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 無我夢中で走り続けた狼は、いつしか川岸に辿り着いていた。

 止まってしまえば、急に喉が渇きだす。

 川の水を喉に流し込めば、ほんの少し気持ちは落ち着くものの。

 

 

『死ぬのは私じゃない。貴方の方です』



 小鳥に言われた言葉が、頭から消えてはくれずに。


 何だか妙に疲れて、狼はペタリと体を横たわらせた。

 静かな川岸に、他の動物の姿は見当たらない。



 誰か居たのかもしれないけれど、どちらにせよ自分が来た事がわかれば逃げていくのだろう。

 今だけは、自分を避ける動物たちがありがたい。

 情けない程気分が落ち込んでいる時に追い討ちなどかけられたら、きっともう自分は立ち直れないだろうから。



 呆然と考えつつ、狼は一つ溜息を落とす。

 大きな感情を占めた後の胸中には虚しさが滞っていた。

 


 心が疲れてしまったのかもしれない。

 背中に残る感触が淋しさを募らせるようだ。

 いつだってすぐに思い出せる歌声も、何気ない会話も、全て失いたくないものだったのに。

 だけどこれで良かったのだろう。

 夢を告げたのだから、小鳥が死ぬ事はない。

 大丈夫、辛いのは最初だけだ。

 すぐに慣れる。



 自分に言い聞かせながら、胸にはびこる虚しさがその行動を「馬鹿馬鹿しい」と言ってのける。

「そうして言い聞かせただけ、余計虚しくなるぞ」と、警告するように。



 もう何も考えたくない。



 狼がその思考を抱く事は、あまりに自然な流れだったと言えるだろう。

 川岸に寝そべり、頭を地面について、川のせせらぎへ耳を傾けた。

 止まる事をしない自然の音に意識を集中させていく。


 喧騒と呼ぶには満たない空間の中、どれ程の時間を過ごした時だろうか。

 カサリ、と。

 確かにその音は聞こえたのだ。

 小さな小さな、耳を澄ましていなければ聞こえない程の葉を踏みしめる音が。

 他の動物かもしれない、と思う気持ちを携えながらも、何だか違う気がした。

 それは狼の持つ、本能的な何かだったのかもしれない。

 狼が注視して辺りを見回した時、「それ」は確かに自分へと向けられていたのだった。

 少し離れた茂みからこちらを狙う黒の塊。

 そこから飛び出る物の威力を狼は知っていた。

 もう、何度も何度も夢で見たのだから。

 その度に森の動物を殺されてきたのだから。


 そしてその黒い塊を構える人間は、間違いなく狼が今日夢で見た人間だったのだ。

 狩りに楽しみすら覚えているのであろう下卑た笑みも、遠くから獲物を狙おうとする卑怯さも夢と何も変わらない。


 狼の胸中に沸々とした何かが湧き起こる。

 それは怒りを超えた憤りで、同時に悲しみでもあった。

 


 コイツさえ居なければ、今頃、自分は小鳥と会話を繰り返していたハズだった。

 和やかなやりとりを楽しみ、あの美しい旋律に聴き惚れていたハズだったのだ。



 その思いが人間に対しての八つ当たりに相当するのかどうかはわからない。

 やり場のない虚無感を、人間に対しての苛立ちへ変える事で消化させたいだけかもしれない。

 理論的な事はわからぬまま、狼の心の中に夢の中で覚えた殺害衝動がはっきりと蘇っていく。



 強い憤りは狼の体を起き上がらせた。

 一歩、また一歩と地面を歩く毎に憤りが増幅し、殺害衝動は深まりを見せる。

 狼の様子に気付いたらしい人間は、一度銃から顔を離して目を凝らした。

 それが狼にとっての合図となったのだろう。

 走り出した体が真っ直ぐ人間へと向かっていく。



 殺してやる、と、強く意思を持って。



 狼の体が人間に届くまで残り数メートル。

 大きく響いた音は、人間の叫び声ではなく。



「……っ、何だよ、お前……!」



 銃声の方だった。

 あまりの音の大きさに狼は自分が死んでしまったのかとすら思ったけれど、どうやらそれも違っていたらしい。

 視線の先で流れる血を見て、ようやく左の後ろ足を撃たれたのだと理解した。



 自分の体が傷付いていながら痛みをあまり感じない原因は、強い感情に支配されているからだろうか。

 こうして撃たれても尚、あの人間を殺したくて堪らない。

 それで小鳥の事も守れるのだから、一石二鳥ではないか。



 自己を奮い立たせ、再び態勢を整えた狼。

 先程のように勢いをつけようとしたものの、どうにもそれが叶わない。

 左の後ろ足が上手く動いてはくれない。

 だからと言って、このまま人間を逃がす選択肢は狼の中になかった。

 刺し違えてでも命を奪うつもりだったのだ。


 下衆い人間の恐怖に歪む顔はやはり下衆い。

 怯えた態度も慌てる姿も向けられる銃口も、全てに嫌悪感を抱きながら狼は足を踏み出した。

 そしてそれは、ほんの一瞬の出来事だったように思う。

 突如人間の前に現れた白いそれは――小鳥は、躊躇いを見せずに人間の顔を突いたのだ。

 驚いた人間が銃や腕を振り回す。

 だけど小さな体で小回りの利く小鳥を前に、それらの抵抗は意味を成さずに。

 無遠慮に人間を突く小鳥に、やがて人間は逃げるように走り去って行ってしまった。

 気持ちを昂ぶらせていたハズの狼は、目にした光景に唖然とするばかりで。

 辺りに静けさが舞い戻った頃、ようやく我に返る事となる。



「……狼さん」



 発せられた声は何だか悲しそうだ。



 どうしてここに?



 狼がそう訊ねる前に、小鳥はまた声を連ねていた。



「……ごめんなさい」



 小鳥は何を謝っているのだろう。

 謝らなければいけないのは自分の方じゃないか。

 きっと自分は小鳥を幻滅させてしまったのだから。



 なのにまた小鳥は「ごめんなさい」と呟いたから、狼は「何が?」と訊ねるしかなかった。



「貴方に……怪我を負わせてしまった……」



 か細くも透き通る声は、また狼の疑問を募らせていく。



 自分が怪我をした理由は決して小鳥の所為などではない。

 銃を向けられているにも関わらず、感情だけでその危険へ飛び込んだのだ。

 あれは間違いなく自分の意思で起こした行動だった。



「お前の所為じゃないよ」

「違う!」



 小さな目に強い力を込めて放たれた声は、狼の声を簡単に掻き消してしまう程の威力を携えていた。



「……貴方をちゃんと引き止めるべきだったんです。そしたら……貴方は怪我をせずに済んだのに……」



 ぽろぽろと涙を零す小鳥に、狼の胸がどうにも痛む。

 鼻先で涙を掠め取ろうとも、小鳥の涙は止まらなかった。

 それどころか、まるでそれが合図であったかのように、小鳥の涙は量を増してしまう。



「やっぱり……私、じゃ……駄目でした……」



 嗚咽すら漏らす震えた声は、先程よりも悲しみを纏い繋がれる。



「私なんかじゃ……夢を嘘に出来なかった……」



 狼の思考を止めてしまう言葉を。



「……何を言ってる?」



 思考が止まりながらも、狼は問うた。

 こちらを見上げた小さな瞳に、全ての答えを期待して。



「……私も夢を見るんです」



 躊躇いがちな声色が狼の鼓動をドクリと揺らし、僅かに息を詰まらせる。



「貴方が嘘を吐く理由を知ってました」



 色んな疑問や驚きが脳内を満たしても、狼が一番最初に思った事は「嘘を吐いていると知っていたのか」という事だった。

 出来れば知られたくなかったのだ。

「嘘吐き狼」なんて呼ばれている事など。

 森の動物たちに疎まれ、蔑まれている事など。

 自分の存在位置は森に棲む動物たちから周知されていると言っても過言ではないのだから、小鳥が知っていてもおかしくはないと頭のどこかでは理解していたのに。

 それでもこうして面と向かって言われてしまえば、やはり心苦しい。



「私も……貴方と同じように夢を告げたんです。なのに……」



 そこで一旦止まった小鳥の言葉。

 未だ震えたままの声に心配を抱きながら、狼は静かに先を待った。



「……私の夢は嘘にならなかった」



 ゆっくりと、だけどしっかりと紡がれていく言葉は、ただただ狼に聞く事を集中させた。



 小鳥の話はこういう事だった。

 小鳥にも、他者の災難を夢に見る事が度々あるらしい。

 だけど狼との違いは、夢の当事者に内容を教えても嘘にはなりきらず、ほんの少しだけの真実を残してしまうところにあった。

 誰かが死ぬ夢を伝えれば、その誰かは怪我をし、誰かが辛い思いをする夢を伝えれば、その誰かは辛さに辿り着く前の不快な出来事に見舞われる。

 いつしか自分は森の動物たちから「疫病神」だと忌み嫌われるようになった、と。

 小鳥は狼にそう告げたのだ。

 取り巻く環境は小鳥を孤独に追いやり、それに耐えかねた小鳥は夢の内容を一切語らなくなった。

 夢の当事者に災難が降りかかる事を知りながら。


 時間が経つにつれ、夢の内容を口外しない事で小鳥への関心が周りから薄れてきた頃、小鳥は狼の存在を知る事となる。

 口を開けば他者の災難ばかりを言葉にする「嘘吐き狼」の存在を。

 小鳥にはすぐ見当が付いた。

 その狼は、きっと自分と同じなのだろうと予想したのだ。


 いつか自分と同じく、夢の内容を口にしなくなるだろう、とも。


 なのに森中に知れ渡る「嘘吐き狼」は、いつになっても嘘を止める事をしない。

 そのうちに、小鳥は狼に対して罪悪感を抱くようになっていた。


 孤独を恐れ森の動物を見殺しにしているも同然の自分とは違い、狼はいつまでたっても嘘を吐き続けている。

 夢を見る事は自分も同じなのに。

 たった一匹で森の動物たちからの嫌悪を背負い続けている、と、自らの思考に重圧を課しながら。


 それでも小鳥は勇気を出せずにいた。

 狼と共に「嘘吐き」になる勇気がどうしても出せなかった。

 だから、小鳥は。



「他に……自分に出来る事で……貴方を励ましたかった……」 

「……だから歌を?」



 コクリと小さく頷き、小鳥はまた「ごめんなさい」と呟いた。



「さっきだって……私も夢を見れる事を貴方に言うべきだったんです……。なのに言えなかった……」



 狼が死ぬ夢を見て、小鳥は何とか夢を告げる以外の方法で狼を守る事を考えた。

 自分が夢で見た場所は川岸だったから、単純に狼を大木の下に引き止めてさえいれば大丈夫だと思ったのだ。

 なのに狼はそれを拒否し、小鳥が死ぬ事を口にした。


 どうして互いに自分が死ぬ瞬間を夢に見なかったのか。

 その理由など小鳥は知らないし、知る術もない。

 だけど狼の言葉は、小鳥から「今しかない」と咄嗟的な判断を引き出す事となる。

 導かれた判断は小鳥に夢の内容を放たせたけれど、肝心の「他者の災難を夢に見る事が出来る」とまでは、やはり言えずに。



 言えば、この先、自分は狼と共に、森の動物たちへ夢を伝えていかなければならなくなるかもしれない。

 自分も「嘘吐き」と呼ばれ、また嫌われていくかもしれない。



 瞬間的に膨らんだ思いは、ギリギリのところで小鳥の口を塞いでしまった。

 そして最後の一歩を踏み出せなかった小鳥が後悔を抱くほんの僅かな瞬間で、狼は走り去ったのだった。




 小鳥は何度も何度も「ごめんなさい」と繰り返す。

 自分を犠牲にする事が出来ず、それが原因で狼に怪我を負わせてしまった、と。


 最初こそ驚いていた狼の胸中は、小鳥の話を聞き終える頃には落ち着きを取り戻していた。

 なのに流れ続ける涙を止めてやりたい気持ちは残ったままで。



「泣かなくていい」



 先程と同じく、鼻先で涙を掠め取りながら狼は小鳥へ声をかけた。



「いつもお前に助けられてたから。それは本当だから、謝らなくていい」



 小鳥にどんな事情があろうと、自分が小鳥の存在を糧にしていた事は間違いのない事実なのだから。

 それを詫び続けられるよりも、ただただ小鳥に泣き止んでもらいたい。

 いつもの口調や声色を取り戻してもらいたい。



 その方法を、きっと狼は理解していたのだろう。



「……これからも俺は嘘を吐き続けるから。だからお前は歌い続けて欲しい」



 小鳥が夢を口外せず済むように、その逃げ道を作ってやれるように。

 誰も見殺しにしなくて済むように。


 その方法は狼を他者から更に引き離してしまうだろうけれど、不思議と狼は辛くも悲しくも淋しくもなかった。



「でも……」



 何かを言いかけた小鳥を遮るように、ペロリと舌で体を撫でる。

 少し態勢を崩してしまった小鳥に申し訳なさを感じながらも、狼は声を連ねた。



「俺はお前の歌が聴きたいだけだから」



 小鳥が何の遠慮もなく、囀りを響かせていられる言葉を。



 目を瞬かせた小鳥が次の瞬間微笑み、また涙を一粒零したけれど。

 その涙は、これまでよりもほんの少し種類が違っていたような気がした。

 

 トン、と、鼻先で撫でた白い体。

 滑らかな毛並みは、僅かな接触面積にも心地良さを与えてくれる。



「……さっき羽づくろいしたばかりなのに」

「小さいんだから、羽づくろいもすぐに終わるだろ?」



 言った後に、体に対して口ばしも小さかったと思い出す。

 そんな狼を知ってか知らずか、小鳥は少し拗ねたような口調で返した。

 


「そんなに小さくないですよ、ほら」

「羽を膨らませても、そんなに変わらないよ」

「これすると、暖かいんですよ」

「お前は本当に見た目とは違って負けず嫌いだな」



 ようやくクスクスと笑った小鳥に安堵を覚え、狼もまた口元を緩めたのだった。



 物事の本質など、表面的な部分だけでは決してわからない。

 だけどその中身に触れて、知って、その上で互いに理解し合えたなら。



「木の下に帰ろうか」

「足、大丈夫ですか?」

「あぁ……そう言えば痛くなってきたな」

「……ごめんなさい」

「何とか歩けるから大丈夫だ。ほら、もう謝らなくていいから。歌ってくれ」



 そこには強い絆と呼べるものが生まれるのかもしれなかった。

 



 とある森の奥深く。

 耳を澄ますと、美しい囀りが耳を揺らすだろう。

 自然の広がるこの場所では、一匹の狼と一羽の小鳥が生息している。

 嘘ばかり吐く狼と、その狼の傍を好み囀り続ける物好きな小鳥は、いつだって楽しそうに日々を過ごしているのだ。

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