四話 秘密
僕が蘭と健太に出会えたのは、人生で一番の幸運だった。
その子さえいれば、他に何もいらなかった。
剣道もその子が喜ぶから頑張れた。
ずっと一緒に歳を重ねていくと思っていた。
ずっと隣にいると信じていた。
僕は、小学生になる前に引っ越しをした。
引っ越し先は、お母さんの実家の近くだそうだ。
新しい家に着くと、お母さんの友達が遊びに来た。
その息子と、同じ身長くらいの女の子が手を繋いで一緒に遊びに来た。
その二人と仲良くなるのに、そんなに時間はかからなかった。
知らないうちに僕らは、三人で過ごすことが当たり前になっていた。
学校が終わり公民館に習い事をしに行く。僕と健太は剣道を、その女の子は書道教室に通う。
終わったら三人で駄菓子屋に行ってそして帰る。
この日常が僕の宝物だった。
健太は僕にとって一番の親友だ。
こんなに気が合うなんて、初めて会った時からは想像もできないくらいだ。
初めは生意気な奴だと思った。
毎日手を繋ぎ、隣にいる女の子も少し気に食わなっかた。
女の子は、何も言わないでずっとこっちを見ていたから。
だから、その子に腕を引っ張られた時は驚いた。
嬉しそうに僕の腕を引っ張りながら、こう言った。
「わたしたちのヒミツきちみせてあげる!」
思い返せば、この瞬間に僕の心は奪われたのかもしれない。
太陽の様に明るい笑顔で僕のことを引っ張っていく姿は、今でも凄く印象に残っている。
薮谷蘭。僕の大切な人だ。
そんな大切な蘭が今、目の前にいる。
ランニング中、蘭の家の前が騒がしいのが遠くからでも分かった。
震えた足を何とか前に出して、僕は慌てて蘭の家に向かった。
蘭の家に着く前に、玄関からストレッチャーを担いだ救急隊員が出てきた。
その後ろに蘭のお母さんとお父さんが心配そうに見つめている。
ストレッチャーの上には、見たこともない姿の蘭がいた。
暴れ回って、一人で何かに対抗しているような様子だった。
目の前の出来事を理解するのに時間がかかった。
あっという間に救急車はサイレンを鳴らして、僕の前を走り去っていく。
玄関から、救急車を心配そうに見つめる蘭のお母さんと目が合い、僕は急いで蘭のお母さんの元に行って事情を聞いた。
「急に倒れて、しばらくしたら痙攣みたいに暴れ出してなかなか止まらなくて、すぐに救急車がきてくれて……」
慌てながら説明する蘭のお母さんを支えながら、僕たちは一度家の中に戻った。
「病院に行ってくるね」
蘭のお母さんは、支度をしながら僕たちに言った。
「僕も行きます」
「大丈夫だから、空良君は家に帰りなさい」
「僕も付いていきます」
それでも、蘭のお母さんに止められた。
「付き合ってるんです!蘭と」
その場にいた全員の動きが止まった。
そして少し時間が経ってから返事が返ってきた。
「…分かったわ」
心配そうに見つめる蘭の姉と妹を置いて、僕たちは二人で病院に向かった。
病院に着くと丁度診察室から出てくる蘭とお父さんの姿があった。
蘭が車椅子に乗っているのが見えて、僕はすぐに蘭の元に走って行った。
蘭の目線に合わせたけど全く反応が無かった。
目線が合っている様で、全く合っていない。
蘭はまるで寝ている様だった。
目は開いているのに、返事が無く疲れ切った様子だった。
「また明日、色々検査するってさ」
車の中は、無言だった。
僕はただ、蘭の手を握りしめていた。
それでも蘭は、その手に気付いていない様だった。
「明日の朝、また来ます」
僕はそう言って、自分の家に帰った。
部屋に戻れば、蘭と過ごした幸せな時間が残っていた。
僕は自分に大丈夫と言い聞かせ、蘭に
「明日の朝、蘭の家に行くね。ゆっくり休んで」
とメッセージを送った。
しかし、どれだけ待ってもその返事は来なかった。
そして次の日の朝、返事を聞けたのは蘭のお母さんからだった。
「記憶が全く無いんだって」
僕の頭の中は真っ白になった。
昨日の夜、蘭が倒れた日に僕は夢を見た。
普段、夢を見ない僕は、それが夢なのか現実なのか判断できなかった。
それ程にリアルな夢を見た。
「遅いよ……」
夢なのか、現実なのか。蘭が僕にそう言った。
この夢はまるで、僕が電話で蘭に告白した日の再現だった。
聞こえてきたのは、蘭が考えて捻り出したであろう言葉だ。
すぐに目が覚めた。
そして、パーティーの残骸がある真っ暗な部屋に、一人取り残された様だった。
あの日、蘭が電話越しに「遅いよ」と言った日から僕達は気まずくなり、三人で遊ぶ事も無くなってしまった。
僕が一番恐れていた僕達の関係になった。
大井歩夢と蘭が付き合っていた一年半、蘭とは疎遠になってしまった。
原因は僕だ。
その時に、僕達の仲を取り持ってくれたのが健太だった。
蘭が大井と別れた後、中学最後の大晦日。夜の花火大会で蘭と健太は偶然会った。
それからはまた、三人で集まって楽しめる様に健太が頑張ってくれた。
健太のお陰ですぐに関係は元に戻った。
以前と変わったことがあるとすれば、僕達は恋愛の話をしなくなった。
しかし、どれだけ避けていても結局は意味がなかった。
僕と蘭はこの時も惹かれ合っていた。
お互いがそうとも知らず、平常心を保ちながら過ごしていた。
僕達はお互いに、叶わない片想いをしていると思っていたのだ。
一度失敗しているから、どうしても踏み出せないでいた。
だから、奇跡だった。
蘭も同じ気持ちだと分かった時はどんなに嬉しかったことか。
どんな時も、僕は自然と蘭の味方だった。
よく健太と蘭が言い合いをしている。
この二人は長い時間を共に過ごし、仲が良すぎて良すぎるが故に言い合いをする。
話を聞いていると本当にちっぽけな内容だ。
僕はそんな二人の言い合いを止める係だが、実はとても楽しかった。
でもいつも最終的には蘭の味方をするので
「また蘭の味方かよ」
と健太に小言を言われる。
その時、蘭はなぜか勝ち誇った顔をしていた。
その顔が僕はたまらなく好きだった。
蘭が笑顔でいればそれで良かった。
蘭が元気に笑っているだけで良かったのに、蘭の本当の笑顔は中々戻らなかった。
「蘭に合わせてください」
僕は蘭のお母さんに頼んだ。
「会えば思い出すかもしれない」
とにかく必死だった。
「今は寝てるの。朝、ちょっと目が覚めて話を聞いたんだけど、昨日何があったのかも知らなかった」
「そんな……」
落ち込んでいる僕に、蘭のお母さんが慌てて説明してくれた。
「全部記憶が無いって訳では無くて、多分昨日の一日だけ記憶が無いんだと思う」
蘭の身に何が起こっているのか分からなかった。
昨日の一日は、僕にとって何よりも大切な日だった。
でもそんな事を言ってる場合では無いのも頭では分かっていた。
そんな話をしていると、二階から大きな物音が聞こえた。
僕たちはすぐにそれが蘭だと気づき、急いで蘭の部屋に行った。
ドアを開けると蘭がこっちを見ながら笑っている。
「へへ。起きたからリビングに行こうと思ったんだけど、足に力が入らなくて」
無理に笑っている蘭の姿はどこか悔しそうだった。
僕はそんな蘭を抱えてリビングに戻った。
「空良、ありがとう」
僕は涙が出てるのを必死に堪えた。
内心ホッとした。
僕のことや他のことも覚えてる。
今はそれだけで十分だ。
その時は本当に、ただそれだけで十分だった。
「蘭、何か思い出した?」
蘭のお母さんが心配そうに尋ねたけど、蘭は首を横に振った。
「あんまり覚えてないんだよね。体がこんなんだから何かあったのは分かるんだけど」
「そっか」
その後蘭は病院で検査をした。
一日中かけて検査した結果、昨日の痙攣はてんかん発作で病名は「てんかん」と診断された。
あの日の記憶が無かったのは、蘭のてんかん発作の種類だった。
治療は薬を毎日飲み、様子を見ていくとのことだった。
これも個人差があり、薬が体に合えばすぐにでも普通の日常生活を送れる。
しかし、蘭の場合はそう簡単には日常生活が戻らなかった。
薬が合わなかったのか、それからも何度も倒れた。
そして毎回発作が起きた日のことは、次の日になると覚えてなかった。
発作は体力を凄く使うのか、一回倒れると普通に歩けるまで一週間はかかった。
蘭はしばらく、そんな暮らしが続いた。
蘭が倒れてどれくらい経っただろうか。
蘭のお母さんから話がしたいと連絡が来たので今蘭の家の前にいる。
チャイムを鳴らすと蘭のお母さんが出て中に案内された。
「ごめんね、忙しいのに」
蘭のお母さんはそう言いながら、お菓子とジュースをテーブルに置いて話し始めた。
「空良君に聞きたいことがあってね。蘭が倒れた日に付き合ってるって言ったのは本当?」
あの日以来、僕たちが付き合ってるという話を誰にもしていなかった。
健太にもまだ伝えていない。
そして蘭は、その日の事を覚えていないから知る余地も無かった。
知っているのは僕と蘭のお母さんだけだ。
「...本当です」
僕は悩みながら伝えた。
実は嘘でしたって、無かったことにしようかとも思った。
でも僕の心がそれを許さなかった。
僕は今でも蘭が好きで好きでたまらなかったから。
またいつかチャンスが来ると信じていたから、あの日を無かったことには出来なかった。
「あの日、何があったのか教えてくれる?」
僕は少し考えてから、蘭のお母さんに小学校の頃の僕達の話をし始めた。
小学校高学年、ある日から僕は学校で告白されることが増えた。告白される時にはなぜか、隣のクラスの健太と蘭にそのことが知られ、いつも二人は陰でその様子を見ていた。
正直、蘭には見られたくなかった。
二人は付き合うのかとか嬉しかったかとよく聞いてくるけど、まともに話したことも無いのに好きになるわけがない。
それに僕には蘭がいる。
他の女の子には興味もなかった。
なのに健太はそんな僕を羨ましいと言う。
バカだなと思っていた。
でも僕も油断していた。
蘭もモテるに決まってる。
気づいた時には遅かった。
高学年になったある日、同じクラスの男の子が僕に話しかけてきた。
「空良君って、隣のクラスの薮谷さんと仲良いよね?」
「うん、そうだけど……」
「薮谷さんって好きな子いるのかな?」
「……さあ、聞いたことないけど。いるんじゃない?」
僕は濁した。
「そっか!ありがとう」
そう言って去っていった。
彼はクラスの人気者でスポーツもできて、それによく見れば顔もかっこよかった。
その日の放課後、ホームルームが終わり帰る準備をしていると健太が走って僕のクラスに来た。
いつもは校門か帰り道のどこかで会って一緒に帰るのに、今日は慌てて教室に来た。
「空良、聞いたか?蘭が男子に呼ばれたって!行こうぜ!」
僕はすぐにクラスを見渡した。
大井がいない。
僕と健太はすぐに蘭の所に向かった。
健太は楽しそうにしている。
僕は不安で仕方がなかった。
その日から、蘭と大井は友達になり仲良くなっていった。
帰りの駄菓子屋で、健太はいつもの様に蘭にインタビューしている。
されている蘭も、なぜか嬉しそうに健太と話している。
僕は初めて、嬉しそうに笑う蘭に腹が立った。
そして中学になってから少しの間、二人は付き合っていたのだ。
また大井に先越された。
その時は悔しくて悔しくてたまらなかった。
だから別れた時は今度こそチャンスを逃さないと思った。
高校一年生の蘭の誕生日の夜、海で気持ちを伝えようとずっと考えていた。
でも午前中、健太が先に帰り二人きりになると、気持ちが溢れて抑えられなかった。
だから僕は思い切って告白した。
僕は涙を必死に堪えながら、蘭のお母さんにこの話をしていた。
「やっと掴んだんです。
あの日、やっと蘭に気持ちを伝えることが出来て、
同じ気持ちだったことも分かって、
これからだったんです。
だからあの日が無かったことにはできません」
しばらく沈黙がながれた。
「ありがとう。
蘭にもう一度話を聞いてみるね。
もしかしたら思い出してるかもしれないし」
蘭のお母さんはそう言ってくれた。
僕もそれを願った。
でも後日蘭のお母さんからは謝罪があった。
「空良君、ごめんなさい。
蘭に聞いたけど、やっぱり覚えてなくて……。
それに今はそれどころでも無くて。
一日一日を倒れないように、安全に過ごすことでいっぱいで。精神状態も良くなくて、
そんな様子を見ているととても蘭に空良君と付き合ってるなんて言えなかった。
……だから蘭のことは今は諦めてほしいの」
僕の頬には大粒の涙が流れていた。
何も言葉が見つからなかった。
蘭が今それどころでは無いのは十分に理解できた。
理解できたからこそ、どうしようもなかった。
この日から、蘭と付き合った事実は、僕とお母さんだけの秘密になった。