行くぞ」
レイはアルセイの手を取る。小さな手が温かかいことが嬉しかった。