第五話・揚げびたしと歌姫
街路樹は緑に覆われ、眩しい日差しが降り注いでいる。
つばの大きな麦わら帽子を被り、金髪の少女はじょうろを傾けた。
頭上を入道雲が通り過ぎていく。
リオが額の汗を拭ったその時、ちゃぷんと水の揺れる音がした。
「――ねぇ、やってる?」
クラゲを模した日傘を回しながら、その女性は退屈そうに少女を見下ろしていた。
体のラインに沿った深い青色のドレス。
布の間から露出した艶やかな下半身は、浮遊する水の塊に包まれている。
海獣系の人魚族。少女が初めて見る種族だ。
(す、すっごくキレイなおねえさんだ……!!)
思わずリオは瞳を輝かせる。
指先で髪の毛をいじりながら、謎の美女は返答を待っているようだ。
慌てて少女は立ち上がった。
「あっ、はい! やってます」
「そう。軽食だけでも良いかしら」
「もちろんです」
彼女が日傘を閉じたのを見て、リオは食堂の扉を開いた。
中から涼しげな空気が漏れる。人魚は「ありがとう」と呟いて店内に向かう。
その横顔には、どこか疲労が覗いていた。
古びたラジオが天気予報を告げる。
それに耳を傾けながら、料理人は洗った食器をしまった。
微かな蝶番の擦れる音と共に、見慣れない客の訪れが知らされる。
「いらっしゃいませ」
マスク越しに挨拶を口にすると、女性は奥のテーブル席に座った。
慣れた手つきで、優美な日傘を椅子に立てかける。
少女は緊張しているのか、少し硬い動きで水を差し出した。
「ど、どうぞ」
「可愛いお店ね」
独り言をこぼして、女性は卓上のメニューを広げる。
ココア色のインクで書かれた文字列を、細い指先がなぞっていく。
その様子を遠目に、リオは頬を赤くしながら、ほぅっと息をついた。
大胆な露出が下品にならない品の良さ。
長身も美しい顔立ちも、ついつい目をやってしまう。
(かぁっこいい……あんな大人になりたい……)
自分が同じドレスを着たところを想像すると、どこかバランスが悪い気がする。
(早くしんちょうがのびたらな〜)
少女がちょっとむくれていると、よく通る声音が響いた。
「パプリカのマリネをお願い。あと、パスタは少なめにできるかしら?」
「可能です」
「じゃあペペロンチーノで」
「了解しました。パプリカのマリネとペペロンチーノですね」
紅は冷蔵庫から四角い容器を取り出す。
中身は蜂蜜とレモンに漬けたパプリカだ。
さっぱりとした甘味と酸味が楽しめる今月のおすすめである。
先にそれを小鉢に盛り付け、マスターに運ばせている間に、パスタの調理にとりかかる。
まずニンニクを潰してみじん切りにする。
唐辛子は種を除いておく。
鍋でパスタを茹で、フライパンで油とニンニク・唐辛子を炒める。
ニンニクに焼き目がついたら、パセリを刻んで加え、麺の茹で汁を少量足す。
汁と油がなじんだら、茹で上がったパスタをよく和えて、塩胡椒で味を整えれば完成だ。
ふわりと浮かんだ皿が、新規客の目の前に置かれる。
空気を利用して物体を浮遊させる魔法は、基礎として習う初歩的なもので、一番魔法使いの力量が出る。
目の前で使われた洗練された技術に、人魚は思わず感嘆を覚えたが、平静を崩すことはなかった。
繊細なまつ毛を震わせることなく、彼女はフォークを手に取った。
「いただきます」
フォークの先がパプリカに食い込む。
ゆったりとした動作で口に入れれば、程よい弾力を残しつつも水気が溢れた。
次いで、一緒に漬け込まれていたスライスのタマネギと共に咀嚼する。これまた異なる食感と、冷たい酸っぱさが舌を楽しませた。
満足げに眉尻を下げて、女性はパスタを巻き取る。
口紅に配慮して、一口分ずつ食べていくも、すぐに皿は空になってしまった。
ふと、彼女の耳がぴくりと動いた。
人魚は静かに席から浮き、リオに声をかけてくる。
「お手洗いはどちら?」
「そ、そっちのとびらです」
水の塊に浸かったまま、女性は滑るように移動していく。
その最中、彼女は食堂の店員達を見渡して、ぽつりと言葉をこぼした。
「『裏口から帰った』と言ってくださいな」
誰にと聞き返す前に、美女はトイレに姿を消す。
次の瞬間――男性の人魚が駆け込んで来た。
荒く肩で息をしながら、彼は店内をぐるりと見渡して、奥のテーブルに立てかけられた日傘に気がつき、叫ぶ。
「ここに人魚の女性が来ませんでしたか?! ジュゴンの、海獣系の方なんですが!」
急な来訪者に少女が驚いていると、ぽすっと肩に手を置かれる。
緋色の鱗を見上げれば、青年は落ち着いた態度で男と向き合っていた。
「先程、裏口から出て行きました」
「……そうですか。失礼しました」
早口にそう言い残して、彼は小走りに外へ飛び出した。
しばらくして足音が聞こえなくなってから、物陰から人魚が顔を覗かせる。
「行った?」
「はい」
「そう……迷惑をかけてごめんなさい」
申し訳なさそうな彼女に、紅もリオも首を横に振った。
固く手を握りしめながら、恐る恐るといった様子で少女は声をかけた。
「あの、け、けいさつを呼びますか?」
先刻見た疲弊した横顔を思い出し、幼女は心配そうに瞳を震わせる。
人魚はひどく驚いた後、優しく頬を緩めて、リオと視線を合わせてきた。
端正な顔立ちが真正面に現れ、少女は思わず固まる。
「ただの喧嘩みたいなものよ。心配させちゃったかしら」
「良かった……いえその、ちょっとおつかれみたいだったので……」
きょとんと瞬いてから、人魚はそっと視線をそらした。隠しきれない照れで耳先が赤くなっている。
女性がテーブル席に戻り、戸惑いながら少女がコップに水を注いだ時、古びたラジオから音楽が流れ始めた。
その悲しげな片思いの歌は、少女が時折口ずさむ程、有名な人物の歌声だった。
不意に、それに合わせて女性が歌い出す。
流れている録音のそれよりも、心の底から揺さぶられる感覚。
はるかに情感に富んだそれは一つの確信を生んだ。
今、目の前にいるのは、『稀代の歌姫』と言われる人魚である、と。
『歌姫』はここ数年で著名となった歌手だ。
女性であることと、人魚族であること以外は一切不明である。
それ以外で確かなのは、彼女が衆目の前で歌わないという事実。
「うそぉ……」
リオは孤児院にいた頃から、『歌姫』のファンだった。
歌詞の中の例えが理解したくて、勇気を出して職員に聞くこともあった。
そんな彼女が眼前で静かに微笑んでいる。
信じられない現実に、思わず少女は両目を擦って目を凝らした。
しかし変わらず人魚は椅子に座り、リオの様子に小首を傾げている。
「い、いるっ!!」
「勿論よ」
愕然とした表情で、リオは震えながら「ふぁんれす……」と呟く。
その様子に軽く吹き出して、歌姫は優しく手を取った。
「嬉しいわ。可愛いお嬢さん」
「ぴゅおわっ!」
「にゃにその鳴き声」
「お、おぅ、ぅお、ひぇ……」
茹で上がった少女を不思議そうに見つつ、紅は人魚に疑問を尋ねる。
「しかし、一体何があったんですか? 話だけなら聞けますが」
心配の滲んだ声音に、人魚の歌姫はほんの少し、苦しそうに眉根を寄せた。
追加で注文した紅茶を啜って、彼女はぽつぽつと語り始めた。
「彼は私のマネージャーなの。喧嘩、というか意見が衝突してる原因は……コンサートの企画についてよ」
「コンサート?」
「そう、大勢のいるホールでのね。私は録音施設や、さっきみたいな視線の少ない場所でしか歌わないから断ったのだけど、ちょっとお互い熱が入ってしまったわ」
自分も強く言い過ぎたと言って、人魚はカップの中の波紋を眺める。
「でも」
眼差しを細めて、人魚は強い口調で言葉を続ける。
「私は大勢の前では歌わない。絶対に」
空になったカップを置いて、歌姫は優雅な仕草で財布を取り出した。
「少し冷静になれたわ。ありがとう。お会計お願いできる?」
「ええ、こちらになります」
金額を書いた会計用紙を、青年がカウンターから差し出す。
ちょうどで支払ってから、彼女は日傘を手に取り、出入り口へと向かった。
ふと、紅がくぐもった声で話しかける。
「よろしければ、お土産にマリネはいかがですか」
「……え?」
「とても気に入って頂けたようなので、初回特典ということでどうでしょう」
女性の脳裏に蜂蜜の香りが蘇る。
キュッと唾を飲んでから、彼女は顔をほころばせた。
「嬉しいわ。いただいても良いかしら」
しっかりと頷いて、青年は小さな容器にマリネを移した。
汁漏れ防止のために袋を重ね、シンプルな茶色の手提げに入れる。
「どうぞ」
「ありがとう、素敵なコックさん」
繊細な手で袋を受け取り、美女は軽く手を振って去って行った。
いつも通り見送りの挨拶をしてから、リオは小さく呟く。
「マリネ……全然気づかなかった……」
黒猫の尻尾がゆらゆらと揺れる。
「観察眼は経験によるところが大きいからにゃ。そんにゃに気にすることじゃにゃいさ。それに、リオの仕事は水を出すのと、客への挨拶、閉店後のテーブル拭きだろ? しっかりできてるじゃにゃいか。偉い偉い」
「ほ、本当?」
「俺はお世辞を言わにゃいさ〜」
飄々とした態度のままマスターは丸くなる。その背中を手の甲で撫でると、くすぐったい感触が返って来た。
日が暮れ始めた頃、いつものように紅は夕飯の支度を始めた。
今日は東国風の夏野菜の料理だ。
ズッキーニ・ナス・アスパラ・パプリカを切り、オクラはヘタとガクを取る。
醤油と砂糖と料理酒、それに昆布のだし汁を合わせて、あらかじめ容器に用意しておく。
油が温まったらどんどん揚げる。揚がったらトレイに移し、冷める前に漬け汁に浸す。どんどん浸す。
じゅぅっと音を立てて、ナスが汁に沈んでいく。
夏野菜の揚げびたしは、食堂の定番メニューである。
せっせと野菜を容器に入れていると、青年の足元に小柄な少女がやってきた。
ぱちぱちという揚げ物の音を聞いて、部屋から様子を見にきたらしい。
期待を込めた丸い目が、じっと漬け汁を覗き込んでいる。
「……ふっ」
小さく笑い声をこぼして、紅はズッキーニを容器からすくい上げた。
「えっ、え」
「マスターには内緒だ」
差し出されたそれと青年を交互に見てから、リオは嬉しそうに揚げびたしを頬張った。
「は、はふふ」
出来立てならではの熱さと共に、濃い野菜の味が広がる。
ほのかな塩気と、噛むたびにほぐれていく果肉。
初めてのつまみ食いに、少女は花のような笑みを浮かべた。
保存容器に蓋をしながら、何気無く紅が口を開く。
「そういえば、歌姫の音盤はいらないのか? 蓄音機なら物置にある」
その発想は無かったという顔が青年を見上げた。
「一枚くらいならオレでも買ってやれるし、マスターから週一でお小遣いも貰っているだろう? 欲しくはないのか?」
「あ、えっと、ほしいはほしいです。でも、おこづかいは、貯金してるので……」
「貯金?」
数秒、恥ずかしそうな表情で黙って、リオは申し訳なさそうに言った。
「学園の付ぞく小学校に、行けるようになったら、学費の足しにしようと思って」
半竜族の青年が両目を見開いた。
いずれ通いたいとは聞いていたが、少女がそんなことを考えているとは知らなかった。
どう返すべきか悩んでいると、リオの脛をぺしっとはたく尻尾が現れる。
いつになく真剣な目つきで、店主は幼い少女を見上げていた。
「それは保護者として俺がちゃんと払う。貯金はリオが使いたい物に使うと良い」
「でも」と言おうとしたのか幼女の口が動く。
しかし、マスターの悲しそうな様子を見て、はっとしたように黙り込んだ。
「小遣いを将来のために使おうと思ったのは、俺は素敵なことだと思う。でも、保護者に対して気遣うのは……少にゃくとも、俺みたいにゃ奴にはせんで良し!!」
どーんと腹を出して黒猫が床に転がる。
撫でろという圧を感じて、少女は両手で店主をわしゃわしゃとかき混ぜた。
「ここ?」
「そこー」
(……そっか、使っていいんだ。おこづかい)
夕食の準備を進める紅が、ふと少女の袖口を見やった。
「リオ、少し身長が伸びたな」
「お、新しい服買わにゃいとにゃ〜」
自分では気づかなかったが、どうやら順調に成長しているらしい。
実は小遣いを何に使うか考えた時、彼女の頭にはとある物が浮かんでいた。
ワンピースの裾を摘まんで、悩ましげに唇を尖らせる。
(……まだ似合わないかなぁ)
少女の背後で、フライパンに肉の塊が敷かれ、香ばしい音が鳴り響いた。
どうやら今夜のメインは豚肉の生姜焼きのようだ。




