夕暮れ境界
序曲 逢魔時
あなたはあなた?
わたしがそう問うてみる あなたは無言で首を振り 再び問うよ
あなたは誰?
誰かは答えず黙ったまま 西の方にある寺を指さす
九つの鐘が町に響いた
あたしはふとむこうにみえる夕日をみつめ なみだひとつながしてだ さいごの問いを投げかける
あなたは向こう側にいってしまったの そしてあなたではないあなたが向こう側からやってきたのね
真っ赤な夕日が私を照らす
だれかはそっと頷いて そして笑った
そのとおり そして君も向こう側につれていく
なぜなら わたしがのぞんでいないから
日が落ちていく逢魔時 だれがだれかわからなくなるたましいすらも失って
あやふやな ああ あやふやな
第一幕 黄昏境界
序 踏切
最期の夕焼け空はいつものように美しかった。
閉ざされた踏切の向こうに三歩踏み出した。きっとは、既に僕の辞書から消去され、「もはや」が白紙の部分まで埋め尽くす。
もはや、僕には生きる意味など残っていない。
一人でいるのがつらかった。何をしても報われず、到底たどり着けない高見を横目にちらつかされる。
たとえば、長く胸の内に秘めていた恋心を打ち明けたのに、嘲笑われて。それでお終いとしたら。
その後も、新しい一日を始めることさえ許されないとしたら。
もはや、苦痛しかない人生に。もはや、幸せなど見出すことなどできるはずがない。
ああ、一度でいいからあの子と××したかった。
ああ、一度でいいから夢をこの手に掴みたかった。
もはや、その思いすらも頭から消えてしまう。
目の前に、銀色の車体を朱色に染めた帰りの電車が目前に迫っているのだから!
轢かれる光景が白昼夢のように広がる。一、二、三で現実なる夢なのだ。
渇望する生をやっと見つけた。わずかな、刹那と表現するに等しい時間をこの手に収め、一心に願う。
もはや、という字で埋め尽くされた辞書を捨て去り、「絶対」という言葉が必ず頭につく文章で埋められた日記帳がこの手にあれば。
絶対、彼女と付き合うという未来が約束されていたら。
遠くに向かって右手を伸ばしてみる。
しかし、伸ばした手が触れたのは銀色の車体。得体の知れぬ痛みが指先より伝わり、また足先からも鈍い衝撃がやってくる。
指は蛇腹に曲がっていき、つま先はガムのように車輪に噛み潰されていく。ああ、そんな風に体が壊されていく様子を描写している間に、どんどん死へと近づいてく。
もう、痛みを理解することも考えることも許されない。
このまま死んでしまうことなんて――
「絶対だ」
僕でない、誰かがそう言った。
走馬灯とやらだろうか。踏切の向こう側、しかし電車のないこの場所は痛みだけでなく意識すらも失ったところなのだろうか。
風もないでいて、踏切のメロディの代わりにコバエの羽音のような、無数の呟きのような音が聞こえる。
「すべてがあやふやな。そう、あやふやな。さぁ、差し出せ。その伸ばした手を私が噛んで小さく切って、この胃袋に収めてやろう」
はっきりとしたひとつの声。
僕は無意識に朱く落ちた太陽に手を伸ばしていた。
「痛てぇ」
僕の両腕は砂利のうえにあり、少しの赤い液体をまいていた。言い方がおかしいけれど、たったそれだけのこと。なぜなら、電車に轢かれたのだから。
おかしすぎる。
まず、目の前を電車が通り過ぎて行ったこと。
そして、何より息を荒げ
「危なかったよ。いくら、ぼうっとしているからって踏切で立ち止まるなんて」
という、女の子が僕の傍らにいたことだ。
続けて彼女は僕をまっすぐに見つめこういう。
「大好きな人が死んでしまったら、なんて考えただけで最悪ね」
信じられない。彼女は僕をこの民族が作り上げた中で最も鋭利な言葉で切り裂いたはずなのに。
手の平をうらがえしたようとはまさにこのこと。
だが、目の前に宝が落ちていたら拾わない人などこの世にいない筈だ。
承 異聞の現世
「ねぇ、文化祭一緒に回ろうよ」
甘えた声でそう言った。あの子は包帯でグルグル巻きにされた腕に柔らかなそれを押し付ける。
この状況は、きっと踏切の向こう側に行く前まで一厘の希望すらも見出さなかったものだ。夢想という度合いでは図れなかったことなのに、今となっては当たり前のことなのだ。
「もちろん。それに君以外に誰がいる」
「嬉しい」
そういって彼女は僕の胸に甘い香りの漂う頭をもたせ掛ける。
あの日に似た夕暮れ、放課後の教室。
似ても似つかぬ、現実がそこにあった。
「え? どうして。君が僕のことなんか助けてくれるの? 今までどうでもいいような関係だったじゃないか」
僕は痛む両手を灰色に薄汚れた制服で覆い血を止めようと努力する。すると、彼女は着ていた白いブラウスの袖を千切り、僕の両腕に泣きながら巻きつける。
「だって、死んじゃったらこれからがもうないんだよ。でも、ごめんね。うまく助けられなくて」
涙の塩辛い成分が傷に染みるけれど、悪い気はしない。彼女が僕のために泣いてくれているのだから。
「あの、えと。告白、嬉しかったよ。あのときはびっくりしていてちゃんと答えられなかったの。ま、まさか、魂飛んじゃうほど私にゾッコンだったなんて。私も夢見心地だよ」
震える声でも、必死に言葉を紡ぐ。不思議な衝動に駆られて、少し前まではきっと使わることがなかっただろう、心のある部分が、僕に彼女を抱きしめろと命令する。
だが、腕は痛いのと不格好ながら切なさを感じる白い包帯がほどけてしまうのを恐れて、動かすのをやめた。代わりに口を動かす。口先だけになってしまはないように。そう、神様と契約してから言った。
「ありがとう。これから、よろしくお願いします」
「こちらこそ」
淡い笑い声が重なる。
それは、境界を知らせる踏切の音よりはるかに小さなものだけれども、どんな言葉よりも確かであった。
「どうしたの?」
「いや、あの時のことを思い出してね」
「よくぼうっとしてるよね、君は」
「考え事することが多いんだよ」
僕がそういうと彼女は、柔らかな輪郭にその白く細い指を添えてしばし考えごとをする。
「じゃあ、待ってて。君がまっすぐしか見えなくなるようにしてあげるから。それにちゃんと答えて、ね」
その後、彼女は笑うだけで言葉の真意を語ることは時が訪れるまで、なかった。
鍵当番で入ってきた風紀委員に一喝を受け、帰路につく。他愛もないことを話しているだけなのに、どれもが輝きを放っていて、手放したくないものばかり。
夜が――
転 降りてくる
文化祭当日は実に多様な物語が繰り広げられていた。体育館にはきっとよき思い出を作るために、一言に「こじん」のおもいをこめて歌う音楽部がいる。
幕の向こうにはプログラムによると、ダンス部がいるらしい。いったいどんな世界を見せてくれるのか。
以前は、ただ現象のようにとらえていたものが、自他問わず全てに意味があるように思えてきた。それも、傍らで顔を綻ばせる彼女のおかげだ。
この世界は彼女が助けてくれなければ、見ることさえ叶わなかったのだ。一つ一つ楽しみ、彼女と共有し、あわよくば何気ない現象の一つにさえ飾りをつけ、喜びを増してあげたいのだ。
「すごい、きれいだったな」
「うん、とっても楽しそうだった」
「ありがとな」
「え?」
「その、お前が助けてくれなきゃ一緒にこうやって見ることもできなかったんだから」
そう告げた途端に、今まで開いていた笑顔の花が閉じた。失敗した、そう思った途端に考えは止まる。
僕は彼女を楽しませたくて、こうやって言葉を選んでは彩を添えようとしてる。唯一の感謝なんだ。
僕は彼女に恋をしたのは紛れもない事実で、今ではいい方の度合いを高めてしまえば崇拝すらしている。
僕は彼女を傷つけるために、ここにいるのではない。この世界を共に過ごし、楽しいとかそういう感情で素敵にしたいと思っている。
「……前にいったよね。考えることを忘れさせてあげるって」
彼女は俯いたまま、ゆっくりと言う。垂れた前髪が、薄く閉じた眼差しが、失敗を確かなものであるということを教えてくれる。
「あ、うん」
こういう時はなんていえばいい。いや、考えてはいけないんだ。それを彼女が望んでいたじゃないか。
ああ、それが失敗の理由。
僕は彼女の右腕を掴むと人ごみをかき分けて、一心不乱に屋上を目指していた。
勢いよく鉄扉を蹴り開ける。鉄格子の向こう側には変わり映えのないビルが並び、群青色と朱色が混ざり合っていた。
僕は彼女の肩を掴み噛みつくように、心からの言葉を叫ぶ。
「僕は君を傷つけたくない。むしろ、僕といてよかったって死ぬまで思って欲しいと願っている」
さっきまである種の恐ろしさを抱いていた彼女は、もはやその名残すらもなく気圧されて、僕の眼を見ずに短くこたえる。
僕の言葉はきっと彼女にとって刃のように突き刺さっているかもしれない。でも、やらなきゃいけない。
「うん、知っている……」
「この前いったろ。じっくりと考えるのをやめてくれって」
「うん、言ったよ。あのね、それはもうとっくのとうにやってるつもりなんだ」
顔を上げ、まっすぐに見つめる彼女は僕に本能的な感情を呼び起こさせる。
だけど、それは敢えて押し殺した。
今求めているのはそんなものじゃない。
「ああ、でもそんなことは気にならない。だって、僕は君といるだけで幸せなんだから、その時に思ったことを言って、あるままに君と過ごしたい。君が何を思うとも僕は勝手に君が好きで仕方ないんだ」
僕の眼差しの向こうで彼女はすすり泣いていた。
ひどいことを言ってしまったと後悔。後悔の事実は醜く崩れた僕の顔と涙が彼女に伝えているだろう。
彼女はしばらくの間そのままでいた。その時間は、日がビル一階分おちるのにも満たないものだったけれど、盛大に気持ちをぶちまけた後の僕にとって、何もできない時間は幾年にも感じられた。
「正解」
彼女は短くそう告げると、自分の涙を拭いたハンカチで僕の涙も拭き取る。
「そろそろだね」
あの時、僕の手を覆った何かと同じ声が聞こえたような気がした。
結 ウソじゃあないよ
「あーあ、びっくりした。急に私の腕をつかむからさ。襲ってくるんじゃないかと思ったよ」
はぁー、と長い溜息をつく彼女。それを見て、自然と笑いが込み上げてきた。
「アハハ、よかった。安心したよ。引かれるんじゃないかと、心配していたんだ」
「私もあなたのことが好きだし」
「……」
何も言えなかった。すると、彼女は意地悪そうに笑ってたたみかけるように、
「いっぱい思い出をつくるだけで、楽しいって思うようになってほしかったの。私がいるだけで、それでいいっていってほしかったのに、あんなふうに言ってくれたら、涙なんか普通に出るよ」
彼女は僕の耳元でゆっくりと囁く。
「ありがとうね」
そして、そっと僕の唇に唇を重ねた。
一瞬の出来事は起こるべくして起こったのだ。胸の高鳴りは隠せないけれど、彼女の肩から手を放すようなことをせず、より深く抱きしめる。
「や、優しくしてください」
日が落ちていく。空は既に群青色に染まっていた。
×××××××。
×××××××××。
××?
「君の世界は終わったよ」
彼女は閉じていた目を大きく広げて、深い朱色を湛えていたのだ。
彼女を抱きしめていたはずの両腕が痛み始める。
「どういうこと?」
「黄昏の境界の向こう側に君はもう取り込まれてしまったの」
抑揚のない声で彼女は言う。
「いいものを手に入れさせてくれた。ありがとう」
その瞬間、彼女に触れていたはずの右手があの時のように、過ぎ去った「あの時」のように、
銀色の車体に向かって伸ばされていた……!
「ウソだろ」
「うそじゃあないよ」
あの時の声が頭に響いては、もはや抑えることできない恐怖が波紋する。
「すべてがあやふや。君の望んだ世界と現実ともあやふやなんだ。そう、なぜならここはすべての『境界線』なのだから」
カーン、カーンカーン。
それから間もなくして、確実に轢かれた。