重なる真実
「本当は……鳥居志保さんに刺されたんですよね?」
麻耶は問い掛けた。
「違います」
きっぱりと答えると康平は窓の外に目をやった。
彼の意思が固い事はわかっていた。
「そうですか、でしたら」
麻耶は毅然とした態度で康平に言い放った。
「ここからは、刑事としてではなく一女性として言わせて貰います」
横目で麻耶を一瞥する康平。
心ここに有らずと言った印象を受ける。
「貴方はそうやっていれば傷つかずに済むけど……本当にそれでいいのかしら?」
「守っているつもりで自己満足に浸っているだけ、何も見えていない」
「いつまで目を閉じて耳を塞いでいるつもりなの?」
全く動じない康平。
わからずや!
叫びたい気持ちを抑え入口に向かう。
「志保さんを……どれだけ傷つければ気が済むんですか?」
そして開け放たれたドア。
「どうして……」
車椅子の志保に驚きを隠せない康平。
「貴方が望んでいたのはこんな現実?」
麻耶は冷たく言い放った。
車椅子と点滴スタンドを慎重に押しながら入って来る兼村。
少し困ったような表情で康平に問い掛ける志保。
「傷はまだ……痛みますか?」
「人の事心配しとる場合か?」
と言いたげな兼村。
さすがに空気を読んだ。
「ん……大丈夫っぽい。それより、一体?」
救いを求めるように麻耶を見上げるが返事はない。
腕組みし俯いたまま動かない。
沈黙を破るように志保が口を開く。
「ごめんなさい」
「どうして謝るのさ?」
「私が刺したんですよね……康平さんを」
「何言ってんの、俺を刺したのは男だったよ。志保ちゃんは関係ない」
涙ぐむ志保。
「もう……いいから。本当の事話して下さい」
「だから、志保ちゃんには関係ないんだって」
「刑事さん」
か細い声で志保が言う。
「康平さんと二人で話がしたいんですけど」
心成しか震えているような印象を受ける。
口にしなくてもこの娘には伝わるだろう。
「貴女に全て任せるわ。でも無理しちゃダメよ」
思いを込め大きく頷くと、兼村に目配せし病室を後にする。
ここからは彼らの問題、彼らが自分達で解決しなければならない問題。
擦れ違った真実は誰のせい?
誰のせいでもないのだろう。
だからせめて、二人の真実がひとつに重なりますように。
麻耶は心から願った。
志保さんの勇気が彼に届きますように。
廊下の壁にもたれながら麻耶は静かに目を閉じた。
志保を保護した後、意識が戻るまで付き添った。
彼女が中学生の時に両親は交通事故で他界している。
高校で準看護師、20歳で看護師の資格を取り今春就職したばかりだ。
どうしてこの娘がこんな目に。
犯罪はいつも理不尽だ。
「刑事さん……」
志保が目を覚ました。
「大丈夫?」
志保の両手を握り締める。
本当は私の役目じゃないんだぞ!
そんな憤りを感じた。
「どうしてこんな事したの?」
諭すように、だが優しく問い掛ける麻耶。
「生田康平さんを刺したのは私です」
「彼は……貴女を庇っているのね」
「私は、そんな事望んでいない」
涙ぐむ志保。
「不可抗力なんでしょ?刺す気は無かったのよね」
取調室では言えない言葉、言ってはならない言葉。
そうあって欲しいと願うあまりに口を付いて出た。
刑事失格だ。
「あの時は無我夢中で……逃げ出したかっただけなのに」
「詳しい事はまた今度聞かせて貰うから。今は無理しないでゆっくり休みなさい」
康平の事、裕子の事、自分が知りえた全てを教えてあげたかった。
守秘義務に抵触するのはわかっている。
それでも自分が真実を伝える事でこの娘が救われるのなら……
真実?ふと思った。
私が知っている事、信じている事は本当に真実なのだろうか。
兼村が洩らしたあの言葉。
「真実はひとつではない」
こうも言っていた、人様の真実と。
ああ、そうか……やっとわかった。
いや、思い出した。
父が教えていてくれていたではないか。
何を信じるか、誰を信じるかで変わるんだと。
そうだ、真実は人の数だけあるのだ。
たったひとつなら裁判など1審判決だけでいい。
原告と被告それぞれの真実、言い分が違うから、時間を掛けて争うのだ。
どちらが正しいか、理に適っているかを。
検察側の真実、弁護側の真実、それぞれの思惑により作り上げられて行く最後の真実。
冤罪事件が起きるわけだ。
人が人を裁くなんて到底無理なんだ、そんな気がする。
警察の仕事に必要なのはたったひとつの事実、真実じゃないと言っていた父。
同じように理不尽さ、不条理を感じていたんだろうか。
事実を明らかにする事が麻耶達警察の仕事。
その為には主観で動いてはならない、冷酷でも。
私だけの真実か……。
大きく溜息をつく麻耶。
父が、兼村が何を言いたかったのか初めて判った気がした。
「刑事さん……」
志保がはっとしたように声を掛ける。
「何?」
「私……刑事さんに聞いて欲しい事が」
起き上がろうとする志保を嗜める。
顔色が優れない。
「どうしたの?」
呼吸が早くなっている気がする、一体どうしたと言うのだ?
「…………」
か細い声でこれまでの顛末を話す志保。
「なんですって?」
全てが繋がった気がした。
研修医・田原仁、あの男が……。
怒りが込み上げて来た。
「あの人……康平さんの事を知ってました」
今にも泣き出しそうな表情。
麻耶もはっとした。
志保が何を言いたいのか、何を危惧しているのかはっきりわかった。
「康平さんに会いたい……会わなきゃ」
速く浅い呼吸。
「まずい!」
思い当たる事があった。
過呼吸症候群!
麻耶は傍にあった紙袋を志保の口に持っていった。
犯罪被害者支援室の先輩から教わっていたペーパーバッグ法。
血液中の二酸化炭素を増やす事で発作が治まると聞く。
いや、麻耶自身その場に居合わせていた。
男性警察官には話しにくい事が多いだろうと言う配慮で、先輩の女性巡査長と件の連続婦女暴行魔の被害者対応をしていた時の事である。
不安や緊張感から来るらしい。
この娘もまた被害者なんだ……
志保の震える肩を抱きながらそう思った。
ナースコールで飛んで来た看護師に後の処置を任せ、急ぎ兼村に電話する。
田原が康平の事を知っていたとなると狙われる可能性もある。
こんな時でさえ彼の事を……。
麻耶は既に決断していた。
先程までとは打って変わって毅然とした表情。
志保が生田康平を刺した、それは事実だろう。
本当は殺意を持って刺したのかもしれない、今だって演技しているのかもしれない。
そうではないと言い切れる確たる証拠も皆無だ。
でも私はこの娘を信じる、そう決めたから。
万が一裏切られても誰を恨む必要もない。
今、信念に従って動かなかったら絶対に後悔するから。
中途半端に終わらせる事だけは出来ない、したくない。
客観性のかけらもない思い込み?
刑事失格?
クソくらえ、はしたなくもそう思った。
この娘一人救えなくて何が警察だ、何が市民を守るだ。
自分が今すべき事、それは……。
病室に戻り落ち着きを取り戻した志保に優しく、しかし力強く声を掛ける。
「行こう、康平さんの所へ」
「はい!」
嬉しそうに笑う志保。
2人の真実が重なる時全てが解決する、麻耶はそう確信していた。
「私が刺したとしか思えません」
「そんな事ないって」
「それに……あの時康平さんの声が……志保ちゃんって呼ぶ声が……」
無意識に口をついていたのだろうか、康平はちょっとだけ戸惑った。
「とにかく、志保ちゃんには全く関係ない事だから、ね」
「いたんですよね、あの時……」
声が震えている。
「男の人に……乱暴されて、惨めな子だから……哀れんでいるんですか?」
「そんな事……!」
思わず声にしてはっとした。
その場にいたと認める事になるではないか。
憮然とした康平を優しげに見つめると、志保は全てを受け入れるように話し掛けた。
「私、庇って欲しいなんて思ってません。そんな事されても嬉しくない」
堰を切ったように溢れ落ちる涙。
「康平さん……」
嗚咽をこらえ続ける。
「私がそんなに憎いですか?こんな事されても苦しいだけです」
違う!
叫びたい衝動に駆られた。
だが言葉が出なかった、そんな風に思われていたのか?
そこまで苦しんで、いや苦しめていたのか?
頭が真っ白になった。
「私、康平さんの事ずっと好きでした。もう会えないってわかってても……」
好き?会えない?どういう事だ?嫌ってたんじゃないのか?
「私は、もう逃げませんから」
気丈な笑顔。
「最後に会えて良かった。さようなら」
車椅子を反転させようとする志保。
無意識に掴んだその左腕の袖が捲れ上がった。
手首の白い包帯、康平はそれが何かを一瞬で悟った。
俺は、何をやっているんだ……何をやっていたんだ。
この娘を守りたい、ただそれだけだったのにどうしてこんなに泣かせているんだ。
傷つけてしまっているんだ。
「お願いします……本当の事を……どんな事実でも受け入れます」
嗚咽交じりの志保のか細い声。
精一杯の勇気。
痛みをこらえ志保の前に跪くと思わず抱きしめていた。
抗う気力もないのか、志保は康平に身を委ねている。
愛おしかった。
たとえ嫌われていても、今だけはこうしていたいと願った。
求めていた鼓動が伝わって来る。
「ゴメン……暫くこうしてて……いいかな?」
志保は微かに頷いた。
自分が混乱しているのがわかる。
だが、今何をすべきかだけははっきりしていた。
何から話そうなどと考える必要はなかった。
「ずっと……好きだった。会いたくてたまらなかった」
抑えていた気持ちが溢れ出た。
「今だって変わらない……志保ちゃんの事が好きだ」
「俺の事嫌ってるのはわかってるけど……」
「嫌ってなんか……いません」
「嫌いだから、避けてたんじゃないの?」
「だって、裕子さんの事が好きなんでしょ?」
はぁ?何だそりゃ?なんでここでその名前が?
それに嫌ってないのに避けるって?
え?え?え?……もう会えないってのはそういう事?
この娘は勘違いしてたのか、俺と裕子さんの事。
なんとなく読めて来た。
同時に拍子抜けして来た。
良い方に解釈すれば、身を引く事を選んだって事か。
イマイチ回転が鈍い頭でそう思った。
「ゴメン、ちょっと腰掛けるね」
ベッドに腰掛けながら逡巡する。
何から話そう、どう伝えればいいか……
「確かに裕子さんの事は好きだったし、好きだったとは言ったよ。」
「でもそれは志保ちゃんを好きになるずっと前の事だし、第一……他に好きな人がいるのにキスする訳ないじゃん。」
「誰に何言われたか知らないけど、俺じゃなくてその人を信じたの?その程度の男だと思った?」
ちょっと言い過ぎたかもしれない。
「ゴメン、ちょっと意地悪だったかな……」
自嘲気味に笑う康平。
「でも、正真正銘の本心だから。好きな子に信じて貰えないのは、すごく辛いし悔しいし情けない」
そう言いながら志保の震える両手を包み込む。
「俺の事本当に嫌ってない?」
頷く志保。
「酔ったいきおいなんかじゃなかったから……」
「この娘だったんだって、あの時やっと気付いたから……だから……」
柔らかな志保の頬に触れる。
「ずっと探してた……連絡先がわからなくて、どうしようもなくて……すげぇ苦しかった」
「康平さん、ありがとう。でも、私は……」
志保にも康平に伝えなければならない事があった。
「私には康平さんに好かれる資格が……もう……」
「資格とか……なんだよ、そんなの」
「でも、康平さんには知っておいて欲しい。何があったのか、全て」
全てを打ち明けた時、康平はどんな顔をするだろう。
好きだと言ってくれたけど、こんな私が甘えていいんだろうか。
不安がないわけではない。
嫌われるような事は本当は言いたくない、黙っていたい。
でも……
「聞いてもらえますか?」
いつまで目を閉じて耳を塞いでいるつもり?
麻耶の言葉が蘇る。
確かにあの人の言うとおりだ、独りよがりだった。
守っているつもりで自己満足に浸っていただけだ。
何も見ようと、知ろうとしていなかった。
今、何も言わなくていいと抱きしめても、それは単なる自己陶酔。
自分が傷付きたくないだけだ。
それじゃあこの娘を守れない、誰よりも大切な人を。
今自分がすべき事、それは精一杯の勇気を受け入れる事。
康平は志保をまっすぐに見つめ力強く頷いた。
志保の口から語られた真実。
康平が知らなかった事実。
愕然としながらも優しい気持ちになれた。
「俺なんかよりもずっと強かったんだね」
話し終えた志保を見つめながら確かな気持ちを噛み締めていた。
犯人に対する憤りがないとは言わない。
でも、そんな事よりもまず伝えなきゃ……
今度こそ、目の前にいる大切な人に。
志保のか細い肩に手を掛ける康平。
「俺に守らせて欲しい、志保ちゃんの全てを。俺の事、信じて欲しい」
躊躇するように康平を見上げる濡れた瞳。
「本当に私なんかでいいんですか?」
「・・ない」
志保の言葉をさえぎる康平。
肩に掛けた手に力が篭った。
「よくない。志保ちゃんでいいんじゃなくて、志保ちゃんがいい」
いや、違う。
「志保ちゃんじゃなきゃ駄目なんだ。ずっと傍にいて欲しい」
言葉も無く康平の胸に飛び込む志保。
麻耶に助け上げられた時と同じ安堵感、全てを受け入れてくれる包容感を感じていた。
康平もまた自分に足りなかった物が満たされる感覚を覚えていた。
擦れ違った時間を取り戻すように重なるシルエット。
病室の壁時計の音だけが響く。
どれくらいの時間が過ぎたのだろう。
「ちょっと、待ってて」
志保の肩を軽く叩き、ベッド脇のサイドテーブルを目指す康平。
まだ少し足取りが覚束ない。
「受け取って貰えるかな?」
引き出しから赤い小箱を取り出すと、志保に向かって差し出す。
中には小さなサファイアの指輪。
「誕生日に……9月3日に渡したくて買ってたんだけど……」
そう言いながら志保の右手を取り、薬指に嵌める。
「いつか会えると信じて持ち歩いてた」
志保の顔が薄っすら綻んだ。
「ずっと……ずっと好きだった。何度言っても言い足りないくらい」
泣きやんだ志保がいたずらっ子のように首を傾げる。
「過去形ですか?」
いじわるだなとおでこに軽くキスをして、満足そうにその顔を眺める康平。
呼吸を整え凛とした表情で言った。
「刑事さん……呼んでくれるかな?」
二人の表情はその日の空のように晴れやかだった。
「全て……お話します」