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最後に見たあの景色は

作者: ノア
掲載日:2025/10/13

1 ある夏の夜に


今でも、あの日を忘れられない。

塾からの帰り道、私は小さな神社の階段の前で足を止めた。

何かに呼ばれているような、吸い込まれるような感覚がした。

もう日は沈み切っているのに、私は階段を上がっていった。


長い間、誰も訪れていないのだろう。階段は泥と蔦に覆われ、

草の隙間から小さな虫の光がちらちらと瞬いていた。

蝉の声も止み、風の音だけが耳に残る。

鳥居をくぐると、そこには夜空が一面に広がっていた。

そしてその中心に、一本の大きな木が立っていた。


どうしてだろう。

初めて見るはずなのに、どこか懐かしい気がした。

髪がなびき、空気が一瞬ひやりと冷たくなる。

まるでその木だけが、時間を止めてしまったみたいだった。

私は何も考えず、その幹にそっと手を伸ばした。


——その瞬間、光が弾けた。

眩しさの中で、誰かの笑い声が聞こえた気がした。

懐かしいような、まだ出会ってもいないような、不思議な声。


気がつくと、自分の部屋の布団の中だった。

夢だったのかもしれない。けれど、手のひらにはまだ温もりが残っていた。『みこちゃーん!? 起きてるのー?』

下から母の声がする。私は我に帰った。

『今起きたとこー。すぐ降りるよ』


その日からだ。

——“見える”ようになったのは。



2 陽だまり


あれから十五年後の秋、両親が死んだ。

──その日が来ることを、私は知っていた。

あの夜、神社の木に触れた時から。

それ以来、私は“運命”を見るようになった。

人が、いつ、なぜ、どんな形で終わるのか。


カップに注いだコーヒーに、砂糖をひとすくい。

スプーンがカップの縁を打つ音が、静かな部屋に響いた。

香りより先に、温度が消えていく気がする。

テレビをつける。

街頭インタビューの映像。

「健康のために心がけていることは?」

マイクを向けられた若い女性が、はにかむように笑った。

──二ヶ月後、赤い信号。

遠ざかる悲鳴。

砕けたガラス。

彼女の未来が、冷たい映像のように流れ込んでくる。

彼女だけじゃない。

通りすがりのサラリーマンも、

画面の端に映る小さな子どもも。

無意識にリモコンを握りしめ、画面を消した。

「……土曜日か」

呟きが、部屋の静けさに吸い込まれていく。

外に出よう。

そんな思いつきだけで、玄関のドアを押し開けた。立て付けの悪い蝶番が、鈍い音を立てる。

外では、大家が花壇に水をやっていた。

「美琴ちゃん、おはよう。最近は腰が上がらんくってねぇ。外に出るなんて珍しいね」

「……仕事の気分転換です」

そう答えながらも、目を合わせられなかった。

彼の咳が長く続く。

水が土に染みこみ、陽に透けた滴が光った。

──それが、最後の朝露のように見えた。

知っている。彼は、もうすぐこの世界を離れる。明るい陽射しの下で、私だけが薄暗い部屋に取り残されたようだった。


****


当てもなく歩いた。

人混みを抜けるたびに、他人の顔を見ないようにしてしまう。知らなければ、きっと優しくなれた。知らなければ、まだ笑えたのに。

スマホを取り出そうとした、そのとき。

耳に届いたのは、踏切の警告音。金属が軋むような、鋭い音。視線の先に、遮断機が降りていた。人々が足を止める中、ひとりの少女がいた。

淡い水色の髪飾り。

夕陽を受けて、儚く光る。

──どこかで見た色だ。

あの夜、神社の木に宿っていた光。

胸の奥で、遠い記憶がざわめいた。

少女は線路脇の緊急停止ボタンを叩いている。

視線の先には、小さな子猫。

動かない。

そして──私はわかってしまう。

間もなく、電車が通り、あの猫は命を落とす。


少女が動いた。

遮断機の下をくぐり、線路へ。

赤い光。警告音。

鉄の車輪の音が近づく。

考えるより先に、身体が動いた。

「──っ!」

少女の腕を掴み、全力で引き寄せる。

地面に倒れ込み、腕の中で彼女を抱きしめた。

背後で、鈍い衝撃音が響く。

空気が震え、砂埃が舞う。

運命は狂わない。子猫は、運命通り、もう見ることはできないだろう。

どれだけ抗っても、死はそこにある。

唇の内側を強く噛む。鉄の味がした。

「大丈夫か!」

声が震えた。

少女は目を丸くしたまま、言葉を失っている。

怯えた小動物のように、肩が小刻みに震えていた。私は彼女を道路脇に座らせた。

その細い肩が、夕陽に照らされて小さく光る。

──死。

そればかりを見てきたのに、

この少女は、ためらいもなく命を差し出した。

「どうして……何も考えずに……」

声にならない。

けれど、目が合った瞬間、胸を刺すような冷たさが走った。


彼女の“最期”が見えた。

それは、私と同じ。

自ら命を絶つ未来だった。



3 ほんとは


『お、お姉さん……?』

やっと泣き止んだ彼女が、不思議そうに私を見上げた。ふらふらと立ち上がる小さな背中。

『だ、大丈夫?』

思わず出た言葉に、自分でも苛立ちを覚えた。この子は──いずれ、自分で命を絶つのに。なのに、私は軽々しい言葉しか出せなかった。


『うん、大丈夫』

彼女は私の目を見ず、柔らかな笑顔だけを置いて、踏切の向こうへ歩き出した。

このまま終わってはいけない──胸の奥で何かがざわめく。

私は咄嗟に、彼女の腕を掴んでいた。


びくりと肩を震わせ、彼女はゆっくりこちらを見る。

『い、家まで送るよ。この辺り、車も多いし……』

自分でも理由がわからない。ただ、放っておけなかった。


『家……私、家ないんだー』

迷いが喉の奥で揺れた。けれど、その一瞬の隙に、言葉が飛び出していた。

「……私の家に、来る……?」

『....!』

彼女は目を見開き、ほんの一瞬、光の粒のようなものを瞳に浮かべる。

『うん……行きたい。行きたい……!』

その声は震えながらも、どこか真っ直ぐだった。

私は彼女の腕を握り直し、歩き出した。離してはいけない気がした。


『……名前は、なんていうの?』

『結衣。結ぶに衣で、結衣!』

『結衣……いい名前だね』

彼女は陽気だった。あの表情との落差に、胸の奥がざわつく。

『私は美琴。好きに呼んでいいよ』

『お姉さん、可愛い名前だね!』

『あ、ありがとう……』


違和感を抱えたまま、アパートに着いた。

私が着替えて戻ると、彼女は玄関で丸くなって眠っていた。

起こす気になれず、私もその場に腰を下ろす。


眠る前に、ふと彼女の腕に目が止まる。

古い擦り傷がいくつも並び、袖口は擦り切れていた。髪は腰の辺りで不揃いに切られ、まるで大きなハサミで断ち切られたようだ。

胸が締めつけられる。中学生ほどの女の子が、どうして──

何かを聞きたいのに、言葉にならない。

私も玄関に横たわり、静かな夜に目を閉じた。


***


目を開けると、窓の外にオレンジ色の雲が霞んでいた。

一日中眠ってしまったらしい。

そっと起きてキッチンに立つ。インスタントの味噌汁と、パックのご飯。

2人分を食卓に並べると、ふらふらと結衣が入ってきた。目を見開き、息を呑む。

『た、食べてもいいの……?お味噌汁も、ご飯も……』

私は小さくうなずく。

『もちろん。君の分だよ』

言い終わらないうちに、結衣は箸を握り、夢中で食べ始めた。

ものの数秒で空になった食器が、彼女の日々の空腹を物語っていた。

昨夜の疑問が胸に浮かぶ。

彼女には本当に帰る場所がないのか。それとも……

聞けないまま、私は彼女を見つめていた。


『もう……寝てもいい……?』

少し不安げな顔。

『い、いいよ。けど……お風呂は入らないの?』

会話を長引かせたくて問いかける。

『少し前の雨で体は洗ったから……大丈夫』

私は驚き、でも平静を装う。

『そ、そう。じゃあおやすみ』

彼女は床に倒れ込むように眠ろうとする。

『そ、そこで寝るの?布団なら、そこにあるよ』

私が指さすと、彼女はまた驚いた顔をして、布団に身を沈めた。

『布団で寝ても……いいの……?』

柔らかな笑顔のまま、目を閉じる。

胸の奥に亀裂が走った。

この子は、布団で眠ることすら許されない生活を送っていたのか。

尋ねようと手を伸ばすが、彼女はすでに深い眠りに落ちていた。

彼女の眠りの浅さ、長い疲労が透けて見えるようだ。

私は眠れず、布団の横に座って空を見上げた。

離れてはいけない気がして──

私はただ、彼女の寝顔を見つめていた。



4 いつかの夢

眠れない夜だった。窓の外には、秋の月が静かに浮かんでいる。彼女の寝息だけが、部屋の時間をゆっくりと進めていた。ふと、窓の外の月をに目を向け、ため息をつく。髪飾りが、月光を受けて淡く光っていた。まるで、彼女の中にまだ小さな希望が灯っているように。と、『やだ...やだよぉ...』静寂に、彼女の微かな声が響いた。彼女は大粒の涙を流していた。『誰か...ママを助けてよぉ。ママが死んじゃう...やだ...やだ...』不意に涙が頬を伝う。体が鉛のように重くなり、感情を抑えられない。私はうなされる彼女を見ながら涙を流し続けた。指先が震え、涙を拭けなかった。結衣の泣き声は止まず、幼い身体には到底背負えないものが押し寄せていた。

あの日見た最期が頭をよぎる。彼女は、5日後に自ら命を断つのだ。例え何があっても。彼女の死は避けられない。彼女は最後の瞬間も涙を流すのだろうか。.......いやだ。いやだ。私は、涙を流して死ぬ彼女を見たくない。こんな終わり方は...許さない。彼女がこの世を去る前に、彼女の...結衣の本当の笑顔を見る。全身に力が入った。私は彼女の手を握った。


****


朝の光が、薄いカーテン越しに部屋を染めていた。結衣はまだ布団の中で丸くなっている。私は一睡もできず、彼女の隣で夜を明かした。指先には、あのとき握った彼女の小さな手の温もりが、まだ残っているような気がする。朝日を睨んで、ゆっくりと体を起こした。台所で慣れない手つきで卵を焼き、ご飯をよそう。味噌汁を温めながら、何度も彼女の寝顔を見つめる。夜の涙の痕は、朝になっても消えないままだった。彼女を見つめながら朝ごはんを食べていると、彼女は静かに身を起こした。ゆっくりと歩いてくる。

「……おはよう」

小さな声がして、彼女が眠たげに起きてきた。寝癖の髪を指で整えながら、食卓に置かれた湯気の立つ味噌汁を見て、また目を見開いた。

「た、食べてもいいの?」

「もちろん。結衣の分だよ」

『.....ゆい...』彼女はきょとんとしながら自分の名前を呟いた。

彼女は恐る恐る箸を取り、ひと口すすると、急に表情が崩れて、夢中で食べはじめた。私は何も言わず、ただその姿を見守る。昨夜の寝言が耳の奥で反響するたびに、胸が締め付けられた。

「……ごちそうさま」

器を置いた結衣が、ちらりと私を見た。その瞳の奥に、不安と罪悪感の影がある気がした。私は問いただしたい衝動を飲み込み、ただ「足りた?」とだけ聞いた。結衣はうなずき、小さく微笑んだ。結衣は小さく微笑んだ。その笑顔の奥に、言葉にならない寂しさがあった。

私は箸を置き、息を呑んだ。最後は、せめて最後は、笑顔にさせてやりたい。なんとしてでも。『結衣、結衣は好きなものってあるの?好きなこととか...』『...好きなこと...?』結衣は目を見開いて驚いていた。『...夜景が好き...』耳をすませないと聞こえないような声で結衣は呟いた。「……夜景、見に行こうか。今夜」

たったそれだけのことなのに、胸の奥が少し温かくなった。心が躍った。夜が待ちきれない。『そうだ。散歩にでも行かない?』私は戸惑う結衣の手を掴み、外に出た。いつもの景色が輝いて見える。『ここから少し先の駄菓子屋さんにでも行こっか!』『うん!』彼女は嬉しそうに言った。空を舞うような思いをした。線路沿いの道を歩きながら、私は尋ねた。『どうして夜景が好きなの?綺麗だから?』彼女は首を横に振った。しばらく考え込んで、口をゆっくりと開いた。『なんだか...周りのいろんなことが小さく見えるからかな...嫌なこと全部...』忘れていた重圧が再びのしかかった。『そっか...それはいいね...』私は笑顔を作ることしかできず、話題を逸らした。『将来の夢はあるの?』彼女はまた考え込んだ。私は強く後悔した。この子にはもう未来が来ない。なのに、未来の希望を聞いてしまったのだ。私は彼女が一週間後にはこの世にいないことを知っているというのに。結衣にもたれ、声が詰まった。 「ごめん…ごめん...結衣...』涙がこぼれる。 同じ時間を生きているはずなのに、私は彼女の終わりを知っている。その理不尽さが、胸を裂いた。

結衣は目を丸くして私を見た。『だ、大丈夫...?』結衣は私の背中をさすりながら言った。『夢かぁ...うーんとね...いつか幸せになりたい...かな。』また涙が出た。彼女に、“いつか"はない。私は感情のままに彼女を抱きしめた。『幸せにする...絶対するから...』彼女の腕を掴み、来た道を引き返した。『帰ろう...夜景...見に行こっか...日が短いから、もうしばらくしたら暗くなるよ...』『お、お菓子は買わないの...?』涙を拭いながら彼女に言った。『私も、嫌なこと全部忘れて、夜景見たくなっちゃったんだ...』彼女は頷いて、私の手を握り返した。



5 割れ目


帰る途中のことだった。コンビニの横で、近くの中学校の制服をきた学生たちが話していた。『月曜日か...』私はふと気づいた。『そういえば...今日は学校だったのか...結衣は...今日はお休みだね。連絡も何もしてないから、先生たち心配してるかもね...』私は振り返って彼女を見た。彼女は、涙を流しながら私を見ていた。『誰も心配なんてしてくれない...!私が蹴られても!ノートを破られても!私がどれだけ泣いても!誰も心配なんてしてくれなかった...!誰も...誰も...!』

喉が塞がって声が出なかった。『叔母さんだって!ご飯もお水もくれなかった!目があっただけで何度も叩かれた!』

私は立ち尽くした。私は結衣の心を完全に崩してしまった。『だからもう...叔母さんに会って...夜景を見たら...もう私のことは...忘れてね!』彼女は涙でぐしゃぐしゃの笑顔で言った。その笑顔は、もう全てを諦めた笑顔だった。涙は溢れるばかりだ。それは、私もだった。彼女の死はもう目前だった。明日はもう彼女を見れない。もう、二度と会えない。『じゃあ...叔母さんに...挨拶しなきゃ...』彼女は力が入らない私の腕を取り、ゆっくりと歩き始めた。なぜ、結衣はそれでも私の手を引けるのだろうか。深い傷に、追い打ちをかけた私の手を。「……私も行く。行かせて。叔母さんのところに」

結衣は小さく震えていた。胸の奥で、何かが軋むように鳴った。

どうしてこの子が、こんな目に遭わなきゃいけないんだ。

絶対に――諦めない。彼女の周りに、そして自身にも猛烈な怒りが湧いた。『でも...叔母さん、怖いよ...?』震えた目は、『怖い』では表しきれない思いを私に投げつけた。私は彼女の手を強く握った。『大丈夫だよ。』



6 約束


今思えば、結衣には、やはり“帰る場所”があった。結衣は、叔母の家で暮らしているらしい。だけど。今までの結衣の様子や表情を見れば、その場所が“帰る場所”と呼べるものではないことは、想像に難くなかった。気づいてしまった。──この数日、誰も彼女を探していなかったことに。いなくなったことは、きっと知っていたはずなのに。探すことも、通報さえしなかったのだろう。


そのとき、結衣の声が、静けさを破った。

『どこの夜景を...見に行くの...?』『……生駒山っていう山があるんだ。私たちの家も、見つけられないくらい小さいけど、そこからなら見えると思う。』「……わかんない。けど……きれいなんだろうなぁ。」彼女の瞳には、やわらかな光が宿っていた。私はこの光をずっと見ていたかった。何日でも、何年でも。今日の夜に、消えてしまうその光を。私はもちろん止めるつもりだ。けれど、運命は変えられない。結衣が今夜、自ら命を断つことを、私は知っている。

結衣の足が止まるまで、私はその光に見惚れていた。


****


結衣が足を止め、年季の入った一軒家の扉の前で大きく息を吸った。彼女の目の光が、絵に描いたように消えてゆく。彼女は、私には影で見ていて欲しいと言った。近くの電柱の影に隠れ、目を逸らすことなく、一挙手一投足を見守ることにした。しばらくすると、震えながら、何度も手を止めながらも結衣はインターホンを押した。ドタドタと大きな音がした後、扉が素早く開いた。『はーい!』私のところまで響いた大きな声は、すぐに唸り声のように変わった。『...あんた...戻ってきたの?逃げ出しておいて?なぁ!また痣を作って欲しいの!?』結衣はただ震え、何も言わなかった。『なんで死んだ姉さんの子供まで私が面倒見なきゃいけないの!?私らだって生活が苦しいのに!』肩を激しく掴み、強く揺さぶりながら結衣が言葉を発するまもなく怒鳴り続けていた。やはりあの日、彼女は母親が死んだ時の夢を見たのだろう。『ママがいなくて寂しいなんて思うなら、あの事故とき、あんたも死ねばよかったじゃない!』『......!』しゃがみ込んで動かなくなった結衣を見て、私は駆け出し、感情のままに怒鳴った。『黙れ!あなたにこの子の...!この子の何がわかるんですか!』涙で顔が見えないが、彼女は鬼のような顔で私を見ていた。『施設の人だかなんだか知らないけどね!私たちだって生活が苦しいんだよ!あんたにはわからないだろ!?こいつなんて、どこかでのたれ死んだら、一番平和でしょ!?あんたに居場所なんてないんだよ!一瞬だけ結衣を見た。彼女は縮こまっていた。涙でぼやけ、顔は見えない。ただ叫んだ。『自分たちが苦しくても!子供に居場所を与えるのが大人の仕事だ!彼女は私がもらう!二度とこの子に関わるな!』泣き叫ぶ私を見て、女性は意外に冷静だった。『あらそう。なら、早くこいつを連れて出ていけ!二度と来るんじゃない!』扉が強く閉められ、また大きな音が響いた。突然、胸のあたりを強く押された。

バランスを崩して倒れた私の前で、結衣が泣きながら手を振り上げた。『なんで!見ていて欲しいって言ったのに!なんで!なんで...なんでよぉ...』ただ見つめ続けた。私の顔に降り注ぐ涙は、怒りの涙じゃない。本当の悲しみの涙だ。今まで彼女には、怒りや悲しみをぶつける相手がいなかった。だから、彼女は私によく笑顔を見せたんだ。そうやってずっと1人で背負い続けてきたんだ。やがて結衣の手が止まり、次の瞬間、結衣は私に抱きついた。『...ありがとう...ごめんなさい......もうママのことも...叔母さんのことも全部忘れたい...』泣いているような、笑っているような不思議な声だった。彼女はふらふらと家の方向に歩き始めながら言った。『私...もう死のうと思ってたんだ...でも...もう少しだけ生きようかな...居場所...あるから...』彼女は涙でぐしゃぐしゃの笑顔で私を見た。空気が揺らいだ。周りの音が聞こえなくなり、風だけを感じる。いつか見た、火が差し込むような、雲の上にいるような、羽が生えたような、まるで、このために生まれたような気がした。笑顔だ。私が、どうしても見たかった、優しい春の希望のような笑顔だ。「夜景、見に行きたい……もうすぐ夜になっちゃう。」

結衣は私の手を取った。その温かい手が、まだ震えていた。それでも、確かに“生きている”温かさだった。

……けれど、夜という言葉が、私を現実へ引き戻したが、私は夜という言葉で現実に引き戻された。彼女は今夜自ら命を絶って死ぬ。彼女の砂時計はもう残りわずかだ。彼女の笑顔は、やっと出会えた笑顔は、今夜に消える、暗い現実を。



7 あなたの色に


......どうして。どうして自ら命を断つのだろう。少しずつだけど、彼女は笑顔を見せてくれた。どれだけ言葉を尽くしても、彼女は最後に死を選ぶ。運命は、変わらない。それでも、何もせずにはいられなかった。それでも、未来を信じたい。──たとえ、運命がそれを拒んでも。私は夜景を見る間に、彼女を変えなければいけない。涙を拭い、心の奥でそっと決意した。『……そうだね。行こう、夜景を見に。』私は結衣の腕を掴み返した。

離さない。もう、絶対に。

そのまま、夜の街を走った。涙を流している時間なんてない。家家に着くと、何も言わずに車の鍵を掴んだ。

エンジン音が、夜の静けさを裂いた。

結衣は涙を浮かべたまま、助手席に座る。


****


街を走った。ふと横を見るが、彼女は何も言わなかった。ただ、街の光をひとつずつ、数えるように見つめていた。顔は見えない。しばらく街を走り、高速道路に入った。夕日が彼女の横顔を包み、まるで光が彼女から生まれたように見えた。眩しさを忘れて、彼女と太陽を見ていた。結衣は不思議だ。彼女は、空そのものだった。太陽も月も、彼女の中にあった。水色の髪飾りが、光を吸い込むように揺れる。と、彼女が前に向き直ったから、私も前を向いた。珍しく、高速道路には車が少なかった。私ははっとして標識を見た。結衣に見惚れている間に車線が一つずれていたようだ。が、後ろを見ても、車の姿はなかった。しばらくすると、山の麓に着いた。人影のない駐車場に車を停めた。『ここからは歩いて登ろうか。夕日はもう目の高さにあった。結衣は私の手を握った。私の手は、彼女の居場所だ。どれだけ過去を背負っていても、どこかに居場所はある。そして、彼女の手も私の居場所だ。死が見えることを、これほどまでに呪いたいと思ったのは、母さんたちを見送ったあの日以来だった。決めた。結衣の最後の最後まで、私は結衣の居場所でいる。『じゃあ、行こうか。』彼女は微笑みながら頷いた。私たちは【ぼくらの広場】の看板を頼りに、しばらく歩いた。もう日は沈んでいた。目でわかるほど、ゆっくりと暗くなっていく。夜が来たんだ、と人生で初めて感じた。道がひらけてきたと感じた時だった。彼女は私の手を離し、走り出した。まるで乾いた心に光を探すように、結衣は走り出した。結衣は必死に走り、やがて姿が見えなくなった。はっとして私も走り出した。木に手をつき、【僕らの広場】の看板を過ぎた時だった。そこには光の海があった。

無数の光が、暗闇の中で星座のように散らばっていた。街の人々の営みは、無数の天の川のように流れている。冷たい風が頬を撫で、髪が靡いた。どこか懐かしさを感じる。結衣もただ見惚れていた。その横顔に、夜景の光が柔らかく映り込み、髪飾りが揺れる。

言葉を失った。

ーーーただ、この夜は、結衣のためにあるのだと思った。太陽も月も見えない。この街の光も、この空の色も、すべて結衣が染めていた。結衣の頬は濡れていた。結衣は街を見つめたまま、涙を拭かずに『誰かと夜景を見るのは初めて...』とつぶやいた。

夜景ではなかった。

私が見ていたのは、夜景を見つめる結衣の瞳だった。


8 またね


どれくらい時間が経ったのだろう。見上げると、頭上には月があった。私は思い出し、涙を我慢しなかった。いつその時が来るかわからない。伝えるなら、今しかない。結衣の腕を掴み、涙を流しながら、澄んだ瞳をじっと見つめた。『結衣...ありがとう...!ほんとに...ほんと...に...!』言葉がうまく出ない。だが、精一杯ありがとうと伝えた。結衣は混乱しているはずだ。それでも、泣きすがって必死に伝え続けた。『だ、大丈夫...?嬉しいけど...』純粋な目が、さらに心に針を刺した。逃げられないなんてことはわかっている。それでも、とにかく逃げたかった。彼女の腕を掴み、山道を駆け降りた。車を見つけ、駐車場を横切ろうとした。その時だった。視界が白く光、前が見えなくなった。慌てて結衣を見ようとした。すると後ろから強く押され、地面に叩きつけられた。『ドン!』と鈍い音が耳を貫く。結衣が私を押しのけ、車のライトの中へ消えた瞬間を、私は見た。避けようのない衝撃に、彼女の小さな身体は投げ出され、硬いアスファルトに倒れ込む。

頭が真っ白になった。叫ぼうとしても声が出ない。足は凍りついたまま動かない。


「……ゆい……? ねえ……ゆい……?」


前がまともに見えない。膝から崩れ落ち、彼女のもとへ這った。手を伸ばして彼女の手を掴む。顔は見えない。でも、彼女がどんどん冷たくなる感覚で、私は現実に引き戻された。もう信じられないほど冷たくなっている。うめきながら彼女に覆い被さった。

かすかな呼吸を確かめようとしたけれど、胸は動いていなかった。していなかった。

呼んでも、揺さぶっても、目が開くことはなかった。

「……いやだ...いやだ……結衣……!なんで...私を...!』

胸の奥が裂けるように痛む。

私なんかより、結衣が生きるべきだったのに。

こんなのおかしい。希望はもう見えていたのに。『そっか...私を庇って...自ら...死んだんだ...』結衣が自ら命を断つってのは...私のせいだったんだね...』

涙が止まらなかった。

頬を濡らし続けても、呼吸は荒く震えるばかりで、何も変えられない。

彼女の髪飾りに触れると、指先に残った温もりが風にさらわれていった。

もう風に遊ばれることも、光にきらめくこともない。私はずっと、死の未来を知っていた。。

でも、こんな未来は望んでいなかった。

運命なんて信じたくない。見えてしまう力なんて、なければよかった。

『どうして...』

喉の奥が掠れて、声にならない叫びが漏れる。

胸の奥で世界が崩れる音がした。

周りの景色はただ滲んで、冷たい夜の闇に飲み込まれていく。

結衣の手を握り、声を殺して泣き続けた。

世界に私しかいないような静けさの中で。

遠くで、サイレンの甲高い音が夜を裂いた。





9 次は


窓を開け、昇ってくる朝日を見つめる。カップに注いだコーヒーに、ゆっくりと砂糖を落とす。誰の気配もない部屋に、スプーンでかき混ぜる音が響く。その苦さをじっくりと味わう。窓からの風に、結衣の生きた証が髪の上で揺れる。何年も経った今でも、透き通る水色は、輝きを失っていない。この朝日は、私が最後に見る太陽だ。今日はもう、月は見れない。今日で、私は自分の生を終える。

でも、このまま終わるわけにはいかない。結衣は自分の死を私に繋いだ。やることは一つだ。私の心は希望で染まっている。結衣は命を投げ出したんじゃない。守るために、その命を使ったんだ。私よりもはるかに幼く、辛かったのに。私も、誰かを守もって死ぬべきだ。


ずっと、私の不注意で結衣を殺したと思っていた。けど、今ならわかる。私たちが出会ったのは意味があった。もし私と出会っていなかったら、結衣は孤独に、自殺をしていたかもしれない。結衣が私を救ってくれたように、私は結衣を救えたと言えるのだろうか。あの日、答えを聞きたかった。髪飾りをつけ直し、短くなった髪を結んだ。段ボールに服や化粧道具を詰め込んだ。長くいた部屋が、少しずつ“空”になっていく。この部屋には、テーブルの上のコーヒカップだけがいつも通り、そこにあった。扉を開け、もう一度太陽の光を浴びる。誰もいなくなった花壇に、水を軽く撒く。最後に、結衣と出会った踏切を見ておきたい。手ぶらで踏切への道を歩く。髪を靡かせる秋の風が心地いい。不思議なほど穏やかな気持ちだ。あの日の警告音が聞こえ、踏切が見えた頃だった。まだ若い男がいた。虚ろな目で下を見て、線路に座り込んでいる。彼は、もう希望が見出せなくなったのだろうか。だが、私には見える。彼は、寿命で死ぬ未来だ。逆に、私は自殺だ。するべきことがわかった。電車が見えると同時に、私は駆け出した。線路に飛び出し、彼の体を力一杯押した。目を見開いて線路脇に倒れ込む彼を見た。その瞬間、ものすごい風を感じ、周りの音が消えた。視界が、闇に染まった。


10 最後に見たあの景色は


ーーーー暖かい。スズランの優しい匂いにつられ、ゆっくりと目を開ける。ただ、眩しかった。空気は透き通っていて、ひと息吸うたびに胸が温かく満たされる。そして、どこまでも花が咲き乱れている。風が髪をゆらし、花びらがひとひら、頬をかすめて落ちた。ふと、後ろを振り返った。光の先には、あの日の笑顔があった。濡れた頬を、柔らかい風が撫でる。花が揺れ、光が滲む。

その風に、柔らかな微笑みが乗って流れていく。


——それは、私がこの世界で最後に見た“命”のかたちだった。

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君の名はや、天気の子と同じものを感じます.ぜひ映画化してほしいです。
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