第7話 契約書は、嘘をつかない
夜更け。
執務室には、紙をめくる音だけが響いていた。
グランツ商会との契約書。
分厚く、条文は細かい。
「……丁寧すぎるな」
前世で契約書を扱ってきた身としては、
むしろ違和感を覚えるほどだ。
読み飛ばさない。
一行ずつ、指でなぞる。
「供給義務」
「価格調整条項」
「不可抗力」
どれも、表向きは完璧。
だが――
「……ここか」
俺は、ある一文で指を止めた。
本契約に基づく供給は、
当該領地における「通常の商取引」が維持されていることを前提とする。
曖昧だ。
意図的に。
「“通常の商取引”……」
定義が、ない。
つまり、これは――
解釈次第で、いくらでも動く条文だ。
翌朝。
老執事と警備隊長を呼び、条文を示す。
「ここを見てくれ」
「……通常の商取引?」
「はい。
これ、具体的に何を指すか、書いてない」
警備隊長が、眉をひそめる。
「それが、問題なのですか?」
「問題しかない」
俺は、断言した。
「この条文は、
“相手が守らなければ、こちらも守らなくていい”
ための逃げ道だ」
「……なるほど」
老執事が、ゆっくりとうなずく。
「つまり――」
「こちらが、“通常の商取引”の形を変えればいい」
そう。
商会は、こう考えていたはずだ。
弱い領地は、変われない。
だから、曖昧でも問題ない。
だが。
「露店が増え、小規模商人が動き始めた今、
この領地の“通常”は、もう変わりつつある」
警備隊長が、目を見開いた。
「では……」
「商会の独占は、“通常”じゃなくなる」
その日の午後。
城下の商人と農民代表を集めた。
「新しい取引所を作る」
ざわめき。
「場所は、城下の広場。
露店を常設化する」
「で、ですが……商会が……」
「恐れるな」
俺は、静かに言った。
「これは、違反じゃない。
契約の前提を、変えるだけだ」
数日後。
グランツ商会から、再び使者が来た。
「……これは、どういうつもりですか」
エルンの声には、初めて焦りが滲んでいた。
「書いてある通りだ」
俺は、契約書を開いて見せる。
「“通常の商取引”。
我々は、それを再定義しただけだ」
「……っ」
「供給義務が前提とする条件は、
すでに満たされていない」
エルンは、言葉を失った。
否定できない。
自分たちが書いた条文だからだ。
「……分かりました」
彼は、深く息を吐いた。
「条件の、再交渉を」
「検討しよう」
俺は、即答しなかった。
主導権は、こちらにある。
使者が去った後、
老執事が、感慨深げに言った。
「若様……
勝ちましたな」
「いや」
俺は、首を振る。
「これは、第一ラウンドだ」
相手は、王都最大商会。
ここで終わるはずがない。
だが。
契約書は、嘘をつかない。
嘘をつくのは、いつだって人間だ。
そして今――
嘘をつけなくなったのは、相手の方だった。
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