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「アルセイ!水汲みも、洗濯も終わったぞ!次は何する?」
レイは白い歯を見せて、アルセイのもとに駆けてくる。足の傷はすっかり良くなった。ランも体調がずいぶんよくなり、簡単な作業をこなせるまでになった。
――いつまでもここにいる訳にはいかないな。身の振り方を考えないと。
「レイ、今はもういいぞ。ランは少し休もうか」
「大丈夫、無理はしてないから、私、レイと一緒にいたい」
ランはにっこりとレイに笑いかける。
「そうか、なら無理しないで、早めに戻っておいで。レイ、山にいくんだろう?あまり奥までいくなよ」
「わかってるよ、アルセイは心配しすぎだよ」
行こうと、レイはランの手を取り、木立に消えた。
入れ替わるように、小道の向こうから、やってきたのは、ここの所、アルセイに薬草を売って路銀を稼いでいるという、二人、サラスイとキーレンだった。
貴重な薬草を持ってくるために、有り難くはあった。けれども、どこか釈然としない。
ただの、旅人と言われれば、そうなのであるが、アルセイは彼らに会うたびに、胸に何か引っかかるような違和感があった。
「こんにちは、アルセイ殿」
サラスイは袋に入った薬草を板前に並べた。はやり、貴重な薬草ばかりだ。
「ありがとうございます。いつも貴重な薬草ばかりで、助かります」
「いや、こちらも心許なくなった路銀を補えるので、ありがたい」
「そうですか。あまり多く支払えなくて申し訳なく思ってはいるんですが」
「構わない」
「はあ、そうですか」
一体、何の目的があるんだと問いただしてしまいそうになるのを、ぐっと抑え、アルセイは笑った。
サラスイの青にも赤にも見える不思議な瞳に、目が留まった。
――この瞳…、どこかで……。
しかし、いくら思案しても答えは見つからない。
「いつから、こうして薬草を扱っているのですか?」
若い女の声にアルセイは、ハッとした。
「あ、あぁ、5、6年になるかな」
「それまでは何を?何をされていたのですか?」
「……、はあ、まあ、別の仕事ですよ」
「どういった経緯で、薬師になられたのですか?」
「ここいらには、薬師がいなくて、もちろん呪術師もいない。怪我や病気をしたときに、頼りになるのは年寄りの知恵ってとこだったんだ。まあ、見るに見かねてな……」
「そうですか、ご立派ですね」
アルセイの言葉を間に受けてはいないことは明白だった。あまりに白々しい会話に、アルセイは嫌気がさしてきた。
「これから、出かけますので、もうよろしいでしょうか」
「あぁ、時間を取らせてしまったな、ありがとう、失礼する」
二人は連れ立って、小道に消えるのを待ってから、アルセイは身支度を整え、山に入った。
アルセイの小屋の裏手の泉から、沢を登る。ゴツゴツとした岩に足を取られながら、しばらく進む。
すると、右手に大きな木が見える。そこで沢から上がり、獣道を進む、大きな岩を左手に逸れて、ひたすら真っ直ぐ進むと、ひっそりと集落がある。
集落の周りは深い森に囲まれており、知らずに来れるところではない。
集落の門にぶら下がる、土鈴を、カラリンと鳴らし、アルセイは迷うことなく入っていく。
「あっ!アルセイ!!」
水場で茶碗を洗っていた子供が走り寄って来て、アルセイに飛びついた。隠しきれない長い縞模様の尾がピンと立っていた。
「アルセイ、ここのところ、全然、来てくれないから、心配してたんだ」
「いろいろあって、来れなかったんだ。ロイはいるかな?」
「うん、ちょうど、昨日、来たよ。呼んでくるね」
洗いかけの茶碗をそのままに走り去ってしまった背中に、アルセイは仕方がない奴だと息を吐き、しゃがみ込み、茶碗を洗った。
「アルセイ、お前、何をしてるんだ?」
「あぁ、ロイ、あいつ、茶碗を放っぽり出して行ってしまうから、」
懐から手巾を取り出し、茶碗を拭いた。
ロイはそんなアルセイを微笑みながら見ていた。
茶碗を洗い終わったアルセイとロイは軒の下に並べられた椅子に座る。
「これ、種芋だ。ここよりも寒い地域で採れるラショの仲間なんだ。ここらでも、うまく実が付くといいんだが、こればっかりはやってみないとわからないからな。あと、ララナの悪阻が酷いって言ってたから、マランの実を持ってきた。ちょうどいい具合に手に入ったから。煎じて飲ませてやってくれ、スッキリするはずだ」
「あぁ、いつも済まない」
「いや、何てことないさ」
呪術師を辞したサラスイは、この隠れ里を作ったロイに協力を惜しまなかった。
「あと、ラッカの根を買い取ってもらえると助かる。北の森に群生してたんだ。もう、乾燥していると思う」
「へぇ、ラッカの群生か、珍しいな。北の森は湿地帯でラッカはあまり適さないのだが」
「そうだな、俺も初めてみたよ」
「それから、街で兎の子を見つけた。明るくて元気な男の子だ、今は俺のところにいるんだが、人の子と一緒なんだ。離し難い」
「人の子とか」
「まぁ、急がないからな。二人と話してみるから、レイ、兎の子はここで暮らすのがいいと思っている」
「わかった」
「…」
アルセイはふと視線を感じ、背後を振り返る。しかし、働く女達や子供たちが遊んでいるだけで、いつもの集落だった。
「どうした?アルセイ?」
「いや、誰かに見られているような気がしたんだ」
ロイもじっと耳を澄まし、あたりを伺うけれど、異変は感じられなかった。アルセイとロイは顔を見合わせた。
「最近、俺のところにおかしな二人の旅人が来るんだ。路銀を補っているというが、なんだか胸騒ぎがする」
「実はこの村も、おかしなことが続いている。もしかしたら、砦の衛士に見つかったのかもしれない」
「……そうか」
あとになって、この時あたりを、しっかりと探索しなかったことを、アルセイは深く後悔することになる。
◇◇◇◇◇
高い鳴き声をあげて、晴れた空に鳥が羽ばたいていった。モラガイン山脈の頂きはいつも、雪がかかっているが、少しずつ雪が多くなってきている。
「アルセイ!ミランナが来たぞっ!」
レイは小屋に飛び込んできた。息を切らせて、白い歯を見せ、瞳をきらめかせている。
「また、飛んでくれるかな?」
「レイ、呼び捨ててはいけない、きちんとミランナさんと呼べ。それにそんなこと頼むんじゃないぞ」
「だって、ランは見たことないから、ランにも見せてやりたいんだ」
「そうか…、でもな、お前達に気安く見せていい代物じゃないんだぞ?」
俺に呪力がまだあれば、いつでも見せてやれたのになと、あの日、呪力を還して以来、初めてアルセイは悔んだ。
そのことに、苦く笑う。
呪力を還して後悔することがあるだろうかと、そのとき考えた。父や母の苦々しい顔が浮かび、家族に迷惑をかけることが気がかりであった。
しかし、悔やむことはないと思った。
「アルセイ殿、失礼してもいいだろうか?ミランナだ」
三月ほど前から、薬湯を調合し、体の調子を見ているが、症状は思うようによくはならない。
むしろ、徐々に悪化しており、ミランナの頬はこけ落ちていた。
きりりと結ばれ、しなやかに流れていた髪もすっかり艶を失い、瞳はどんよりと澱んでいた。
「ミランナ殿。まずはこちらに座ってください。体調はあまり良くないようですね」
コクリとミランナは頷き、促されるままに座った。
「茶を沸かします、しばらくお待ちください」
アルセイは囲炉裏で緊張のほぐれる効果のある薬湯を煎じる。ミランナは目を伏せたまま、いつものように何かを思い悩んでいるようだった。
ミランナは手渡された茶碗を手にし、口にふくむ。
「…アルセイ殿、アルセイ殿はなぜ、呪力を還されたのですか?強大な呪力だったとあなたを知る者はみな、言います。それほどまでの力を持ちながら、一体なぜ?」
「ミランナ殿が、なにを思い悩まれているのか、私にはわかりかねます。だから、私が呪力を還した理由があなたの悩みを軽くするとは、いえない。それでもと言われるのでしたら、……私は、もう呪力を使う理由を失ったのですよ。呪術師であるという、私を捨てたのです」
「……呪術師であることを捨てた?」
「はい、そうです」
ミランナはずいぶん、長い間、黙り込んでいた。
アルセイはそんなミランナに声をかけるわけでもなく、ただ、傍で薬草を仕分けたり、細く砕いたりしてした。
外からは、レイの賑やかな声が聞こえ、開け放たれた戸からは、柔らかな風と光が入っている。
ゆらゆらと舞う小さな塵がキラキラと光っていた。
「アルセイ殿、私はなにもわかっていなかったのです。呪術師であるということを、何もわかっていなかった。何かを守るということが、何かを傷付け、殺めることだということを全くわかっていなかった。……初めて、この手で肉を割き、骨を砕いた、あの感触がまだ手に残り、苦痛に満ちた目が私を捉えて離さない。耳には呻く声、私を恨む者の声がいつも聞こえる」
ミランナは青龍の宮に属してから、王都での警備に配されていた。
王都での警備を任としていれば、人を殺めることはないだろう。王都は青龍の宮の呪術師による見通しの術に守られており、罪を犯すものは少ない。突発的な犯罪がほとんどであり、それさえも、瞬く間に知れわたり、衛士に取り押さえられる。しかし、治安のいい王都とは異なり、辺境での国境の警備はそのようなわけにはいかない。
ミランナのように、任の重さに耐えきれない者もいると聞く。
「ミランナ殿、青龍の宮に、王都に配属を戻していただいてはどうだろうか。王都の警備であれば、そのような負担を感じることもないのですから。今、配されている指揮官のモルコス様は、少々過激な方だ。血なまぐさいことを厭わない。王都に戻られよ」
アルセイの言葉はミランナには届いていないようだ。
じっと瞳を閉じている様子は何かから心を閉ざしたように見えた。
「……私はもう、逃れることはできない。私の為したことは、変えられないのですから、それに、私が辞したところで、代わりの者が配されるでしょう」
「……そうですね。おそらく、遅かれ早かれ、後任の呪術師が配されるでしょう」
「なら、もうここまで来たのだ、行きつくところまでいかねばならない」
「どういう意味ですか?」
「この手を汚すのは私だけでいいということです」
その言葉の意味をミランナはアルセイに語るつもりはないのだろう。暗く澱んだ瞳がまっすぐに空を見つめていた。
アルセイはミランナの意志を感じ、あえて問わずにいた。
「アルセイ、ミランナ、入ってもいい?」
是か非かの声を確認することなく、レイが小屋の中に入ってきた。
「レイ、何度も言っているが、ミランナさんだ。呼び捨てにするんじゃない。どうかしたか」
「なあぁ、やっぱりさ、オレ、ランに見せてやりたいんだ。だって、ほんとにすごいじゃないか、ふわって飛んでさ、かっこいいし、ランはいいっていうけどさ、見たいにきまってるんだよ」
ミランナの澱んでいた瞳がほっと柔らかくなった。
「呪術が見たいのか?こんなものでいいのなら、いつでも言えばいいのに」
ミランナはニコリと頬を緩める。
ミランナの言葉を聞いたレイはパアと表情を明るくして、やったーと表に駆け出して行った。おそらく、ランを呼びに行ったのであろう。
「誰かに喜んでもらうことなど、ないと思っていた。私の呪力は人を傷つけることしかできないと思っていた。いい思い出になる」
過激なことを厭わない指揮官のもとで、任をこなすことは、ミランナには負担なのだろう、また、折を見て、王都へ戻ることを勧めようとレイを追って外に出ていくミランナの背にアルセイは思った。
レイとランの無邪気な笑い声が聞こえていた。