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ー【第二節】特製ホットミルクの甘い香り、それは残業と理不尽な労働からの完全なる解放の証

第二節 特製ホットミルクの甘い香り、それは残業と理不尽な労働からの完全なる解放の証


馬車の中には私一人。

薄暗くなり始めた車内で、私は懐をごそごそと探った。


取り出したのは、金属製の魔法瓶。

これは、王宮の厨房を仕切るメイド長――口は悪いが世話焼きで、私の数少ない理解者だった彼女が、「旅の道中、腹が減ったら飲みな」とこっそり持たせてくれたものだ。


「ありがとう、マーサ」


小さく呟いて、私は魔法瓶の蓋を開けた。

ポン、という小気味良い音とともに、白い湯気がふわりと立ち上る。

狭い車内に、一瞬にして甘く優しい香りが充満した。


蜂蜜多め、シナモン少々。

私が激務の合間に厨房へ逃げ込んだ時、いつもマーサが作ってくれた特製ホットミルクだ。


カップに注ぐと、とぷとぷという音が心を落ち着かせてくれる。

温かいカップを両手で包み込むと、冷えた指先に熱が伝わってきた。


私はゆっくりと口をつけ、一口啜る。


「……んん」


とろりとした甘さが舌の上に広がり、シナモンの香りが鼻腔をくすぐる。

じんわりと胃の腑が温まり、緊張で強張っていた体の芯が解きほぐされていく。


五感すべてを使って「安らぎ」を噛み締める。

そして、私は顔を上げた。

こみ上げてくるのは、止めようのない歓喜だ。


もう、我慢する必要はない。

ここは誰もいない馬車の中なのだから。


「あーーーーーー、せいせいしたっ!!!」


私はカップを持ったまま、天井に向かって叫んだ。

日頃の猫を被った聖女の仮面は、窓から放り投げてやった。


「これで残業なし! 休日出勤なし! 深夜の呼び出しもなし!」


指折り数えて、自由の素晴らしさを確認する。


「王子の浮気相手の尻拭いもなし! 『予算がないから結界の維持費を削れ』なんて無茶振りもなし! 『お前の顔を見ると元気がなくなる』だの『もっと愛想よく笑え』だの、あのモラハラ王子の戯言を聞く必要も、もうないのよ!」


私のこれまでの生活は、地獄だった。

聖女とは名ばかりの、二十四時間体制の結界維持装置。

それに加えて、次期王妃としての公務、レイド殿下の女性関係の後始末、さらには国庫の赤字を埋めるための魔道具作成の内職までさせられていたのだ。


睡眠時間は一日三時間。

肌は荒れ、目の下には隈ができ、髪はパサつく。

それを「出涸らし」と呼ぶなら、そうさせたのはお前らだと言ってやりたい。


「ああ、素晴らしい。なんて素晴らしいのかしら、無職って!」


私は再びホットミルクを口に運び、至福の溜息をついた。

もう、明日の朝早く起きなくていい。

結界の揺らぎを気にして、夜中に飛び起きる必要もない。


完全なる自由。

その事実に酔いしれていると、ふと足元に違和感を覚えた。


『モフ……』


音もなく、影から「それ」は現れた。

馬車の床、私のブーツのすぐ横から湧き出るようにして姿を見せたのは、直径三十センチほどの黒い球体。


目も口もない。手足もない。

ただの毛むくじゃらの、真っ黒な毛玉。

けれど私にはわかる。こいつが今、私を見上げていることが。

そして、とてつもなくお腹を空かせていることが。

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