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穏やかに死ぬ権利(前編)  作者: 上田秋人
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穏やかに死ぬ権利(前編)

この国では、犯罪に手を染めていない限りにおいて、全国民に対し、穏やかに死ぬ権利が与えられている。


 *ハルミ*

 七月。本日も目眩がするほどの晴天。天気予報の予想最高気温を、最近は見ないことにしている。

「せんぱぁーい、今朝のニュース見ましたぁー?」

 人権課受付の更衣室は、いつでもなんとなく空気が澱んでいるような気がする。朝が苦手で無気力この上ない私の方へ、ユカちゃんの声がふにゃふにゃと漂ってきた。ユカちゃんも朝が苦手だ。

 私服から指定の制服にダラダラと着替える。汗でべた付いた肌が己のテンションを下げていくのがわかる。

「ねぇ、なんか今日暑くない? 室温下げて貰っても良い?」

 室内温度は、AIが管理している。外気の温度に合わせて完全、完璧、快適な空間が人間様には与えられるはずなのだ。真夏は涼しく、真冬は暖かく。

 しかし今日は、少し蒸し暑く感じる。AIの調子が悪いのだろうか。それとも、外がとんでもなく暑くて、最新式の空調でないと、もう太刀打ちできないのだろうか。

 温暖化恐るべし。年々、真夏の最高気温は上昇方向に更新されていく。

「ハルミ先輩、それって更年期じゃないですかぁ?」

 ユカちゃんが涼しい顔をして言った。制服のスカートから、若々しくスラリとした足が見えている。眩しい。若さはそのままエネルギーだと思う。

「やめてやめて! 私だって、まだユカちゃんと同じ二十代だよ」

 ユカちゃんに悪気がないことは、ちゃんとわかっている。お客様に対しても、時折、くだけた発言をするけれど、裏表のない気持ちの良い性格だ。私は変に行儀ばかり良い後輩よりも、ユカちゃんのような後輩の方が、付き合いやすくて好きだ。

(更年期か……)

 ユカちゃんの言葉を脳内で反芻すると、憂鬱な気持ちに拍車がかかった。近年、女性の閉経は三十代後半だ。まだギリギリ二十代。更年期には早いと思いたい。

 だが、更年期症状が出る要因は、確かにある。私には子宮がない。ハタチになる少し前に、全摘出をした。

「っていうか、さっきの話! 無視しないでくださいよぉ。見ました? 朝のニュース!」

 ユカちゃんが、セミロングの茶髪を一つにまとめながら言った。

 よっぽどユカちゃんの中で熱い話題らしい。口元がムズムズと動いている。ハムスターみたいで可愛い。

「なんか面白いことでもあったの?」

 私が尋ねると、ユカちゃんは喰い気味に言った。

「ストシャイ、メンバー全員で一緒に尊厳死すること、決めたらしいですよ!」

 私は、あまりのことにポカッと口を開けてユカちゃんを見てしまった。

 尊厳死を選ぶことに、驚きはない。

 この国の約九十二パーセントの死因は「尊厳死」だ。

 自ら死に際を決めるのが、我が国のスタンダードである。

 集団での尊厳死も、法律でちゃんと認められている。家族全員で、仲良く一緒に死ぬというケースも少なくない。

 しかし、ストシャイのような人気アイドルグループとなれば、話は別だ。

「……ほんとに? それ、いつ?」

 頬がヒクリと痙攣した。ユカちゃんは私の心情の全てを察したような顔をした。

「オイタナジー記念日に決行らしいですよ!」

 オイタナジー記念日は、この国で尊厳死法が制定された日だ。たしか、毎年九月の第一週土曜日。

「私、絶対出勤したくない」

 私は断固とした声で言った。ユカちゃんも「ですよねぇー」と同意する。

「でもぉー、特別手当とか出るなら……ちょっと考えます。どうせ誰も出たがらないだろうし」

「ユカちゃん、強いなぁ……私、どんだけ手当出ても絶対に嫌……受付が地獄絵図みたいになるよ……」

 私は想像しただけで、白目を剥きそうになった。

 大人気男性アイドルグループ、ストーンシャイニーズ。

 略して「ストシャイ」。

 メンバー五人、みんな爽やかな顔立ちで、明るくて、メンバー同士もとても仲が良くて。老若男女問わず、誰にも不快感を与えない、誰からもそこそこ好かれる、そういうアイドルグループだ。

 私も、ファンというわけでもないけれど、いつも微笑ましい気持ちで見ていたものだが……まさかメンバー全員、一緒に尊厳死を決めるとは。

 それも具体的な日にちを公表されてしまった。これは、どう考えても、同日に尊厳死をしたいと望むファンが溢れかえる予感しかない。

「今年、ミレニアムイヤーじゃないですかぁ、それでストシャイも今年に決めたらしいですよ」

「あぁ……オイタナジー百周年記念ってこと? はぁ……今年に入って私、ほぼ週休一日なんだけど……みんな記念日に拘りすぎじゃない?」

 私が肩を落として言うと、ユカちゃんは「私も全然休み取れてなーい!」と嘆いた。

「っていうか先輩、なんで人権課とか保護課の受付はAIになんないんですかねぇー! 他の課の受付はとっくにAIちゃんがテキパキスムーズにこなしてくれてるのに。絶対人間がやるより正確だし、処理速度も速いと思うんですけどねぇー!」

 ユカちゃんの言う愚痴は、我が人権課の受付全員が一度は口にしたことのあるものだ。

「人の生き死にに関わることだから、やっぱりハートとハートっていうの? 人間が受付してくれないとイヤだって人、未だに多いらしいよ」

 そして私の発する慰め文句も、伝統のように代々引き継がれているものだ。きっとユカちゃんも、いつか後輩に言うことになるだろう。

 都内役所の人権課受付。それが私とユカちゃんの仕事場である。

 人権課に休みはない。受付は一年中やっている。朝の九時から夜の十八時まで。受付予約だけならばオンラインで二十四時間可能となっている。

 六ヶ月先まで予約ができるシステムで、土日と祝日は、午前も午後も終日予約が可能。平日は午後の時間帯のみ予約ができる。どうしても午前中に受付を済ませたい場合には、朝早い時間から役所前に並ぶしかない。

 私たち受付業務の人間は、シフト交代制で回しているけれど、いつだって人手不足が深刻だ。人権課は人の生死に関わる仕事。給与は良いけれど、一般的には、あまり携わりたくない仕事なのだろう。

 私とユカちゃんはブーブー言いながら、更衣室からフロアへ移動して、お互いの定位置に座った。

 時刻は八時四十五分。あと十五分で役所の門が自動で開く。

 人権課の窓口は、たった二つだ。他の課では考えられない少なさだと思う。我が所は、都内でも人口の多い区である。それでも窓口は二つきり。どこの市区町村でも人権課の窓口は二つ、または一つ。

 連日、とにかく朝から並ぶ並ぶ。いい加減にして欲しい。

 それでも窓口を増やせないのは、プライバシーがどうのこうのという理由なのだ。これから死ぬための手続きをする人のプライバシーって、一体なんだろうと私は思う。

 もう死ぬことを決めたから受付に来たのだろうに、一体何を気にするのだろうか。

 私は、専用端末に自分の住民IDカードをかざした。

 ピッという軽い音がした直後、電子端末が起動し、指紋認証と網膜認証が行われる。

「ゲ。せんぱーい、例の日、予約名簿ヤバい。これ一瞬も休憩できないやつだ。やっぱり今朝のニュース見て、みんな即行で予約したんだろうなぁー。気持ちはわかるけど、事務処理する人間の気持ちも考えて欲しいー」

 ユカちゃんが自分の端末を睨みつけながら言った。

 私も予約者名簿を確認する。ストシャイが死の手続きを行うと予定しているオイタナジー記念日は、予約だけですでにパンパンになっていた。

 これは予約していない一般の受付業務は不可能だなぁ、と私は心中で合掌する。

(この日は絶対休みにする。絶対……)

 残業確定なだけでは済まないだろう。この人数では、役所を開ける時間も早めるかもしれない。一日中、受付処理をして。それでも間に合わず、もし万が一、日付を跨いでしまったとしたら、大問題だ。

 ファンの人たちは、ストシャイと同じ日に死の手続きをすることが大事なのだ。

 手続きが完了した日が、命日となる。実際はまだ尊厳死を実行していなくても、手続きを終えていれば、生きながらにして死んだことになる。

 ファンにとっては、大好きなアイドルと命日が同じことにこそ意味があるのだろう。

(そもそも死ぬことに意味なんて……)

 そこまで考えて、私は首を左右に振った。これ以上は考えない方がいい。考えたって答えなんて出やしないのだから。

 尊厳死の手続きは、私たち人権課受付が尊厳死専門の医療機関を予約することを以て完了する。

「では、三日後の十四時、ココの病院で処置してもらってください」

 なんて笑顔で尊厳死受理の書類を渡す。

 もし、予約した日にその人が処置を受けず、現れなかったら、その人は死の虚偽罪という名目で「犯罪者」になる。

 一度役所で尊厳死が受理されてしまったら、気が変わったとしてもキャンセルすることは不可能だ。

「ねー、ハルミ先輩は何歳で死ぬ予定ですかー?」

 唐突に、ユカちゃんが言った。人権課には私とユカちゃんの二人だけ。

 他の課とも防音壁で遮断されている。これもプライバシー云々の観点からだ。

 静かな空間に、ユカちゃんの言葉はよく響く。

「ユカちゃんは」

 変なところで言葉が止まってしまう。「何歳まで生きたい?」と聞くべきか、それとも「何歳で死ぬ予定?」と聞くべきか、迷った。

「私はなるべく早めにしようかなーって思ってますよー。若くてキレイなうちに、とは言わないですけど。でも、平均よりは早めに済ませちゃいたいなーって」

 ユカちゃんは、私に背を向ける形で座っている。端末を指先で操作しながら、受付に必要なフォーマットを開いて、既に仕事モードに突入している。

「平均寿命かぁー」

 私は呟いた。現在の平均寿命は男女共に五十歳から五十五歳の間を推移している。みんな、心身共に不調が出る前に人生の幕を下ろしたいと思うのだろう。

「ユカちゃん、今年でいくつだっけ?」

 私が問うと、元気な声が「二十三です!」と答えた。

 現在二十三歳、平均寿命の五十歳よりも前に死にたいのであれば、四十歳くらい……いや、ああ言ったけれど、実際ユカちゃんは若くてキレイなうちに済ませたいだろう。となると、三十五歳、いや、三十歳かな。

(私、来年で三十だ……)

 自分自身に置き換えると、なんだか体全体がムズムズした。あと一年くらいで、私に死ぬ決意が出来るだろうか。

「あ、でもアレですよ。このまま独身だったらって話です! フミくんが全然結婚に積極的じゃなくて。結婚して、子供ができたら、平均くらいは生きたいかなぁって思います!」

 ユカちゃんは、私に子宮がないことを知らない。別に言う必要はないと思っているし、変に気遣われるのは疲れてしまう。

「でも確か、ユカちゃんの彼氏ってまだ若いんでしょう? まだ結婚ってちょっと勇気いるじゃない」

 私の言葉に、ユカちゃんがパッと振り向いた。

 ポニーテールの髪がきれいな弧を描いて眼前を通り過ぎる。

「フミくん、今年でハタチですよ! 私、絶対今年中に結婚承諾させようって思ってるんです! フミくんも、今年から国の免除なしになって、自分の力で生きていくのがどれほど大変か、身に沁みると思うんです! 独身でいるより結婚した方が、よっぽど楽だって実感したところを攻めようと思います!」

 ユカちゃんはグッと拳を握っている。

 この国では、ハタチになるまでは、医療費がほとんどかからない。全て国が出してくれる。しかし、そこまでだ。二十歳を過ぎたら医療費は全額負担しなくてはいけない。医療費自体、バカみたいに高い。風邪をひいて一度でも病院にかかろうものなら、月の給料の半分以上が吹っ飛ぶ。

 けれど例外もある。

 結婚をしていれば、夫婦ともに医療費含め、税金の半分は国が負担してくれる。そして、子供が生まれれば、その子供がハタチになるまでは家族揃って各種税金が全額免除となるのだ。

 だから私も、ハタチよりも前に、子宮の全摘出手術をすることにした。病気の症状はそこまで重くなかったけれど、ハタチを過ぎてからでは、とてもじゃないが医療費が払えない。重度でなくても病気持ちな時点で、薬代だけで干上がってしまう。大学受験をする前に、全ての処置を終わらせた。

 なんて偏った仕組みだろうと、何度も灼熱業火の如く腹が立った。私のような独身女は永遠とヒーヒー言いながら働くより他にない。それも、健康管理を徹底した状態で、だ。

(私なんて、子供も産めないし。この先、運良く結婚できたとしても、半分免除されるだけ。それだって給料の四分の一は持っていかれる……)

 働けど働けど、我が暮らしギリギリのライン。

 実感をもってそれを知っているから、ユカちゃんが拳を固く握る気持ちは、痛いほどわかる。女性も男性も、とにかくハタチを過ぎたら結婚して子供を産むのが得策なのだ。

 そんなことを考えていると、役所全体に「九時になりました、開門します」という無機質なアナウンスが響いた。

 仕事開始だ。

「私、ハルミ先輩みたく強くないから……ひとりで生き抜くのは無理だって、ちゃんとわかってるんです」

 再び私に背を向けながら、ユカちゃんがポツンとこぼした。

 私は、何も答えない。私は別に、強いわけではない。強いわけではないのだ。

 そもそも、強いとは何だろう。「生命力」と「強さ」という言葉が、遠くかけ離れてしまった現代において、強さとは、一体何を示す言葉なのだろうか。


 *サツキ*

 役所の前に並びはじめて、もう二時間は経つなぁと思った。

 今日は最高気温が三十七度を越えると予測されている。役所の入り口は地下にあるし、地下道は空調が効いている。

 温暖化がいつから始まったのかあたしは詳しく知らないけれど、現代人はほぼ地下で生活していると言っても良いのではないかと思う。モグラみたいに。

 どこもかしこも、入り口は地下。特に夏場は、夜にならないと、地上の道路を使う人なんて滅多にいない。地上の道路は乗り物を利用する時に使うくらいだ。

 スカートから携帯端末を取り出して時間を確認する。もう少しで開門だ。朝早くから並んだ甲斐があって一番乗りだった。あたしの後ろには、六人ほどが列を成している。

 二時間立ちっぱなしで、足の裏がジンと重怠くなっている。空調の効いた地下にいるお陰で、熱中症になるなんてことはないけれど、それでも今日は暑いと思う。素肌がジットリと湿っていて不快だ。

 チラリと後ろをのぞき見ると、あたしの次には、まだ中学生くらいの男の子が並んでいる。あたしが並んで、ほんの十分後くらいに来た男の子。絶対にまだ成人していない。

(かわいそ……)

 反射的に、そう思った。ここに列を成しているのは、みんな人権課の受付待ちの人だ。尊厳死の受付をするために、自らの死の手続きをするために、並んでいる。

(……あたしは、ちょっと違うけど……)

 そっと目を閉じて、深く呼吸をした。体中を、変な疲労が埋め尽くしている。

 昨晩は眠れなかった。眠気を感じることもなく、ギラギラした気持ちのまま、ひたすらにカーテンの向こう側が白むのを待った。

 朝の五時には、居ても立ってもいられずに、身支度をはじめた。いつもだったら外出の支度を整えるのに一時間はかかる。けれど、今日は顔だけ洗って、着替えてすぐに家を出ようとした。

 靴を履いている最中、玄関前にかかっている鏡の中の自分を見て、ハッとなって、立ちすくんだ。あまりにも、酷い顔だった。自分とは思えないほどに。

 しかし、そんなことはどうでも良い、どうでも良いから、一刻も早く役所に並ばなくてはと思った。思ったのに、足はあたしの意思に従わず、部屋の中へと戻った。

 頭の中で、アキラの声が響いている。

「サツキは美人だし、いつでも小綺麗で、愛想も良いし、ご近所さんからの評判も良くってさぁ、ほんと、俺の自慢の嫁さんだよなぁ。俺、幸せ者だなぁ」

 夫のアキラはあたしを褒める天才だ。

 アキラとあたしは、家が隣同士で、生まれた時から成長を共にしてきた幼なじみ。小さい頃から「サツキちゃんはかわいいね」と言ってくれていたのを覚えている。生まれてからずっと一緒にいて、二十歳で結婚して、夫婦になって、今年で五年目だ。

 アキラは家に居る時は、いつだって穏やかで、優しい。少し繊細すぎるところもあるけれど、だからこそ、あたしはアキラが傷ついた時、その傷を、大なり小なり癒してあげる役割を持てる。

 あたしにとって、アキラは生きる意味そのものだ。

「九時になりました、開門します」

 門前に、電子的な声が響いて、同時に役所の門がガガガと変な音をたてて開いた。

 あたし達は、並んでいた順番のまま、ゾロゾロと役所の中に吸い込まれていく。入り口で住民IDをかざす。ピッと音がして、それだけで誰が何時に役所の門をくぐったのか記録される。

 人権課は建物の三階に位置している。二階には待合室。

 最初に並んでいたあたしと、後ろにいた男の子だけが三階へ進む。あとの人たちは、待合室の椅子に座って、自分のID番号がアナウンスされるのを待つ。

 一瞬だけ見た待合室に、老人と呼ばれるような年齢の人はいなかった。

 おじさん、おばさん、あとはあたしより少し年上っぽい男の人がひとり。さすが平均寿命が世界一短い先進国。先進国。当たり前のようにそう呼ばれているけれど、あたしはこの国のどこら辺が先に進んでいるのか、全然わからない。

 三階の受付入り口は分厚い自動ドアになっている。

 ここでもIDカードをかざす。ちゃんと役所に入場した順番通りでカードをかざさないとエラーになって扉は開かない。横入りはできないのだ。

 あたしの後に、男の子がカードをかざした。自動ドアの横で点灯しているランプが赤から緑に変わって、扉が開いた。

 受付には、あたしよりずっと年上っぽい女の人と、あたしと同じ年くらいの女の人が座っている。受付と受付の間には仕切があって、個室のようになっている。

(……たぶん、年上のアッチの人が、この子を担当するんだろうなぁ……)

 ジッと黙って下ばかり向いている男の子を横目に見た。どう見ても、ワケアリだ。

「一番の方、こちらへどうぞ」

 男の子から視線を外して、声のした方を見る。案の定、若い方の女の人があたしを担当するようだ。

「二番の方はこちらへ」

 落ち着いた声が男の子を呼んでいる。

 男の子は、下を見たまま、さっさとブースに入っていった。

 その背中を見送った後、あたしも早足で呼ばれた方のブースに入った。

 受付同士の仕切は、パッと見た感じ、一応防音になっているみたいだけれど、隣の声もかすかに聞こえている。

(なんか思ってたより前時代的だなぁ……都内でもこんなもんかぁ……)

 キョロキョロしているあたしに、受付の女の人が笑いかけてきた。

「早速ですが、こちらの誓約に目を通して頂けますか? ご質問がありましたら、随時お答えしますのでご遠慮なく仰ってください」

 プラスチック板みたいなタブレット端末を目の前に置かれて、あたしは慌てて両手を振った。

「あ、いえ、違うんです。あたしは尊厳死の手続きで来たんじゃなくて……」

 受付の彼女は、キョトンとした顔をした。丸くて大きな目が小動物のようで、可愛いなと思った。思うと同時に、昨夜感じた焦燥感が急激に蘇った。

「あの、あたし、あたし、旦那が、その、尊厳死の手続きをしに来たんじゃないかって、心配になって、それで、確認して欲しくて、それで来たんです! 繊細な人だから、思いこんだらすぐ実行していそうだし、本人に聞いてもいつ手続きするかとか、そういう具体的なことは答えてくれなくて……昨日の夕方くらいの話なんです、夕方くらいに、急にあの、レギュラー落ちして、もうダメだって、今日はホテルに泊まるって言い出して、あたし、引き留めたんですけど、今までにも何回かこういうことあったんで。でもなんか、今回はいつもとは違ってて、様子がおかしかったから、心配で、役所だったらアレですよね、他の役所の情報とかも閲覧ってできますよね? 調べてもらえませんか! もしかしたら、まだ予約してるだけかも……あ、旦那の名前、必要ですよね、あとID番号か、ちょっと書きますね、今……」

 頭に思いつく言葉を、とにかく伝えなくてはと思って口を動かした。少し早口になりすぎたかもしれない。もっと言わなくてはいけないことがあるかもしれない。伝え漏れているところはないだろうか、ありすぎる気がする。あたしの話はちゃんと伝わっているだろうか、あたしの焦りと必死さは、この受付の人に、ちゃんと伝わっているだろうか。

「……少し、落ち着きましょうか」

 信じられないくらい、ゆっくりとした口調で諭すように言われた。

 ああ、やっぱり、少し早口すぎたのだと反省する。

 呼吸が浅くなっていたのか、それとも一気に喋りすぎたのか、座っているのに、なんだか息切れしている。

「お水、お持ちしましょうか?」

「あ、いえいえ、だいじょぶです」

 咄嗟に遠慮をしてしまったけれど、そういえば、朝起きてからずっと飲まず食わずだ。役所前に並んでいる間も、何も飲んでいない。

「……すみません、やっぱりお水を、もらっても良いですか……?」

 おそるおそる言うと、受付の彼女はニッコリして、すぐに紙コップに水を入れてきてくれた。再生紙が使われている、茶色くて小さなコップ。片手で受け取ったけれど、なんだか指先が震えていて、慌てて両手で持ち直した。

 一気に飲み干した水は、体温のようにぬるくて、一瞬にして体に染み込んでいったように思えた。

「長いこと、外で並ばれていたんですか?」

 水を飲んだら、何かが少しホッとした。問いかけられた言葉に「朝、起きてすぐ、急いで来ました」と答えた。

 自分の指先を見つめると、まだ震えているのがわかる。

(どうして……?)

 なんであたしは、今、こんなに必死になっているのだろう。朝から役所なんかに来ていて、一生懸命になっている。指先を震わせながら。

 なんでだろう、と心の中で唱える。

 バカみたいだ。答えはとっくに出ている。

(あたしは、怖い。ひとりにされるのが怖い。死ぬほど怖い……あー、違うか、死ぬより怖い……)

 アキラの声が、脳内で響く。

 サツキ、サツキ、と優しく呼んでくれる。

「すみません、お水、ありがとうございました。落ち着きました」

 あたしは受付の彼女の目を見て言った。

 一呼吸置いてから、再び、頑張って口を動かす。

「あたしの旦那が、昨晩、尊厳死をすることにしたと言いました。その後、家を出ていってしまって、連絡が取れません。もう尊厳死の手続きを進めてしまっているのではないかって、不安になってしまって。まだ何も、話し合っていないんです。あたしの旦那の名前とID、コレなんですけれど、何か手続きがされていないか、そちらで調べていただくことはできませんか……」

 最後の方は、声が掠れてしまって自分の耳でも聞き取りづらい音になってしまった。

 受付の彼女は、あたしの言葉をちゃんと最後まで聞いて、それから口を開こうとした。

 けれど、それを遮るように、あたしは声を出した。

「あたしの旦那、サッカーの、国の代表選手なんです。一応、有名人ってことに、なってるんですけど、ご存じありませんか? なんていうか、公人っていうか、だから、そんな、誰にも相談せずに、突然いなくなるとか、そういうのって、世間的にも問題だと思うんですよ。お騒がせっていうか、だからその、一般人とは違うっていうか、スポンサーもいるし、話し合わないといけない人、たくさんいるし、一般人じゃないんです、だから、特別に、調べてもらえませんか」

 再び、全力で早口言葉を発してしまった。必死になればなるほど、数珠繋ぎのようにズララララっと言葉が出てきてしまう。

 サツキの、まったり話すところが好きだよ。アキラはいつもそう言ってくれるのに、本気を出したあたしは、ちっともまったり話さない。

 あたしとアキラは幼なじみなのだ。だからアキラはそのことを知っている。知っているのに、知らんぷりをする。アキラの中の理想のサツキは、きっとまったり話すのだろう。

「一般人でも、芸能人でも、そうですね、例えば政治家の方でも……個人情報をお教えすることは、出来かねます。ご家族であっても、です」

 受付の彼女は、申し訳なさそうな顔、という仮面を、正しく纏って言った。目の前に、薄くて黒い幕のようなものが、ゆっくりと降りてくる感覚。

(知ってる……あたしは、知ってる……あたしのしていることがどれだけ無駄で、意味のないことかも、役所は基本的に、何も教えられない決まりになっているってことも、この、黒い幕が勝手に降りてくる感覚も、全部知ってる……)

 もう十年以上前に一度体験していることだ。

 耳の奥がツーと鳴っている。急に体中の力が勝手に抜けていってしまった。手にも足にも胴体にも、ちっとも力が入らない。

「大丈夫ですか……? もう少し、お水飲みますか?」

 受付の彼女が、だんだんと素の顔で心配の色を見せ始めている。

「いっつも肝心な時に、みんなあたしの話し、聞いてくれないんですよね」

 ポロリと口からこぼれた。何かを発言するつもりなんてなかったのに。

「……なにか、ご相談事があるようでしたら、窓口を紹介することも出来ますが……」

 受付の女性は、顔は素のまま、心配そうにしたまま、口調だけ仕事モードになった。

 そのアンバランスが面白いと思う。人間らしいなぁ、なんて思ったりする。

 AI技術の発達した現代で、「人間らしい」というのは、かなり上等な褒め言葉だと思う。実際、合コンなんかでも口説き文句として男の子たちがよく使っている。ただ完璧なだけを求めるのなら、機械の方が人間よりよっぽど有能だ。

 けれど、恋や愛、情の話しになると人間はどうにもあらがえず、不完全なものに惹かれる傾向にあるのかもしれない。歪だから、目が離せない。どうなるか予測不可能だから、気になって仕方ない。愛情は、場合によっては執着となって、感情の全てがひきずられていく。

 あたしは、ただボーッとなって、無言で受付の彼女の、その更に向こう側にある壁を眺めた。立ち上がる気力も、言葉を発する気力も、なくなってしまったかもしれない。どうしよう。これから、どうしよう。

「救急車、呼びましょうか?」

 あたしの顔色は、そこまで悪いのだろうか。受付の彼女の声に「お金かかるんで、大丈夫です」と声が出た。

 声が出たついでに、勢いで立ち上がる。

 頑張ってスッと立ち上がったつもりだったのに、実際には机に手を付きながら、ノロノロと頼りなく立ち上がる自分がいた。

「無理なことを言って、すみませんでした……」

 あたしは、浅く小さく彼女にお辞儀をして、ブースを出た。

 防音ドアが閉まる直前に「お気をつけて」という彼女の声が聞こえた気がする。

「優しくされると泣けちゃうじゃん」

 あたしはまた、自分の意思に反してポロリと言葉をこぼした。

 一度立ち止まると、もう二度と動けなくなりそうで、あたしは俯いたまま三階から二階へと階段をくだる。途中、男性とすれ違った。

 ドキッとして急いで彼を見た。アキラかと思った。全然違った。アキラより、ずっと年上の小柄な男性だった。きっとあたしの次の人だ。

(あの人は……これから、死ぬための手続きするんだなぁ……)

 あたしは、静かに遠ざかっていく背中を見ながら思った。そして、先ほど優しくしてくれた受付の彼女を思った。

 毎日毎日、他人の死の手続きをしていくというのは、一体どんな気持ちなんだろう。


 *ソラ*

 役所の待合室は、気持ちが良かった。

 今日一日、そしてこの先もずっと、特になんの予定もなく、帰るべき場所もない僕は、三階から二階におりてきて、そのまま待合室に居座った。

 外は地下でもなんとなく蒸し暑いし、ボーッとしていると周りから変な目で見られる。

 でも、この待合室にはボーッとしている人ばかりがやってくる。何もない場所を見つめている人や、目を閉じている人、そんな人ばっかりだ。椅子はフカフカで大きいし、誰もうるさくしないし、静かで安心できた。

(受付のお姉さん、ちょっと面倒くさい人だったな……)

 僕は、ボーッとしている人たちに混じって、一緒になってボーッとしているフリをしながら、頭を素早く回転させる。

(もっと簡単に、さっさと死ぬ準備って出来るもんじゃないのかな……)

 少なくとも、自分の父や母は、さっさと死んでしまった。

 大人はいつだって自分勝手だと思う。それも、大体が「あなたのことを考えて」とか「あなたのことを思って」とか、そういう言い訳をしながら、強い力で自分の意見を通していくのだ。そんなのって、勝手とかワガママを通り越して、卑怯だと思う。

 自分の思う通りにしたいのならば、ちゃんと説明して、相手を納得させるべきだ。

(そういう意味では、今日の僕は、納得させるのを、失敗したんだな……)

 受付のお姉さんを倒せなかった。負けてしまった。尊厳死の手続きは、して貰えなかった。

「事情はわかりました。でもね、もう少しだけ、自分のことをゆっくりと考えてみて欲しいなと思います」

 お姉さんは、口元にキュッと力を入れたみたいな顔をしながら言った。

「もう少しって、どのくらいですか……?」

 僕が尋ねると、お姉さんは呼吸三回分くらいの間をあけてから、

「君の気が済むまで、かな」

 と答えた。

 気の済むまでって、どのくらいだろう。僕はもうとっくに死ぬつもりでいたのに。それって、気は済んでいるっていうことにならないんだろうか?

「君がもう一度、役所に来てくれたら、その時にはキチンと手続きするね」

 最後に、お姉さんはそう言った。僕は、お姉さんの言葉の真偽をはかりながら、お姉さんの耳から優しい色合いの茶髪が一束落ちて、サラッと頬にかかるのを見ていた。

(どのくらい期間をあけて来れば、気の済むまで考えたって思って貰えるんだろう……)

 次に来た時、また同じお姉さんが担当だったら嫌だなぁ、と思う。

 そんなことを考えていると、頭上でアナウンスが聞こえた。次の人が呼ばれている。アナウンスを聞いて、小柄なおじさんが立ち上がった。下を向いたまま、階段の方へ歩いていく。

(僕の前に並んでたお姉さんの手続き、終わったんだ……)

 僕よりも前に役所の門前に並んでいたお姉さん。絶対に僕が一番乗りだと思っていたので驚いた。いつから並んでいたのだろうか。よっぽど死にたいんだなぁと、僕は並んでいる間中、お姉さんの狭い背中を見ていた。

 僕と同じタイミングでブースに入ったのに、お姉さんは随分と長く時間がかかっていた。無事に尊厳死の手続きは済んだのだろうか。

 おじさんと入れ替わりで、お姉さんが階段をおりてきた。なんだかフラフラしていて、顔が青白い。並んでいる間、ずっと背中ばかり見ていたから気付かなかったけれど、お姉さんはまだ若い感じがしたし、顔が小さくて目が大きくて、綺麗な顔をしていた。

 お姉さんはヨロヨロしながら待合室に入ってきた。

 そして、僕の隣の椅子にドサッと座り込んだ。全身の力を抜くみたいな座り方で、座った瞬間、僕の方まで風圧のようなものが届いた。

 チラリと横目に見ると、目があった。お姉さんも、僕のことを見ていた。

 心臓がピョンと跳ねて、慌てて目を反らした。

「……ねぇ」

 静かな声が、耳の側をくすぐるみたいに響いた。

 僕は返事の代わりに、おそるおそる、もう一度お姉さんを見た。

「のど乾かない?」

 お姉さんは言った。待合室には飲み物の自動販売機がある。

「なんか飲もうよ。なにがいい?」

 お姉さんは僕の存在をまるっと無視しているみたいにしながら、僕に話しかける。器用な人だなと思った。

「大丈夫です、高いし」

 僕は言った。年上の人から話しかけられると緊張する。家族以外の年上の女の人なんて、学校の先生くらいしか知らない。

「あたしがのど乾いてるの。ひとりで飲むの虚しいから付き合ってよ。奢るし」

「あ、いえ……」

「炭酸でいい? 飲めるよね?」

 僕の困惑を、お姉さんはやっぱり無視した。

 さっさと立ち上がって、けれどやっぱりヨロヨロしながら自販機へ行ってしまった。

 僕はただ、見守るだけだった。あまり騒ぐと他の人から迷惑だという目で見られそうで、嫌だった。

 お姉さんは炭酸ジュースを二本買って戻ってきた。自販機のジュースは、一本で八百くらいするはずだ。それなりに裕福でないと気軽に買えない。

「はい。夏になると炭酸おいしいよね」

 お姉さんは、ちっとも楽しくなさそうに言った。

(ああ……そうか、これからこの人、死ぬんだから……もう無駄遣いしても別に良いんだ……)

 僕は、そこでようやく納得した。尊厳死の手続きをしたということは、死ぬために必要な代金も、全て支払い終わったということだ。

 僕は、今日ここに来るまでに、しっかりと尊厳死の手続きについて調べてきた。

 役所では、まず尊厳死の最終確認を行う。本当に手続きをして良いのか、という確認だ。一度手続きをしてしまうと、キャンセルは出来ない。

 確認作業をして大丈夫そうであれば、次はどのような尊厳死のプランにするかの相談をする。

 最近では、家族や恋人同士で一緒に尊厳死をするプランや、豪華なホテル宿泊とレストランでの最後の晩餐が付いているプランなど、様々な種類がある。

 もちろん、オプション付きのプランは値段も高い。けれど、あの世にお金は持っていけないのだから、そこで奮発するという人も少なくないのが現状だ。過去最高額は、どこかの会社の元社長さんで、確か自分の尊厳死に八千万くらいかけていた。

 なんにも特別なプランをつけない場合、尊厳死にかかる最低費用は、ひとり三万だ。

 プランの相談が済んだら、要望に合わせて、役所の人が様々な予約作業をしてくれる。

 尊厳死の処置を行う病院や、安楽剤の確保。

 受付している時点で予約が出来る日程を教えて貰って、候補日の中から好きな日時を選ぶ。これで受付は完了だ。

 住民基礎データに、尊厳死の受付完了日が命日として登録される。

 最後に、請求された代金を支払って、予約表を貰う。

 あとは、本人が予定日に指定された病院へ行くだけだ。

 安楽剤は、小さなカプセル錠剤らしい。少し甘みがあって、苦くない。

 予定時刻になったら、カプセルを飲んで、ベッドで寝る。

 ゆっくりと眠くなってきて、そのまま死ぬことが出来る、らしい。

 これについては体験した人の中に生存者が誰もいないので、本当か嘘かはわからない。

「炭酸苦手だった? 別のやつ買ってこようか?」

 ただジッとジュースを見つめている僕に、お姉さんが言った。

 小さく首を傾げている。先ほど僕の受付をしてくれたお姉さんとは違って、肩くらいまでの長さの黒い髪、毛先の方がパサパサしている。

「炭酸、好きです」

 僕が言うと、お姉さんは口先を小さく上げた。

「ぬるくなると不味いよ」

「はい」

 お姉さんから缶を受け取った。冷たい感触が手のひらに気持ちいい。

 カシュッと軽い音がして、お姉さんはゴクゴクとジュースを飲んでいる。

 相当のどが渇いていたのだろう。

 そういえば、僕ものどが渇いているような気がした。隣で美味しそうに飲まれると、羨ましくなってくる。

 せっかく貰ったし、ぬるくなると美味しくないのも本当だ。

「いただきます」

 僕は、小さな声で言うと、お姉さんと同じようにジュースを飲んだ。ジュワッとした刺激がのどを伝って、体の中に落ちていく。サッパリとした甘みは、脳味噌を柔らかくしてくれる気がした。

「あ、やば、ゲップ出そう……」

 お姉さんが、とても小さな声で言った。

 隣を見ると、右手を口元に当てて、眉を寄せて、耐えている。

「あはっ」

 その顔が面白くて、僕は思わず笑ってしまった。僕の笑い声と重なるように、お姉さんの喉から小さく「けぷっ」と音がした。

 それは、全然下品な音じゃなかったし、女の人らしかったし、ちっとも恥ずかしいことじゃないと僕は思うのに、お姉さんは耳を赤くした。

「笑わないでよ、子供って残酷」

 お姉さんは呟いた。僕は別にお姉さんのゲップに笑ったわけではない。言いがかりだ。

 しばらく、無言でジュースを飲んでいた。ジュースは美味しかったけれど、お姉さんはムスッとしたままだし、なんだか気まずかった。

 ジュースを半分ほど飲み干したところで、また次の人が呼ばれた。

 頭上にあるスピーカーから聞こえる電子音声に、なんとなく上を向いた。

「手続き、出来たの? きみ」

 お姉さんが言った。お姉さんは僕の方を見ないで、どこか遠いところを見るみたいにしながら言った。お母さんが死ぬ前に、よくこういう顔をしていたなぁと思い出す。

「なんで成人って、未だに二十歳なんだと思います……?」

 僕はずっと疑問に思っていたことを尋ねてみた。誰でも良いから、誰か、大人に聞いてみたかった質問だ。

「えー……それは、まぁ……そうね、一般的には、親の都合かなぁ……?」

 お姉さんは言った。

 子供が大人になるまで、親も一緒に医療費が全額免除になる。ついでに税金もほとんど全てが免除だ。

 つまり、子供はなるべく長く「子供」でいた方が親は助かるということになる。

「……ですよね。二十歳になるまで子供が正常な判断を下せないからって理由じゃないですよね? 二十歳になるまでは判断能力が低いから、大人が守らなきゃいけないとか、そういうんじゃないですよね? 僕、まだ十五ですけど、ちゃんといろいろ判断出来てます。ちゃんと考えて今日、ここに来ました」

 僕は言った。声に悔しさがにじみ出てしまう。悔しい。自分が子供であることが悔しい。なんでまだ十五歳なんだろう。

「申請、通らなかったのね」

 お姉さんが言った。ため息混じりの声の裏側に「どんまい」という言葉が隠されているみたいに思えた。

 僕が黙っていると、お姉さんは急に思い出したように言った。

「少年、名前は?」

「……ソラです」

 僕が答えると、お姉さんは「あたし、サツキ」と言った。

「ソラ、帰る場所とかあるの?」

 サツキと名乗ったお姉さんは言った。

 僕はお姉さんの目をジッと見つめた。

「親、死んだんでしょ?」

「なんでわかるの」

「親がいたら、子供がひとりで申請に来たりしない」

 僕はまた「あはっ」と笑った。

 僕は、お姉さんの目に、カワイソウな子供として映っているのだろうか。

「笑うな。死にたいくせに」

 お姉さんは言った。その目は冷たくて、とても僕を哀れんでいるようには見えなかった。

「ムカつくよね、親の勝手ってさ」

 僕が黙っていると、お姉さんはゆっくりとした動作で立ち上がった。

「ソラ、あたしと一緒に来る?」

 手を、差し伸べられた。僕は、全然、その手を取るような気持ちになれなかった。でも、お姉さんの目力が強くて、逆らえないなと思った。「来る?」じゃなくて「来いよ」と言われた気分だ。

 僕が立ち上がるのを見て、お姉さんはさっさと歩き出した。動作はキビキビしているのに、やっぱり全体的にはヨボヨボして見えて、きっとお姉さんも心が疲れているんだろうなと思った。

 お姉さんは死ぬための手続きをした人だ。

 もう何日かしたら、きっと死んでしまうのだ。

 お母さんみたいに。お父さんみたいに。ウミみたいに。

 やっぱり大人は自分勝手で無責任だと、僕は思う。


 *ユカ*

 二十時になったところで、ようやく今日の受付業務が終了した。

 定時は十八時なので、二時間の残業だ。

「ああ……つっかれた……」

 更衣室にたどり着いた瞬間、私の仕事モードのスイッチが切れた。

 更衣室の隅っこには、二人掛けのソファーが置いてある。私は、そこにダイブした。いつから置かれているのか不明なソファーだ。埃っぽくて、カビ臭い。ばっちい! と思いつつも、ついついダイブしてしまうことがある。そもそも、私は今日で七連勤目なのだ。

「お疲れ、ユカちゃん。パンツ見えてるよ」

 ハルミ先輩が笑った。私はダイブした勢いでめくれ上がったスカートの裾を直しながら、先輩を見た。私と同じように疲れた顔をしている。

 けれど、先輩は私のようにソファーにダイブしたり、仕事後に更衣室でダラダラしたりしない。さっさと着替えて、帰り支度を整えるタイプだ。

「せんぱぁーい、私、もう一時間は動ける気がしないー」

 このままソファーの上に寝ころんでいたい。着替えたくない。帰り道を歩きたくない。全てが究極に面倒くさい。

「アカリちゃんが辞めちゃってから、シフトすごい詰まってるもんね。新卒も入ってこなかったし。私も今日は疲れちゃった」

 ハルミ先輩は言いながら、もう制服を脱いで、半分私服に着替え終わっている。私は、なんとか腕を動かして、一つにまとめていた髪を解いた。頭皮の部分がジンと熱くなる。

「今日の朝一番に来た女の人、結構ギリギリの感じだったんですよねぇー、あれ、大丈夫かなぁ……久しぶりに担当しました、ああいう、なんか不安定な感じの人」

 ソファーの上でゴロンと寝返って、私は更衣室の天井を見上げる。

「ユカちゃん、着替え取ってあげようか?」

 ハルミ先輩はいつも優しい。先輩とペアで勤務の日は気が楽だ。辞めてしまったけれど、同期だったアカリとは相性が最悪だった。人手不足だから辞められたくはなかったけれど、出来るだけシフトはズラしたいと思っていた。

「先輩の優しさが身に沁みる……」

 私が言うと、ハルミ先輩は「大袈裟だなぁ」と笑って、私の着替え一式を持ってきてくれた。

「朝一番に来た人、二人とも重かったよね。私も、朝一で未成年が来たから正直ゲンナリしちゃった」

 ハルミ先輩が言った。私はソファーの上で、芋虫のようにウネウネしながら着替えをする。

「申請、通さないで帰したんですよね?」

「一応、規則だからね」

 ハルミ先輩は、小さくため息をついた。

 この国では、二十歳までは未成年と定められている。

 未成年の尊厳死には、親の同意が必要だ。または、親と一緒に申請に来る必要がある。

 家族一緒に尊厳死をすることは認められているし、子供がどうしてもと望むのならば、未成年でも尊厳死を受けることは可能だ。

 しかし、子供が成人する前に、親が尊厳死を済ませてしまっている場合もある。子供だけが残されるパターンだ。

 この場合、子供は親の同意を得られない。二十歳を過ぎれば、自分の気持ちだけで尊厳死を選ぶことは出来るけれど、それまで待てというのも酷な話しだ。

 こういったケースでは、受付で一度話しを聞いてから、

「もう一度、ゆっくり考えてみてください」

 と、帰すのが規則になっている。

 勢いだけで来てしまう子も、中にはいる。

 そうでない子は、後日、また申請に来る。

 二回目の申請では、更にじっくりと受付で話しを聞き、本当に手続きを進めても良いのか念を押した上で、問題がなければ申請を受理することになっている。

 二回目でも疑念がある場合には、窓口が人権課から「保護施設」へと変わる。

 この国は、大人にとっては結構生きにくい世界だけれど、その代わり、未来を担う子供たちには手厚い。大学を卒業するまで誰でも学費は無料だし、医療費も税金もほとんどかからない。

 親のいない子供のための施設も全国に余るくらいある。

 それらの施設は、その昔、老人ホームとして利用されていたものだと聞いたことがある。確か、中学校の歴史の授業で習ったのだ。

 尊厳死法が成立するより前の時代には、全国にたくさんの老人用施設があったらしい。今から百年以上も昔の話しだ。その時代には、子供よりも老人の方が多かったと言うのだから驚きだ。

「今朝の子……親、もう死んじゃってるパターンでした?」

 私が尋ねると、先輩は無言で頷いた。

「彼のIDに記載されてる基本情報では、両親と、それから弟さんも亡くなってる」

「うへぇ……ヘビーですね……他に兄弟とかは?」

「いないみたい。彼だけ残されたっていうパターン」

 胸の中に、グルグルと黒い霧みたいなものが立ちこめた。

「無責任な親」

 つい乱暴な言葉が口から出てしまった。

「私もそう思う」

 先輩が同意した。平坦な声だったけれど、眉間に皺が寄っていた。

「ユカちゃんの担当した女の人も、顔色悪くて大変そうだったね」

 ハルミ先輩が、さっきの私の独り言を拾い上げてくれた。私は、いい加減ソファーでモゾモゾ着替えるのをやめて、立ち上がる。私服のスカートに足を通した。

「なんか、尊厳死の手続きじゃなくて……旦那さんがウチに手続きに来なかったかって。その確認をしたいってことだったんですけど……個人情報だし、言える訳ないじゃないですかぁ? でもなんか、彼女、それをわかった上で、それでも何か行動しないと気が済まないっていう感じで……気合い入ってました」

 私と同じ年くらいに見えた彼女の、震える細い手首を思い出す。

 話しているうちに、どんどん顔面から血の気がなくなっていったので、これはマズいと思ったのだ。

「たまにあるよね、一筋縄ではいかないお客さんが連続して来る日って。ユカちゃん、あの女性にお水をあげてたでしょう? あれ、すごく良かったと思うよ。落ち着いて貰わないことには、話しもできないしね」

 ハルミ先輩は言った。先輩は勤続何年だったっけ、と考える。大学の時にアルバイトとして入ってから受付業務をしていると聞いたことがあるから、少なくとも私よりもずっとずっと長くこの仕事に携わっている。

「一瞬、どういう対応したら良いんだろうって焦りましたけど……なんか普通に具合悪そうで……でも病院かかるとお金ハンパなくかかるし、難しいですよね。落ち着いてくれたから良かったですけど……」

 私が言うと、ハルミ先輩は小さく「うん」と頷いた。

「なにか対応しきれない事があったら、遠慮なくヘルプシグナル入れてね。私でどうにか出来るかはわからないけど……」

 私たち受付には、自分ひとりでは対応が難しい時に、お客さんにバレないようにそっと手助けを頼める「ヘルプシグナル」というものがある。

 こんなに尊厳死が一般化している世の中なのに、未だに尊厳死の手続きはナイーブな問題だ。受付にやってくる人の中には、ひとりでは到底相手をしきれない難題を抱えているような人もいる。

「でも、あんなに必死になって、旦那さんのこと心配するなんて……なんだろうなぁー、なんかちょっと羨ましいなぁって思っちゃいました、私」

 私は着替えを終えて、小さく伸びをした。自分の体が埃くさい気がしてソファーでゴロゴロしたことを後悔する。

「羨ましいって、どの辺りが?」

 ハルミ先輩は、とっくに帰り支度が済んでいるのに、私の支度を待ってくれる。いつもそうだ。根本的に、先輩は人が良い。優しい。

「自分が具合悪くなるくらい、相手のこと真剣に愛してるってことじゃないですかぁ? なんか、そういうパッションというか、一途さというか……熱量っていうんですかね? 恋愛にかける、そういうエネルギーが羨ましいのと、そこまで好きになれる人に出会えてるところが羨ましいのと、あと、その人と、ちゃんと結婚出来ているところとか、旦那がプロサッカー選手だってのも羨ましいって思いました」

「最後のは完全にただの見栄だよねぇ?」

 ハルミ先輩が笑った。私も「あはは」と笑う。

 笑ったら、少し元気が出てきた。帰宅するだけのパワーは充填出来たような気がする。

 私はハルミ先輩と一緒に更衣室を出た。

 人間が退室すると自動で電気や空調が切れる。施錠もされる。

 ここからは、仕事の話しは一切御法度だ。私たち受付は、個人情報を深いところまで知る仕事だから、更衣室を出たら仕事の内容については口にしない。家族や親しい人以外には、役所の受付業務であることは秘匿しなくてはいけない。そこまで厳重な決まりではないものの、ついポロリと誰かの情報を話してしまわないように、いつも注意している。勤め始めの数ヶ月は、それが結構キツかった。

「明日、久しぶりに休みだね。ユカちゃん、彼氏とどこか遊びに行くの?」

 ハルミ先輩が言った。

 ハルミ先輩は優しいけれど、こういうところは少し無神経だ。

「遊びに行くだけの余裕、全然ないですってー。そりゃ、私はどちらかと言えば健康な方ですけど、やっぱり年に一回くらいは風邪ひいたりするし。医療費のこと考えたらゾッとしちゃって、ひたすら貯金と節約の日々で、遊びに行こうなんて滅多に考えないです」

 私が言うと、先輩は「そうだねぇ」と言った。

 その「そうだねぇ」には、あまり現実の色が付いていないように聞こえたので、ハルミ先輩はお金持ちなんだろうなぁと私は思っている。

 普通、私やハルミ先輩のような独身女性は、必死になって日々節約と貯金をするものだ。

 それが嫌なら、さっさと結婚して子供を産むしかない。

 思い切り人生を謳歌して沢山遊びたいのなら、二十歳で結婚して、すぐに出産、という道が一番良い。現に、そういう人生設計をしている人は沢山いる。

「はぁー……早く結婚して楽になりたーい……子供はすぐには無理でも、せめて結婚……税金が重い……」

「ちゃんと相手がいるんだから、大丈夫よ」

 ハルミ先輩が優しく私の肩を叩いた。

 私は明日の休みにはフミくんと一日ゆっくり過ごす。特売のスーパーに買い出しデートに行く。そして、どうにかして、結婚してくれないかと頼みこむ。私はフミくんに、早く結婚しようと必死に言うのだろう。

(なんか虚しい……)

 私とハルミ先輩は、駅前で「お疲れさま」と言い合って別れた。

 先輩の家は、私とは逆方向。先輩の家は、高級住宅街のある方向、なんて言ったら少し惨めっぽいけれど。

(先輩、なんであんな余裕なんだろう……独身で、私より年上で……なんであんなに強いんだろう……)

 ハルミ先輩のことは好きだけれど、いつも少し悔しい気持ちになる。

(そもそも、この世の中、楽しいことが少なすぎる……)

 楽しい場所や事柄は、全部結婚して家庭を持っている人のためにあるようなものだ。それかお金持ち。遊園地、映画、演劇、コンサート、なんでもそうだけれど、チケット代が高すぎる。とてもじゃないけれど、独身庶民には手が出ない。

 子供の頃、両親に連れて行って貰って楽しかった色々な場所が、好きだったものが、大人になったら行けなくなったし、手に入らなくなった。

 取り戻すには、結婚して家庭を持つしかない。今度は私が、母になるしかない。

 それでも必死にアイドルの追いかけをしている友達もいる。彼女はストシャイのファンだけれど、彼らがいなくなった後はどうするのだろうか。

 よもや彼女もメンバーと一緒に死ぬつもりだろうか、と一瞬思ったけれど、他にも応援しているアイドルがいると言っていた気もするから、大丈夫なのかもしれない。

 前に彼女と会った時、ポツンと呟いていた言葉が頭に浮かんだ。

「応援してるアイドルもさぁ、簡単に死んじゃうんだもん。なんかちょっと現実が虚しすぎる」

 人に夢とか希望とか元気を与えるのがアイドルなんじゃないか、と私は思っていた。だから、彼女の言葉が酷く心に残っている。

 私はアイドルの追いかけをしたことがない。だから、実感としてはわからないけれど、別のシーンで彼女の言葉に同意する。

 人生は、基本的に虚しい。

 幼稚園とか小学校低学年の頃から「どういう人生を歩みたいですか」みたいな宿題が出される。何歳くらいで結婚して、何歳で人生を終えるのか。それを小さい頃からずっと考えさせられる。義務教育として。

 親にも言われる。いつ結婚するの、いつ子供を産むの、いつ死ぬつもりなの。

 アイドルだけでなく、親も簡単に死んでいく。

 私の父親は、私が二十歳の時に死んだし、母は去年「じゃぁね」と言って死んだ。私は四人姉妹の末っ子だ。一番上の姉とは十歳離れているので、父も母も、良い年齢だった。平均的な寿命で尊厳死を自ら選んだのだ。

 私は、今朝一番にハルミ先輩が受付をした男の子を「カワイソウ」だと思ったし、子供を残して死んだ親を「無責任」と思った。

 けれど私は、同じ口で、始業前の軽口で「若くてキレイなうちに、とは言わないけど、平均よりも早めに」死にたいと言った。

 それとまた同じ口で、早く結婚したい、子供はすぐじゃなくても良いから欲しいと言った。

 私は二十三歳。平均寿命は五十歳から五十五歳。

 今すぐに結婚して、すぐに子供をつくっても、子供が成人した時、私は四十四歳だ。

 四十四歳というのは、私が理想としている死に時である「平均よりも早めに」の時期だ。

 ギリギリというところだ、無責任な親にならずに済む、ギリギリのところである。もう、言っていることと、自分のやっていることと、理想と現実と、全部ぐちゃぐちゃで嫌になる。

 最近の若者、私も若者だけれど、もっと若い、二十歳未満の子供たちの間では、ファッション尊厳死みたいなのもあるらしい。

 ダルいから死ぬ、みたいなお手軽な感じの思考で尊厳死を選ぼうとすることが、しばしば問題になっている。

 けれど、本当にそうだろうか、と私は思う。

 彼らは、本当に「ダルいから死ぬ」のだろうか。

 その「ダルい」という言葉の奥には、果てしない人生への絶望があるのではないか。本当に本気で、人生を深く考えた結果、死にたいという答えを出したのではないだろうか。

 尊厳死法が制定されてから、死は少なくとも「怖いもの」ではなくなった。頭の良い政治家の人が、「我が国民は死の恐怖に打ち勝ったのだ」と力強く言っていた。あの人は、確かハルミ先輩と同じ年くらいの政治家だったと思う。

 私も、死ぬのはちっとも怖くないと思う。尊厳死は安全だし、自分でタイミングを決められるのも良い。

 私は、死ぬよりも、生きることの方がよっぽど怖いし、シンドい。

 この先どうなるかわからない未来に怯えながら、どうにか良い方向に舵を取ろうと踏ん張っている。

 頑張って踏ん張って、時折こうして、虚しくなる。

 みんな、こういう気持ちを抱えて生きているのだろうか。

 私だけじゃないんだろうか。

 みんな、胸に秘めているだけで、シンドいなぁと思っているのだろうか。

 その答えを、私は知りたい。

 知りたくて、受付の仕事を選んだ。


 *ソラ*

 サツキと名乗ったお姉さんに連れられて来た家は、思っていたよりもずっと大きくて豪華だった。

「ここ、お姉さんの家?」

 僕が尋ねると、お姉さんは家の鍵を開けながら「サツキって呼んで」と言った。

「サツキさん、お金持ちなの?」

 改めて尋ねると、サツキさんは曖昧な顔をして、

「旦那が沢山稼ぐ人なの。ソラはサッカーとか好き? ウチの旦那、プロのサッカー選手なんだけど知ってるかな」

 サツキさんが口にした名前は、誰でも知っている超有名な選手だった。

 僕は小学校六年までサッカーを習っていた。サツキさんの旦那さん、アキラ選手には、僕も憧れたことがある。

 でも、それは三年くらい前、僕が小学生の時の話しだ。最近は、アキラ選手の名前はあまり聞かなくなった。

「すごい、めちゃくちゃ有名な人の奥さんなんですね」

 僕が言うと、サツキさんは今度は本当に可笑しそうに口角をあげた。

「中学生に奥さんとか言われると、なんかスゴい変な気分」

遠慮なく上がって、と言われて、僕はサツキさんの後をついて広い玄関で靴を脱いだ。玄関には大きな鏡が置いてあって、僕の全身を映している。

 天井が高い。明るくて、きれいな家だ。

(変なの……どうして僕、こんなとこにいるんだろ……)

 不思議な気分だった。本当は今日、自分の人生の全部が片付く予定だったのだ。全部終わりにして、あとは尊厳死の予定日までただジッと耐えて過ごそうと思っていた。少なくとも、今朝役所の前に並んでいた時までは、そう思っていたんだ。

「ソラ、お腹すいてる? アンタも朝から、なんにも食べてないでしょ?」

 僕は時計を見た。

 中学に上がった時、お母さんに買って貰った秒針のついている腕時計だ。今の時代、デジタルじゃない腕時計をつけている人は少ない。

 お父さんは僕がこの腕時計が欲しいと言った時、「そんなアンティークなものが好きなんて、洒落てるなぁ」と半分茶化すようにして笑っていた。

 時刻はいつの間にか、十四時を過ぎていた。

 サツキさんの言うとおり、朝から何も食べていない。けれど、お腹はちっとも減っていなかった。

「食べてないけど、お腹はすいてない」

 僕が言うと、サツキさんは、

「あたしも」

 と言って笑った。

 サツキさんに案内されたリビングには、座り心地の良いソファーと大きなローテーブルがあった。壁にはテレビが埋め込まれている。

 大きな窓から夏の日差しが入り込んでいて、部屋中が酷く明るい。

 白い壁紙が光を増幅させているみたいに見えた。

 けれど、人の気配がまるでない。

 僕とサツキさん以外は誰もいないようだった。

「アキラ選手は練習に行ってるの?」

「ううん。昨日から行方不明。連絡も取れない」

 サツキさんは、僕をソファーに座らせて、自分はキッチンに立った。

 リビングとダイニング、キッチンが全部繋がっていて、遮るものが何もない。この部屋でならサッカーの練習も出来そうだと思う。

 サツキさんは、冷蔵庫から様々な果物を取り出して、器用に剥いている。

 僕の方は、ちっとも見ない。

「アキラ選手、家出しちゃったの……? 喧嘩したの?」

 サツキさんは、さっき役所で尊厳死の手続きを終えたはずだ。

 奥さんがもうすぐ死んでしまうのに、旦那さんは家出をしていて良いのだろうか?

 それとも、喧嘩が原因でサツキさんは死ぬことにしたんだろうか?

「喧嘩もさせて貰えなかった。ソラはお酒飲めないよね? ジュース買ってくれば良かったな。ねぇ、お水よりはお茶のが良いでしょ? ウーロン茶しかないんだけど、良い?」

 サツキさんは、氷の入ったガラスのコップを二つ、ローテーブルに運んできた。それからウーロン茶と、お酒の瓶。色とりどりの果物がのったお皿。

 リンゴにすいか、バナナ、イチゴ、パイナップル、オレンジ。

 それに僕の知らない南国っぽいフルーツが二種類くらい。山盛りになっている。

「結婚してからずっと、太らないようにオヤツは果物ばっかり食べてるの。でも、アキラは「フルーツも果糖があるから太るんだぞ」とか言ってくる。酷いよね。ほんとはケーキとかさぁ、食べたいんだよ、あたしだって」

 サツキさんは慣れた手付きでお酒をコップに注ぎながら言う。

「サッカー選手の奥さんって太っちゃいけないの?」

「アキラはデブな奥さんは嫌なんだって」

「……どうせ死ぬんだから、痩せてても太ってても関係ないのにね」

 僕はウーロン茶を勝手にコップに注いだ。部屋の中は空調が効いていて涼しいけれど、窓からの日差しは暴力的だ。

 水分を取らないと目眩を起こしそうだと思った。

(死ぬための手続きに行ったのに、体が生きようとしてるの、変な感じ……)

 僕は思った。心は完全に死ぬための準備が整っているのに、体は勝手に生き延びようとしている。

「ソラ、良いこと言うね」

 サツキさんは果物をもりもり食べながらお酒を飲む。

「……サツキさん、いつ死ぬ予定なの……?」

 僕は小さな声で言った。聞きたかった。今日、手続きを終えて、死ぬまでにどのくらい日が開くのだろうか。

「え? あたし、まだ死ぬ予定ないよ」

 サツキさんがキョトンとした顔をした。

 僕は目を丸くする。意味がわからなかった。

「……どういうこと……?」

 反射で問うと、サツキさんは、少し考えて、いろいろと察したような顔をした。

「あー……あたしが役所に並んでたら、そうか、普通は尊厳死の手続きしたんだって思うよね、そうか、そうか……」

 ひとりでウンウンと頷いて、サツキさんはお酒を飲んだ。僕は、事情が飲み込めない。

 サツキさんは、顔をしかめている僕を楽しそうに眺めて「かわいーね」と言った。意味が分からない。

「あたし、旦那が尊厳死の手続きしたんじゃないかって不安で、その確認のために役所行ったの」

「……個人情報って、家族でも教えて貰えないんじゃないんですか……?」

 僕が調べた限りでは、家族間であってもそういう情報は教えて貰えないはずだ。

「うん。教えて貰えなかった。粘ったんだけどね、ダメだった」

 サツキさんは、人差し指でコップの中の氷を触りながら言った。

 僕は、サツキさんの指先を見つめた。指の本当の先端部分だけが、氷の冷たさに赤くなっている。

「でもねぇ、あたし、たまに教えて貰えることがあるって知ってるんだ。だからね、バカみたいに何も知らないで役所に突撃したわけじゃないんだよ。今回も、もしかしたら教えて貰えるかもなーって思って行ったの」

 僕の耳に「今回も」という言葉が引っかかる。

 サツキさんは氷を触っていた手を、急に僕の方へと伸ばしてきた。

 そっと肩に触れられる。細い指。

「ソラ、彼女いる?」

「……いませんけど」

 僕の言葉に、サツキさんは、にんまりと口を笑みの形にした。

「早く作った方が良いよー。あたしは十三歳の時からアキラと付き合ってた」

 これは、惚気話だろうか?

 僕はこれから、どうにか役所の人を説得して、あとは尊厳死をするのみの人生を送る。

 彼女なんて作っても意味がない。

「ソラ、今、十五歳だっけ? あっという間だよ、二十歳。早いとこ彼女見つけて、二十歳になったらさっさと結婚するのが一番楽で、賢いやり方だよ」

「いや、僕、もう死ぬ予定なんで、大丈夫です。二十歳まで生きません」

 僕が断言すると、サツキさんは果物ののったお皿を僕の方へ寄せた。

「食べな。お腹すいてない気分でも、体はお腹へってるかもよ」

 サツキさんは、ちゃんと僕の話しを聞いてくれているのだろうか。どうせ死ぬのに、食べる意味も飲む意味もない……でも、さっき飲んだウーロン茶は美味しかったし、目の前の果物も、みずみずしくて美味しそうに見える。

「ソラは知らないのかもしれないけど、死ぬ日までは生きないといけない決まりなんだよ。だから食べな」

 サツキさんは目を細めて言った。お酒を飲んで、頬が少し人間らしい桃色になってきている。待合室で話していた時は、青白くて、それこそ死にそうな人の顔をしていた。

「お母さんも、死ぬ前はよくお酒を飲んでた」

 僕は、目の前のお皿からオレンジを取った。食べやすいように、半月型に切られている。

「ソラも飲む? どうせ死ぬんでしょう? だったら法律も関係ないよね」

 サツキさんは、ウーロン茶の入った僕のコップに、勝手にお酒を注ぎ足した。ウーロン茶と混ぜても美味しいから大丈夫、と言いながら。

 この国では二十歳まで飲酒が禁止されているけれど、そもそも、お酒を飲む人自体が少ない。アルコールは値段が高いのだ。

 今思えば、お母さんも、もう死ぬと決めてから急にお酒を飲み始めたように思える。お金が惜しくなくなったと言っていた。僕が二十歳になるまで生きられる分のお金くらいは残っているから安心しなさいとも言っていた。僕は、お母さんがなんで急にそんなことを言い出したのか、その時はよく理解していなかったのだ。

「ソラはいつ死にたいの?」

 サツキさんは言った。ソファーの上で体育座りをしている。スカートの裾がめくれて、太股まで見えてしまっている。僕は、その足を見て、またお母さんを思い出す。サツキさんとお母さんじゃ年齢も全然違うのに。

「なるべく早めに死にたいです。生きていても、別に、なにもないから」

 僕は言った。そう、なにもないのだ。なにも。

 正直、特別に強い気持ちで「死にたい」と思っているわけではない。

 でも、生きたいとも思えない。お父さんもお母さんも、ウミもいない。

 この世には、もう僕だけで、でも死んだらみんなに会えるとも思っていない。死んだ後は、灰になって撒かれるだけだ。

 この国には、日々、尊厳死をする人がたくさんいる。昔はひとりずつ、ちゃんと燃やしていたらしいけれど、今は知っている人も知らない人も関係なく、まとめて死んだ日の夕方に燃やす。

 そして残った灰は、一緒くたにして、公園や広場に撒かれる。海に撒くところもあるらしい。灰以外の骨はゴミと一緒に捨てられてお終いだ。

 あっけなく、簡潔で、死ぬことは特別なことじゃない。

 人間は、生まれた時から死ぬと決まっている。

 だったら、なんで生まれるんだろう。

(その方が、親が楽だから……)

 きっと、それだけだ。お父さんもお母さんも、自分たちが楽をしたいから、僕やウミを産んだ。

「ソラのお父さんとお母さん、なんで死んだの? まだ若かったんじゃない?」

 サツキさんは、自分のコップにお酒のお代わりを注ぎ、パイナップルを摘みながら言った。

 僕は、なんと言ったら良いのか、わからない。

 なんで死んだのか。それは僕も知りたい。いや、違う。なんで僕だけ残したのか、それを知りたい。いや、やっぱり、それも違うかもしれない。なんで僕だけを残したのか、その答えを、僕は知っている。

 その答えは、「特に理由はない」だ。

 僕は、それが死にたくなるほど嫌だ。せめて理由が欲しかった。僕だけを残した理由が欲しかった。それがあれば、もしかしたら、この先を生きようと思えたかもしれない。

「あたしの両親ね、あたしが十三歳の時に死んだよ。あたしに、なーんにも相談しないで、勝手にね」

 僕は、視線だけでサツキさんを盗み見た。サツキさんは、ソファーの前の壁に埋め込まれているテレビの黒い画面をジッと見つめている。

 その黒い画面の奥に、なにか見えるみたいに。

「あたしの実家ね、ここよりずーっと田舎にあって。家も別に大きくなくてさ。でも、父親が会社やってたの。AIのデータを管理する運用会社っていうの? まぁ、あんまり流行んない仕事だけど。母親もその仕事手伝ってて。それなりに上手いこと、普通の家族してたんだけどね」

 サツキさんは、そこで一度「ふぁ」と声を出して欠伸をした。

 先ほど、桃色だった頬は、更に赤みを増している。

(あんまりお酒、強くないのかな……)

 お母さんは、飲んでも飲んでも、全然顔色が変わらなかった。ただただ機嫌が良くなるので、僕はお酒を飲んでいるお母さんが好きだった。お母さんは、いつも疲れていたけれど、飲んでいる時ばっかりは、リラックスしているように見えたのだ。

「あたしもまだ十三だったから、いまいち詳しくわかってないんだけどさ。父親が仕事でなんかやらかして。データ流出? ダッサいけどさ。それで会社潰れて、お金なくなっちゃったらしくて。それである日突然、朝起きたら言われたの。父さんと母さんは、死ぬことにした。お前は頑張って生きろって」

 無責任すぎて笑えるよね、とサツキさんは言った。

「そうだね」

 僕は答えた。あんまりに酷いと思ったけれど、少しホッとした。僕だけじゃないと実感できた。やっぱり大人は勝手だ。

「あたしね、ソラの気持ちめちゃくちゃわかるよ。あたし、父さんと母さんが死ぬことにしたって言った時、信じられなくて、寝起きのまま役所に走ったんだ。それで、必死に役所の窓口の人に聞いたの。父さんと母さん、本当に死んじゃうの? って。もう間に合わないの? って、必死に聞いた」

 サツキさんは、頭を上に向けて、天井を眺めた。

 僕は、サツキさんの黒い髪が、ソファーの背もたれにワカメみたいになって流れるのを見ている。

「あたしがあんまり必死に言うもんだからさぁ、教えてくれたんだよ、役所の人。まだ十三歳だったし、すごい子供に見えたんだろうなぁ。あとはめちゃくちゃ田舎だったから、緩かったのかも。プライバシーの管理とか、そういうの」

 僕は、今朝、サツキさんが朝早くから役所に並んでいた意味を理解した。

 今回も、教えて貰えるかもしれないと、きっと藁にすがるような気持ちだったのだ。たぶん。想像でしかないけれど。

「今回は教えて貰えなかったけどねぇー、やっぱりもう子供じゃないし、ダメかーってさ。当たり前なんだけど、なんかなぁー、バカだなぁ、あたし」

 僕は、サツキさんの真似をして、ソファーの上で体育座りをしてみた。

 そして、尋ねた。

「サツキさんは、お父さんとお母さんが死んだとき、自分も死のうとは思わなかったの?」

「思ったよ」

 即答だった。サツキさんは、ニッと笑った。

「今のソラと同じ」

 でもサツキさんは、まだ生きている。

「なんで、死ななかったの?」

 僕の問いに、サツキさんは笑みを消して言った。

「アキラが死なないでって、あたしに言ったから」

 サツキさんの答えは、短すぎて僕には理解できなかった。リビングには沈黙が流れる。空調の気持ちよい風が、他人事のように充満している。どんなに過ごしやすい環境でも、人間は人間と一緒にいると気詰まりな時がある。不思議だと思う。

「あたしとアキラ、幼なじみなの。生まれた時からご近所さんで、ずっと一緒に育ってきたから。あたしの両親が死んだ時も、アキラの両親、すごい親切にしてくれた」

 サツキさんはボソボソと話した。お酒の入ったコップが、カランと音を立てる。コップの中の氷が徐々に溶けて、お酒を薄めている。

「絶望してる時の親切って、めちゃくちゃイライラしない?」

 サツキさんは言った。僕は、一度まばたきをして答えた。

「イライラするというか……親切にしてくれた人が、バカに見える」

 親切にしてくれる人に対して、お礼の気持ちも少しはある。けれどそれ以上に、反射的に、バカなのかな? と思ってしまう。

 まるで他人事のように、カワイソウにね、とか言ってくる。

 自分は絶対に「カワイソウ」にならない自信でもあるんだろうか。その自信の根拠は?

「あたし、ソラと仲良くなれる気がしてきた」

 サツキさんは言った。

「僕はまだ、わかんないや」

 サツキさんのことは、いまいちよくわからない。掴めない。ユラユラしていて、すごく暑い日……例えば、今日みたいな日に現れる蜃気楼みたいだ。

「正直者のソラに、良いこと教えてあげる。もし、この先もソラが生きていくなら、役に立つかもしれないこと」

「明日、もう一回役所に行って、今度こそ申請通して貰うつもりだけど」

 僕が言うと、サツキさんは「まぁ、聞くだけ聞きなよ」と言った。

 どうせ暇なのだ。僕が黙っていると、サツキさんは再び目を細めて笑った。猫のような笑みだ。

「この世界にはね、本当に自分のことを助けてくれる、白い魔法使いがいるの。夢とか、希望とか、生きる気力とかをくれる、白い魔法使い」

「アイドルとか?」

 僕が問うと、サツキさんは少し首を傾げた。

「そういう人もいるかもね。でももっと身近な人。例えば恋人とか、家族とか。あと、尊敬してる先輩とか、先生とかね」

「残念だけど、僕はまだ出会ってなさそう」

「でも、これから出会っちゃうかもしれないから、覚えておいて。白い魔法使いはね、本当に沢山の力をくれるの。あたしの場合はアキラがそうだった。十三歳の時から、結局今日まで生きてきたのもアキラがあたしに白い魔法をかけたから」

 僕はソファーの上、サツキさんと少し距離を取った。

「惚気話だったら眠たくなるから嫌だよ」

 僕が言うと、サツキさんは「あはは」と笑った。声だけで笑っていて、目はギラギラしていた。

「大事なのはココからだよ」

 サツキさんは僕の目を真っ直ぐに見た。ギラギラした目のまま、ジッと見た。

「白い魔法はね、良いものみたいに見えるんだけどね、それは見た目だけ。白いものだって重ねすぎると黒くなるの。良い言葉も、浴びすぎると結局最後は、黒くなる」

この世界に、本当に真っ白な、純白の魔法なんて存在しないんだよ

「忘れないで。本当に、心から、根っから、全部全部が良い人なんて、絶対にいないからね」

騙されちゃダメだよ

 サツキさんは、強い目と強い声で、僕の脳味噌を殴るみたいにして言った。


 *サツキ*

 あたしは、両親のことが普通に好きだった。別段、嫌な記憶もない。特別にベッタリと好きだったわけでもないけれど、嫌いだと思ったことはなかった。

 それは、十三歳の時までの話しだ。

 十三歳、中学生。あたしは、これから先も普通に人生が続いていくと信じて疑っていなかった。

 学校では「何歳くらいで自分の人生を終えるか、それをよく考えて人生設計をしていきましょう」と何度も言われていたけれど、そこまで深刻に考えられていなかったと思う。

 今思えば、少しばかり、あたしは間抜けだったし、のんびり屋だったのだろう。

 両親ともにまだ若かったし、まさか急に「死ぬことにした」と言われるなんて、思ってもいなかった。

 あの日、朝起きたばかりのあたしに、両親は何にも気負うことなく「役所で手続きをしてきたんだ。明後日、死ぬことに決まったから。サツキはまだ子供だから大丈夫。これから先、なんでもできる。どうか幸せに生きて、人生を楽しんでね」と言った。

 子供だから大丈夫? なにがどう大丈夫なのか、それさえわからなかったのを覚えている。

「会社が倒産してもさぁ、補助金とか、援助制度とか、たくさんあるんだよ。特に、結婚して子供もいる家庭だし。いくらでも国から支援を受けられた。でも、あたしの両親は、支援を受けて生き延びるより、死ぬことを選んだ。そんなのって逃げじゃんって思ったよ」

 今まで、アキラにも話したことのないことを、知り合ったばかりの、まだ十五歳の男の子に話している。

 不思議な気持ちだった。まるで自分を見ているみたいだと、役所では思った。だから、家に連れてきた。

 けれど、話してみて思う。この子は、当時のあたしより、ずっと利口だ。

(もったいない。ちゃんと頭の回る子なのに、明日には尊厳死の手続きしちゃうんだ……)

 そんな風にも思うけれど、頭が回るからこそ、もうこの世界が嫌になってしまったのかもしれないとも思う。

「逃げるのは、悪いことじゃないと思う。生きていく理由がないなら、さっさと終わらせるのもひとつの道だし、権利だし。もう頑張りたくないって思ったんじゃないかな」

 ソラが言った。あたしは目を細める。ムカつくなぁと思った。

 あたしも、ソラの意見に同意だ。けれど、それでは、酷すぎるじゃないか。

 あたしは、両親にとって、生きていく理由ではなかったということだ。十三歳のあたしを残して、さっさと死ぬことを決めた両親を、あたしは今では、あまり好きではないと思っている。

「あたしも、今のソラみたいに思った。だから、あたしだってさっさと死のうと思ったよ。両親を尊厳死で早くに亡くした子供の支援制度だって、めちゃくちゃ充実してることは知ってた。でも、全部面倒くさくなって、あたしも逃げちゃおうって思った」

 両親の「死ぬことにした」という言葉が信じられず、あたしは考えるよりも先に、役所に走り込んだ。何かの冗談だと思いたかった。役所の人に、泣きながら訴えた。両親が手続きしたのは本当か、知りたかった。本当であれば、取り消して欲しかった。

 役所では、特別に両親の申請の有無について教えてくれた。でも、取り消しては貰えなかった。それは、個々人の権利であって、他人が、たとえ家族であっても、侵害できるものではないそうだ。

「あたしが死のうって決めた時、アキラがあたしの側に来て言ったの。死なないでって。死なないで、生きて、それで二十歳になったら、オレのお嫁さんになってって。アキラはその時、あたしに白い魔法をかけた」

 あたしが言うと、ソラはフッと大人っぽい顔で笑って「やっぱり惚気じゃん」と言った。

 違う。違うよ、ソラ。

「あたしは、アキラのお嫁さんになるために、生きようって決めたよ。アキラのこと、普通に好きだったし、アキラかっこいいし。その当時から、サッカーすごい上手くて、学校でも人気者だった」

「僕も、アキラ選手好きだよ。足がすごく速くて、ゴール決めた時のパフォーマンスが大袈裟すぎなくて良い」

 ソラが言った。あたしは、ソラの頭をクシャクシャっと撫でてやった。子犬を見てカワイイと思う気持ちと同じような感情が、フワッと芽生えたから。ソラはすごく嫌そうな顔をして、あたしの手を柔らかく払った。

「あたしはアキラが好き。今も、とっても好き。だからアキラのことを褒められると嬉しくなる。あたしはアキラに白い魔法をかけて貰い過ぎた。もう、真っ黒になるくらい」

 真っ白だった魔法。年を重ねるごとに、少しずつ、白に黒が混ざり始める。一滴ずつ、ほんの少しずつ。真っ白は、薄ら灰色になって、更に更に、色味を濃くして、曇天のような色になって、今では真っ黒になってしまった。

「二十歳そこそこであたしとアキラは結婚した。向こうの両親との付き合いも長かったし、幸せだった。あたしは、アキラが約束を守って本当に結婚してくれたことが嬉しかった。本当に愛されてるみたいな気持ちになったし、アキラは実際、本気であたしを好きでいてくれてたと思う」

 そこで、一呼吸置いて、氷で薄くなった酒を呷った。

 冷たすぎる濁った水の味がする。

 ソラはずっと黙っているけれど、耳をこちらに傾けている気配があった。優しい子だと思った。

「あたしは結婚したなら、子供は早めに欲しかった。その方が暮らしが楽でしょ? 税金も医療費もかからないし、学費タダだし、子育てにはほとんどお金はかからない。ただ育てるだけで良くて、それで親であるこっちも生きていくためのお金が半分くらいで済む。どう考えても子供がいた方がお得」

 ソラは、スッと視線を天井の方へ向けて「便利な道具」と呟いた。

 あたしもそう思う。でも、それ以上に、好きな人との間に子供が欲しいという気持ちがあった。そこに嘘はない。

「結婚してすぐ、子供、どうするってアキラに聞いた。そしたら、しばらく考えてから、二十八歳くらいになってからにしようって言ったの。なんで? ってあたしが聞いたら、俺の選手生命を考えても、高収入でいられるのは二十代が限界だって。だから二十八歳くらいでひとり産んで、二年おきに五人くらい子供作れば、ちょうどあたしらが平均寿命に届くくらいの年齢で一番下の子が二十歳になるから、丁度良いって。一生お金に困らずに生きていけるよって。そういうのが人生設計ってもんなんだって」

 あまりにも真剣に語られた言葉に、当時のあたしは一瞬でしらけた。

 ソラは、あたしの顔をチラリと見て、それから俯いた。

 いろいろと、言いたいことのありそうな顔だった。

「あたしね、アキラのこと大好きだけど、大好きな気持ちと同じくらい……あー、いや、正直、殺したいくらい、嫌いになる時があるんだ」

 アキラの気持ちを疑ったことはない。けれど、前提を疑ったことは何度もある。あたしに「お嫁さんになって」と言った時、アキラはもう人生設計を完成させていたのかもしれない。

 あたしは、彼の幸せな人生に必要な道具だったのかもしれない。

 両親にとっても、そういう存在だったのかもしれない。

 あたしは、ずっと、誰かの道具として存在しているのかもしれない。

 愛はあったと思う。今も愛されているという実感がある。

 あたしは選ばれた。お気に入りの道具として、アキラに選ばれた。

「殺したいくらい嫌いなら、なんで一緒にいるの……? なんで、役所に駆け込んでまで、必死に、アキラさんのこと、考えるの?」

 ソラは、年相応の顔をして、あたしを上目に見ている。

 あたしは無表情で言った。

「幼なじみだから」

 ソラはまだ、納得いかない顔をしている。

「幼なじみって、そんなに大事……?」

 そう問う声には怒りさえあった。本当に優しい子だ。あたしの話を、ずっと自分事のように聞いてくれている。

 あたしはアキラが本当に大事なのだろうか。答えは自分でも驚くほど、すぐに出た。

「大事なわけじゃないよ。ただ、あたしはアキラよりも親しい男の人がいない。アキラのことなら、たくさん知ってるけど、他の男の人のことは、全然わかんない。考えてみて? 良い人か悪い人かもわからない、全然顔見知りじゃない男の人と、たまに殺したくなるくらい嫌いだけど、一応好きだなって思える知ってる男の人。どっちを選ぶ?」

 あたしは、十三歳の時から、アキラのお嫁さんになる以外の未来を描いたことがなかった。もう、そういうものだと思って生きてきたから、アキラ以外に親しい男の人を作らなかった。女友達も、極端に少ない。

「いろいろ反論したいことはあるけど、ちょっと納得もした」

 ソラは軽く笑って言った。

「ありがと」

 あたしはお礼を言った。ソラは反論を投げかけて言い争うことをせず、あたしの言うことを飲み込む方を選んでくれた。

 そのことに対するお礼だ。

「アキラさん、なんで行方不明になっちゃったんだろうね」

 ソラが言った。

「なんか、ひとりで考えたいんだって」

「なにを考えるんだろうね」

 ソラが不思議そうに言った。あたしは笑ってしまう。

 確かにそうだ。死ぬつもりなのだとしたら、何を考えるというのだろう。

 どういうプランで死のうかな、とか。そういうことだろうか。だったら、あたしにも相談して欲しい。

「ねぇ、ソラ。最近さ、アキラのこと見ないでしょう? 年齢も年齢だしさ、最近レギュラー落ちすることの方が多くなったの」

「スポーツ選手は大変だよね」

 ソラは言った。最近では、選手の若年化が進んで、ソラよりも年下の子でも立派に国の代表選手としてフィールドに立っているくらいだ。

「レギュラー落ちするたびにね、ふざけた感じで「もう死んじゃおうかなー」とか、言うこともあったんだよ。今までにも」

 けれど、その度に「あー、でもサツキを残して死ねないかー」と笑ってアキラは言うのだ。お前はひとりでは生きられないだろう、という呪いをかけられ続けている。効果はてきめんだ。あたしは、アキラが死ぬかもしれないと思った時、激しく動揺した。

 実際、今でも考えるだけで動悸がする。あたしは、ひとりになったら、どうやって生きていくのだろう。

 お金の話しではない。なにを理由に生きれば良いのか、道を見失う。

「じゃぁ、今回も、アキラさんの気の迷いかもしれないってこと?」

 ソラが言った。あたしは首を振った。今回のは、そうじゃない。そうじゃなかったから、焦っている。

「今回は、たぶん、本気なんだと思う。サツキも一緒に死のうって言われたから」

 ソラは顔色を変えずに「そっかぁ」と言った。

 アキラが、一緒に死のうなんて言ったのは、はじめてだった。

 幼なじみで、ずっと一緒に生きてきて、はじめてだった。

「オレ、死のうと思うんだ。だから、サツキも一緒に、死のう」

ひとりは寂しいから、一緒に

 アキラの言った「ひとりは寂しい」というのは、ひとりで死ぬ自分が「寂しい」という意味だろうか。それとも、ひとり残されるあたしが「寂しい」という意味だろうか。

「どっちにしてもヤな感じ」

 ソラが言った。

 その通りだとあたしも思う。それでも。

「好きな人には、死んで欲しくないもんだって、どうして誰もわからないんだろう」

 あたしは言った。子供みたいな声になった。ちょっと泣きそうにもなった。

 アキラがあたしにかけつづけた、白い魔法。

 サツキはかわいい、サツキ大好きだよ、サツキは気が利くなぁ、サツキはオレの自慢だよ、サツキがいるから死ねないな、サツキは穏やかで、サツキは、サツキは。

 あたしは、アキラが理想としているサツキで在り続けた。

 それがあたしの、生きる意味だったからだ。

 淀んで淀んで、真っ黒になった白い魔法たち。

 あたしを縛る言葉たち。

 好きな人には、死んで欲しくない。

 生きていて欲しい。

 本当に、そうだろうか。

 この、なんの希望もない、世界で?

 それでも生きていて欲しい?

 どうせいつかは、誰でも死ぬのに?

「人間は、なんで生まれてくるのかなぁ」

 ソラが言った。

 そんなの、親の都合だ。それだけだ。

 本当にそれだけか?

 それだけではないのなら、どうして生まれてくるのだろう。

 どうして、あたしは生まれたのだろう。

 意味なんてない。

 そんな答えでは、あまりにも虚しいじゃないか。


 *ハルミ*

 誰もいないと思って帰ってきた家に、明かりがついていた。

「ケイくん、今日は早かったんだね」

 リビングに入ると、ソファーで本を読んでいたケイくんがこちらを向いた。

「今日は久しぶりにマスコミが大人しかったんだ」

 ケイくんは笑った。私は「平和で何より」と笑って返した。

「ストシャイがグループ尊厳死するって発表しただろ? そっちのニュースで持ちきりだったよ。政治関係はしばらく動きやすくなる」

 ケイくんは、本を置いて立ち上がると、無駄のない動きで私の側に来た。

 長くて骨張っている指先で、私の髪をそっと分けると額にチュッとキスをする。

 ケイくんは、私を妹のように思っているんだろうと常々感じている。

 ケイくんが私と接する時、年の離れた妹を溺愛するみたいな気配が常に漂う。

 実際は、私とケイくんは大学の同級生だし、同じ年だ。

「私は今からオイタナジー記念日が怖くて仕方ないわよ」

「心中お察しするよ」

 ケイくんは苦笑いをした。

 同居中の私の恋人、ケイくん。

 私と同じ二十九歳。

 職業、政治家。法務省に所属している。

 やり手の政治家としても知られていて、国民からの人気も結構ある方だと思う。

 付き合い始めたのは、まだ大学生のころ。もう十年くらい続いている。

 十年間、一度も恋人としての危機的状況を迎えたことがないのは、おそらく、お互いにお互いのことが、それほど好きでも大切でもないからだと思う。

 それでも、私もケイくんも、別れるつもりはない。

「なにか作ろうか? お腹すいてる? ちなみに僕は死ぬほどお腹がすいてる。ハルミが帰ってきたら作ろうって思ってたんだ。ひとり分作るより、二人分作った方が良い気がして」

「それって、私がお腹すいてるかどうか、関係ないってことじゃない?」

「そういうことだね。ごめん。なんか一緒に食べようよって言えば良かった。パスタとか、どう?」

「ペペロンチーノなら良いよ。私、明日は休みだし」

「ペペロンチーノかー。僕、明日、囲み取材あるけど、まぁいいか。美味しいよね、ペペロンチーノ」

 ケイくんは、ひとりで頷きながらキッチンへと向かった。

 私は自分の部屋へ行って、部屋着に着替える。その流れのまま、化粧落としのシートを持って洗面所へ。嫌になる前に、全部やってしまった方が良いと長年の経験で知っている。

 顔を洗って、適当に化粧水をつけてリビングに戻ると、丁度パスタが出来たところだった。

 ケイくんの料理は、手際よく作られ、いつでも素っ気ない。

 味が濃くて、具が少ない。

 でも、だからこそ美味しい。ジャンクな味で、私は好きだ。

 けれど、付き合いはじめたばかりの頃、ジャンクフードばかりでは体に良くないのでは? と柔らかく指摘したことがある。

 ケイくんは笑って「ハルミさんは、そんなことを気にするの?」と言われた。私は、すぐに色々なことを察した。察したので「そうだね、バカみたいなことを聞いちゃった。恥ずかしいな」と、取り繕った。

 どうせ五十歳やそこらで死ぬのが普通なのだ。体に良かろうが、悪かろうが、あんまり関係ない。好きに生きて、病気になったり、疲れたりしたら死ねば良いのだ。安らかに、痛みも苦しみもなく、ただ眠るように死ねば良い。

 ニンニクの良い香りが部屋中に漂っている二十二時。

 残業が終わったのが二十時頃だった。そこからユカちゃんとダラダラお喋りをして、帰ってきたらもうこの時間だ。

 この時間帯に食べるジャンクフードは最高に楽しいと思う。

「あ~、美味しそう」

 私が嬉しそうにして言うと、ケイくんが「美味しいよ」と言った。当然のような言い方で、自信満々だ。ケイくんからは、いつでも爽やかな自信が溢れている。高圧的ではなく、サラリとした質感の自信。

 人から好かれるオーラというのは、存在すると私は思う。

 ケイくんがどこかの偉い人から貰ってきた軽めのワインを開けて、二人でゆったりとした食事をする。

「家でゆっくり出来るの、二ヶ月ぶりくらいな気がするなぁ」

 ケイくんは気の抜けた、優しい顔で言った。

「最近は、自然派の人たちも大人しいし、僕の仕事も全体的に平和なんだ」

 私はケイくんの独り言みたいな、それでいて心地よい声色に耳を傾ける。ケイくんの声は、風のない穏やかな午後のさざ波みたいだ。

「あ、いつも言うけど、僕は別にハルミのご両親を批判するつもりはないんだよ。それでも仕事としては、責任を持ってそういう人たちを諭さないといけない立場にあるから、少し辛い。ご両親と最近は連絡取ったりしている? 元気にしているかな」

 ケイくんは言った。私は口の中のペペロンチーノを飲み込んでから、

「元気よ。大丈夫。それに、ケイくんの立場もわかっているし、私も両親のことは心配してる。ケイくんは優しいから、理解も示してくれるけど、私はやっぱり、自分の親のことだし、心配。それに不安」

 私は、ワインの美しい赤色を見つめて、深刻そうな顔を作って言った。

 目を見て話すと、ケイくんには色々とバレてしまうと知っている。彼はとても頭が良い。

 ケイくんの言う「自然派」というのは、尊厳死を良しとしない考え方を持つ人たちのことだ。

 自然な状態で、寿命を全うして死ぬことこそ、人間の尊厳であると考える。

 今の時代、自然派の人たちは、ある種の宗教団体みたいな感じに見られている。

苦しまず、安らかである尊厳死を望まず、ただ自然と寿命が来るまで生きるという主張。一見、それも悪くないように聞こえるけれど、実際には、加齢と共に病気になったり、体の調子が悪くなったりする。

 途中で、不慮の事故に合うかもしれないし、転んで怪我をするかもしれない。

 結婚をして、子供を産んで、その子供が二十歳になるまでは、それでも良い。医療費は免除されるし、病院にもかかれる。

 けれど、子供が成人をしてしまった後は、話しが別だ。

 医療費は高額。怪我や病気で治療をしてもらうには、相当な蓄えが必要だ。一生働いてお金を稼いでいければ、それも良いのかもしれない。

 だが、どこの会社も定年は四十五歳から五十歳くらいだし、それ以上の年齢になると雇って貰えるところもない。

 収入もなく、病気も怪我もできない。そんな状態で、自然死を待つのは、あまりにも非現実的だと私は思う。

 思うのだけれど、私の両親は、正にその「自然派」の人たちだ。

 現在、父は五十歳。母は四十八歳。

 田舎にある時代劇に出てきそうな長屋みたいな場所で、畑を耕したりして、自給自足の節約生活をしている。旧石器時代の生き残りみたいだと私は思う。

 私は両親が嫌いではない。育った環境も悪くなかったし、良くして貰ったと思って感謝もしている。

 でも、同時に少し恥ずかしい。

 両親は、ケイくんから毎月仕送りを貰っている。私は、そんなことしなくて良いよ、やめて、と言ったけれど、ケイくんは慈悲深い目で「ハルミこそ、そんな寂しいこと言わないで。知らない仲じゃないんだから」と言ってくれる。

 政治に関わっているケイくんだが、五十歳を過ぎた人には参政権がないので、金銭を渡していても特に問題にはならない。

 ならないけれど、恥ずかしい。施しを受けている両親が、私には時折、哀れに見える。

「ハルミは優しいな。でも、気持ちはわかるよ。僕も自分の両親が自然派だったら、心配だと思う。やっぱり家族には、苦しまずに安らかな最期を迎えて欲しいと思っちゃうね。病気にもならず、高額な資金を払って闘病したりせず、怪我なんかで痛い思いもせず……」

「本当に、その通りだと思うわ」

 私は答えた。俯いて、ペペロンチーノの香りを楽しむ。

「ハルミ、そんな顔しないで。ハルミのご両親は、聡明なだけだと僕はわかってる。全体を見れば少しズレていると思われる思考も、個を見れば、本当はそっちの方が正しかったりするんだ」

 ケイくんは言った。ケイくんには私がどんな顔をしているように見えたのだろう。

 私は「いつもありがとう」と小さな声で言った。

「もう少し飲もうか」

 ケイくんが、飲みかけのグラスに、追加で赤ワインを注ぐ。

 彼がグラスを掲げたので、私も一緒になってグラスを掲げる。

 二人の「乾杯」という声が、霧散した。

 日々、サラリサラリと失われていく命のように。


 *

 ケイくんとはじめて会ったのは、大学の入学式だった。

 私は、両親のお陰で、とても良い教育環境を整えて貰っていたので、国立のレベルの高い大学へと進学出来た。

 ケイくんは、新入生代表の挨拶をしていた。私は、その様子を大学ではなくウェブ通信で見ていた。大学は、行くも行かぬも自由だ。授業はキャンパス内で受けても、ウェブで受けても良い。四年間、一度もキャンパスに来ない人もいる。

 ケイくんは、キャンパスの大講堂で、堂々と挨拶を述べていた。私はその姿を見て、そのあまりの真っ直ぐさとか、あまりの輝かしさとか、瑞々しさとか、はちきれんばかりの熱量とかに圧倒された。

 画面越しなのに夢中になって、本当はずっとウェブ授業で済ませようと思っていた大学に、翌日から通い始めた。

 ケイくんのことは、大学の基本情報を見て、すぐに誰だか知ることが出来た。

 ケイくんの一族は、男女問わず、代々この大学を卒業している根っからのエリートだった。百五十年前の大学創立年から、ずっとだ。

 そして、卒業後は全員政治家への道を歩んでいる。

 私は、大学へ行くとすぐにケイくんの姿を探した。彼はすぐに見つかった。どこにいても目立つのだ。オーラというか、雰囲気が違う。明るい。底抜けに、明るくて溌剌としている。

 私は、大学の広い廊下で初めて生でケイくんを見た。ケイくんは、男友達数名と楽しげに話していた。私は、その様子を、少し遠くから見つめていた。

 それだけなのに、ケイくんは私に気が付いてくれた。

「やぁ。君も一年生?」

 嫌みのない、軽やかな声。

 私は頷いて、名前だけの自己紹介をした。

 ケイくんはパッと目を開いて、嬉しそうな顔をした。

「君か! 会ってみたかったんだ。こんなに早く会えるなんて思ってなかった。ラッキーだな。ちょっと話せないかな? 時間ある?」

 急に距離を詰められて、私はたじろいだ。

 ケイくんと一緒にいた友達が「こらこら、怖がらせるなよ」と窘めて笑った。ケイくんは、すぐに「あっ」という顔をして、恥ずかしそうに再び私と一般的な距離を取った。

「ごめん。ちょっと舞い上がった」

 私は「いいえ」と小さな声で言った。

 ケイくんの友達が「知り合いか?」と問いかけた。

 私が首を振ると、ケイくんは「僕は君を知ってる」と得意げな顔をした。

「彼女、今年の首席合格者だよ」

 ケイくんは言った。私はびっくりした。なぜ、そのことを知っているのだろうか。

 私は合格発表の後に、大学側から聞かされていた。

 君は首席合格者だ。そして一年生の代表挨拶は、首席の人に行って貰うことになっている。けれど、実のところ、一年生の代表挨拶は代々決まっていて、申し訳ないけれど、挨拶はその人に譲って欲しい、と。

 私は、代表挨拶なんて絶対にしたくないので、気持ち食い気味で「もちろん構いません!」と答えた。

 ケイくんは、今まで話していた友達に断りを入れて、私に向き直った。

「どこか、お茶でも飲みに行こうか。それとも食事が良い? もちろん、ただどこかの空き教室で話すだけでもいい」

 私は、代々政治家を務めるような御曹司が、普段どんな高級店で食事をしているのだろうという興味を持った。

「あなたの奢りなら、食事に」

 私が言うと、ケイくんはケラケラ笑った。

「もちろん奢るよ。ナンパしたのは僕だからね」

 その時、ケイくんが連れて行ってくれたのは、大学の近くにあるファーストフード店だった。

「いつもこういうところでご飯食べるの?」

 私が尋ねると、ケイくんは照れたように笑って、

「僕はジャンクフードが好きなだよね。ハルミさんが好きじゃなかったら、別のところにしようか」

 と言った。私は吹き出して笑った。

「私もジャンクフード好き。特に夜中に食べると幸せを感じる」

「あ、僕も僕も。なんでだろうね。原価はチープなのに、値段はそんなに安くない。カロリーも高いし、味付けも雑。でも美味しい。味が濃いから炭酸も飲みたくなる。炭酸が甘いから、ますます味が濃いのを美味しく感じる。深夜なんて、本当に最高だ。家族が寝静まった後にひとりで食べるとウットリする」

 ケイくんは言った。私も頷いて答えて、二人で炭酸ジュースとバーガーを買った。ポテトとかパイとか、サイドメニューも買った。

 テラス席に向かい合って座って、ピクニックみたいな気持ちで食べた。

 ケイくんは私に、勉強の仕方について質問をした。ケイくんは、自分こそが首席合格者だと信じて疑っていなかったそうだ。家族もみんな、それが当然と思っていたので、私が首席だったことが衝撃だったと言っていた。

「大学も酷いね、個人情報だよね、首席合格者の名前なんて。まぁ、ウチの母さんがしつこく聞いたせいなんだけど……」

 ケイくんは苦笑した。私は「別に良いのよ」と首を振る。そのお陰で、こうしてケイくんと話せているのだから、ラッキーと思った。

 私たちは、真面目な学生ぶって、学業のことについて話した。

 ケイくんは将来政治家になるための勉強を、この大学でしっかりとやっていきたいと語った。

 私は、幼いころからAI技術やAIシステムの構築について興味があったので、そういう分野の勉強がしたいと希望を語った。

「ハルミさんは、今の世の中で当たり前になってる尊厳死制度のことは、どう思う?」

 唐突に、ケイくんが言った。私は炭酸のはじける心地よさを口内に感じながら考えた。

「自分自身の今の体感だけで言うなら……そうだなぁ……小さい頃から人生設計を強いられたり……特に女性は結婚出産が無言の圧で義務みたいになっているし、あんまり良い印象は受けないけど……」

 私は答えた。

 特に、子宮を持たない私に、この「結婚出産当たり前」という風潮は重くのし掛かる。でも、と私は続けた。

「でも、歴史的な目で考えれば、昔は高齢者の方が子供よりもずっと多くて、多くの高齢者を支えるために若者が重税を課されていたり、いろんな部分でバランスが整っていなかったなと思うから、政治的な舵取りとしては、尊厳死を合法にして民間に広めたのは間違っていなかったとは思うかな」

 ケイくんは、私の意見を目をキラキラさせて聞いていた。

「僕は、尊厳死という概念を人権の一部として広めたことによって、国内の犯罪発生率が格段に減ったことも良かったと思うんだけど、それについてはどう思う?」

 現代では、罪を犯した人に「尊厳死」という権利は与えられないことになっている。死刑制度を廃止した代わりに、犯罪者は尊厳死する権利を奪われる。

 つまり、安らかに死ぬことが許されないということだ。自然に寿命が来て死ぬまで、生きなくてはいけなくなる。刑務所の中で。もちろん、課税義務を果たしながら。

 そんなのは誰がどう考えても生き地獄だ。日々休みなく、刑務所内で労働をして日銭を稼ぎ、健康に留意して怪我や病気をしないようにして、自然に死ねるその日まで耐え抜かなくてはいけない。途中で運悪く、病を患っても、治療費を払えるだけの資金など、刑務所内労働では稼げるはずもない。せいぜい、毎日質素に生きていくのが精一杯だ。

「みんな、犯罪者になるくらいなら尊厳死を選ぶだろうから、犯罪率が減ったのは当然だし、良い副作用だと思うかな」

 私は答えた。犯罪に走る前に、尊厳死の申請をすれば良いだけの話しなのだ。尊厳死は、最低金額三万で受けることができるし、もし三万という金額も高くて、どうしても出せないという場合でも、国に破産申請をすれば、尊厳死代を国が負担してくれる。

 みんな、犯罪者になる前に、善人のまま安らかに死んでいく。

 年間犯罪件数は、少ない年では五十件以下だったりもする。平和な世の中だ。

「僕も、そういう部分での副作用が大きいと思っているんだ。この間のニュース、見たかな? 小学生のイジメ事件」

 最近、大きく報道されているニュースだ。知らないはずもなかった。

「知ってる。小学生の女の子のやつだよね。クラスでイジメを受けた子が、イジメた側を訴えて、裁判で勝訴した……」

「そう。法廷の映像見た? イジメられていた子の、あの言葉が僕は忘れられない」

 法廷で、まだ幼さの残る女の子の放った言葉。

 判決も言い渡され、イジメた側の女の子と、その両親は絶望の色を隠せない様子だった。

 そんな時、被害者側の女の子が言ったのだ。

「お前なんて百歳まで生きて、苦しんで死ね」

 静かな法廷に、冷たく鋭く、響きわたった。

 決して大きな声ではなかった。

 けれどその言葉は、加害者側の人間に対するとどめの一言となった。

「あれは、すごい衝撃だった。なんだろう、上手く言えないけれど、言葉が人を殺す瞬間を見たような気持ちになったな」

 私が言うと、ケイくんは深く頷いた。

「昔は、「死ね」っていう言葉が悪口みたいに使われていたって言うよね。今となっては、それがどうして悪口として成立していたのか、僕にはよくわからない。人間は生きているんだから、いつか必ず死ぬし、尊厳死法があるから、苦しまずに楽に死ぬことができる。それよりも、この生き辛い世界で百年生きる方がよっぽど過酷なことに思える」

 ケイくんはしみじみと言った。

 そして、秘密事を打ち明けるみたいにして声を潜める。

「実はね、尊厳死法を制定したの、僕の曾曾曾お祖父さんなんだ」

「……結構遠いね」

 最初の感想はそれだった。

「あと十年もすれば制定して百年になるからね」

 ケイくんは笑った。

「僕は、小さい頃から、お祖父さんたちの残した日記や記録を読んで育ってきた。それこそ、尊厳死法が制定される前の時代のものも残っているから、百年以上前の当時の日記なんかも、絵本代わりに暗記するほど読んだよ」

僕は将来、尊厳死制度や、人権制度に関わる、法務省に務める人間になるよ

 ケイくんは言った。

 私は、素直な心でその言葉を聞いて「そうなるだろうね」と答えた。

 その答えは、ケイくんをとても満足させたようだった。

 私とケイくんは付き合うことになった。

 最初、私はお付き合いを断った。どう考えても、私は将来結婚をするのならば、良い物件ではないからだ。ぼんやりした言葉で断るのも悪いと思って、私はケイくんに子宮がないことを伝えた。最近手術を終えたばかりだということも。

 ケイくんは笑った。

「僕は誰とも結婚をするつもりはないよ。生涯ね。子供も必要ない。ちゃんと自分が生きるための資金は自分で稼ぐし、納税もするし、三十五歳で死ぬ予定だ」

 あまりにもサッパリした言い分だった。

「跡継ぎを、作らなくても良いの?」

 私は、歴々代々続いているケイくんの家柄を考えていった。

 ケイくんは「こんな世界に、自分の子供を産み落としたいと思う?」と言った。これもまた、当然みたいなサッパリした言い方だった。

「僕は自分のパートナーや子供を、税金対策の道具みたいに扱うのは嫌だ。そういう制度はもちろん必要だと思うから、あるべきだと思うけれど、それはあくまでも、お金を満足には稼げない人のためのものだ。自分で自分が生きるだけのお金を稼げるのであれば、別に税金対策なんて必要ないし、結婚もしなくて良いし、子供だっていなくて良い。でも生涯ひとりでいるのは寂しいし、気の合うパートナーは欲しい。これって僕のワガママかな?」

 最後の言葉は、小さな子供のようなあどけなさが含まれていた。

 首を傾げながら、ケイくんは本気で「ワガママかもしれない。でもそう思うんだけど、どうだろう?」みたいな目で私を見てくる。

 私は、そういう人間らしくて、決して高圧的にならないところが、とても好きだと思った。

「人によってはワガママと思うかもしれないけれど、私はケイくんが可愛く思えるよ」

 と私は答えた。ケイくんは少し恥ずかしそうな顔をして「ハルミさんはフラットな意見を持っていて、なんだか姉さんみたいだ」と言った。

 彼には三歳年上の姉がいる。彼は自他共に認めるシスコンだ。

 ずっと付き合っている私から見ても、本当に重度のシスコンだと思う。

 私は内心、ケイくんが誰とも結婚をしないのは、お姉さんがいるからだと思っている。

 彼が心の底から、世界で一番好きなのは、きっとお姉さんなのだ。けれど、ばっちり血が繋がっているから結婚はできない。その上、お姉さんはケイくんに、ちっとも興味がない。私は、何度かお姉さんに会ったことがあるけれど、ケイくんをそのまま女の人にしたみたいに、そっくりだった。性格はケイくんを十倍以上サッパリさせたような、男気のある人で、気持ちが良い。

 私はケイくんだけでなくお姉さんのことも、それなりに好きだと思う。

 出会って、付き合うようになって、ケイくんは私に尊厳死制度について、沢山のことを話して聞かせてくれた。

 尊厳死制度を制定した時のケイくんの曾曾曾お祖父さんは、当時二十五歳あたりだったらしい。法務省からの出身だったが、歴代最年少で総理大臣になった。

「当時は急激に温暖化も進んでいて、今よりずっと環境問題が深刻だったんだ。今でも深刻だけれど、世界各国の取り組みによって温暖化のスピードは格段に落ちてる。改善の方向にまではいっていないけれど、当時よりはずっとマシになってるんだ。そこには、尊厳死制度も大きく関わっているんだよ」

 環境問題を引き起こしたのは、どう考えても人間だ。環境破壊に歯止めをかけるためには、人間を物理的に減らすのが良いとケイくんのご先祖は考えた。

「けど、急に人間を減らすことなんて、到底できない。当たり前だ。そんなの、国民が黙っているわけがない。それまで散々、人の命の大切さなんてものを道徳として教えてきたんだ。戦争時代の反動でね。戦争してた頃はさ、赤紙なんか出して国のために命を捧げよ! みたいなことを言っていたくせに、戦争が終わってからしばらくしたら、今度は命を大切にしましょうって教えはじめる。教育の責任は重大だよね」

 私たちは、大学で授業を受け、放課後にファーストフード店でデートを重ねた。デート中は、甘い恋人同士の雰囲気というよりも、ケイくんの講義を受けているような気分だった。でも、私にとっては、それがとても楽しかった。

「そういえば、歴史の授業を思い返しても、戦国時代なんかはよく切腹したりすることがあるよね。そんなことで死ななくても良いのになぁって思うようなところで、責任を取って自害したり。あと、結構簡単に打ち首にしたりとかもしていたね。昔の日本人って、そういう、なんか、死ぬことに対してハードルが低いのかしら? 切腹も首切りも、どう考えても痛そうだし、私にはそういう勇気はないなぁ」

 私が言うと、ケイくんは「そうだねぇ」と深く頷いた。

「そういうのも、時代というか、教育というか……思い込みみたいなところも多いんだろうね。実際、今の世の中、尊厳死が当たり前だけれど、百年前はそうじゃなかった。平均寿命なんて、八十歳以上。百歳を超えたお婆ちゃんお爺ちゃんとかが沢山いたんだよ。信じられる?」

 ケイくんは、男の子らしいふざけ方で「ゾンビの王国みたい」と言った。

 私も想像してみる。すれ違う人、すれ違う人、みんなお年寄りな世界。

 病院が老人で溢れかえっていて、入院している人が沢山いる。

 加齢によって生活に不自由が出てきた人たちを介助するのは、気力にも体力にも満ち溢れている若い世代。

 本当は、もっと別の分野で輝けていただろう頭脳が、慈愛とか優しさとか正義感とか義務感とか、そういう柔らかい気持ちの上で、本来の力を発揮できずに衰えていく。

 私は、優しさや思いやりの気持ちを、無駄だとは思わない。けれど、若い人たちの力を、誰かの介助だけに使うのは少し勿体ないような気がしてしまうのも事実だ。

「政府も最初は、AI技術なんかを使って、ロボットを活用することで老人たちの介護の人手を増やそうとしたけれどね。やっぱり莫大な資金がかかるし、あんまりにも国民全員が長生きだと、不都合なことも多いって気が付いたんだ」

 ケイくんは、まるでその時代を自分が生きてきたかのように言った。

「それも、当時の日記に書いてあったの?」

 私が質問すると、ケイくんは私の目を見た。目の真ん中が、ギラギラと光っている。

「国民はバカじゃない。急に尊厳死制度なんか持ち出したら、拒絶反応を起こされるに決まっている。生命は尊い、大切にしなくてはいけないと学んできた時代の人たちだ。下手な発言をしたら、一瞬で政治家人生どころか、個人的な信頼とかも怪しくなるよね。軽蔑されるし」

 だからこそ、少しずつ改革を進めていく必要があったとケイくんは語った。

 まず、重い病気と戦っている人たちに対しての尊厳死を認めた。当時は、尊厳死に至るまで様々なカウンセリングがあり、手続きも煩雑、代金も高額だった。それでも、余命宣告がされているような病を患っている人たちや、その家族から尊厳死は緩やかに受け入れられた。

 社会全体に、尊厳死という制度が穏やかに浸透した後、この国は、今度は老人たちに尊厳死をする権利を与えることにした。

 もちろん、希望する人に対してのみだ。こちらもカウンセリングに多くの時間を割く。

 パートナーを先に亡くしてひとりになってしまった老人。

 元々独身で、収入は国からの援助金のみという暮らしをしている老人。

 また、自然災害などで心に大きな傷を負ってしまい、生きる気力を失ってしまった老人。

 そういう国民に対して、特別に尊厳死という選択肢を与えることにした。

 次に国が行ったのは、国民に対する税金を少しずつ重くするという政策だ。特に若者世代に重税を課した。働き盛りの人たちに対して、高齢者世代のために多くの税金を支払って貰う。

 若者は、働けど働けど、暮らしが楽にならない。

 高齢者は、若い層が多額の納税をしている分、豊かになった。国からの支給金だけでも暮らしに少しばかりの余裕が出るようになったのだ。

 また、若者の働き口を確保するために、企業は高齢者の雇用をしぶるようになった。そもそも、高齢者側も支給金だけでゆとりが出るような時代だったから、働きたいと思う人も少なかったのだろう。

 AI技術の発達によって、時代の変化に取り残されがちな高齢者の働き口が少なくなってきたというのも理由のひとつだ。最新技術についていけるだけの頭がないと、働けない時代だった。丁度時代の転換期とも言える時期だったのだろう。

 いよいよ若者の国に対する不信や不満が大きくなってきたころに、結婚して世帯を持っている人に対しては、減税をするという制度を導入した。

 重税に喘いでいる若い世代は、どうにか結婚をしようと、結婚ブームが起こった。

 続いて、子供を産み育てる場合には、子育て資金の全てを国が負担するという政策に乗り出す。税金に関しても、子供がいる家庭は、ほぼ免除とした。

 結婚ブームに次いで、ベビーブームが起こる。

 子育て支援の充実により、子供たちの教育の場が潤沢になり、賢い子供たちがどんどんと育つ。

 家庭を持ち、子供を持ち、税金を免除される割合が増えると、今度は反対に、高齢者や独身者への支援が手薄になっていく。

 高齢者は、働き口もなく、政府からの支援金も年々少なくなっていく。独身者も、働いても働いても暮らしが楽にならない。

 これでは生きてはいけないとなった時、尊厳死のハードルを一気に下げた。成人以上の年齢で、最低三万あれば誰でも楽に人生を終えることができるようになった。

 その頃にはシレッと医療費も値上がりを続けていて、病院にかかるよりも尊厳死を選ぶ方が簡単になっていた。

 尊厳死を実行するにあたっての医療事故も、尊厳死法が成立した最初の数年に数件ほどあっただけで、人々の尊厳死に対する恐怖心は芽生えなかった。

 どうやら人間は人間を殺すのが得意らしい。

 そうやって、いくつもの仕掛けを長年かけて発動させて、政府は現状をつくり出した。

 改善改善していっているように見せかけて、または尤もらしい理由をつけて仕方なし仕方なしと見せかけて、ジリジリと焦らず、時間をかけて、この国はついに「尊厳死法」を国民たちの中の「常識」に仕立てあげたのだった。

 ケイくんの話してくれた内容で、私が理解し得たのは、この程度の知識が限界だった。私はAI技術の発展には興味関心が深いけれど、政治に関しては、どちらかと言えば不得手なのだ。


「そうまでしてこの国が成したかったことって、なんなのかしら?」

 単純に疑問だった。

 今の世の中で、尊厳死法が一般的なのは事実だ。

 私はそこまで政治政策に興味があるタイプでもないので、その事実に対して特に深い考えを持っていない。

 生き辛いなと思ったり、税金高いなと思ったりすることはある。

 いつ死ぬ予定? なんて聞かれると、ギョッとしてしまうこともある。

 でもまぁ、そういう時代なんだなという理解だ。

 しかし、理由がわからない。そこまでして、この国の政府は、何を目指したかったのか。

「合法的に人口を減らしたかったんだよ」

 ケイくんは言った。

 私は、その言葉をすんなりと飲み込めた自分がいることに驚いた。

 人口を減らしたかったという理由が、とても正当なものに思えた。

「ちょっと子供っぽい考え方だけどさ、人が増えれば考え方の違う人も増える。人が増えると、争いも増える。それって良くないことだと僕は思うんだ。でも、人が多いっていうことは、それだけで国力になる場合があるね。戦国時代とか、そうだよね。人数が多い方が勝ったりする。この国は、人数を減らす代わりに、有能な人間を育てることに舵を切ったんだ。老人よりも子供の数を多くして、子供たちに十分すぎるほどの教育をする。そして、良い年齢まで生きたら、自主的かつ安らかにこの世から退場してもらう。そうやって、国の力を世界に示した」

 我が国は、世界でも先進国に数えられている。

 尊厳死が制度として成り立っているという理由だけで、我が国の国籍を取得したいと猛勉強をしてやってくる外国人もいるくらいだ。

 我が国の国籍を取得するのには、かなりハイレベルな試験に合格する必要がある。それでも、自然死よりも尊厳死の権利を得たいと思う人もいるようだ。

 未だに世界を見渡せば、尊厳死よりも自然死の方が主流傾向にある。

 宗教上の観点からも、尊厳死は自害と同等とされることもあるのだ。

 その点でも、我が国は無宗教国家であったから、やりやすかったのだろうと思う。

 ケイくんと私は、決して常に気が合うというわけではなかった。

 今だってそうだ。ケイくんが私のことを「ハルミ」と呼び捨てにするようになっても、一緒に住むようになっても、ケイくんが法務省に務めて「我が国民は死の恐怖に打ち勝ったのだ」と力強く発言をするようになっても、私たちは、そこまで深く絆を結び合っているわけではないように思える。

 それでも何かに惹かれて、一緒にいる。

 その「何か」という部分が、私にとってはおそらく「正気」という意味合いだと思う。

 ケイくんは、どんなに私と違う意見を述べている時でも、正気だと思う。

 その、正気であるところが、私を安心させる。

 ケイくんは、私が結婚しないことも、子供を産まないことも、産めないことも、子宮を全摘出したことも、両親が自然派であることも、全部否定しないし、理論的に「そういう人もいるよ」と言ってくれる。

 その言葉が、優しさから紡がれているのではなく、彼が「正気」であるから紡がれているのだと私には思える。

 彼は、論理的に合理的に考えて「尊厳死」を良しとしている。

 けれど、彼自身だけの意見で、純粋に、子供みたいに、なんの気負いもなく、正直に言って良いとするならば。

 彼は、政治を担う誰よりも正気であると私は思う。

 生命の、命の、生きることの大切さを、理屈ではない尊さを、彼は理解しているし、唯一無二であることもわかっている。

 わかっているのに、彼は感情よりも、理論を取る。

 一緒に暮らしている私の前でさえ、その姿勢を崩さない。

 覚悟を決めている。自分の立場を、役割を、貫き通す覚悟を。

 私は、きっとケイくんのそういうところを、死ぬほど信用している。

 ケイくんの為なら死んでも良いかもなぁと思えるほど、信用している。


 *ソラ*

 僕の目の前で、サツキさんはどんどん赤い顔になっていって、最後にはソファーに布みたいに寝そべってしまった。

 もちろん、横に座っていた僕は、丁寧に退けられた。

「ソラー、水もってきてー水ー」

「……めんどくさいなぁ」

 僕は思わず呟いた。死ぬ前のお母さんもよくお酒を飲んでいたけれど、こういう面倒くさい感じにはならなかった。

 お父さんは、酔っぱらうとこういう感じだったから、サツキさんはオッサンぽいということだ。

 僕は、キッチンフロアの隅っこにある大きな冷蔵庫を覗いた。

 冷蔵庫の中は、かなりキッチリと整理されていた。お店で売っている時みたいに食材が並んで冷やされている。

 僕はそれを見て、偽物っぽいと思った。作り物っぽい。

 ウチの冷蔵庫は、もっとゴチャゴチャしていた。

 生きている感じがした。

 ミネラルウォーターのペットボトルがあったので、ソファーに持って行った。ミネラルウォーターを買えるなんて、やっぱりサッカー選手の家はお金持ちなんだなぁと思う。

 この国の水はきれいだ。蛇口をひねれば、飲める水が出てくるのは、本当にすごいことだと学校の先生が言っていた。

 僕が水を差し出すと、サツキさんはペットボトルに口をつけて飲んだ。

 飲み方が下手くそで、口の端からボタボタ垂れている。

「あー、普段こういう飲み方しないからダメだね」

 サツキさんは笑った。

「寝転がっていたら、誰でもそうなるよ」

 僕がフォローすると、サツキさんは僕の頭を真顔でポンポンと撫でた。

 酔っぱらいには、無抵抗でいることが一番良い。

 僕は黙ってされるままになる。

「ねぇ、さっきも聞いたけどさ。ソラの家族はなんで死んだのさ」

 サツキさんが言った。

「教えてよ。同情させて。どうせアンタ、明日には死ぬんでしょ?」

 ぶっきらぼうで、投げやりな感じでサツキさんは言った。

 僕は、サツキさんの放つ空気にあてられて、自分まで投げやりな気持ちになった。そうだ、どうせ明日になれば、僕は尊厳死の手続きをする。

 明日が僕の命日になる。

「僕、弟がいたんだ。ウミっていうんだけど、九歳も年下だった。すごくかわいかった」

 僕は、お父さんやお母さんの顔より、ウミの顔の方がよく覚えている気がする。

 ベッドに寝ころんだまま、ジッと僕を見る目は、大きくて、丸くて、キラキラしていて、かわいいなぁといつも思っていた。

 僕が頭を撫でたり、手を握ったりすると、ウミは目を少し細めて、口を少し開けて「はっはっ」と小さな声を出して笑った。

「ソラはお兄ちゃんだったんだ。だからしっかりしてるんだね」

「僕がしっかりしてるんじゃなくて、今のサツキさんがだらしないだけだよ」

「あたしだって、普段はちゃんとしてる。でも、ちゃんとするのって疲れちゃうことあるんだもん」

 サツキさんは、のそのそとソファーの上に起きあがって、今度は上手にペットボトルを傾けた。

「弟も死んじゃったの?」

「うん。お母さんと一緒に。僕はお父さんと残されて、でもお父さんも、そのうち死んじゃった」

 僕は、お父さんが死んでからしばらくは施設にいたけれど、なんだか全部がどうでもよくなってしまって、今日、役所に行ったのだ。

 両親ともに死んでいる場合は、二十歳未満でも自らの考えで尊厳死を選ぶことができる。

「結婚して、子供二人もいて、順風満帆じゃん。なんでソラのお母さん死んじゃったんだろうね」

 サツキさんは首を傾げた。

「……ウミが、産まれたときから、脳に障害があったからだと思う」

 僕はサツキさんの家の床を見つめて、それから暗くなりつつある窓の外を見つめて、言った。

「お母さんがすごく大きい会社で仕事してたから、お金には困ってなかったし、治療費も薬代も、手術するならそのお金も、全部国からの援助があったけど、脳味噌って難しいんだって。まだわかってないことが沢山あって、お金があっても、医学的に、治すのは難しいって言われた」

 ウミが産まれた日のことを、僕は覚えている。

 お兄ちゃんになるんだというワクワクした気持ちと、説明できないイライラした気持ちと、これから先には何が起こるんだろうというソワソワした気持ちで忙しかった。

 けれど、お母さんがウミを産むのは大変なことだったらしい。僕の時は、スムーズに産めたのに、ウミの時は大変だったそうだ。

 産まれてきたウミは、すぐに集中治療室みたいなところに連れて行かれてしまった。

 頭の部分が変形して産まれてしまって、すぐに処置が必要だった。

 ウミもお母さんも、命に別状はなかったけれど、ウミを育てるのは、本当に大変なことだった。

 お母さんだけでは、とても無理で、僕もいろんなことを手伝った。

 お父さんは、何もしなかった。見てもいなかった。

 お父さんは、ウミが普通に産まれなかったことが、ものすごくショックだったらしい。衝撃的だったらしい。それで、心がビックリしたまま、現実を見るのをやめてしまったらしい。

 僕は、お父さんのそういう気持ちが、全然理解できなかった。

 ウミは可愛かった。僕の弟。お母さんもウミのことを「かわいいねぇ」と言って笑っていた。

 ウミは、お喋りも出来なかったし、立って歩くこともできなかった。

 でも、僕の指をキュッと握ったり、「あー」とか「うー」とかだったら、言うことができた。

 本当に小さい頃は、呼吸器が必要だったけれど、四歳くらいになったら、それも必要なくなった。喉のところに、人工の機械を取り付ける手術をしたら、自分で呼吸が出来るようになったのだ。

 ウミは耳がとても良かった。僕の声と、お母さんの声を、ちゃんと聞き分けた。

 お母さんが来ると、ちょっと甘えた顔をするし、僕と二人きりだとちょっと生意気な顔をした。それも僕は可愛いと感じていた。

 ウミが五歳になった時くらいから、毎日のように、お母さんはお父さんと喧嘩をした。

 お母さんは、お父さんに「働いて欲しい」と一生懸命言っていた。

「なに、ソラのお父さん、ヒモだったの」

「ヒモって、なんだっけ。聞いたことあるけど」

 僕が質問すると、サツキさんは少し唸った後で、

「女の人に生活費を稼いで貰って、自分は働かないで生きてる人……? 無職で、なにもしてないって感じの男の人のこと」

 と言った。サツキさんも言いながら首を傾げているので、そんなに詳しい意味は知らないのだろう。でも、だいたいの雰囲気は伝わった。

「うん、たぶんヒモの人だった。働いてるところ、見たことないし。結婚してるし、子供もいるし、稼いでくれる嫁もいるし、人生楽勝ーって話してるの、聞いたことある。いつも一緒にお酒飲んでる友達と話してる時だったと思うけど」

 僕は、その時のお父さんの楽しそうな顔を思い出した。幸せそうで、愉快そうで、気楽で、とても死にそうになかったのに。

「ソラのお母さん、なんでそんな人と結婚したんだろう。良い会社に勤めてたなら、もっと良い人と結婚できただろうにね」

「幼なじみなんだって」

 僕は言った。サツキさんは、目を少し大きくしてから「そっか」と呟いた。それなら、仕方ないね、という言い方だった。

 お母さんは、ウミのことをずっと心配していた。

 この国は、子供に対しての支援には手厚いけれど、障害を持っている子は、それでも生きるのにお金がかかる。

 それに、ウミが二十歳を越えた後、どうするのかも問題だった。

 ウミがこの先、大きくなって、誰かと恋をしたり、気があったりして、結婚したり、子供を持ったりすることは、難しいことに思えた。

 仕事をするのも、難しいだろう。

 そうなると、ウミはこの世界でどうやって生きていったら良いのだろうか。ウミは、自分の意思で尊厳死を望むことさえできない。

 僕はお母さんに言った。

 ウミのことは、僕がずっと守るから、大丈夫だよ、と。

 お母さんは、僕がそう言うたびに「頼むね、お兄ちゃん」と言って笑った。

 けれど、夜になるとお母さんは、地を這うような声で唸ったり、頭を抱えたり、時々泣いたりしていた。

「お母さん、せめてなるべくお金を残したいからって、お父さんにも仕事をするように言ったんだけど、お父さんが絶対いやだって聞かなくて。なんども怒鳴りあいの喧嘩をしてた。喧嘩なんてしなくても、僕がウミよりも九年も先に大人になるんだから、僕が稼げば良い話じゃないかって思ったし、喧嘩中に割って入って、大声でそう言ったこともあったんだけど」

「すごいね。ソラ、勇敢じゃん。あたし、怒鳴られたりしたら一瞬で頭の中が真っ白になっちゃうタイプ。大声とか、喧嘩とか、苦手」

「女の人は、それで良いんじゃない?」

 僕が言うと、サツキさんは優しい顔で笑った。

 サツキさんのことを、さっきはオッサンみたいだと思ったけれど、やっぱり撤回する。サツキさんは、お母さんに似ている。

 お母さんとお父さんは、何度も喧嘩をして、お母さんが「離婚する」と言い出したこともあった。

 でも、結婚している方が気楽な世の中だ。お父さんは、絶対に離婚しないと聞かなかった。お父さんは、僕とウミを見て「そもそも、子供のために金を稼ぐなんて、どうかしてる」と言った。

 子供は、出費を抑えるための道具であって、その子供のために金を稼ぐなんて本末転倒だ、と。

 あまりにも鬼気迫る様子で熱弁していたので、僕は一瞬だけ「なるほど」と思ってしまったくらいだ。僕にもお父さんの血が半分流れているので、うっかりすると、ヒモになりかねない性質があるのかもしれない。

 お母さんとお父さんは、何度も喧嘩をして、ウミが六歳になった時、とうとうお母さんがウミを連れて出て行った。

 置き手紙に「ウミのことは私が連れて行きます。ソラのことをお願いします」と書かれていて、その後に「私とウミは、尊厳死を選びます」と震える字で書いてあった。

 お母さんは字がとてもキレイだったのに、最後の手紙の字は、ヨレヨレだった。

 後日、家にお母さんとウミの遺灰が少し送られてきた。お母さんが尊厳死をする前に、遺灰は少しだけ家に送って欲しいと希望したそうだ。

 お父さんは僕に「本当に死んだんだ……」と言った。

 そこからは、お父さんのお酒を飲む後ろ姿しか見ていない。

 お母さんたちがいなくなって、一年くらい経った時、お父さんが「もう全部面倒くさい」と言った。僕の顔を見て「アイツが産まれてから、全部おかしくなったよな」と同意を求めた。僕にはウミが産まれてから死ぬまで、楽しかった記憶しかない。

「お前だけにしておけば良かったなぁ」

 お父さんは言った。そして、僕の頭を撫でた。

「父さんも、明日役所行くわ。死ぬことにする。とりあえず、金はいくらか残ってるし、お前も自由にしろ」

 僕は、その時、本当に久しぶりにお父さんと会話をしたのだ。僕にとってお父さんは、ほとんどよく知らないオジサンだった。

 次の日、朝起きたらお父さんはいなかった。

 僕は学校に行き、帰ってきて自分で食事をして、眠って、また学校に行った。

 しばらくすると、役所の人が来て、僕を施設へ連れて行ってくれた。

 施設は快適で、食事も出てくるし、個人の部屋も清潔で広かった。

 お世話をしてくれる人もみんな優しかった。

 学校も普通に通って、穏やかな日々が続いた。

「良かったじゃん。なんで死のうとしてるの。不自由ないじゃん」

 サツキさんが言った。僕は笑ってしまった。

「え、あたしなんか可笑しいこと言った?」

 僕は首を振る。

「なんだろう。わからないんだけど……毎日が穏やかで、なんにも問題なく過ぎていけばいくほど、無理だと思うようになったんだ。もう無理だって、この世界には、もう何にもないって。生きている意味がなんにもなくて、世界中が真っ白に見え始めて、これ以上は生きたくないって心の全部が言ってる感じなんだ。施設じゃなく、ひとりで、お母さんもウミも、お父さんもいなくなった家で生きてた時は、なんか心がツーってなってて、頭も回ってなくて、だけどその分、死のうかなってことは、あんまり考えてなかった」

 施設で暮らしてからは、頭も回るようになった。

 僕は、尊厳死について深く調べたし、お母さんやお父さんのことを、自分勝手だと思うようになった。

 勝手に死んでしまった人たちを、恨めしく思ったりもした。

 ウミのことまで連れていってしまったことも、酷いと思った。

 お母さんはきっと、僕のことを思って、僕の負担を考えて、ウミを連れていったんだとわかっている。

 つまり、僕は信用されていなかったのだ。僕がウミを守ると言ったのに、信用してもらえていなかった。

 僕が苦労をするかもしれないから、とか。そういうのはキレイゴトだ。

 僕の苦労は、他でもない僕のものだ。

 僕は苦労をしてでも、ウミと一緒だったら生きていけた。少なくとも、生きていこうという気持ちでいられた。

 サツキさんは「好きな人には、死んで欲しくない」と言った。

 その気持ちが、僕にはよくわかる。

「尊厳死がなかった時代って、自殺する人がすごく多かったんだって。サツキさん、知ってる?」

 僕は言った。

 誰でも気軽に尊厳死できる時代なのだから、わざわざ自殺する必要なんてない。苦しまなくても死ぬのは簡単だ。

「僕のお母さんは、昔風の言葉で言うと、一家心中みたいなことをしたんだと思う。楽な方法で、合法的に。それで、残されたお父さんが、収入ゼロになっちゃったから、仕方なく働き始めて……それで僕と一緒に、それなりに生きていくことを望んだんだと思う」

 でも、と僕は続ける。

「でも、詰めが甘いよね。なんでお父さんも死ぬかもしれないって考えなかったんだろう。どうせだったらさ、お母さんが、本当に自殺してたら、お父さんも僕も死ねなくなってたかもしれないのに」

 サツキさんが、ゆっくりと瞬きをした。

「なにそれ、どういう意味?」

 僕は、尊厳死について調べながら、この国の法律についても勉強した。

「誰かのせいで、誰かが死んだら、それって殺人ってことになるでしょ?」

 僕が言うと、サツキさんは「そうだね」と言った。

 近年、殺人事件なんて、聞いたことがない。

「自殺だって、遺書を残したら殺人になるんじゃないの? 例えば、僕とお父さんに暴力をふるわれていて、そんな日々に耐えきれず、私は自殺します、とか書いた遺書を残して、それで、尊厳死じゃなくて、自殺するんだ。そしたら、警察が来て、これは事件だって調べて、遺書が残ってるからってことで、僕とお父さんは犯罪者になる」

 犯罪者には、尊厳死をする権利がない。

 犯罪者になれば、死ねなくなるのだ。

 自分が本当に死ぬ時まで、生きなくてはいけなくなる。

 この国は、一度罪を犯したら、基本的には終身刑だ。刑務所の中で、自然に死が訪れるまで生きる。

 そんな自分の運命に耐えきれず、刑務所の中で自殺する人は、結構多いと聞くけれど、お父さんにそういう勇気はなかったと思う。楽に死ねるから死んだのだ。苦しんで痛い思いをしなくてはいけなかったら、きっとお父さんは死なない。

 僕もそうだ。苦しまずに死ねる保障があるから、死ぬことを選ぶ。

「ウミは暴力なんてふるえないから、無罪だ。きっと施設の人がウミを保護して大事に育ててくれる。ウミは寂しいかもしれないけど……」

 そこだけが、心に痛い。

 僕は、ウミに会いたい。

 死んだら、会えるだろうか。そういう宗教も、昔は流行っていたらしい。

「ソラ、あんた、めちゃくちゃ頭良いね」

 サツキさんが言った。

「あたし、ずっと死にたかったのかもしれない。でも、意味もなく死ぬのなんて、勿体ない。死に甲斐がなきゃ、意味ないじゃんね」

「急にどうしたの……?」

 僕はサツキさんが何を思ったのか、全然わからない。ただ、サツキさんは、ひとりきりで世界に立っているような顔で言った。小声で、誰に聞かせるでもない音みたいな声で。

「ソラ、あたし、あんたに会えて、良かった」

 サツキさんの目が、まるでウミの目のように、黒々と輝いていた。

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