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第七話・おにぎりとコンサート(下)


 夕暮れの迫る中、食堂【リトトルカ】の二階で、歌のレッスンが始まった。


 音漏れ防止にカーテンは閉め切られている。

 扱うのは有名な恋の歌だ。告白に向かう朝を語った曲。


「一度、歌いたいように歌ってみて」

「は、はいっ」


 ちょっとずつずれた音程で、リオは一番を歌い出した。

 人魚が真剣に耳を傾けていたその瞬間――明かりがパッと消えた。


「あ、あれ?」


 唐突な薄暗さに戸惑っていると、黒猫の両目が光る。


「安心しにゃ」

「マスター! どうかしたんですか」

「蓄光魔符の調子が悪いっぽいにゃ。取り替えるから、ちょっと待っててくれ。すまんにゃあ」


 原因がわかり安堵した直後、女性はか細い歌声に気づいた。


 歌姫の時間を無駄にはしまいと、少女は薄暗い中で歌い続けていた。


 弱々しく、頼りない、稚拙な歌声。

 恥じらい混じりの一番が終わると、二階の明かりが戻ってきた。


「ど、どうですか」


 おずおずと見上げれば、女性は驚きで目を見開き、指先で口を覆っていた。


「そう、ね」


 ゆっくりと深呼吸をして、人魚は少女と向き直る。


「もっとお腹に力を入れてみて、口も大きく開けた方が良いわ。慣れてきたら、曲を聞きながらそれに合わせて歌ってみて」

「なるほど」

「あと、正直に言って欲しいのだけど」

「はいっ」



「私がコンサートをするとしたら、来たい?」



 今度はリオが驚愕の表情を浮かべる番だった。

 それができない理由を、つい先程聞いたばかりである。


 重たい沈黙が続く。

 幼い少女にはどう答えるべきかわからなかった。

 迷いながら顔を上げると、歌姫と呼ばれるただの女と目が合った。


 不安そうに揺れる瞳に、少女の心臓が跳ねる。

 気がつけば、リオの口から言葉が滑り落ちていた。


「行きたいです……そしてあなたに、はくしゅを送りたい」

「そう、そうなのね」

「え――」


 ふわりと控えめな香水で、鼻先をくすぐられる。

 視界を豊かな胸部で覆われて、ようやくリオは抱きしめられていることがわかった。


 柔らかな双丘で両頬が挟まれている。


(おぉ…………おっぱいがすごい……)


 しなやかな腕が背中に回され、涼やかな声音が耳に届いた。


「ありがとう」

「ふ、ふぇ?」


 困惑しながら見上げれば、凛とした強気の美女に、弱々しい少女が重なったような気がした。





 少女とその保護者に別れを告げ、人魚は水路へと戻る。

 肌になじむ水中をのったりと泳ぎながら、歌姫は一つの決心を固めていた。


 きっと彼女は迷っていたのだ。このままで本当に良いのか? と、


(でも最初から、理由は一つしかない)


 そうだ。

 自分が歌うのはいつだって――のためだった。





 翌日の早朝、半竜族の青年は週末のジョギングをしていた。

 この町にやって来てからずっと続けており、周囲の人々は慣れた調子で見送る。


(余った梅シロップは、鶏肉と炒め物にしても良いな。あと他に余り物は)


 いつも通り、掲示板の前を通り過ぎようとして、ふと、そちらに視線が引きつけられる。


「これは……」


 妖艶な人魚の下半身と、マイクがメインの一枚のポスター。

 そこには繊細なペン字でこう書かれていた。



『歌姫初のコンサート オーストン町の大ホールにて開催』

『チケットの購入は大ホールの臨時受付で』



 ずれた機械的なマスクを直し、紅はポケットの財布を探った。





 食堂の二階で顔を洗っていると、リオは紅のマスクに気がついた。

 洗面台に放置されたそれを持って、リビングへと早足で向かう。


「マスター、これ良いんですか? わすれ物?」

「あ〜大丈夫大丈夫。ジョギング中はスペアの方使ってるだけだから」

「なるほど」


 少女は頷きながら以前習ったことを思い返した。


 ――過剰魔力症候群。

 魔法使いの素質はないが、同等以上の魔力を有した場合、五感のいずれかの異常発達などで生活に支障が出ることを指す。


 紅は嗅覚が異様に鋭く、本来なら感知しようのない匂いまでわかるため、適度に遮断しなければ脳に負担がかかってしまうのだ。

 それが原因で隣町のレストランを解雇されたところを、マスターが気まぐれて拾ったのが、この食堂の始まりだという。

 彼のマスクは店主による特注品だ。


(当たり前だけど、コウさんも色々あったんだな。多分、マスターも?)


 のんきにあくびする黒猫を伸ばして遊んでいると、バタバタと階段を上がる音がした。


 駆け上がって来たのは件の青年だった。

 珍しく焦った様子で息を切らしている。


「紅? どうしたんだ?」

「走って来たんですか? お水持って来ますね」

「いや、り、リオ、これを」

「へ?」


 リオの眼前に、三枚の紙が差し出される。

 そこに記された文字列を追うにつれ、少女の口はぽかんと開けられた。


「え、えっ!! なんで、これ、えっ」


 少女は歌姫のコンサートのチケットを手に震えている。

 優しく目を細めて、紅はくぐもった声をかけた。


「午前の部だから朝が辛いかもしれないが、終わった後、公園で昼を食べよう。リオは何が食べたい?」


 青年が話し終える前に、小さな体がその腹に飛び込んだ。


「コウさん」

「なんだ」

「……ありがとうございます」


 ぴったりとくっつかれて、青年からは少女の表情が見えない。

 それでも、喜んでくれたのだとわかり、紅はほっと安堵の息を吐いた。


 のんきな黒猫はどこからか水筒を掘り起こしていた。





 大ホールは娯楽施設の多い第二区にある。


 フォーマルな服装に身を包んだ青年を、幼女はちらちらと見上げていた。

 彼自身はあまり落ち着かない様子だ。


 その様子ににたついていた店主は、周囲の視線がいくつかこちらに向くのがわかった。


「……ふん」


 いくら啓蒙されているとはいえ、個々の意識を変えるのは難しい。頭の中で何を思うも自由だ。

 それでも、畏怖の視線はあまり心地良いとは言えなかった。

 興奮のためか、リオ自身はまだ気がついていない。


 曖昧な表情で小首をかしげて、店主は目を閉じる。

 ふと、滑らかな体毛が淡く光り、徐々に形を変え始めた。


 衆目が集まる中心に、すらりとした黒髪の男性が現れる。


 猿系によく似た手足と、パニエの奥から伸びる尾、そして黒猫を模した仮面。

 腰に手を当てて、彼は長い髪を書き上げた。


「変化なんて珍しいな、マスター」

「猫又の姿じゃ壇上が見辛いかと思ってにゃ〜」


 ブーツのかかとを鳴らせば、フリルまみれのスカートの裾が揺れた。


「なんか……ひさしぶりに見た気がします」

「そうかい?」


 リオは少し首を痛みを感じながら見上げる。

 初めて目にした時には女性と間違えたものだ。



 不意に――幼女は仮面に既視感を覚えた。



 しかし、久々に見たからだろうと結論づける。それよりこの後の方が重要だ。


 周りの視線はすっかりマスターに集中していた。

 若者は魔法生物の変化への好奇心で、それなりの年齢の者は、唇を震わせて目を伏せている。


(やっぱり、古参の町民には俺がわかるか。これで少しは気を反らせると良いがにゃあ)


 肩をすくめる男性に、歩き出した幼女が手を振る。


「マスター! 紅さん! 開場しましたよ!」

「二列で入るみたいだ」

「はいはい。音楽会なんざ何十年振りかね」


 店主は苦笑しながら可愛い店員達の後を追う。


 大勢の関心を引いた歌姫の初コンサートが、今まさに始まろうとしていた。





 壇上の椅子に腰掛け、人魚は静かに深呼吸を繰り返した。

 微細な呼吸音が時折フェイスベールを揺らす。


 ふと、金髪の少女が脳裏に浮かんだ。自分の好きに勇気を出した子供。

 彼女を前にして、靄がかっていた視界が晴れたのだ。


(私が歌うのは――私のため。そのためだけに歌っているのでしょう?)


 開演のブザーが鳴り響く。

 震える手をきつく握りしめ、彼女はまっすぐにその目を開いた。




 幕が開き始めると客席に異変が起きる。


「あれ?」

「明かりが……」

「事故かしら」

「何これぇ」


 口々にそんな言葉が飛び交う中、放送機器から呼びかける者がいた。


『ご安心ください。こちらも演出の一部です』


 ふわっと頭上を優しい光が通り過ぎる。


『現在、非常灯の魔符を飛ばしています。今しばらくお待ちください』


 よくよく見れば、蛍のような明かりがあちこちに浮かんでいる。

 リオは感嘆の声をこぼした。


 数秒後、重たい幕は開ききった。マイクにかかる微かな吐息が聞こえる。


 ステージ下の空間からピアノの音色が響く。

 それを合図に、歌姫は口を開いた。


 鋭く痛い悲恋、甘やかな初恋、友への激励、魂の底から沸き起こる慟哭と歓喜。

 感情の濁流を美しい歌声に乗せて、彼女は客席全体に投げかける。

 その衝撃が直接肌に当たる感覚さえあった。

 しかしそれはパチパチと弾ける炭酸によく似た優しい苛烈さであった。


 ほとんど壇上が伺えない暗闇で、歌姫は自分に問いかける。


(これが全力か? まだ、まだ出せる! もっと、もっと今できる全てを込めて!)


 熱い心中のまま、最後の曲に入る。

 打って変わって子守唄のような静かな曲調。


(私が、あの日の私を誇り、愛するために)




 しんと静まり返ったホール内で、少しずつ拍手が広がっていく。

 やがて大きな波になったそれに耳を傾け、人魚は汗ばんだ額を拭う。

 指先は変わらず震えていたが、その顔には笑みが浮かんでいた。


 自分のためだけに生み出す物が、誰かの心を揺さぶるのというなら、それはきっと一番身近な奇跡だ。


 閉じていく幕の向こうで、肩で荒く息をしながら、歌姫はただそう思った。




 幼女のまろい顔の前で、ぴこぴこと猫の尻尾が揺れる。


「お〜い、リオ〜」


 どこかぼんやりした様子のまま、リオは「うん……」と呟いた。


「こりゃだめだ。朝も早かったしにゃあ」


 黒猫に戻ったマスターの隣に紅が腰掛ける。青年はおもむろにバスケットを開いた。


「リオ、昼食は食べれそうか? お茶だけでも飲むか?」

「台詞がおかん」


 彼らは郊外の自然公園に来ていた。

 レジャーシートの上にひらりと緑が落ちる。


 弁当として青年が持ってきたのは、植物の葉で包まれたおにぎりとカレーである。

 おにぎりは焼きたらこときんぴらの二種類。カレーには牡蠣が入っている。

 その香りに鼻をひくつかせ、少女はぱぁっと笑みを浮かべた。


「カレー!」

「良し」

「やだうちの子単純……」


 新緑の下で、三名は食事を始めた。


 少女が選んだのはたらこのおにぎりだ。

 魚卵の舌触りと白米自体の甘味、ふやけて張り付いた海苔も彼女の好物である。


「美味しいっ!」

「良かった。よく噛むんだぞ」


 こくりと首肯して、リオは念入りに咀嚼した。


(梅はあるけど梅干しは聞いたことないかも。梅干しのおにぎりも食べてみたいなぁ)


 ぷりっとした牡蠣を一口で頬張り、店主は満足げな顔をした。


「んで、どうだった? コンサート」


 少女の動作がぴたりと止まる。

 どうだったかと聞かれれば、素晴らしかったと言うより他が無い。

 彼女の歌声はとても強くて、それでも強くない自分や他者にも寄り添える、悲しいぐらいに優しい音であった。


 それでもその全てを語る言葉を、リオは持ち合わせていない。


「とてもすてきでした」


 今は、ただそれが歯痒くて仕方がなかった。



 公園には他にも家族連れの姿があった。

 爽やかな風が、木々の間を吹き抜けていく。こうして外で食べるのも乙なものだ。


 次のおにぎりに手を伸ばした際、少女はとあることを思い出した。



(そういえば、初めて食べたコウさんの料理もおにぎりだったな)




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