空っぽの気持ち
*喫茶 麗庭
そうして気がつけばこの喫茶店に、という訳だ。
夏那さんは加害者である僕に対して冷静で、自分に馬乗りになっている相手を無言で押し退け、暫く思案した後、「着いて来い」と手招きして歩き出してしまった。
周りの視線と彼女の連れた大型犬の唸り声に耐えられず、小走りで着いていく僕の顔はさぞ赤かった事だろう。
道中で謝罪を繰り返したが、一度目に「気にしていない」と一蹴されてからは無言を貫かれた。
そうして辿りついたのがこの喫茶"麗庭"という訳だ。
(気にしていない……か……)
事故とはいえ、落下の着地マットにされ自分に怪我まで負わせ、無礼にも顔面で身体に触れた相手と……呑気にお茶?
……意図が掴めない。
まさか、金銭の要求でもされるのではないか?
そのうち、店に強面の男が入ってきて、僕をどこかにつれて行って──
なんて、自分で呆れてしまうような、あまりに薄っぺらい妄想はクリームぜんざいが駆逐されていく様子を眺めているうちに、さらに薄く、ペラペラになって脳内に溶け消えていった。
「ご馳走様」
不意に、リンと鈴が鳴るような声。どうやらぜんざいとの戦いは終結したらしい。
夏那さんは顎の前で手を合わせ、軽く会釈をする。
わりと豪快な食べっぷりだったが、食後の所作は丁寧というか、綺麗だ。
「……山雀くん、だっけ」
小さな口がぽそりと呟く。僕の名前だ。
「っはい、山雀柳介、です。山の雀に柳で、山雀柳介」
聞かれてもいないのに漢字の説明までしてしまった。
夏那さんは「ふむ」と唇に人差し指を当てる。そして暫く思案した後に口を開いた。
「キミは、何か感じた?」
「……はい?」
質問が、漠然としすぎている。
「何かって…?」
「さっき、歩道橋で」
ぶわり、と汗が噴き出す。
思い出す浮遊感、犬の唸り声、……顔面の、感触。
「……っ!すみませんでした……!本当に……その…………わざと、じゃなくて!!」
咄嗟に立ち上がり深く頭を下げる。
ああ、居た堪れない。恥ずかしさと申し訳なさで顔面が熱い。
「そう、何もないならいいの。ごめんなさいね変な事聞いて。あの歩道橋はね、"落ちない"のよ。そういうふうになってるから」
「………………はあ、……なるほど」
頭を下げたまま、間抜けな相槌を打つ。謝罪はまたしても華麗にスルー。
"落ちない"と言うのは安全面でのことだろうか。手すりはついていたが、それだけでは絶対に安全とは言えないだろう。現に、自分はそれをつかみ損ねて落ちているのだし。
正直言って、話の意図がつかめない。意味不明だ。が、掘り下げる気にもならなかった。
それよりも、早く"許す"と言って欲しい。そんな期待を込めた視線をそろりと夏那さんに送る。こちらを見てもいないようで、顎に手を添えて何か思案している。
「こうしましょう」
ふう、と短いため息を吐いた夏那さんが囁くように言う。
「山雀くんあなた、私と一緒に来てくれる?」
「……一緒にって、何処へ?」
立ったまま問う。
「あなたは今"半端"なのよ、その状態で出歩かない方がいい」
ドキリと、身体の内側から内臓を突き上げられたような。うなじから後頭部へゾワゾワと鳥肌が立つ。
半端──揃っていない。足りない。
「あら、自分で思い当たる節があるのね」
大きな琥珀の瞳に、また自分が映っていた。
ひきつった口元がパクパクと何かを言おうとしている。
見つかったら、取り上げられてしまうんじゃないか。誰にも秘密の、僕の隠し事。
立ち尽くしたまま、何の言葉も紡げなくなる。
(──嗚呼、いつもの僕だ)
いつも、こうなってしまう。言葉に詰まって、相手の反応を待つだけの、面白みのない、受動的コミュニケーション。
人形に話しかけるほうがマシ。そんな事を言われた時もあったか。
だって、いつもは頭の中で話しかけてくれるから。僕の代わりに相槌を打ち、回答をする。
なのに、なんでずっと一言も話してくれないんだ。なんでそんなイジワルをするんだ。そのせいで僕は今、こんなにも……。
などと、女々しい言い訳を巡らせている間、夏那さんは僕から眼を逸らさなかった。
僕も、琥珀の瞳から、瞳の中の僕をずっと眺めていた。
これが、僕か。
叱られている小さな子供のような、怯えと緊張の混ざった表情。
なんとも情けない。いつもの声が聞こえないと、自分はこんなにも無力なのか。これではまるで、声が聞こえるようになる前の自分だ。
思い出したくない自分。
思い出したくない出来事。
思い出したくない記憶。
思い出したくない人。
────嫌だ。
思い出すのは、嫌だ。
どうしたらいいか、教えてくれる声は無い。自分で考えて行動しなければ。
……考えなければ……行動しなければ。
「何を、言っているのか、分からない、です」
数分経ってから震える声で出たのは仕様もないとぼけだった。
これが今の自分の精一杯なのかと思うと、やっぱり情けなくて自嘲の笑みが浮かぶ。
「貴方そのままだと、──消えてしまうわ」
そう言いながら夏那さんは伝票を持って席を立っていた。
「消える……」
自分でも呟いてみる。が、やっぱり意味が分からなかった。
彼女とまともに会話ができたのはお互いの名前を名乗った時だけだと思う。……会話といっていいかも分からないが。
寝息を立てていた大型犬も、主人について行ったらしい。いつの間にか足元から居なくなっている。
頭の中でも、現実でも、一人になってしまった。
一人になるまで──
あの時の事を思い出しかけて、ブンブンと頭を振る。
だめだ、このままじゃ。とにかく、彼女を追いかけなければ。
彼女は知っている。僕の頭の中の声を。消えてしまった声を。
取り戻したい。
思い出したくない自分を消すために。取り戻さなければ。
「半端な僕じゃ、消えてしまう…………」
呟いて、アイスコーヒーのグラスに刺さったストローを回す。氷は半分以上溶けてしまっていてカラリと情けのない音が鳴った。
空っぽの気持ち/surface