はじまりの事実
「お嬢ちゃん、行くで」
出勤早々兼村の声が響き渡る。
だから、お嬢ちゃんは止めて。
心の奥で叫ぶ。
捜査第一課へ配属されて来た時からこんな調子だ。
「佐内麻耶……さない言うか幼いやな」
それが兼村の第一声であった。
2回り違う兼村にすれば確かにお嬢ちゃんなのだろうが、職場では辞めて欲しいと常々思っている。
悪意が感じられない事だけが唯一の救いだ。
「連続婦女暴行魔の件で忙しいんですけどねぇ……」
愚痴をこぼしたくなるのを抑え、麻耶は兼村の後を追った。
「119番したのはええけど、場所も言えんかったらしい。」
現場へ向かう車中で兼村が説明する。
「保護した時は意識が無かったんやて」
消防の要請で捜索していた所轄警官の報告との事である。
携帯の位置情報を元に探し出したのだろう。
「生田康平さん22歳大学生。右脇腹に刺創。現在は搬送先の病院で治療中……重体ですか」
命に関わる危険な状態は重体、命に別状が無ければ重傷。
同じ大怪我でも意味合いが違う。
捜査・逮捕・起訴・裁判と言う司法手続きの流れの中でころころ変わるのだが、前者は殺人未遂、後者は傷害とされる事が多い。
「凶器らしいもんは見当たらんそうや」
ハンドル片手に呟く兼村。
「何があったんでしょうか」
口にしようとして思い止まった。
それ調べるのが仕事やろぉと、妙な関西弁で突っ込まれるのがオチだ。
大阪のガッコに通っていたかららしいが、今はまあどうでもいい。
「財布あったそうやから物取りはないやろなぁ」
緊張感のない大欠伸。
コンビを組んで8ヶ月、このお目付け役は未だに謎が多い。
刑事の仕事はハードな為2~30代が大半を占めているのだが、兼村は49歳。
希望すれば楽な部署に移して貰えるはずなのに、何故か居座っている。
理由を尋ねた事はあったが、結局はぐらかされた。
結婚指輪をしているから妻子持ちなのだろうと、話を振った時も気のない返事しかなかった。
「敏さんは寡黙ではない仕事の虫」
そう言っていたのは誰だったか。
確かに寡黙ではないなと一人納得する麻耶であった。
現場は港に面した緑地公園、一帯は立入規制区域になっている。
怨恨、通り魔、はてさてと考えながら車を降り周囲を見渡す。
ルミノール反応を調べているのだろうか、ブルーシートが数箇所に張られている。
マーカー片手に忙しなく動いている鑑識員、警察犬の姿も見える。
「ここで保護されたんですね」
ベンチ下の地溜まりからするとかなりの出血だったのだろう。
「妙だな……」
「この付近で争ったような形跡はないですね」
兼村が言わんとする事はすぐに理解出来た。
「別の場所で何かあったか」
神妙な面持ちで顎に手をやると、警察犬を従えた鑑識課員に指示する兼村。
その隣で、お座りのまま微動だにしないハナの捜査官にほんわかしている不埒者が約一名。
警察犬が鼻を地面にこすりつけるように歩くしぐさは特に萌える。
護岸を経由してグラウンド方面へと消えて行くその姿に後ろ髪を引かれつつも、麻耶は気合いを入れ直した。
「被害者の車が駐車場にあったそうや」
顎でグラウンドの向こう側を示す兼村。
「さすが御犬様やな」
被害者の足取りをトレースしながら、ある場所を目指す。
警察犬の足跡追及により発見されたのは駐車場の車だけではなかった。
ベンチからおよそ50m、グラウンド横の茂みで微物採取をなどを始めている鑑識員達。
「ここでなにがあったんや?」
周囲を見渡し誰にとも無く呟く兼村。
「足跡……と何か引きずったような痕ですねぇ」
それ調べるのが仕事やろぉと言いたかったが、自重し地面を見つめる。
ここで一体何が?
何かがあった、いやむしろ刺された?
「凶器らしいもんはないな、加害者が持ち去ったっちゅう事かいな」
顎に手を当て思案する兼村。
「状況からすると、ここでトラブルに巻き込まれたと考えるのが妥当でしょうかね」
地べたに這いつくばるように作業をしていた足こん跡係員が振り向き言う。
「大体のところはもうわかってるんでしょ?護平さん」
どうやら結構懇意にしているっぽい。
兼村よりも少し年配だろうか、満井護平というらしい。
「現場鑑識実施報告待っとれへんから教えて」
兼村のオカマっぽいしぐさに苦笑しつつも、関数電卓を取り出してなにやら計算を始める満井。
「まずは……167cm痩せ型の男性、被害者ですかね。靴底模様からするとニューバランスのスニーカーかな」
確定ではないですよと念を押しつつもあっさり言い放つ。
それだけ自信があるのだろう。
「次に、176cmミリタリーブーツの男性。大柄ではないようです」
加害者なのだろうか、そう思った矢先、満井が更に付け加える。
「それから……」
電卓を素早く叩く指が止まった。
「153cmショートブーツの小柄な女性、あれですね」
他の鑑識員が作業している足元を指差す満井。
確かにヒールの跡のようなものが見える。
すごい能力だがどれくらいの信憑性があるのだろう?
そう思っていると、背後で兼村の声がした。
「こっちのはどうです?」
ウンコ座りのおっさんが地面を指差している。
兼村の足元で暫くがさごそやった後、例によって計算を始める満井。
何故か苦笑いしている。
「ん~……身長157cm女性、ハルタのローファー24cm……」
ちょっ……それって……
「体重41kg」
言うか!!!wwwww
鑑識員達が笑いを堪えているのがわかる。
この辱めは満井を少しでも疑った報いなのだろうか
「どや?当たっとるやろ?靴フェチの護平さん舐めたらあかんで」
動揺する麻耶にしたり顔で声を掛ける兼村。
「敏さんそれ褒め言葉になってないし、本人が横にいたら誰でもわかるでしょ」
目尻を細める満井。
「普通の人は靴見ててもメーカー名即答出来んわ」
恐るべし靴フェチ、第三者がいた事への驚きなど吹っ飛んでしまった。
「さてさて、おふざけはこの辺にして」
お前が言うか。
「お仕事の邪魔しちゃいかんし、駐車場寄ってから病院行こか」
邪魔した張本人が言うか。
「しかし、仮にここで刺されたとして、ベンチまで歩いていけるかいな?って言うかあそこまで行く理由がわからんのじゃが」
急にまともな事を言う兼村に戸惑いながらも考えを巡らせる。
「確かに、そうですね」
相槌を打ってはみるが、麻耶もまた混沌の中にいた。
「まぁ根拠のない事いろいろ想像しててもらちあかんわな」
兼村は伸びをしつつ不謹慎にも大欠伸をした。
「申し訳有りませんね、他に空いている所がなくて」
応対してくれた事務局長に一礼して薦められた席に着く。
誰もいない剖検室、大勢に話しを聞かれないようにとの配慮だろうが少々ホルマリン臭い。
臓器検査をする部屋らしく、見た事のない外国製の器械や撮影台などが置かれている。
「あ、患者さん……生田さんは1052号室で主治医は池田、担当医は田原、担当看護師は……今はオペナースが見てますが、明日からは病棟ナースの鳥居が受け持ちます」
執刀医を呼んで来ると言い置いて事務局長が部屋を出る。
大雑把な話では明日にならないとまともに面会は出来ないらしい。
やはり結構危険な状態だったと言う事か。
程なくしてカルテを持って執刀医がやって来た。
事務局長が言っていた主治医の池田である。
「右脇腹に刺創深さ9cm、出血性ショックによる急性循環不全に陥ったと推察されますね」
「凶器はどの程度のものでしょうか?」
「腹腔に達していますし、状況的に刃渡り15cmはある鋭利な刃物でしょうか。まぁ、そのあたりは専門家に確認して頂かないと」
「どんな風に刺されたかはおわかりになりますか?」
「被害者が直立していたとすると正面からフック気味に左手で。ちょっと突き上げる感じですかね。斜めに、こう」
ノリがいいのか身振り手振りを交えて説明する。
確かにわかりやすいのだが、兼村を刺す仕草に吹き出しそうになった。
「とすると加害者の顔は……」
「正面から襲われたとは限りませんし、なんとも」
それを調べるのが警察でしょうと言わんばかりの苦笑い。
確かにそうだ、その為には被害者から話を聞く事が急務なのだが。
「面会はまだ無理ですかねぇ」
哀願する兼村に首を横に振る池田。
「今日は無理ですね。早くても明日、明確に意思の疎通が出来るとは限りませんけど」
言いたい事は嫌と言うほど判るが、はいそうですかと引き下がれないのが辛い。
捜査の方向を掴む為にも、一刻も早く本人から話を聞かねばならない。
「呼吸困難、失血、臓器損傷ですからね。下手したら亡くなってましたよ」
困った表情で相槌を打つしかないジレンマ。
今の所、殺人事件ではないだけマシらしいが、実はとんでもない事件で広域捜査が必要だったり一過性のものでなかった場合など上や下への大騒ぎになると聞いた。
師走のこの忙しい時期に本庁のお偉いさんが睨みを効かせに来るとか、特に勘弁して欲しいとぼやいていたのは係長の相良だったか。
運営規程に倣い捜査本部が設置され、大々的な捜査会議が執り行われるそうだが、如何せんまだ経験がないので実感が湧かない。
ただ、穏便に新年を迎えたいと言う気持ちはわからなくもない。
以前の自分なら不謹慎に思っていただろうが、最近毒されて来たのだろうか。
休みはない、残業続き、ドラマのような華やかさも皆無。
でも、お父さんもこうやって働いて育ててくれたんだな、そう思うと頑張れる。
麻耶は小学校に入る前に警察官の父を亡くしている。
職務中の事故だと聞いているが詳しくはわからない。
中学生の頃、母に尋ねた事があった。
その時の辛そうな表情、2度と口にすまいと誓った。
警察官になろうと思ったのも、そんな事があったからだろうか。
母は同じ道を歩む事に猛反対したが、決意は変わらなかった。
あの頃はまだ青かったなぁ……最近自虐的に思う事が多い。
「何ぼぉ~っとしとん?」
兼村の声。
咄嗟に素朴な疑問を投げ掛けて繕う。
「刺されてすぐ電話って可能だったんですかね?」
「意識を失う前なら可能だったでしょうね。と言いますか激痛に耐えながらも119番されたから今こうしているわけで」
「愚問やな」
鼻で笑う兼村。
池田にも笑われている気がする。
麻耶は力なく肩を落とした。
夕方のローカルニュース。
テロップに「緑地公園で傷害事件」
通り魔の可能性も視野に入れて捜査を進めているというごく簡単な内容。
現状では根拠がない情報をマスコミに流せるわけがないし、こんなものだろう。
被害者のプライバシー保護という名目で当然報道管制も敷いているはずだ。
「傷害事件?」
テレビを食い入るように見つめる男。
腑に落ちないと言う表情。
「まずい……」
暫しの沈黙の後、何かを思い出したように呟いた。