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鏡像

……あなや。お立会い。

これは、あるいは夢の通い路を逆走する影の告白かもしれませんし、あるいは冷たいホルマリンに浸された脳髄が奏でる不協和音かもしれません。私は、この物語における「私」でありながら、同時に貴方の眼前に広がる無惨な光景を差配する狂言廻し。ただの傍観者。そう、道化の面に張り付いた剥製に過ぎないのです。


目が覚めると、そこは、まるで「沈黙」という名の重苦しい液体で満たされた、薄気味暗い、それでいて外科手術の執刀台を思わせるほどに鮮明な病室でした。

「私」という意識が、泥のような眠りから這い出してきた時、まず初めに感じたのは、自己の不在という戦慄すべき欠落。私は、私を知らない。私が誰であるか、その記号も歴史も、あぶくのように消え失せている。いや、正確には、意識の深層に沈殿した「忘却」という名の重石を、持ち上げることができないだけなのかもしれない。

「いったい、ここはどこだろう」

独白は、乾いた砂を噛むような音となって、殺風景な四壁に跳ね返りました。

壁は、平成の終わりを象徴するような、安価で、それでいて清潔すぎて吐き気を催すプラスチックの質感。窓はありません。光は天井に埋め込まれたLEDから、慈悲もなく均等に、暴力的なまでに、私を照らし出している。

ふと見れば、部屋の隅には鏡付きの洗面台。安っぽいラックには、まるで吊るされた死体のように衣服が掛かっている。書棚には、背表紙のない本が幾冊か並んでいる。

私は今、薄い布切れ一枚の病衣を纏っています。起きて早々に、あのラックに掛かった衣服に着替えようなどという、能動的な生命力は湧いてきませんでした。私はただ、この存在の不確かさを確認するために、吸い寄せられるように洗面台へと歩を進めたのです。


鏡。それは、世界で最も卑屈な真実を映し出す呪具です。そこに映っていたのは、二十代前半とおぼしき一人の女でした。身長は百七十前後。黒く、長く、しなやかな、まるで夜の闇を一本ずつ丁寧に梳き取って紡いだような髪。顔立ちは恐ろしいほどに整い、その瞳はビィドロの細工物のように透き通り、それでいて底知れぬ空虚を湛えていました。

ああ、私は、我ながら自分の美貌に現を抜かしているようです。

しかし、この美しさは何でしょう。愛されるための武装でしょうか。それとも、中身の空洞を隠すための華美な装飾でしょうか。鏡の中の女は、私を見つめ返し、同時に私を嘲笑っている。

「お前には、この器を愛する権利などないのだよ」と。


自己否定という名の猛毒が、指先からじわじわと毛細血管を伝わって、心臓を侵食していくのを感じる。私は美しい。ゆえに、醜い。この黄金比の顔面の裏側で、ドロドロとした嫌悪が蠢いているのを、私は知っているのです。

窓のない、この「密室」。

空間の歪み。時間の停止。

スマートフォンの電波も、SNSの喧騒も、ここまでは届かないであろう。


ああ、滑稽だ。実に滑稽で、なおかつ吐き気がするほどに美しい。

私が今、こうして文字を綴っているのか、あるいは思考の臓物をぶちまけているのか、それすらも定かではないのです。鏡の中の自分を覗き込むような、あの不快な、それでいて離れがたい自己愛に近い嫌悪感。


皆さんは、自分の名前を忘れたことがありますか? いえ、忘れたのではなく、最初から「無かった」としたら?私の目の前には、一幅の絵画のごとき静謐な、しかし狂気を孕んだ光景が広がっています。


私は、この奇妙な、論理を欠いた状況を、受け入れるしかありませんでした。というより、それ以外の選択肢を、私の脳は「分析」することを拒否していた。


その時でした。

重厚な、しかし滑らかな音を立てて、ドアが開いたのは。入ってきたのは、一人の男と、二人の女。

男は顔には感情を削ぎ落とした仮面のような笑みを浮かべている。男の年齢は四十前後。清潔な白衣を纏い、髪は几帳面に整えられ、まるで「善意」という概念を煮詰めて固めたような、あるいは好青年という種族がそのまま丁寧に年を重ねたような、非の打ち所のない外見です。その後ろには、判で押したように瓜二つの女が二人。黒髪を厳格に束ね、糊のきいた看護服に身を包んだ双子が、音もなく控えています。あるいは私を監視する獄卒のようでもある。


「ああ、お目覚めですか。」

男の声は、私の鼓膜を震わせる。その音波が、私の記憶の「欠落」した部分に触れるたび、言いようのない不安が、首筋を這い上がる冷たい蛇のように走りました。

彼らは私を知っている。しかし、私は彼らを知らない。

私は、ベッドの端に腰掛けたまま、彼らを見上げました。

その視線の先で、私の「存在」が、解剖学的な冷徹さをもって切り刻まれていく予感に、私は不気味なほどの法悦を感じていたのです。


「……私は、誰なの?」

私の口から零れたのは、喉の奥にへばりついていた泥のような問いでした。ところが、その男その

「善意の権化」は、慈愛に満ちた、しかし冷徹な手術刀のような声でこう宣ったのです。

「あなたは貴女のことを、自分で思い出さなくてはならない。いいですか。記憶とは他者から与えられる『記号』ではなく、自己の深淵から湧き上がる『生理現象』なのですから」


彼は続けます。

「この部屋には、貴女の記憶を呼び覚ますために必要なものが揃っています」。

 そう言うと、背後の双子に目配せをしました。彼女たちは機械的な正確さで、私の元へトレイを運びます。

そこに載っていたのは、あまりにも無機質な、いわゆる「病院食」でした。柔らかく煮崩された野菜、味の薄い粥、正体不明の練り物。

ああ、なるほど。ここは病院なのだ。白衣、看護服、消毒液の匂い、そしてこの味気ない食事。論理的帰結として、ここは医療機関であり、私は「患者」という記号を付与された存在であるはずだ……。

しかし、待ってください。

私の脳髄の片隅で、もう一人の「私」が冷笑しているのです。

本当かい? 本当にここは病院なのかい? この白衣の男の瞳の奥に、一滴の黒いインクが滴り落ちるような、底知れぬ悪意……いや、それ以上に恐ろしい「無関心」が揺らめいているのが見えないのかい?

私は震える手でスプーンを取りました。アルミの冷たさが指先に突き刺さります。

ふと、視界の端に違和感を覚えました。

鏡に映る私の顔は、まるで見知らぬ誰かの死に顔のように青白く、静止しているのです。


私は粥を口に運びました。

味がしません。いえ、正確には「記憶の中の味」と、いま舌が感知している「電気的な信号」が、全く合致しないのです。

昨日の私は何を食べていた?

一年前の私は、誰と、どんな色の光の下で、誰の愛を乞うていた?

スマートフォンの通知音が聞こえた気がしました。電子的な、無機質な、誰かからの呼びかけ。

しかし、私の手元には何もありません。ただ、不気味なほどに白く、清潔な沈黙があるだけです。


「先生……私は、また明日も、私を思い出せなくて良いのですか?」

私の問いに、男は答えません。ただ、鏡のように滑らかな微笑を浮かべ、私を見つめているだけでした。


その視線は、愛する女性を見つめるそれではなく、顕微鏡で未知の黴を観察する学者のそれでした。


脳内で、ドロドロとした黒い夢が溶け出します。

私は、堕ちていく。この清潔な地獄の、さらに奥底へ。


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