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 夜明け前に雨は上がり、雲の切れ間から、朝日が差し込む。細く長い雲が、朝の太陽の光をうけて、紺から紅へと染まっていた。


 アルセイは起きると、荷の中から軟膏を取り出し、レイの右足に貼り、ゆっくりと歩かせた。そして、ランは背負って、モラガイン山を進む。

その道のりを子供の足で進むと、一人きりで進むよりも、ずいぶんと時間がかかった。けれども、右足を引きずりながらも、くるくると表情を変えて、ひっきりなしに話すレイを眺めていると、あっという間だった。

 山道を逸れて、細いけもの道を進み、大きな樫の木を左に曲がると、視界が急に開け、泉の湧き出る草原に小屋がぽつんと立っている。そこがアルセイの住まいだった。

「レイのところよりは広いからな、三人で寝ても、蹴られることはないぞ。レイ、裏に小さな泉があるから、そこでとりあえず、足を洗え。できたら、体も洗って来い」

「うん、わかった」

 アルセイの投げた手拭いをしっかりと受け取り、レイは駆けていく。

 ランは囲炉裏のそばの敷物のうえにそっと横たえた。やわらかな布をかけて、ここで休むよう声をかけ、泥にまみれた足を清めるために、泉にむかう。

「うへー、つめてぇ」

 いつも雪をかぶっているモラガイン山の湧水は冷たい。身を切るような泉にレイは素っ裸で漬かっていた。手拭いでゴシゴシと足や、腕をこする。

 するとその身は、真っ白で、汚れて絡まっていた髪を梳くと、意外にも整った顔立ちの少年であった。

「へぇ、お前、男前だな」

「なんだそれ?」

 レイの暮らしぶりからは、想像できないほど、レイの体は健康そのものであった。アルセイの胸騒ぎが強くなる。

 小屋に戻り、囲炉裏の火を起こし、湯を沸かす。米とラショで粥を作り、レイと供に、ふうふうと冷ましながら、口へ運ぶ。あたたかな物を体に入れると、中からじんわりと熱が広がっていく。

 アルセイはホッと息をついた。

 囲炉裏の火にあたり、ランの体は温まったようで、わずかに頬に赤みがさす。アルセイはランの体を起こし、背中に敷物を丸めてもたれさせた。そしてその口元に、そっと粥を運ぶ。何度も何度もゆっくりと少しづつ、レイの平らげた粥と比べれば、ほんのわずかではあるが、ランは粥を飲み下していく。

「よかった、ラン、食べれた。そんな風にしたことなかったや」

「体が弱ると、元気な時とは食べられるものも変わってくるし、こんな風に食べさせてあげないと、食べられないものなんだ。油で揚げたものや、生のものはなかなか喉を通らないんだ」

「そっか」

「こうして、少しずつ食べて、元気になれるといいが、俺は薬草師だ。病気を治せるわけじゃない。病気を治すのはラン自身だ」

「薬草師ってなんだ?」

「そうか、お前は薬草師も知らなかったか。薬草師は、薬を扱う。その人の状態に合わせて、薬を選び、体と心の調子を整える。しっかりとその人の話を聴き、その状態になった原因を探るんだ。例えば、ランは低温と栄養不で動けなくなった可能性が高い。衛生的にも環境は良くなったから、腹を壊しての脱水と低栄養が考えられ……。……とまぁ、こんな感じでだな、いろいろ考えるんだ。そして、ランには暖かな寝床と温かな食事だ。そして、レイはこの右足、ここには腫れを抑えて、毒を体の外に出す作用のある膏薬を貼り、しっかり食って、しっかり眠る。これが一番だ」

「おっさん、すごいな」

「すごくはないさ。呪術師の術にかかれば、二人とも一瞬でよくなるさ」

「呪術師?なんだそれ?」

「なんだ、お前は呪術師も知らないのか?呪術師は呪術を使う。その術はその術者によって様々だ。だが、ほとんどは見通しと治癒だ。見通しは過去や未来、世界のありとあらゆることを見ること、治癒は病気や怪我を治すことだ。呪術師によって術の精度は全く異なる。しかし、呪術者は誰でもなれるわけではない。生まれ持った力なんだ。……もしかしたら、ランにもその力があるかもしれないな。そうしたら、王と契約して呪術師になるための学校に通う。優秀な呪術者は王都に住んで、青龍の宮に配属されるんだ」

「へぇ」

 レイはどうでもいいと言わんばかりに、囲炉裏の前に丸くなり、居眠りを始めた。そんな様子を見てアルセイは頬を緩め、レイの肩にやわらかな布をかけた。

 囲炉裏を囲む子供たちを眺めてから、濡れてしまった荷をほどき、薬草の入った棚を確認する。残りのわずかなもの、まだ十分にあるもの、一つ一つ見ていく。足りないものは山で収集しなくてはならない、見知った者が薬草を買ってくれと持ち込むことも多い。現金の収入の少ない者にとって、アルセイの存在は意義のあるものであった。


 突然に増えた居候であったが、明るく元気に走り回るレイは働き者であったし、ランは少しずつ体調を回復させていた。アルセイ自身が驚くほど、この暮らしは穏やかで楽しく、過ぎていった。


 外から、何者かが馬に乗ってやってくる気配が湿り気を帯びた空気を通じて、アルセイの耳に届き、作業の手を止めた。

 何者かが馬上から降り、アルセイの小屋の戸に向かっている。その者たちが小屋の戸に手をかける前に、アルセイは外に出て行った。


 東から昇り天中へ向かう太陽は柔らかく、あたりの雨に濡れた草木を包んでいた。

その光の中に一人の女の呪術師がいる。周りの衛士とは違い、上質な外套に身を包み、腰には見事な細身の長剣を佩いていた。訪う前にアルセイが出てきたことに、一瞬、驚いた様子であったが、身構えるようなそぶりはなく、すらりとした足でゆるやかに歩みを進め、アルセイにニコリと微笑んだ。うなじで凛々しくひとつに纏まられた髪は、背後の美しい馬の亜麻色に似て、つややかに波打ち、明るい茶色の目を細めた。アルセイはその姿にしばし、目を離すことができなかった。

「私は国境の警備のために来た、青龍の宮のミランナだ。今日はモラガイン山の見回りを兼ねて、挨拶にきた。あなたの薬は良く効くと、みな言っている。これからも頼む」若い女の声とは思えないほど落ち着いた声だった。

「ありがとうございます。しかし、挨拶などの必要はないです。お気遣いなく、私はもう、ただの薬草師です」

おそらく、衛士の誰かが話したのだろう、前に呪術師として派遣されていた男が薬草師になってこの山に住んでいると。アルセイは心の中で大きくため息をこぼした。

「おっさん、なんの騒ぎだ?おっさんなんか悪いことやっちまったか?」外の騒ぎを聞きつけ、レイが外に出てきた。

 幼いレイの姿を見て、ミランナは頬を緩める。

「アルセイ殿の子か?」

「いや、怪我をしていたので、手当てをして養生中なのですよ。私に子はいません」

「オレはレイだ」

「私は呪術師のミランナ、よろしく」

 レイはちゃんと挨拶ができたことに得意げにアルセイを見上げる。その様子が可愛らしく、アルセイは頬を緩ませた。

「え?あんた呪術師って言ったか?じゃ、ランのこと治せる?病気を治せるんだよな、呪術師って?なぁ、おっさん、そう言ったよな?」

「レイ……」

「レイ、私は呪術師だが、病気は治せない。ついでに言うと見通しも苦手だ。私は剣を振るうしか能のない呪術師なんだよ」

 レイに歩み寄り、外套が汚れることもいとわずに、ミランナは膝まづいて目線を合わせる。

「……治せないのか」

「あぁ、すまない」ミランナはレイの頭を撫でてから、問うような視線をアルセイに向ける。

「この子と一緒に、様子を見ている子供がいるのです。少しずつ良くなっているのですが、レイはとても心配しているのです。呪術師であれば治せると以前、話したのですよ」

「呪術師にはみせないのか?」

「そんな金はありませんよ、私にも、この子にも。みせて治してやりたい気持ちはみんな同じです」

「そうだな」

 怪我や病気の治癒を呪術師に依頼すると、その代金は非常に高額である。そして、呪力の高さ、治癒能力の高さに応じて、その代金はさらに高額になることが一般的である。

 そのため、怪我や病気で呪術師のかかるのは、ごく限られた裕福な者たちだけであり、たいてい者は呪術を見たことがなく、青龍の宝と呼ばれたフローセイ・ナロナビのおとぎ話を母親から聞かされて知っているくらいだった。親を知らない子供はそのおとぎ話すら知らないため、呪術師を知らない。それほどまでに呪術は遠い存在であった。

「ここは国境が近い、なにかあればすぐに知らせてもらえると助かる」

 そう言い残し、ミランナと供の者は馬に跨り去っていった。


 その影が見えなくなり、蹄の音が聞こえなくなったとき、アルセイは小屋の裏手で様子をうかがっていた者たちの声をかける。

「行ったよ、出てきたらどうだ?ここは国境が近い、そのせいで獣人による被害も多い。警備の強化のために青龍の宮の呪術師が配されることが多い。それくらいは知っているだろう?」

「……何のことでしょう?武に優れた呪術師がいることで安心して街の人たちも暮らせていけることですね」

「あんたたちは、いったい何が目的だ?」

「はい、ここで薬草を買ってくれるとききました。路銀を賄おうと思ったのです。まさか、前にお会いした方だとは思いもしませんでしたよ」

「……そうか」

 嘘をつけとアルセイは言いたかったが、なんの根拠もなかった。目の前の男の瞳の色がゆらりとゆれたような気がして、なのかの目的があってここにいるように感じた。そして、サラスイの後ろにはこの前と同じように若い女が深く笠をかぶり、後ろに立っていた。

「まぁ、中に入ったらどうだ」

 アルセイは二人を招き入れ、ちょこちょこと動きまわるレイに水を汲んでくるように言った。


 不思議な二人だった。サラスイは落ち着いていて、穏やかな雰囲気を醸し出しているが、後ろについているキーレンという女はじっと様子を窺うように目を光らせている。サラスイの娘といってもおかしくはないだろう年の差のある二人であるが、親子とは到底思えない、夫婦とももちろん違う。二人の関係は想像できなかった。

 アルセイはサラスイが袋から出してならべた薬草を検める。その間、二人は土間で履物を脱ぐことなく、板間に腰を下ろし、ゆっくりと白湯を口に運ぶ。レイが興味深そうにアルセイの周りをちょろちょろと動き回る。その様子をサラスイは穏やかに微笑みを浮かべながら眺めている。キーレンはアルセイの小屋の中をじっくりと眺めていた。

「お嬢さん、うちに金目のものなんかないよ」

「あぁ、すまない。ぶしつけに眺めてしまった」

「珍しいかい、薬草を扱う者は比較的多いと思うが。……サラスイさん、薬草の知識があるんじゃないのか?ここに持ってきた薬草はほとんど、貴重で高価なものばかりだ」

「いや、私に薬草の知識はない」

「私だ、私の父と母が薬草を扱っていた。このにおいも、この雰囲気もあまりに懐かしくて、つい、見入ってしまった。父は仕事が丁寧な人だが、ことさら丁寧に扱っていた薬草を見つけた時に摘み取っていた。それから、怪我によく使っていた、薬草も見つけた時は少し摘むようにしていたんだ」

「なるほど、お嬢さんの両親がね。旅に怪我や病気は付き物だ、薬草の知識があるとないとではずいぶんちがうだろうな」

「おっさん、この葉っぱうまそうだな、食ってもいいか?オレ、よく食ったよ。ランはおいしくないって食べなかったけど」

「うぁ?!いや、やめておけ。腹が減ったなら、鍋に粥がまだ残っていただろう?」

「ん、腹が減ってるわけじゃないからいいや」

 レイは小さな手でつまんでいた葉をそっと戻して、ほかの薬草をじっと見ていた。アルセイは薬草の代金を支払う。また、寄らせてもらう。そう言って、二人は小屋を後にした。


 日々は穏やかに賑やかに過ぎる。レイはいつも笑顔を見せて、アルセイの周りを走り回っていたし、ランもゆっくりと快方に向かい、起き上がる時間も多くなっていた。


 やわらかな日差しが、差し込み、少し風が強く、山の木々がざわめいていた。風の切れ間に高く鳴く鳥の声が響いていた。

「もし、すまないが、薬を見立ててもらえないかな」

 アルセイの小屋の戸を開けたのは、ミランナであった。一見すると呪術師とはわからない若い娘のような衣を身に着けていた。しかし、若い娘が好んで身に着ける、髪飾りも帯飾りもなく、色合いも地味で華やかさに欠けた。また、腰には愛用の刀より短いものであったが、佩刀していたために、なんとも不思議ないで立ちであった。

「こんにちは、ミランナ様、どうされたのですか、このようなところにお越しになるなど、しかも、今日はお休みですか」

 ミランナの衣を見て、アルセイはそう判断した。しかし、ミランナの腰には刀がある、少しの間、その刀を見ていたせいか、ミランナは刀にそっと手を置き、困ったように頬を緩めた。

「私には刀を振るう以外に何のとりえもないのだ。刀を持たないことは何とも心もとない。この姿には似合わないとわかっていても、持ってきてしまう」

 目を伏せたままのミランナにアルセイは声をかける。

「ところで今日は、どうされたのですか。山は穏やかで、商隊が通ることもないとのことですから、何もないとは思いますが」

「いや、今日は体調がすぐれないので、アルセイ殿に薬を見立てていただこうと思って、誰に聞いても、あなたが一番だというから」

「何を言われるかと思ったら、この町の者はみな、物を知らないのですよ。もう少し大きな街に出れば、薬草師などたくさんいます。ここは私しかいないから、みなそのようなことを言うのですよ。それにあなたでしたら、隣町の呪術師に頼めばすぐによくなるのではないですか?」

「あぁ、王都にいた頃に同じようなことがあって、呪術師に診てもらっていたこともある。でも、その時はいいのだけれど、またすぐ調子が悪くなる。だから、薬草師にかかっていた。ここのところ、調子が悪くて困っている、相談に乗ってもらえるとたすかる」

「……そうですね。どうされたのですか?」

 アルセイは大きく息をついて、ミランナに座るようにすすめ、小さな箱を引き寄せて、筆を手に取り、紙に筆を滑らせていく。その様子に驚いたようにミランナはじっと見つめる。

「紙は高価だけれど、書いて覚えておかないと、すぐに忘れてしまうんですよ。今の生活に不釣り合いだとはわかっているのですが、一度慣れた便利な生活は手放しがたいものです。すみません、話の腰を折ってしまいました」

「いや、今までの薬草師にそのような者はいなかったから、驚いただけだ、不釣り合いなどと思ってはいない」

 アルセイは困ったように一度、頬を緩め、話を待つように、手元に目を落とす。

「……ふわふわと目が回るような、体が浮くような不思議な感じがする、頭が痛くなり、気分が悪い、時には吐き戻してしまう。毎日ではないが、ここのところ続いている。馬上でもぼんやりしてしまうことがあって、必要以外はあまり乗らないようにしている」

「そうですか、肩や首に痛みはありますか?手足は冷たいですか?」

「肩と首はここのところずっと重く痛む。手足は冷たくて夜は特に冷えて、寝付けない」

 アルセイはミランナの顔色が前にあった時よりずいぶん悪くなっていることに気づく、明るいとは言えない屋内でも、目の下にはくまが見える。

「夜は冷えて眠れないだけですか?夜中に目が覚めたり、朝早くに目が覚めたりしませんか?」

「あぁ、そうだな。寝つきが悪いし、夜中に目が覚めるとなかなか、眠れないし、朝方に目が覚めるときもある。もう、あきらめて起きているようにしている」

「何か、ひどく思い悩んでみえませんか?」

 アルセイの言葉にミランナは言葉を詰まらせ、一瞬アルセイを見つめ、言いよどみ、うつむいた。何も答えないミランナにアルセイは、ニコリと頬を緩め、

「いろいろと悩むこともあるでしょう。私でよければいつでも話を聞きましょう。誰かに聞いてもらうだけで心は少しかるくなるものですよ」

 そう声をかけたが、本当にミランナがアルセイを頼るとは思ってはいない。

 ミランナは目を伏せたまま、うなずき、レイの沸かした湯をすする。

「なぁ、あんた呪術を使えるんだよな?オレ、見てみたい。どんなことできるんだ?」

 横になってうとうとしているランのそばで一緒に寝転んでいたレイはいつの間にか、ミランナのそばにやってきていた。

「おい、こら、レイ!何てこというんだ!」

「えー!ダメか?減るもんじゃないんだろ?」

「フフ、レイ、呪術はこの国の民のためにあるのだ。民のために呪術を使う。レイもこの国の民だ。レイを楽しませることができるとは思えないが、レイに呪術を見せてやることはできる」

「いえ、そのようなことはなさらないでください。レイの戯言に応えることはありません」

「いや、かまわない」

 ミランナは立ち上がり、外に出る。レイはぴょんと勢いよく立ち上がり、そのあとをついていった。

 外は穏やかな日差し、やわらかな風に乗って、鳥の声が聞こえてきている。小屋のわきの白い小さな花をつけている樹木に鳥が集まっているのだろう。

 ミランナは刀をゆっくりと抜く。

 片刃の紋の美しいまっすぐな刃は日差しを受けて煌めいた。ゆったりと正眼に構え、瞳を閉じて、何かを小さく唱えると、辺りには甘く少し苦味を含んだ香りが広がる。

 ミランナが膝をわずかに折り、飛び上がると、その体はふわりと浮き、アルセイの小屋の遥か上まで上がった。

 小屋のわきの大きな樹木の枝に、ひゅんと軽く刀を振るい、切り離された白い花のついた小枝を手にして、まるで羽根が舞い下りるようにレイの前に降りる。

 そして、その枝をレイに手渡した。

「おーーー!すげぇ!」

「そんなに難しいことではない、風の力を利用しているだけだ。少し早く動け、少し高く跳べる。ただ、それだけだ」

「レイ、この方はそんな風に言われるが、それだけではないのだ。その力を利用するために、たくさんの努力をされたのだ」

 レイの手から小枝をそっと取り、アルセイはその切り口に触れる。何のことかわからないレイは、ポカンと口を開けて、アルセイを見上げる。ミランナの切り落とした小枝の切り口はわずかなささくれなく、断面は滑らかであり、またミランナが刀を振るった枝はほとんど揺れなかった。

そのように早く正確に刀を扱えるようになるには、たくさんの時間と努力を必要としたであろう。

 ミランナは悲しそうに瞳を伏せて、困ったように笑った。

「そうだな、刀に触れない日などなかったな。この呪力を生かすために、剣技を磨くことに明け暮れたな」

「すごいな、あんた」

 そんなことはないさ、そう小さくつぶやいた声が今にも泣きだしてしまいそうに聞こえ、アルセイは踵を返し、小屋へと戻っていく。

「薬を用意しよう。一週間くらい様子をみて、また来てくれ。症状が緩和されないようなら、薬を変える」

 薬を大事そうに両手で抱え、ミランナは帰っていく。


「なぁ、オレもあんな風に高く跳べたらいいのになぁ。ランも絶対、びっくりするって」

 レイは去っていくミランナの背中につぶやき、空に腕を伸ばし、ぴょんぴょんと跳ねていた。

「えいっ!やっ!!」

 何度も跳ねるレイを見て、アルセイは頬が緩む。しかし、それは一瞬にして凍り付いた。

 レイの姿が一瞬ぼやけたように霞み、膨らむ。しっかりと形になったその姿はもとの姿とは異なっていた。


 ――レイは真っ白な兎の姿に変わっていた。


 モラガイン山には獣人が多い。獣人は人の姿を持つ獣であり、彼らに人としての理性はなく、道理は通じない。本能のままに生きる獣たちには獰猛で凶暴なものがいるために、恐れられ、厭われ、人と混じることはない。この山を通る商隊はしばしば、獣人に襲われており、この町も何度も獣人の被害に遭っている。

 この国の誰もがそう思っているけれど、それが間違いであることをアルセイは知っていた。


 本当の兎より、かなり大きいが、長い大きな耳と黒い円らな瞳、やわらかな毛並みは兎の姿そのものだ。何が起こったのかわかっていないのだろう、小さな鼻をヒクヒクさせ、長い髭が揺れていた。

「……レイ」

 アルセイの声はわずかに震えていた。レイは後ろ足で立ち上がり、アルセイの足に手を伸ばす。

「どうしちゃったんだ、オレ?」


 初めて会った時の俊敏な動き、劣悪な環境でも適応できる体、アルセイの胸騒ぎは当たってしまった。

 レイは兎の獣人であった。

 兎の獣人は多産であることが多いが、その子を養うことができない場合も多い。養われなかった子供が、町に紛れて暮らしていることが稀にみられる。レイも何らかの理由で親から離れ、人の姿となって、町に暮らしていたのだろう。

 アルセイはそっとやわらかな背を撫でて、小屋の中に入った。

「レイ、驚くことはない、何も心配することはないから、ここにおいで」

 囲炉裏のそばに来るようにいい、棚から眠りを促す薬草を取り出し、煎じて平たい皿に入れる。それをレイの前に置いて飲ませた。

 レイはちいさな舌で少しずつ飲む。アルセイは大丈夫だ、そういいながらそっと背中を撫でた。レイは丸くなってうとうとし始める。

 目が覚めた時には、人に戻っているだろうか。アルセイは大きく息をついた。


 獣人は獣などではない、人間と同じように理性を持つ、もちろん知性も持っている。何ら人間と変わらないのだ。しかし、その身体能力は人間をはるかに凌駕する。その恐れからか、人間の獣人に対する偏見は強い。獣人と疑われ、仕事を失う者もいる、また、獣人ということが露呈し、捕らえられ殺されてしまうこともある。

 人に紛れて暮らすことがないのは、人がそれを拒むからだ。行き場を失った彼らは、険しい国境付近のモラガイン山に住まう。しかし、この山は生き物を育むには適しているとはいいがたい。食べることに困った彼らは食料を求め、国境を越える商隊を襲うのだった。


 この街の誰もが、そのことを知っている。しかし、それを口にすることはない。



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