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 朝からどんよりと雲が空を覆い、今にも雨が落ちてきそうだった。

 また、日が翳るには早すぎるにもかかわらず、分厚い雲のせいであたりは薄暗く、ひんやりとしていた。

 雨に濡れることを厭う人たちの足は速く、大通りを行き交う人はみな、表情を雲らせ、帰路を急いでいた。

 ぽつり、ぽつりと耐えきれなくなったように雨が落ちてくる。それはあっという間に勢いを増し、路地を濡らす。

 とうに店じまいを済ませた軒にアルセイは決して小さくはない身をひそめ、肩の露を手で払い、小さく舌を打ち、空を仰ぐ。

 雲は厚く、雨が止む気配はない。

 背中の荷をおろし、油紙を取り出す。しっかりと油を塗ってあるため、油紙を羽織れば、雨がしみこむことはない。しかし、衣が雨にぬれれば、体の熱が奪われる。そうなると命の危険が伴うのだ。住まいであるモラガイン山への道のりは短くはない。山への道を歩きなれたアルセイのような丈夫な男であっても、雨に濡れて進める道ではない。

 雨が落ちるまでに帰る予定であったが、思いのほか薬の調合に時間がかかった。いくつかの依頼の仕事を終えた荷は軽いが、まだ薬草はいくつか入っていた。濡らさないようこれらも油紙で丁寧に包んであるが、荷が濡れないように背に負い、その上から油紙を羽織り、笠を深くかぶる。

 アルセイは立ち上がり、軒を出て、大通りを足早にかけ、山に向かって足を進める。

 通りを行く人はまばらで、みな一様に、身をかがめて走っている。

 雨は変わらずに、降り続いている。


「だ、誰かーっ!そいつを捕まえてくれー!!」


 野太い男の声に顔をあげると、小さな男の子が腕に何かを抱え、降りしきる雨に怯むことなく必死に駆けている姿が目に飛び込んできた。

 アルセイの目の前で、男の子はパッと顔をあげると、まるで野兎のように踵を返し、路地を曲がった。

 店じまいをしていた軒先から、男の子は何かを盗み逃げて来たのだろう。

 物乞いをして暮らす貧しい子供たちは多く、このような光景は珍しくない。しかし、アルセイは胸騒ぎを覚え、少年を追い、路地を曲がった。

 すると、左に折れた小さな背が見える、アルセイはその背を追って左へ曲がる。するとまた、右に折れる背がちらりと見える。

 右へ曲がる前に、小さなうめき声と荒い息使いが聞こえ、アルセイは足を止める。

 背後からは、追いかけてきた男の足音が迫っていた。アルセイは来た道を戻り、男に声をかける。


「あっちに行ったみたいだぞ」

「あぁ、ありがとよ」


 アルセイはその背に小さく、すまないと呟く。

 商品を盗まれていては、商売にならないだろう。アルセイは少年のもとに向かう。

 少年はうずくまったままだった。


「おい、大丈夫か」

 びくりと肩をあげ、逃げ出そうとした男の子の襟元をアルセイはしっかりと掴んだ。

「は、離せ!」

 小さな体は軽く持ち上がった。足をバタつかせもがくけれど、腕には何かをしっかりと抱えたままだ。

「逃げなくてもいい。俺は店の者じゃない」

「う、嘘だぁ!」

「嘘ついてどうするんだ、それよりも、おまえの足、見せてみろ。怪我してるだろう?」

「……」

 少年は大きな丸い目でじっとアルセイを見つめる。

「俺は、アルセイだ。モラガイン山の麓に住んでいる。薬草師だ。だからちょっとその足を見せてみろ。そのままにしていたら、腐ってしまうかもしれないぞ」

「え?!」

 少年はおびえ、口もとをゆがめている。

 アルセイはゆっくりと少年を下し、細い右足を手に取る。ふくらはぎに小さな傷があり、そこを中心にして赤く腫れ、雨に濡れて体は冷たいにも関わらず、熱を持っていた。

「いつ、怪我をしたんだ。いや、いつから、痛い?」

「……よく、覚えてない。でも、すごく痛くなったのは昨日くらいかな」

「そうか、これはしっかりと治さないと、いけないな。お前、俺と一緒に来れるか?」

「え、オレ、行けない。……だめだよ、待ってるから」

 少年はちらりと腕の中の物に目を向ける。

「お前は、何を持ってる?」

 とっさに身をかがめ、その荷を抱え込み、奪われまいと少年はアルセイをにらむ。

「取るつもりはない、俺はただ、お前の怪我の心配をしているんだ。その怪我はほっておいていい状態ではない。とても痛いのだろう?適切な治療をしないと、死んでしまうかもしれないぞ。早くしないと手遅れになる。俺は、薬草師だ、目の前に怪我をした者がいれば、治す。それだけだ」

 お前には頼ることのできる親はいないのだろうという言葉は、音にはならず、アルセイの胸の中だけにとどまった。

「でも、行けない」

 少年はうつむいたままだ。小さな子供に働かせて暮らす大人もいる。少年も誰かに縛られているのだろうか。深くかかわることで痛手を被る可能性もある。そうかと言って見捨てることもできたが、アルセイはできなかった。

「どうした、わけを話してみろ」

「ランが、ランが待ってるから。……もう、何も食べないし、飲まないんだ。だから、これを見せたら喜ぶかと思ったんだ。ランに笑ってほしいんだ」

 小さな細い腕にあったのは、緻密な装飾が施された燭台であった。確かな技術を有した職人が時間をかけた思われる見事な金細工に色とりどりの硝石が並べられている。それは火を灯さなくても十分に美しい燭台であった。しかし、それは蝋燭を据えたときに、その光が幻想的にきらめくことも計算されて作られているのだろう。その華美な燭台は、薄汚れた少年の腕にあるにはあまりに不相応だ。

「店の前に、飾ってあったんだ。とてもきれいで、ランにも見せてあげたかった。でも、ランはもう歩けないって言うんだ。だから」

「だから、盗ってきたというわけか」

 アルセイはじっと少年を見つめる。少年はランという者のことでも考えているのだろうか、そっと燭台を見つめ、少し頬を緩めている。

 少年の右足は放置していいものではない。最悪の場合、この傷から出た毒で死んでしまうだろう。それでも、少年はランにこの燭台を見せたいという。アルセイはことの成り行きを見届けることに心を決めた。

「それを動けないランに見せたかったのか。じゃ、見せに行こうか」

 アルセイは少年を抱き、ゆっくりと立ち上がる。少年は突然のことに驚いたように身を固くしたけれど、穏やかなアルセイの声と温かで力強い腕の中で、体の力がふっと抜けた。

 少年のそんな様子にアルセイのまた、頬を緩めた。

「ところで、お前は、名は何という?名乗られたら、名乗り返すんだぞ」

「う、うん、オレはレイ」

 疑うことを知らない無邪気な笑みに、アルセイは苦く笑った。


 レイの道案内で細い路地を歩き進んでいく。ひしめき合うように並ぶ軒下は薄暗く、側溝の掘られていない道はぬかるみ、雨が降っていても、糞尿の饐えたにおいが鼻をつく。

「ここだよ、おろして」

 朽ちて果ててしまいそうな小屋と小屋の隙間にレイは右足を引きずりながら、入っていく。どこかで拾い集めてきただろう板を渡して屋根とし、立てかけただけの板で壁にした、家を呼んでいいのかわからない狭い空間に何かが丸まっていた。

「ラン、オレだよ、レイだよ。すごいもの持ってきた。ランに見てほしいんだ」

 枯れ木のように痩せた小さな体にそっと触れて、その顔を覗き込むと、ランと呼ばれた少女はゆっくりと目を開けた。枝のような手足、削げ落ちた土気色の頬に、力のないぼんやりとした瞳、全く手入れのされていない頭髪は絡まって鳥の巣のようになっている。カサカサに乾いた唇が少し開く。

「……」

「ラン」

 ランの言葉はアルセイの耳まで届かない。レイは嬉々として、燭台をランの目の前にかざしている。

 アルセイは荷が濡れることがわかっていながら、荷をほどき、小さな蝋燭を取り出した。

 蝋燭はとても高価であり、これを明りとして使用するのはごく限られた者たちだけだ。アルセイもこれを照明としてではなく、薬草の加熱するときに使用している。加熱もたいていは油皿を使用するが、今はすべて使ってしまい持っていなかった。

 蝋燭に明りを灯し、燭台に据える。

 うす暗い小屋に光が満ちた。硝石が明りに照らされ煌めき、巧みに配置された色石がまばゆく、幻想的な光をみせる。炎の揺らめきで、光が揺らめく。赤や青、黄や緑の光が薄汚れた壁や、雨水の浸みた屋根を彩る。その光は舞う様に揺らめき、小さな小屋であることを忘れさせていた。

「うわー」

 ぽかんと口を開けたまま、レイは光に魅入られたように動かない。レイの声に蝋燭の炎が揺れ、そしてまた、光が美しく揺らめいた。ランは横たわったまま、光の煌めきに目を見開いている。そして、ランの光に煌めいた瞳から涙みるみる盛り上がり、ついにはあふれ、次々に頬を伝う。

「レイ、ありがとう」

 かすれた小さな声であったがしっかりとアルセイの耳にも届いた。

 ちいさな蝋燭を使い切ってしまうことは、アルセイにとって痛手ではあったが、後悔はなかった。

 炎が揺らめき、光がゆらめく、幼い子供たちの瞳も煌めいている。

 アルセイはその様子をじっと見つめていた。

 背後に感じる気配に注意を向けていたが、こちらに迫ってくる様子はないようだった。

 雨は静かに降り、闇があたりを包んでいった。

 チラチラと揺らいでいた炎が一瞬、燃え上がりふっと消えた。

 雨が板を打つ音が聞こえ、闇は突然あたりを包んだけれど、子供たちは光の余韻に酔っていた。

 背後にあった気配が、こちらに迫ってきた。二つの足取りは落ち着いており、殺気は感じなかったけれど、アルセイは子供たちをかばうように背に隠し、その気配に向かい合った。

「何者だ?」

 アルセイの問いに、その者たちは足をピタリと止め、深く被っていた笠を少し持ち上げる。

「私は、その燭台を返してほしいのです」

 その声は淡々として、怒りや怖れなどの感情を読み取ることができなかった。

「い、いやだ。ダメだよ!」

 レイがアルセイの後ろから声をあげる。あの光の美しさに魅入られてしまったようだ。

「それはあなたの物ではないでしょう」

 徐々に闇に目が慣れてきて、目の前にいる者の様子がうかがえた。感情の読み取れない声は怜悧な顔立ちの男の物で、旅慣れたような装いは決して粗末なものではなかった。そしてそのすぐ後ろには、外套をすっぽりと着込んでいるが、十代半ばの女の姿があった。笠から覗く、あごは細く、雨に濡れた髪の張り付いた首元は青白かった。

 女連れの衛士などいるはずもなく、その装いは衛士のものではない。国境警備のために王都から新しく赴任してきたという呪術師は若い女だと聞いた。しかし、これほど若いとは聞いてはいない、またこんなに若くして青龍の宮に配属されたなら、必ず、アルセイの耳にも届いただろう。

 怪しい呪術の香りもないことから、アルセイは危険が少ないと判断した。

「あなた方は、いったいどなたでしょうか?私はモラガイン山の麓で薬草師をしている、アルセイと申します。この燭台はきちんと持ち主のもとに返すとお約束しましょう」

「私は、サラスイ、こちらはキーレン、私たちは旅の途中です。さきほど、大事な燭台を盗まれたと言っている若者に会いました。その燭台を返してもらわないと、ひどく責められるそうなのですよ」

 サラスイは困ったように首をかしげ、瞳を細めた。アルセイはその赤にも青にも見える不思議な瞳をどこかで見たことのあるような気がしたが、思いを巡らせても行き当たることはなかった。

「レイ、この燭台はその人に返そうな」

「レイ……」

 うつむいていたレイはかすれたランの声に小さくうなずき、アルセイが燭台をそっと取り上げても、何も言わなかった。

 ランがレイの膝の上で握っていた手に自分の手を重ねた。

「……ごめんなさい」

 レイは顔をあげて、小さく言葉にした。

 アルセイは袂から、手拭いを取り出し、わずかに煤のついた硝石を磨いた。

 そして、そっとサラスイの手に燭台を渡した。

「これを持ち主のもとに返していただけるのか?すまなかったとお伝えください」

「いや、幼い子供の目を楽しませたのだ。店主も物が戻れば、怒りを収めてくれるだろう」

 サラスイは頬を緩めた。その後ろで、炯々と瞳を光らせている女に気づき、アルセイは息を飲む。そのアルセイの様子にサラスイははっとして、女を隠すように立ち位置を変える。

 短い挨拶を残し、二人は雨の中を足早に駆けて行った。


 雨は相変わらず、路地を濡らしていた。

 今日のうちに、家に戻ることをあきらめたアルセイはレイの小屋に泊めてもらうことにした。

 囲炉裏などあるわけもない、火の気のない小屋はとても寒々しい。二人はぴったりと体を寄せて、互いのぬくもりで暖を取り、寒さをしのいでいたらしい。

「おっさん、あったけえな」

「おっさんって言うな。……お前にしてみたら十分におっさんか」

 アルセイの背中に張り付くようにレイは体を寄せる。

 腕の中には骨と皮だけになったランを抱えていた。とても窮屈であったが、無邪気に頬を寄せるレイの姿はどこかを温め、やせ衰えた冷たいランの肩はどこかをひどく締め付けた。


 現王が即位し、青龍の宮の長にナラティスが就いてから、捨て子が禁止されたが、まだまだ、生活に苦しむ者たちが子供を手放すことが多い。それが現状であった。

 アルセイは思っても仕方のないこととわかっていながらも、取り留めなく思いを巡らせ、うつらうつらとまどろみ、眠ることはできなかった。


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