幕間・ホットミルクと夜ふかし(下)
ガタガタと山道を進む馬車の中で、リオは俯いて震えていた。
荷馬車にいるのは彼女と、先程現れた二名の男性。
他にも何人かの子供達が連れ出されたが、彼らは別の車に乗せられていった。
御者をしている虎の獣人が、獅子の獣人に声をかける。
両者共に覆面をしており、詳細な容姿はわからない。
「そーいや、こいつはどこで引き渡すんすか?」
「依頼者とは麓の村で合流する。詳しくは下りてからだ」
「うぃっす。しっかしとんだ悪路っすねぇ」
がくがくと馬車は揺れ、少女の半身が固い壁に叩きつけられる。
恐れに震えながらも、少女は誘拐犯の会話に耳をそばだてた。
「気味の悪い連中っすけど、ちゃんと依頼金出るんすかね?」
「前金は貰ってるからな。こっちは仕事をするだけだ。変わった宗教ってのはどこにでもあんだな」
(……しゅうきょう?)
ーー幼い彼女は知らないが、オナシのことを『生まれながらに神に体を捧げた者」』と信仰する団体が複数存在する。
その中には時折、こうして違法な手段で、オナシを入手しようとする集団もいる。
入手してどうするというのか。
様々な方法で信仰を表現する。文字通り、様々な方法で。
そんな世俗では暗黙の了解になっていることも、少女は知らなかった。この世界そのものに対して無知だからだ。
しかし、嘲笑うような誘拐犯の声音に、思わずリオの背筋に悪寒が走った。
(にげ、にげないと)
慎重に視線だけを動かして、彼女は馬車の外を伺う。
どうやら裏の目立たない獣道を進んでいるらしい。
ここなら通院の時、近道としてよく通っていた。
(たしかあっちの方に、川があったよね。その近くに木こりさんが住んでた!)
道順を思い返しながら、少女は好機を探り続ける。
それは思ったよりも早くやって来た。
「ちょっとしょんべんして来るわ」
「うぃっす。見とくっす」
獅子の方は草むらへと歩いて行った。
孤児院の職員達を拘束し、通信器具を壊していたことで、少々油断しているようだ。
虎の方はというと、懐からタバコを取り出して巻き始めた。
(――今っ!)
幸いにも足は縛られていない。
少女は金髪をひらめかせて、木々の生い茂る山中へと駆け出した。
「はっ? おい待て!!」
背後から怒鳴り声が突き刺さる。
極力足跡を残さないように走るも、声は少しずつ近くなっていた。
素足に小石が食い込み、膝の絆創膏は剥がれかかっている。
進路に悩んだ結果、幼女は頭上を見上げた。
雪はまだ降っていないが、枯れ葉が一枚落ちそうになっている。
拘束は手首と猿ぐつわだ。
猿系の彼女にとっては、多少煩わしい程度で済むだろう。
ぐっと幹に足をかけ、凹凸に沿って滑るように登って行く。
親に、同族に習う機会は無かったが、少しは本能が覚えているようだった。
するすると天辺に立って、そこから飛ぶようにして木々を移っていく。
それでも、まだ声はあまり遠ざからない。
(どうしよう……どうしよう)
逃亡に集中するあまり、幼女は普段使ったことのない山道に出てしまった。
木から降りた足跡を消して、近くの木陰に身を潜める。
どうか見失ってくれと祈るが、二人分の足跡はどんどん近づいて来た。
数秒後、鼻先をひくつかせると、もうすぐ後ろにいるのがわかった。
小刻みに震える体に、大きな影が迫った――その時。
「そこで何をしている」
警戒を含んだ第三者の低音が響いた。
少女に手を伸ばしていた誘拐犯達は、その声の主を確認すると即座に逃走した。
「……何をしていたんだ?」
がさりと草むらをかき分けて、青年がひょっこりと顔を出す。
月明かりで照らされた鱗に、鋭く細長い瞳が少女を写した。
青年の首から下には鍛え抜かれた筋肉が覗いている。
多種族一怪力に秀でた竜の民は、不思議そうに首を傾げていた。
恐怖で固まる幼女に、青年は怖がらせないように声をかける。
「君は」
彼の台詞が続く前に、少女の視界が傾いていく。
(あ、あれ?)
思えば、馬車の内部は妙な香の匂いがした。
よつんばいの感覚も知らないのに、二足歩行を求められるような日々だった。
周囲の視線に焦るあまり、滑稽につまづいて嘲笑される。
その度に、脳内に染み付いた理央の記憶が、鬱陶しくて仕方がなかった。
彼女だって悩み怒り泣いているのに、なぜか幸福なところばかり目について、それと比較して己がどんどん惨めになった。
孤児院で生まれ変わりの話を聞いたことがある。
その時、幼い少女は思った。
もしリオと理央が同じ魂の持ち主ならば、どうして彼女の記憶が蘇ったりしたのか。
どうして、今(自分)が欠けねばならなかったのか、と。
静かな車輪の振動に跳ね起きる。
慌てて見れば、手首の縄と猿轡は外されていた。
「起きたか」
先ほどの青年が荷車を引きながら、荷台の少女を振り返る。
「ここはあの山道に沿ったところにある町だ。これから警察に行くが……何があったか話せるか?」
「え、えと、話せます」
ちらほらと商店の明かりが目に入る。
斜面を登るように作られた町――オーストン町が少女の眼前に現れた。
麓の村よりも広く、煉瓦作りの家屋が積み木のように重なっている。
呆気に取られていたリオは、まだ礼を言っていないことに気がついた。
「あのっ、ありがとうございました」
「? オレは何もしていない」
「え、えぇ……」
緊張の緩和のためか、うっすらと浮いた肋の下からぐぎゅるるると音がした。
少女が慌てて腹を手で押し込んでも、空腹の訴えは止まらない。
実はこのところ食事の味がせず、食べる量が激減していたのだ。
半竜族の青年はじっとその様子を観察し、切れ長の目を細めた。
「バスケットを開けなさい。そう、そこの茶色のやつだ」
言われるがままに開くと、中から丸められたバナナの葉が出てきた。
保温の魔符が貼られており、まだほのかに温かい。
「良ければ食べてくれ。ふきのとう味噌の焼きおにぎりだ」
「おにぎり」
「東国の方に習ってな」
葉っぱの重なりをずらしていけば、三角形の白米が現れた。
その瞬間、リオの丸い両目がこぼれそうな程見開かれる。
(……あの子の食べてたやつだ)
片面に塗られているのがふきのとう味噌であるらしい。こんがりと焼き目がついている。
そぅっと端っこに歯を立てる。
ほろ苦い甘めの味噌、口の中でほぐれる米の歯ざわり、両手に収まるサイズ感。
どれも初めて知るはずのになぜか懐かしい。
おそらくは前世の記憶によるものであろう。
それでも、目の前にある食事を「食べたい」と思ったのは、他でもないリオ自身だった。
はぐはぐとかぶりついていく少女に、落ち着いた声がかけられる。
「ゆっくり食べなさい。誰も取りやしないから」
その声音があまりに優しいものだから、リオは目頭が熱くなるのを懸命に堪えていた。
警察に事情を話した後、一時的に少女は青年に預けられることとなった。
彼から教わった「紅」という名前を、こっそりと何度も口の中で転がす。
そうするとなぜか胸の辺りが温かくなる気がした。
再び荷台に乗せられて、かたことと斜面を進む。しばらくすると小さな店が見えてきた。
「ここだ」
隠れ家めいたそこには黒板が置かれていたが、何が書いてあるかはわからなかった。
小さな花壇には、土だけが敷き詰められている。
「空っぽ……」
「何を植えるか相談中でな。こっちだ」
小道に入ったところで、青年が裏口の扉を押す。
リオは自然とその後ろについて行った。
開店前だからか、椅子はテーブルの上に乗せられており、室内は静まり返っていた。
「足を洗うお湯を持ってこよう。少し待っててくれ」
階段を上がる紅を見送って、少女はぼんやりとマットにつま先を擦り付ける。
不意に、影から黒い塊が出現した。
「みゃぁん」
「ふへ!? ね、ねこさん?」
いつからいたのか、黒猫はごろりと腹を見せてきた。
柔らかそうなそれに手のひらが吸い寄せられる。
ゆっくりと毛並みに沿って撫でると、猫はぐるぐる喉を鳴らした。
(お、思ったより音が大きい)
よく見れば首輪には魔符が巻きつけてある。
少女は知らないが、主に飲食店の店員が用いる、体毛などが落ちるのを一時的に抑える物だ。
しばらく黒猫を伸ばして遊んでいると、二階からタライを持った青年が降りてきた。
「すまない。待たせた。さ、洗ってしまおう」
「はいっ」
「良い返事だ」
幸いにも切り傷は無かったが、幼女の足裏は真っ赤になっていた。
凍傷も心配だからしばらくお湯につけていなさい、と言われて数分。
見知らぬ場所への気まずさから、リオは指のささくれをいじっている。
今いるのは一階のカウンター席だ。
厨房の方では青年が何やら小鍋を火にかけている。
「ああ、聞く前に始めてしまったな。ホットミルクは好きか?」
「ふぇ……は、はい」
まさか自分用とは思ってもおらず、リオの声が上ずる。
そうこうしている間にも、簡素なコップに温かい牛乳が注がれた。
「蜂蜜とチョコレート、どっちが良い」
「んと、はちみつ」
「多めに入れておく。後で歯を磨くんだぞ」
琥珀色の蜜が匙に掬われ、白い表面に渦巻きを描いていく。
そのままスプーンでかき混ぜてから、コップはカウンターに置かれた。
少女は促されるままに、両手で分厚い陶器に触れる。
ゆっくりと息を吹きかけてから、一口分控えめに飲み込む。
頰に赤みが差したと思えば、少女はごくごくと喉に鳴らし出した。
飲み干して満足そうに微笑んでいると、布巾で口の周りを拭かれた。
初めて来た場所なのに、ほとんど知らない相手なのに、どうして息がしやすいのか。
(あ、そっか)
理由はとても単純なことだった。
(オナシのこと、何も言ってこないんだ)
優しい孤児院の院長でも、それについての言及はあった。
『オナシであることで、悲しいこともたくさんあるでしょう』
高熱から目覚めた後、一度だけ言われたその言葉は、昨日のように思い出せた。
以前の彼女ならどう返したのか、残念ながら知りようはない。
「熱かったか?」
ぼんやりとしてたのを案じて、紅が声をかけてくる。
両目を瞬かせてから、リオは慌てて首を横に振った。
「そうか。明日、朝食も家で食べていくことになるが、何か食べたいものは?」
「え、えっと、食べたいもの……」
「ゆっくりで大丈夫だ」
食べたいもの。
幼い少女は真剣に考え込んだ。
ふと、脳裏に夢で見たあるものが浮かぶ。
「――……プリン」
無意識に口からこぼれ落ちたそれは、理央の大好物だった。
「ぷりん?」
紅は不思議そうに首をかしげる。
少女ははっとして顔の前で大きく手を振った。
「な、なんでもないです!」
不意に、カウンターに上ってきた黒猫が、柔らかな尻尾を揺らした。
「――俺にもくれよ、紅」
「……??」
「ブランデー入りか? 了解した」
「おぉ、わかってんねぇ〜」
「ね……ねこさんが、しゃべった……」
「ん? にゃんだ猫又は初めてか? まぁ力抜けって」
気さくなその魔法生物が、ここの店主だと知るのは明日のこと。
そして、店主から養子縁組の話をされたのは一ヶ月後、初雪の日のことだった。




