売られた花嫁の弟は、汽車に乗りました
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午後の光が、王都の文書庫の高い窓から斜めに差し込んでいた。
棚の奥から運び出された古い帳簿は、どれも革の表紙が乾き、触れるたびに細かな埃を落とした。紙をめくる音だけが静かな室内に続いている。厚い壁の向こうでは荷馬車が石畳を行き交っているはずだったが、その響きもここまでは遠かった。
リディアは一冊の職人台帳をめくっていた。
指が止まった。
リク。
その名の横に記された村を見て、椅子を引き寄せた。
年齢も合っている。
十二歳の冬、山を越えた町の鍛冶屋へ奉公。
何度読んでも同じだった。
別の帳簿を取り出し、名前をたどった。そこにもリクがいた。鍛冶職人として働いたのち、親方から独立を許され、川沿いの町で店を持っている。
さらに家族の記録には妻と子どもの名があった。
その先にも名前は続いていた。
孫の世代まで。
リディアはしばらく、その頁から手を離せなかった。
窓の外で鐘が鳴った。
夕刻を告げる音が、何度か遠く響いた。
*
その日のうちに、リディアは手紙を書いた。
ミラさん。
リクさんを見つけました。
年齢も、生まれた村も、十二歳で鍛冶屋へ奉公に出たことも一致しています。
鍛冶職人になり、自分の店を持ったようです。家族もいます。お孫さんと思われる方の名前も記録に残っています。
これから、会いに行きます。
最後まで書くと、リディアは筆を置いた。
紙を折り、封を閉じた。
翌朝、リディアは王都を出た。
*
初めのうちは、大きな駅が続いた。
高い屋根の下を人が行き交い、汽笛が鳴るたび白い蒸気がホームを覆った。けれど王都から遠ざかるにつれて駅舎は小さくなり、やがて木造の待合室が一つあるだけの停車場になった。
汽車の通らない土地では馬車に乗った。
雨が降れば街道は泥に沈み、深い轍へ車輪を取られるたび、車体が大きく傾いた。山を越えればまた汽車に乗り、数駅先で降りて別の馬車を探した。
北へ進むほど空は低くなった。
遠くの峰には雪が見えた。
王都を出てから二週間近く経った午後、リディアはようやく、リクが十二歳の時に奉公した町へ着いた。
前の晩に雨が降ったらしい。
石畳は濡れて黒く、山から流れ落ちてきた霧が家々の隙間に残っていた。軒から落ちる雫が、通りのあちこちで小さな輪を作っている。
古い記録にあった鍛冶屋は、今も同じ場所にあった。
建物そのものは何度も直されたのだろう。煤けた石壁の隣に新しい作業場が増え、入口には知らない名の看板が掛かっている。
けれど、開いた戸の奥から漂ってくる石炭と焼けた鉄の匂いだけは、ずっと昔からそこに染みついているようだった。
「すみません」
炉の前にいた男が振り返った。
「何か修理ですか」
「いいえ。人を探しています」
「人?」
「ずいぶん昔、こちらへ奉公に入った方です。リクという名前で、当時十二歳でした」
男は眉を寄せた。
「いつ頃です?」
「五十年ほど前です」
「そりゃ、俺が生まれる前だ」
奥にいた別の職人も呼ばれたが、やはり首を振った。
「先々代の頃でしょう。親父なら何か聞いてたかもしれないけど、もう亡くなってるしなあ」
「そうですか」
リディアが頭を下げた時だった。
「リク?」
店の隅から女の声がした。
壁際の椅子に、一人の老女が座っていた。膝には布で包んだ包丁を載せている。
「今、リクと言いました?」
「はい」
「どこの生まれです?」
村の名を告げると、老女は「ああ」と声を上げた。
「それなら知っていますよ」
「本当ですか」
「ええ」
老女は懐かしそうに笑った。
「妹の亭主ですもの」
リディアは瞬きをした。
「……妹さんの?」
「父がここの親方だったんです。私は一番上の娘で、リクが結婚したのは二番目の妹」
「では、リクさんは」
「元気ですよ」
あまりにも普通に言われたので、リディアは返事を忘れた。
「少し前にも、妹と孫を連れて来ました」
「……生きているんですね」
「ええ」
老女が不思議そうにリディアを見た。
「どうしたの?」
「すみません」
リディアは目元を押さえた。
「ずっと探していたものですから」
「リクを?」
「はい」
「どういうご関係?」
霧の向こうから、低い鐘の音が聞こえてきた。
リディアは少し黙ってから答えた。
「お姉さまを知っています」
老女の顔から笑みが消えた。
「姉?」
「ええ」
リディアは頷いた。
「お姉さまは、弟さんのことをずっと探していらっしゃいました」
*
姉の消息を知ったのは、六十をいくつか過ぎた秋だった。
その日は朝から川に霧が出ていた。
水面から立った白い靄は昼近くになっても消えず、川沿いの家々の間へ入り込んでいた。向かいの仕立屋は扉を開けているはずなのに看板だけがぼんやり見え、ときおり人影が霧の中から現れては、また白い向こうへ消えていく。
鍛冶場の中だけは、いつもの朝だった。
炉には赤い火があり、石炭と熱した鉄の匂いがした。金床を叩く音が石壁へ返り、奥では息子が客と何か話している。
「じいちゃん」
振り返ると、九つになる孫が釘を一本、得意そうに差し出していた。
「できた」
「見せてみろ」
受け取って指先で転がした。
軸が少し曲がっている。
「まだ駄目だな」
「どこが?」
「真っ直ぐじゃない」
孫は釘を目の高さまで持ち上げ、片目を閉じて眺めた。
「わかんない」
「なら、もう一本作れ」
「わからないのに?」
「十本作れば、その中で一番真っ直ぐなのがわかる。百本作れば、打ってる途中でわかるようになる」
横で仕事をしていた息子が笑った。
「俺の時より丁寧じゃないか」
「お前は聞かなかっただろ」
「聞いても『もう一本作れ』しか言わなかったぞ」
奥の住居から妻の声がした。
「孫には甘いんですよ」
「甘くない」
「はいはい」
孫はそんな話には構わず、短く切った鉄棒を持って炉へ戻っていった。
「近づきすぎるなよ」
「わかってる!」
「昨日、袖を焦がしただろ」
「今日は焦がさない!」
口だけは一人前だった。
俺はその背中を見ながら、右の肩をゆっくり回した。
若い頃なら朝から夕方まで槌を振っても何ともなかった。掌が裂けても布を巻けば済んだし、翌朝になればまた炉の前へ立った。
今では一日働けば、翌朝まで肩に重さが残る。
それでも、こういう朝が好きだった。
炉へ火を入れて鉄を打つ。客が壊れた鍋や農具を持ってきて、昼になれば妻が飯を食えと言う。夕方になると孫が鍛冶場をうろうろして、そのたびに俺か息子に叱られる。
そんな日を何十年も繰り返してきた。
十二歳の俺には、想像もできなかった暮らしだった。
*
昼を少し過ぎた頃になると、霧は少しずつ薄くなり、通りの向こう側まで見えるようになった。
その時、一台の馬車が店の前で止まった。
女が一人降りてきた。
五十を少し過ぎたくらいだろうか。濃紺の外套を着て、白いものの混じった髪を後ろでまとめている。
女はすぐには店へ入らず、入口の上を見ていた。
そこには俺の名前を彫った看板があった。
若い頃に自分で彫ったものだ。
文字は少し右へ傾いている。
「失礼いたします」
「何かご用で?」
「リクさんでしょうか」
「そうですが」
「北の国境に近い村のお生まれではありませんか」
俺は手にしていた槌を置いた。
「誰です」
「十二歳の冬、山向こうの鍛冶屋へ奉公に出された」
指先が冷たくなった。
「ご実家には、ご両親と、お姉さまがいらした」
炉はすぐ横で燃えているのに、そこだけ火から遠ざかったようだった。
「誰から聞いた」
女が俺を見た。
「あなたのお姉さまからです」
背後で、からん、と金属が鳴った。
孫が何かを落としたのだろう。
いつもなら怒鳴るところだった。
振り向けなかった。
「……姉ちゃん?」
「はい」
「生きてるのか」
「はい。今はミラという名前で暮らしておられます」
「ミラ?」
「故郷を離れてから、名前を変えたそうです」
知らない名前だった。
「人違いじゃないのか」
「その可能性もあります」
「姉ちゃんから、何か聞いた?」
女は少し考えた。
「白いリボンのことを」
顔を上げた。
「お姉さまが白いリボンを髪に結んでいた時、あなたが言ったそうですね」
女はじっと俺を見た。
「『姉ちゃん、町のお嬢様みたいだ』って」
栗色の髪が浮かんだ。
その上で、白いリボンが揺れていた。
からかうつもりで言った。
姉は少し恥ずかしそうに笑った。
何の日だったかは、もう覚えていない。どんな服を着ていたのかも、周りに誰がいたのかも思い出せなかった。
それでも、その顔だけは消えていなかった。
「……それを、姉ちゃんが話したのか」
「はい」
俺は近くの椅子へ座った。
「俺を覚えてたのか」
「ええ」
「ずっと?」
「これまでずっと」
その先の言葉が出てこなかった。
*
女はリディアと名乗った。
妻が茶を持ってくると、見知らぬ女が俺の向かいに座っているのを見て、少し眉を上げた。
「お客さん?」
「姉ちゃんを知ってる人だって」
妻の手が止まった。
「お姉さんの?」
「ああ」
妻はそれ以上尋ねなかった。
リディアの前へ茶を置き、俺の分も置くと、少し離れた椅子へ腰を下ろした。
昔からそういう女だった。
俺が話したくないことは、話すまで待った。
「どうやって俺を見つけた」
俺が尋ねると、リディアは茶碗を両手で包みながら答えた。
「王都の職人台帳です」
「俺が載ってるのか」
「年齢も、生まれた村も合っていました。十二歳で鍛冶屋へ奉公に入ったことも、その後、店を持ったことも」
「そんな昔のことが残ってるのか」
「残っていました」
「姉ちゃんには?」
「王都を出る前に手紙を書きました」
顔を上げた。
「俺が生きてるって?」
「はい。鍛冶職人になったことも、ご自分のお店を持ったことも、ご家族がいることも書きました」
茶碗から白い湯気が上がっていた。
*
姉が逃げたという噂を聞いたのは、俺が奉公に出されてから次の冬だった。
その年は雪が多かった。
山道は何度も塞がれ、故郷の方から来る行商人も少なかった。
ある日、壊れた鍋を持ってきた男が、俺の村の近くを回っていたと知った。
あの頃の俺は、故郷の名前を聞くだけで手が止まった。
「俺の姉ちゃん、知らない?」
姉の名前と年齢を言った。
男の顔が変わった。
「ああ。あの娘か」
「知ってるの?」
「随分噂になったぞ」
隣国の金持ちへ嫁ぐ途中、駅から逃げた。
嫁ぎ先は怒り、実家へ金を請求した。
村では、しばらくその話ばかりだったという。
「ただな」
男が言った。
「別の噂もあった」
「何?」
「本当は逃げてないんじゃないかって」
「どういうこと」
「嫁ぎ先で死んだのを、逃げたことにしたんじゃないかってさ」
「じゃあ、どっちなんだよ」
「知らんよ」
男は肩をすくめた。
「俺だって聞いただけだ」
その晩は眠れなかった。
翌朝、親方はいつものように炉へ火を入れた。
俺も赤くなった鉄を金床へ置いた。
仕事をしていれば、余計なことを考えずに済むと思った。
槌を上げた。
かん。
逃げた。
もう一度。
かん。
死んだ。
かん。
逃げた。
かん。
死んだ。
鉄が少しずつ伸びていく。
逃げた。
死んだ。
逃げた。
死んだ。
かん。
かん。
かん。
「リク!」
親方の声が飛んだ。
槌は鉄ではなく、金床の縁を叩いていた。
手首に鋭い痺れが走り、俺は槌を取り落とした。
「何やってる」
親方が近づいてきた。
「……姉ちゃんが、死んだかもしれない」
「見たのか」
「何を」
「死んだところを」
「見てない」
「なら、生きてる」
「そんなのわからないだろ」
「死んだのだってわからんだろ」
無茶な理屈だった。
俺は俯いた。
小さな窓の向こうでは、細かな雪が降っていた。風がないので、灰色の空から真っ直ぐ落ち、薪にも井戸の縁にも静かに積もっていく。
親方は炉から鉄を取り出した。
「いいか、リク。姉貴が生きてるなら、向こうも生きるのに必死だ」
金床へ置く。
槌が落ち、火花が飛んだ。
「お前がここで泣いてても、姉貴は見つからん」
もう一度、槌が落ちた。
「腕を磨け。一人前になれ」
「一人前になったら?」
「店を持たせてやる」
「本当に?」
「一人前になったらな」
「いつ?」
「それを俺に聞くな」
親方は鼻を鳴らした。
「自分の店を持てば名前が残る。いい仕事をすりゃ、作った物が遠くまで行く。物と一緒に、名前も行く」
そこで槌を止めた。
「お前が姉貴を見つけられなくても、姉貴がお前を見つけることはあるかもしれん」
子どもを働かせるために言っただけだったのかもしれない。
それでも俺は信じた。
あの頃は、他に信じるものがなかった。
*
それから、よく働いた。
最初に一人で作った包丁は曲がった。二本目は焼きを入れすぎて折れ、三本目は刃が欠けた。
四本目を親方へ渡すと、親方は長いこと黙って刃を眺めた。明かりへかざし、重さを確かめ、それから何も言わず、商品を並べる棚へ置いた。
その日は一日中嬉しかった。
二十をいくつか過ぎる頃には、親方が留守でも店を任されるようになった。
親方には娘が三人いた。
俺は二番目の娘と結婚した。
よく笑う女だった。
俺が黙っていれば勝手に話し、昔のことを話したくなければ無理に聞かなかった。
子どもが生まれた。
初めて抱いた時は怖かった。俺の手はもう鍛冶屋の手になっていて、節は太く、掌は硬く、爪の際には洗っても落ちない煤が入っていた。
「壊しそうだ」
そう言うと、親方が笑った。
「鉄より軽いだろ」
「鉄は泣かない」
「泣くからいいんだ」
その意味は、あの頃はよくわからなかった。
やがて親方は約束どおり、俺に店を持たせてくれた。
最初の店は小さかった。炉と金床が一つずつあるだけで、大雨の日には北側の壁から水が染み、冬になると戸の隙間から風が入った。朝には水桶へ薄い氷が張ることもあった。
それでも、自分の店だった。
入口に看板を掛けた。
妻に文字を書いてもらい、それを見ながら自分の名前を木へ彫った。
少し右へ傾いた。
「作り直す」
俺が言うと、親方が止めた。
「いい」
「曲がってる」
「お前が彫ったんだろ」
「ああ」
「じゃあ、それでいい」
その看板は残った。
看板の下を、いろいろな人が通った。
息子が生まれ、娘が生まれた。
息子が槌を持つようになり、娘は近くの商家へ嫁いだ。
やがて孫が生まれた。
親方は、その途中で死んだ。
葬式の日には朝から雨が降っていた。
人がいなくなってから、俺は一人で墓の前に残った。
「まだ見つからないよ、親方」
*
「どうして、あなたが姉を知っているんです」
俺が聞くと、リディアは少し黙った。
「私は、ミラさんに助けていただきました」
「姉ちゃんに?」
「十六の頃です」
詳しいことは話さなかった。
家にいられなくなって逃げ、行くところもないまま歩いた末に、姉とエリオの店へたどり着いたのだという。
店の奥には、一晩だけ行き場のない女を休ませる小さな部屋があった。
姉は理由を聞かず、温かいものを食べさせ、乾いた服を貸した。
リディアは翌朝には出るつもりだった。
けれど、出られなかった。
リディアはそこで暮らし、店を手伝うようになった。
「文字も、ミラさんの家で覚えました」
「姉ちゃんが教えたのか」
「ネリアさんと一緒に」
「ネリア?」
「娘さんです。あの頃は八つくらいでした」
やがてリディアは村の教師にも習い、文官の試験を受けた。
王都へ行くことになった時、姉が初めて弟の話をしたという。
「文官になれば、いろいろな記録を見ることがあるでしょう。もし同じ名前を見かけたら、少しだけ気にしてくれない?」
それだけだった。
「それで探してくれたのか」
「ええ」
「何十年も?」
「なかなか見つからなかったんです」
リディアは少し笑った。
俺は茶碗を置いた。
「姉ちゃんのところへ行ける?」
「もちろんです」
「明日行く」
「遠いですよ」
「どれくらい」
「十日以上はかかります。汽車も何度も乗り換えますし、最後は馬車です」
「なら、なおさら明日だ」
「お体は」
「大丈夫だ」
膝も痛かった。
腰も痛かった。
長く座っていれば足も腫れる。
それでも、それ以外の答えはなかった。
*
妻は反対しなかった。
「行ってきなさい」
「店は」
「息子がいるでしょう」
「孫が炉に近づく」
「私が見ています」
「でも」
「リク」
妻が俺を見た。
「行ってきなさい」
「……ああ」
その晩、妻は鞄に着替えを詰め、薬を入れ、厚い靴下まで押し込んだ。
「こんなにいらない」
「いります」
「子どもじゃない」
「子どもより言うことを聞きませんから」
翌朝、孫まで駅についてきた。
夜の冷気がまだホームに残り、端の方には薄い霧が溜まっていた。二本の線路だけが濡れた黒い帯になって、白い向こう側へ続いている。
「じいちゃん」
「何だ」
「じいちゃんにも姉ちゃんがいるんだね」
「ああ」
俺は少し笑った。
「いるんだよ」
「会ったら何て言うの?」
すぐには答えられなかった。
「今から考えるよ」
遠くで汽笛が鳴った。
線路が低く震え始め、霧の向こうから黒い機関車が姿を現した。近づくにつれて音が大きくなり、ホームへ滑り込んだ途端、白い蒸気が人の足元を覆った。
「じいちゃん!」
孫が叫んだ。
「姉ちゃんによろしくね!」
俺は手を上げた。
*
汽車が動き出すと、見慣れた町はゆっくり後ろへ流れていった。
川が見えなくなり、鍛冶場の煙突が小さくなった。最後まで残っていた教会の尖塔も灰色の空の下へ沈むと、窓の外には知らない土地ばかりが続くようになった。
煤の薄くついた窓硝子の向こうを、冬枯れの畑が流れていく。車内には油と石炭の匂いが染みつき、車輪は一定の調子で線路の継ぎ目を拾い続けていた。
午後になると、汽車は山へ入った。
平地では雨だったものが、上では雪になっていたらしい。線路脇の枯れ草には白いものが積もり、葉を落とした木々の枝にも雪が残っていた。
細い枝が幾重にも重なって、灰色の空へ伸びている。
遠くから見れば、白い骨を組み上げたようにも見えた。
けれど、不思議と怖くはなかった。
姉も、歳を取ったのだろう。
俺の知らない場所で幾つもの冬を越し、今では髪も白くなっているのかもしれない。皺もあるだろうし、歩くのも遅くなったかもしれない。
そう考えてみても、顔は浮かばなかった。
思い出すのは若い頃の姉ばかりだった。
忙しそうに家の中を歩いていた姿。
俺の皿へ少し多く食べ物を入れて、母に見つからないよう知らん顔をしていた姿。
栗色の髪に白いリボンを結んでいた時の顔。
「姉ちゃん、町のお嬢様みたいだ」
俺の中の姉は、そこで止まっていた。
姉の中にいる俺も、まだ十二歳のままなのだろうか。
汽車が鉄橋へ入ると、車輪の音が急に硬くなった。床から伝わった振動が、古い膝の奥まで響く。
窓硝子に、自分の顔がぼんやり映った。
白い髪と、深い皺があった。
*
旅は長かった。
汽車を降り、別の汽車に乗った。半日待った駅もあれば、雨で線路の点検が入り、夕方まで汽車が動かなかった日もあった。
汽車の通らない土地では馬車へ乗り、朝早く宿を出て、日が暮れてから次の町へ着いた。
そうして朝が来れば、また鞄を持った。
その間ずっと、姉に会ったら何を言うか考えていた。
ある夜、汽車の中で夢を見た。
俺は十二歳だった。
馬車に乗せられている。
道の端に姉がいた。
何かを言っている。
聞こえない。
馬車は進む。
姉の姿が小さくなる。
俺は身を乗り出した。
「姉ちゃん!」
そこで目が覚めた。
暗い窓の向こうには何も見えず、ただ車輪の音だけが続いていた。
「大丈夫ですか」
向かいにいたリディアが聞いた。
「昔の夢だ」
「そうですか」
それ以上は聞かなかった。
*
十一日目の夕方、小さな駅で汽車を降りた。
そこから、さらに馬車へ乗った。
陽はもう山へ沈みかけ、冬枯れの畑には長い影が落ちていた。果樹の細い枝が、薄紫色になった空へ伸びている。
村へ入ると、家々の煙突から夕餉の煙が立っていた。
どこかから煮込み料理の匂いが流れてきた。
「あそこです」
リディアが言った。
道の先に、小さな家が見えた。
片側が店になっている。軒下には修理を待つ椅子が二脚置かれ、庭には白い布や男物の服が干されていた。
あまりにも普通の家だった。
姉はここで暮らした。
朝起きて、飯を食べ、仕事をした。
娘を育て、夫と歳を取った。
俺の知らない日が、ここには何十年分もあった。
馬車を降りた。
膝が痛んだ。
それでも歩いた。
リディアが戸を叩いた。
中から足音がした。
扉が開いた。
一人の女が立っていた。
栗色の髪には、白いものがかなり混じっている。
その顔を見た瞬間、胸が詰まった。
目元が似ていた。
笑っていない時の口元も。
「ネリアさん」
リディアが呼んだ。
女がこちらを見た。
目が大きくなった。
「……リク叔父さん?」
「ああ」
ネリアの目から涙が落ちた。
俺はその後ろを見た。
「姉ちゃんは?」
ネリアは答えなかった。
「姉ちゃんは、どこに」
「叔父さん」
ネリアが俺の手を取った。
「母は……ひと月近く前に亡くなりました」
何を言われたのか、すぐにはわからなかった。
「……ひと月?」
「はい」
隣でリディアが息を呑んだ。
本当に悲しい時には、人はすぐには泣けないものらしい。
ネリアの声も、隣に立つリディアの気配も、急に遠くなったように感じられた。姉が死んだという言葉だけが胸の中へ落ちたまま、そこから先へ沈んでいかない。
俺は開いた扉の向こうを見ていた。
薄暗い廊下の奥には灯りがあり、どこかで夕餉の煮込みでも火にかけているのか、温かな匂いが流れてくる。
そこに姉がいると思って、ここまで来たのだ。
長いあいだ、誰も口をきかなかった。
夕方の冷たい風が通りを抜け、軒先に残っていた白い布を揺らした。布は一度大きく膨らみ、風が抜けると、何事もなかったようにまた垂れた。
「……そうか」
ようやく声が出た。
それ以上は言わなかった。
何か続ければ、声がおかしくなりそうだった。
俺は一度だけ息を吸って、背筋を伸ばした。
「すまなかったな」
リディアを見る。
「こんな遠くまで、連れてきてもらって」
「リクさん……」
「姉ちゃんを見つけてくれただけで十分だ」
自分でも、ずいぶんまともな声が出たと思った。
何十年も槌を握ってきた。熱い鉄が割れて飛んでも、指を焼いても、客の前では顔に出すなと親方に教えられた。
姪の前で泣くわけにはいかなかった。
「墓は、明日でいい」
俺はもう一度、家の奥を見た。
「今日は……」
「でも!」
ネリアの声がした。
思っていたより大きな声だったのだろう。俺もリディアも同時に振り向いた。
ネリア自身も一瞬、驚いたように目を見開いていた。
風がまた吹いた。
栗色の髪に混じった白いものが、頬の脇で細く揺れた。
ネリアは何か言いかけるように唇を開き、少しだけ黙った。
それから俺を見た。
「でも、母は叔父さんが見つかったことを知っていました」
「……え?」
「叔父さんが生きていることを、知っていました」
言葉の意味がわかるまで、少し時間がかかった。
隣で、リディアが小さく息を吸った。
「手紙……」
ネリアがそちらを見る。
「私の手紙が、届いたんですか」
一瞬だけ、二人の視線が合った。
「はい」
ネリアは答えた。
「届きました」
「間に合ったんですね」
リディアの声が震えた。
ネリアは微笑んだ。
「はい。間に合いました」
胸の奥で何かが動いた。
さっきまで、そこに大きな石でも落ちたように何も動かなかったのに、その下から細い息が戻ってきた。
「じゃあ……」
喉が掠れた。
「俺が生きてるって、姉ちゃんは知ってたのか」
「はい」
「鍛冶屋をやってることも?」
「知っていました」
「店を持ったことも?」
「ええ」
言葉が急いた。
「女房がいることも、子どもがいることも?」
「お孫さんがいることまで」
俺は俯いた。
「そうか」
さっきと同じ言葉だった。
けれど、今度はまるで違うものだった。
「そうか」
もう一度言った。
姉には会えなかった。
それでも、あの冬のあと、俺がちゃんと生きていたことは知ったのだ。
十二歳のままではなかった。
鍛冶屋になった。
店を持った。
妻をもらった。
子どもができて、孫までできた。
姉の中でも、俺は歳を取ることができた。
「母は、泣きました」
ネリアが言った。
顔を上げた。
「泣いた?」
「はい。ずっと、叔父さんのことを気にしていたんです。自分は逃げて、そのあと幸せになったのに、叔父さんがどうなったのかわからないままだったから」
ネリアの目にも涙が浮かんでいた。
「自分だけ幸せになってしまったんじゃないかって」
「違う」
考えるより先に言っていた。
「それは違う」
ネリアが俺を見る。
「姉ちゃんは悪くない」
胸の底から、急に熱いものが込み上げてきた。
本人にはもう聞こえない。
わかっていた。
それでも、五十年以上遅れてきた言葉が止まらなかった。
「俺を鍛冶屋へ出したのは姉ちゃんじゃない。姉ちゃんだって売られたんだろ」
「はい」
「だったら、逃げて何が悪い」
声が少し大きくなった。
「生きて、幸せになって、何が悪いんだ」
言い終えると、急に息が苦しくなった。
俺は目を伏せた。
通りを抜けた風が、また軒下の布を揺らした。
「俺は大丈夫だったよ」
誰に向かって言っているのか、自分でもわからなかった。
「最初はひどかったけど、親方がいた。仕事を覚えた。女房もいるし、子どももいる。孫なんか、今じゃ勝手に鍛冶場へ入ってきて、曲がった釘を真っ直ぐだって言い張る」
少しだけ笑った。
「俺、結構うまくやったんだよ」
ネリアの頬を涙が伝った。
俺は見ないふりをした。
「姉ちゃん、そのことも知ってた?」
「はい」
「俺が幸せだったって?」
ネリアは一度、唇を結んだ。
「知っていました」
その返事を聞いた時、とうとう目の奥が熱くなった。
泣くつもりはなかった。
姪の前で、こんな歳になった男が泣くものじゃないと思った。
それでも俯いた拍子に、一滴だけ落ちた。
俺は袖で乱暴に拭った。
「そうか」
隣では、リディアも目元を押さえていた。
「よかった……」
掠れた声で言った。
「本当に、間に合ってよかった」
*
「寒いでしょう。中へ入ってください」
ネリアに言われ、ようやく家へ入った。
玄関をくぐると、外の冷気が背中から切り離された。
古い木と石鹸、それに長く火にかけられた煮込み料理の匂いがした。壁には古い時計が掛かり、戸棚の上には使い込まれた籠が重ねてある。窓辺には糸と針を入れた小箱があり、椅子の背には畳みかけの布が掛かっていた。
どれも姉が触ったことがあるのだろうと思うと、妙な気持ちになった。
姉はいないのに、姉が暮らしていた時間だけが、あちこちに残っている。
ネリアが茶を淹れた。
湯気がゆっくり上がり、古い時計の前でほどけて消えた。
今度は少し飲んだ。
温かかった。
「エリオさんは?」
俺が聞くと、ネリアは向かいの椅子へ腰を下ろした。
「何年も前に亡くなりました」
「そうか」
「母より先でした」
茶碗を見た。
「姉ちゃんを大事にしてくれた?」
「とても」
「殴ったりは」
「一度もありません」
「怒鳴ったり」
「ありませんでした」
「嫌だって言ったことを、無理にさせたりは」
「一度も」
「そうか」
それだけ聞けば十分なはずだった。
けれど、しばらくすると、別のことも聞きたくなった。
朝は早かったのか。
何を食べるのが好きだったのか。
料理は上手だったのか。
怒る時はどんな顔をしたのか。
孫には甘かったのか。
歳を取ってからも働いていたのか。
ネリアは一つずつ答えてくれた。
「母は朝が早かったです。父が生きていた頃は、たいてい父より先に起きていました」
「昔からそうだった」
「でも、年を取ってからは冬の朝だけ駄目でした。なかなか布団から出てこなくて」
「それは知らないな」
「叔父さんが知っている母は、若い頃でしょう?」
「ああ」
「歳を取ったんですよ」
当たり前のことを言われたのに、その言葉が胸に残った。
姉は歳を取った。
俺の知らないところで。
「髪は?」
「白いものがずいぶん増えました。でも、最後まで長かったです」
「そうか」
「孫が小さい頃は、よく引っ張られていました。嫌がるくせに、逃げないんです」
ネリアが笑った。
その姿なら、少し想像できた。
俺も話した。
親方のこと。
妻のこと。
最初の店が雨漏りしたこと。
右へ傾いた看板を、結局今も使っていること。
息子が俺より口数の多い男になったこと。
九つになる孫が毎日のように釘を曲げること。
ネリアは何度も笑った。
「母に、直接聞かせたかったです」
その一言で、部屋が少し静かになった。
「知ってたんだろ」
「ええ」
「なら、いい」
茶はすっかり冷めていた。
俺はそれに口をつけた。
さっきより少し苦く感じた。
*
翌朝、姉の墓へ行った。
墓地は村の外れにあった。
夜の冷え込みで草には薄い霜が降り、踏むたび靴の下でしゃり、と細い音がした。空は白く曇り、風はほとんどなかった。
姉の墓は、エリオの隣にあった。
墓標には、ミラの名が刻まれていた。
俺の知らない名前だった。
それでも、その下に眠っているのは姉だった。
土はもうきれいに均されていたが、周囲よりまだ少し色が濃かった。何度か雨に打たれた跡が細く残り、端に置かれた花は寒さで色を失い始めている。
俺は墓の前へしゃがんだ。
「姉ちゃん」
六十を過ぎた男が口にするには、ずいぶん幼い呼び方だった。
けれど、他の呼び方を知らなかった。
「遅くなった」
墓標へ手を置いた。
冷たかった。
「親方が昔、言ったんだ」
少し離れた木から、霜がぱらぱらと落ちた。
「俺が姉ちゃんを見つけられなくても、姉ちゃんが俺を見つけるかもしれないって」
笑った。
「本当だったな」
姉は知っていた。
俺が生きていることを。
鍛冶屋になったことを。
妻がいて、子どもがいて、孫までいることを。
「俺、幸せだったよ」
昨日ネリアに言ったのと同じことを、もう一度言った。
「だから、姉ちゃんも幸せでよかったんだよ」
しばらく、墓標に手を置いていた。
それから隣へ目を向けた。
「ありがとう」
エリオに言った。
「姉ちゃんを大事にしてくれて」
白い空の下で、二つの墓は並んでいた。
*
帰る朝、ネリアの娘が玄関まで見送りに来た。
十を少し過ぎたくらいの少女だった。
栗色の髪に、白いリボンを結んでいる。
俺は足を止めた。
「どうしたの?」
「いや」
少女が自分の髪へ手をやった。
「これ?」
「ああ」
「お母さんが結んでくれたの」
ネリアが後ろから出てきた。
「母も、私が小さい頃はよく白いリボンを結んでくれました」
「姉ちゃんが?」
「ええ。ただ、いつも少し緩く結ぶんです」
「どうして?」
「走った時に邪魔にならないように。嫌になったら、自分ですぐ外せるようにって」
ネリアが娘の髪へ手を伸ばし、少しずれていた結び目を直した。
白いリボンが、栗色の髪の上で揺れた。
昔の姉を思い出した。
俺が知っている姉は、白いリボンを髪に結んで笑っていた。
目の前の少女も笑った。
「変?」
「いや」
俺は首を振った。
「似合ってるよ」
「町のお嬢様みたい?」
思わず顔を見た。
「お母さんから聞いたの」
ネリアが笑った。
俺も少し笑った。
「そうだな」
白いリボンが風に揺れた。
「町のお嬢様みたいだ」
*
帰りの汽車では、細い雨が降っていた。
煤のついた窓硝子を水滴が斜めに流れ、その向こうで畑も森もゆっくり輪郭を失っていった。車内には行きと同じ油と石炭の匂いが漂い、車輪は変わらない調子で線路の継ぎ目を拾い続けている。
行きと同じ道だった。
けれど、窓の外に見えるものは少し違っていた。
汽車が山へ入ると、雪の残った木々が現れた。
葉を失った枝が灰色の空へ伸びている。
行きにも見た。
あの時は、歳を取った姉の顔を想像しようとしていた。
結局、最後まで想像できなかった。
会いたかった。
白髪になった姉を見たかった。
声を聞きたかった。
できるなら、「ずいぶん婆さんになったな」と笑ってみたかった。
きっと怒られただろう。
それでも会いたかった。
窓の向こうで、雪を載せた枝が風にしなった。
積もっていた白いものが落ち、その下から濡れた黒い木肌が現れた。
俺はそれをしばらく見ていた。
姉が昔助けた娘が、何十年も経って、古い帳簿の中から俺の名前を見つけた。
親方の言ったとおりだった。
俺が姉を見つけることはできなかった。
それでも。
姉ちゃんが、俺を見つけた。
「姉ちゃん」
小さく呼んだ。
声は車輪の音に消えた。
「俺、幸せだったよ」
*
リクを乗せた汽車が村を離れた日の夕方、ネリアは庭の洗濯物を取り込んでいた。
昼間は晴れていたが、陽が山へ落ちると急に冷えた。西の空に残っていた淡い光が薄れ、遠くの山々が一つずつ黒い影になっていく。
娘が籠を持って、後ろを歩いていた。
「お母さん」
「なあに」
ネリアは竿から白い布を外した。
「リクおじいちゃんに言ったでしょう」
「何を?」
「リディアさんのお手紙、間に合ったって」
ネリアの手が止まった。
風が吹き、手にした布が一度大きく膨らんだ。
「言ったわね」
「でも」
娘は籠を抱えたまま、ネリアを見上げた。
「お手紙が来た時、おばあちゃん、もう死んでたよね」
*
母が亡くなる三日前。
朝から細い雨が降っていた。
強い雨ではなかった。
ただ、朝になっても昼になっても止まらず、庭の土は黒く濡れていた。何も干されていない洗濯竿には水滴だけが並び、先端まで滑ってきた雫が、重くなるたび一つずつ落ちていった。
母は、もうほとんど起き上がれなくなっていた。
枕元に置いた水は朝からほとんど減っていなかった。昼に温めたスープにも二口ほどしか口をつけず、目を閉じると、そのまま長く眠った。
少し目を覚ましては、また眠る。
以前なら、店の戸が開けば寝台の上からでも誰が来たのか聞いた。洗濯物を持ってきた客の声を聞いただけで、名前を当てることもあった。
今は、ネリアが部屋へ入っても気づかない時があった。
ネリアは寝台のそばへ座り、母の手を取った。
昔は濡れた布を何枚も絞り、重い籠を抱え、幼いネリアを簡単に抱き上げた手だった。
今は薄く、指の骨が皮膚の下に浮いていた。
握っても、ほとんど力が返ってこなかった。
リディアからの知らせは、まだ来ていない。
雨粒が一つ、窓硝子をゆっくり伝った。
母が目を開けた。
「リクも、どこかで幸せに暮らしていたらいいんだけどね」
声は小さかった。
ネリアは母の手を握ったまま、黙っていた。
「立派になっていなくてもいいの」
母は窓の方を見ていた。
「ちゃんと食べて、寒い時には暖かいところで眠れて」
少し息をついた。
「たまには笑っていたなら、それでいいの」
洗濯竿の先から、雫が落ちた。
ネリアは母の横顔を見た。
「お母さん」
「なあに」
「手紙が来たよ」
母がこちらを見た。
「誰から?」
「リディアさん」
嘘だった。
「リク叔父さん、見つかったって」
母の目が大きくなった。
「本当?」
「うん」
嘘だった。
「生きてる?」
「生きてるよ」
嘘だった。
「元気?」
「元気だって」
嘘だった。
母の目に、わずかに光が戻った。
「鍛冶屋は?」
「続けてるって」
嘘だった。
「そう」
母の口元が少し緩んだ。
「結婚は?」
「したって」
嘘だった。
「子どもは?」
「いるよ」
嘘だった。
「孫もいるって」
それも嘘だった。
母の頬を涙が流れた。
「幸せ?」
その問いだけは、すぐには答えられなかった。
雨が降り続いていた。
軒から落ちる水が、庭に置いた桶を一定の間隔で鳴らしている。
母がネリアを見ていた。
白くなった髪。
痩せた頬。
細くなった指。
その目だけが、答えを待っていた。
ネリアは母の手を握り直した。
「幸せだって」
一番大きな嘘だった。
母は泣いた。
声を立てずに、長いこと泣いた。
やがて、ほんの少し笑った。
「そう」
「うん」
「よかった」
母は目を閉じた。
「リク、幸せだったんだ」
「うん」
「よかった」
その晩、母は久しぶりによく眠った。
翌日は、ほとんど目を覚まさなかった。
その次の日には、水もほとんど飲まなくなった。
三日目の明け方、雨が上がった。
夜のあいだ空を覆っていた雲が切れ、白い朝の光が窓から細く差し込んだ。
その光が寝台の端へ届く頃には、母はもう息をしていなかった。
リディアから本当の手紙が届いたのは、母が亡くなって三日後だった。
*
「お母さんがついた嘘は、いい嘘ってこと?」
娘が尋ねた。
「それは違うわ」
「どうして?」
ネリアは少し考えた。
「優しい嘘も、意地悪な嘘も、結局はただの嘘なのよ」
娘は黙って聞いていた。
「どんな嘘でも、その罪まで、ついた人が自分で背負っていかなくちゃいけなくなるの」
「むずかしいね」
「そうね」
ネリアは微笑んで、娘の頭を優しく撫でた。
「だから、いつか、誰も嘘をつかなくて済む日が来ればいいって、祈っているのよ」




