4
夕闇はまだ淡く、雨の臭いが濃く立ち込めていた。
遠くで響く剣戟、アルセイは必死に駆けていた。
大きな広葉樹の下まで来て、アルセイは息を整え、耳を澄ます。
今朝、ロイの様子がおかしかったことに気付いていながら、深く追求しなかったことに、今さらながら後悔していた。
非番にも関わらず、砦に来ていたロイはそわそわして、落ち着かなかった。
「そんなに、仕事熱心にしても体を壊すだけだぞ。休みの日はしっかり体を休めないと」
「いや、今日はアルセイさん、お休みじゃなかったかなって」
「あぁ、休みの予定だったんだが、砦に青龍の宮からの通達があって、どうやら今日使者が手紙を持ってくるらしいんだ」
「そ、そうなんだ」
「なんだ?何か用事でもあったか?」
「いや、何でもないんだ。別に何でもないんだ。ただ、アルセイさんの体を休めてほしかっただけなんだ」
「そうか、ありがとうな。昼までに使者が来れば、昼からは休むことにするよ」
「そっか」
ロイは困ったように笑って、砦を後にした。
昼前に使者がやってきた。アルセイは青龍の宮の長、ナラティスからの書簡に目を通す。
青龍の宮、その宮は呪術師の精鋭が属し、王に仕える。青龍の宮に属することは呪術師としての、誉である。アルセイもその末席に名を連ねた時には、父も母も我がことのように喜んだ。
そして、その青龍の宮の長は、呪術師として右に出る者のない強力な呪力を有する。幼いころ、その呪力が目覚めると、宮の長は必ず気づくとされている。そして、その者を迎え入れ、王台に上げ、宮の長となるための特別な養育を受けることになる。ナラティスが宮の長となり、ずいぶんと経つが、王台はまだ、空席のままだ。青龍の宮の歴史は決して浅くはないが、ナラティスは始まって以来の低能者と呼ばれている。思慮深さを感じさせる温かな眼差しを持つ、小柄な女性だ。その宮の長と直接、話したことは、数えるほどしかない。
その青龍の宮の長、ナラティスからの書簡は、流れるような美しい文字で記してあった。
――思うままに、なすが良い
アルセイはこの書簡の意味が分からなかった。
青龍の宮に属している以上、呪術師としてこの国に尽力することを求められている。自分自身の思うままに行動することは、すなわち、呪術師として、行動することである。
思うままという、宮の長の言葉の意味を、アルセイは掴みかねた。
書簡を眺めたまま、アルセイは砦にとどまっていた。
勢いよく、砦に駆けこんできた馬から、転げ落ちるように衛士が知らせを運んできた。
「商隊が峠で襲われていますっ!」
アルセイは傍らの太刀を手に、馬を走らせた。
今年の夏は冷たい雨が多く、穀物の生育も芳しくなかった。山に住む獣人たちもまた、食物を求めていたのだろうか。野山のエサは少なくなっていたのだろうか。
山道で馬を駆けさせていたが、草むらから、一匹の兎が飛び込んでき、それに、驚いた馬は、大きく嘶き、前足を高くあげ、アルセイを振り落とした。その興奮を抑えることができないまま、馬は走り去ってしまい、アルセイは小さく舌を打つ。そして、耳に届いた剣戟に向かって、走り始めた。
商隊が雇っていた護衛達は、息を切らして、太刀を構えていた。傷つき、今にも息絶えてしまいそうな獣たちと、護衛の者が累々と横たわり、辺りには血の臭いと獣の臭いが濃く立ち込めている。
アルセイは軽く、眉間にしわを寄せ、その中のまだ立っている一人の護衛の者に声をかける。
「砦の者だ、援護する」
「ありがたい。他の者はかなりやられた。荷馬車は逃がさずにあの先の泉の前の草地にとどまっている。この先に進ませないように、たのむ」
「わかった」
「一人、やたらと腕の立つ奴がいる。今、茂みに身をひそめているが、動きが速い」
あたりは徐々に、闇が迫ってきている。
アルセイは太刀を抜き、正面に構え、呪文を小さく口にする。
呪力の香りが濃く立ち込め、血の臭いを消していく。そして、大きく太刀を振り上げ、一気に茂みを薙ぎ払った。
ヒュっという音に少し遅れて、うっそうと立ち込めていた木々が、ガザガザと倒れていく。
勢いよく飛び出したアルセイは、その倒れる木々をさらに切り刻んでいく。それは、剣舞のようにしなやかで美しかった。
すっかり見通しの良くなったそこに、困ったように笑って立っていたのは、今朝も言葉を交わしたロイだった。
その手には血に濡れた太刀が握られている。
「アルセイさん、昼からはお休みするって言ってたじゃないですか」
「ロイ……」
「お休みの日は体を休めないとダメだって、言ったじゃないですか。どうしてここにいるんですか」
「どうして、お前がここに、いるんだ?」
「ここに来たら、斬るしかないんですよ」
言い終わらないうちに、ロイは身をかがめ、アルセイに一気に飛び込んできた。
ロイの一撃を、アルセイはやっとのことで受ける。
手がしびれるほどにその一撃は重く、アルセイの背中に冷たい汗が流れた。
ロイはニコッと微笑むと、パッとアルセイから離れる。
ロイは微笑みを浮かべたまま、アルセイに一撃を加える、次々と繰り出される太刀を受け流すのが、精一杯で、重さに手の感覚が奪われていく。
アルセイは息を乱し、打ち返すことができず、ただその攻撃をかわしていた。
獣人の襲撃だと聞いていたにもかかわらず、ロイはアルセイに太刀を向けている。
ロイはなぜ、獣人の味方をしているのか、
情報が異なっていたのか、異なっていたなら、なぜ、ロイは商隊を襲っているのか、
アルセイはわからなかった。その混乱が太刀を鈍らせている。
しかし、ロイの攻撃は止まるどころか、いまだかつて見たこともないほどに、冴えている。
何かを振り切ったように、迷いのない太刀は、いつものロイの太刀とはまるで違う。
決め手に欠けた、ただ逃げるだけの太刀であった、ロイに何があったのだろうか。
「よそ事、考えている余裕があるんだね」
肩で息をするアルセイとは、反対に、ロイは全く息を乱すことなく、ゆったりと太刀を構えている。
「本気で行くよ?アルセイさんも呪力を使わないと、斬られてしまうよ」
「何故だ?ロイ!」
一気に間合いを詰め、懐へ飛び込んできたロイの太刀をアルセイは半身を引いて、寸前のところで避ける。しかし、その身を追いかけるように、ロイは太刀を薙ぎ払う。アルセイもまた、ギリギリのところで太刀をかわす。
「ロイ!私は斬れない!」
「俺は斬るよ。守るって決めたから」
ロイの太刀が鳴り、迷うことなくアルセイを斬りつける。避けきれないアルセイは太刀で受け流す。
「何故だ、ロイ、話してくれ!」
「アルセイさん、俺の仲間はみんな、あんたに斬られて死んだよ。あんたは優しいから、致命傷じゃなかった。でも、傷は治らない」
ロイの顔から微笑みが消えている。重い太刀を振るいながら、ロイは言葉を重ねる。
「みんな、死んだよ。でも、恨んじゃいない」
ロイの太刀を受け、痺れる手で必死に太刀を握る。ロイの言葉はアルセイの耳に入るけれど、上手く理解できない。
「ど、どういうことだ?」
「わからないかな」
アルセイの戸惑いは、太刀を鈍らせている。その迷いを振り払うように、アルセイはロイの太刀を弾き返す。
その勢いのまま、太刀をかえし、ロイに大きく振りかぶり、小さく呪文を口にする、あたりには、辛みを帯びた爽快な香りが一気に広がる。
アルセイは太刀を強く握り、振り下ろそうとしたまさにその時、ロイが困ったように笑っているのが、目に入った。
逃げるでなく、恐れるでなく、ただ、アルセイの太刀を受ける覚悟を済ませたように微笑んでいた。
アルセイはそんなロイに太刀を振り下ろすことが出来なかった。
そして、その一瞬の隙に、ロイの太刀が刀鳴りを響かせ、アルセイに振り下ろされる。
その一撃をアルセイは受け止めることが出来ずに、太刀は大きく弾かれ、離れて落ちた。
アルセイは息を切らせ、膝をつく。
呪力を含んだ匂いは風にかき消された。
「どうして、止めたの?呪力を使わないの?」
「ロイ、教えてくれ」
「……難しいことじゃないよ」
太刀をおろし、困ったように笑って、アルセイを見下ろしていたロイの身体が一瞬、溶けたように曖昧にぼやけた。
そして、目の前には、大きな狼がいた。
「俺は獣人なんだ。獣人は獣人ってだけで、斬られる」
狼は大きく跳躍し、アルセイにのしかかる。重さに息が詰まった。
太い前脚に肩を押さえつけられ、長い鼻と鋭い牙が目の前にあった。
熱い呼気がアルセイの顔にかかり、アルセイは顔を背け、目を閉じる。
この牙を首に立てられれば、ひとたまりもないだろう。
「アルセイさん、どうしてなんだろう。どうして獣人ってだけで、生きることを許されないんだろう。なかまは子供を産んだよ。五匹の可愛い子供だ。でも、この山じゃ、食べることが出来ないんだよ。お腹を空かせた子達に食べさせてやりたいんだ。そんなことも望んではいけないのか?山は恵みを与えてはくれない、街は俺たちを受け入れてはくれない、死に絶えろと?俺たちは生きることを許されないのか!獣人だというだけで!」
狼の咆哮が悲しみを帯びて、響いた。
押さえつけられていた肩は軽くなったが、ロイが獣人であったという事実はアルセイの心を重くさせたままだ。
いつの間にか狼たちの気配が消えていた。
アルセイは闇が濃くなっても立ち上がることが出来なかった