幕間・ホットミルクと夜ふかし(上)
とある夢を見た。
二十歳くらいの若者が、しきりに赤ペンを動かしている。
部屋の中にはロックバンドのポスターや、くたくたの学生服が散らばっていた。
その部屋の主である少女は、突然大きく息をつくと、狭い天井を見上げた。
「んぁ――――っ……自己採点終わり……」
彼女はジャージ姿のまま、椅子をくるくると回す。
ふと、扉をノックする音が響いた。
「理央ー! 夕飯できたよー!」
「はぁい」
重たい体を動かして、彼女は部屋を後にした。
向かった先は食卓だ。一人用の土鍋が鎮座している。
「お、来たわね」
彼女によく似た年配の女性が、にやりと口角を上げる。
少し驚いた表情の少女の眼前で、その蓋が持ち上げられた。
ふやふやになった天かす、出しの染みた厚揚げ、それに柔らかく煮られたうどん。
「これ……」
「食べたいって言ってたでしょ? 理央、がんばったものね」
女性はにひっと笑い声をこぼす。
返事の代わりに、彼女はぱんっと元気良く両手を合わせた。
「いただきます」
思春期に突入しても、それだけは絶対にかかせない言葉。
洗い物をしながら、少女の母親は嬉しそうに微笑んでいた。
出汁をとった昆布がそのまま入っている鍋うどんを、彼女は勢いよく啜っていく。熱さの後を優しい味が追いかけてきた。
厚揚げを一口大に噛み切れば、出汁の風味がつるりと舌に乗る。
しばらく夢中で食べ続けていると、玄関で鍵の差し込まれる音が聞こえた。
「たっだいまぁ」
「おかえりなさい。あら、何買ってきたの?」
「ふふふふふ」
紙袋の中身を、男性は少女に差し出す。そこには見慣れた黄色い菓子があった。
「プリン買って来たぞ〜。理央これ好きだよな」
「すご! 美味しそー……」
わかりづらく目を輝かせる娘に、父親は眩しい笑みを向ける。
理央ははっとして気まずそうに視線を逸らした。
夕食後、三人はテレビを見ながらプリンを食べた。
ぼんやりと昔の映画に目を向けて、室内には落ち着いた静けさが広がっている。
沈黙であるのに、不思議と気まずさはないそれが、彼女は大好きだった。
トイレにと立ち上がった時、少女は逡巡してから口を開いた。
「…………父さん、母さん」
「うん?」
「何?」
「いつもありがとう」
照れたのか早々に部屋を出た彼女は、両親がどんな顔をしたのか覚えていない。
ぱちりとまぶたが持ち上がる。
夢の中のぬくもりは、隙間風の冷気に変わってしまった。
体を起こせば、同室の子達はまだ眠っているようだ。か細い寝息が聞こえる。
震災孤児のリオは、赤ん坊の頃からこの施設で育った。
ただとある事情によって、その実感は無い。
少女は高熱を出して倒れ、三日三晩何かにうなされたかと思うと、目覚めた時には記憶を全て失っていた。
命や体に別状は無かった。
誰にも言えない秘密を代償に。
少女は寝台から滑るように抜ける。
喉が渇いたため、共用の給湯室に行くことにしたのだ。
一歩ずつ近づくと、薄暗い部屋の中から、職員の女性陣の声が聞こえてきた。
「リオちゃん、大丈夫かしら」
「心配ね」
「もうすぐ一年経つのに……なんかあの子変よ」
「オナシだけど、前はそんなの感じないくらい、朗らかな子だったわよね」
「ねぇ? すっかり暗くなっちゃってさ。前までは明るくて元気な――良い子だったのに」
少女は、黙って足元を見下ろしていた。
(ごめんなさい)
それを声に出す勇気は無い。
床板を鳴らさないように寝台へ戻ると、少女は布団で全身を隠すように覆った。
(……いい子に、いい子にならなくちゃ)
そうなんども脳内で繰り返す。
この頃の彼女は知らないが、精神へのケアという考え方がまだこの世界にはない。
熱が完全に引いた後、通院は一切無くなり、医師に相談することもできなくなった。
知識も経験もある大人ですらそうなのだ。
子供達からすれば、昨日までの知り合いが、突然、全く別の何かに変わったような不気味さがあった。
少女の性格が変わった原因がわからない。
友人と同じ顔、同じ声、同じ匂いの違う誰かが、友人の席に座っている。
その違和は忌避感となり、リオが集団の中で孤立するまで、そう時間はかからなかった。
無言でもそもそとオートミールを口に運ぶ。
楽しげな会話が飛び交う食卓で、少女は黙って下を向いていた。
それでもまだ最初は、団体行動が必要な時は、声をかければ返してくれた。
しかし外部の言葉を聞いたのか、子供達はリオを排斥する理由としてーー『オナシ』を手に入れてしまった。
大人に気づかれないように、少女への「無視」が始まったのだ。
間違えて話をしてしまったら、みんなの前で罰ゲームを受けるルール付き。
そんな行為を楽しむ者がいた。
自分に的が来ないことを願う者もいただろう。
山奥の娯楽の少ない孤児院で、あまり良くない刺激が広まっていった。
ある日から、少女は誰よりも早く起きて掃除を手伝い始めた。
それを知った子供達は、大人への告げ口を恐れたのだろう。
庭の草に水をやるリオの頭に冷水が落ちて来た。
金髪の先端から雫が滴り落ちるのを、少女は呆然と見つめていた。
「――どんくさっ」
はっとして遊んでいる子供達の方を向く。
全員リオのことなど知らんぷりで、笑いながら鬼ごっこをしていた。
記憶を失う前は、そこに自分も混ざっていたはずだ。
(どうして……いい子になりたいだけなのに)
濡れた服が肌に張り付いて気持ちが悪い。
子供達の笑い声が、なぜか耳奥に残って消えてくれなかった。
深刻になっていく孤立に惑う中、その夜はやって来た。
昼間転ばされたせいで、膝小僧がひりひりと痛む。
絆創膏の上から指先で撫でながら、少女は目を開けたままで毛布に包まった。
眠るのが怖かったのだ。
良くて穏やかで満たされた日々を、悪くて命が消える瞬間を見せられるから。
(このへんなゆめのせいで、わたしはへんな子になっちゃったんだ)
ぐっと下唇を噛み締める。鋭い犬歯が突き刺さり鈍く痛んだ。
――不意に、明かりがついて扉が蹴破られる。
びくっと幼い少女の細い肩が跳ねる。
恐る恐る視線を投げた先には、見知らぬ獣人の男達が立っていた。




