第三話・チーズリゾットとおでかけ(上)
カンカンと踏切の音がする。
学生服の少女は携帯を見下ろしながら、寒いホームで電車を待っていた。
不意に、その小さな背中が押し出される。
衝撃でよろめいた体は、そのまま線路上に落ちていく。
周囲の悲鳴。すぐ真横に迫る塊。
反射的に振り返り、少女は自らを押した者を視認する。
そこには──
「──っ!!」
柔らかな陽光が降り注ぐ中、リオは寝台から跳ね起きた。
額の汗を拭って洗面台へと向かう。
(これだけは、なんど見てもなれないよ……)
今日は土曜日。
食堂【リトトルカ】は定休日だ。
顔を洗い、二階の台所へと足を運べば、黒猫と青年はすでに食事を始めていた。
「おはよぅごあいましゅ……」
「おはようさん」
「おはよう。パンは焼くか?」
「うん……」
まだ寝ぼけた声音で、リオはふらふらと定位置に座ると、溶けるようにテーブルに顔を伏せた。
夢見が悪かったせいか、どうにも眠気がまとわりついてくる。
紅はどこか微笑ましげに目を細め、バゲットをオーブンに並べた。
しばらく温めてから、バターを乗せて焼き上げる。
香ばしい焼き目に、溶けたバターがじわりと染み込んでいった。
「……いいにおい!」
「お、覚醒したにゃ」
牛乳をコップに注いでから、青年は少女の前に朝食を置いた。
「好きな物をつけて食べるといい」
「はいっ、いただきます!」
果実のジャムを塗り広げて、リオは固い端に歯を立てた。
ザクッとした食感と、上品なイチゴの甘さ、バターの塩気が混ざり合う。
たちまち幼女は顔をほころばせる。
こぼれた金髪を耳にかけ、彼女は二名に声をかけた。
「コウさん、マスター、今日は何をするんですか?」
「俺は学園にちょいと用事があってにゃあ。めんどくさ~い」
「オレは香辛料屋に行ってくる。一緒に行くか?」
「え、良いんですか」
「勿論だ」
「やったぁ!」
にこにこと笑いながら、少女はトーストを頬張った。
(楽しみだなぁ。こうしんりょう屋さんなんて初めて! えへへー、コウさんとお出かけ…………うん?)
リオの体がピタリと静止する。
紅と自分だけで出かける。その事実が繰り返し頭をよぎった。
じわじわと頬を赤くして、少女は再びテーブルに顔を伏せる。
(コ、コウさんと、二人っきりでお出かけ??)
オーストン町・第四区。
主に食品系の店が立ち並ぶ通りで、大柄な半竜族の脇を、幼い子供がせかせかと早歩きをしている。
歩幅の違いで置いていかれないように必死なのだ。
リオは物珍しそうに周囲を見渡す。
普段暮らしている区以外はまだ馴染みがない。
紅はおもむろに少女の持つ地図を指差した。
「香辛料屋はこの道を進んで、こっちの路地に入った先だ」
言われた方向を見やれば、煉瓦の間に緩やかな階段がある。
ちょうど時刻は昼前、朝市はすでに終わっているが、辺りは依然賑わっていた。
少女はちらりと自分の服装を見下ろす。
膝丈のワンピースは鮮やかな桃色で、裾には細かな模様のレースが広がっている。髪型も普段とは違うおさげ髪だ。
リオは青年に恩義を感じており、かつ深く敬愛している。
彼の隣を歩くなら、少しでもちゃんとした格好をしたかった。
(マスターにはあきれられたけど、わたしにとっては大事なことだもの)
そんな黒猫は呆れつつも髪を編んでくれた。
なんだかんだ身内には甘いのだ。
つまり、身内だと思ってくれているのだろう。
そう幼女が思案していると、ふと紅が声をかけてきた。
「リオ、はぐれると危ない。オレのベルトを掴んでおきなさい」
「はいっ」
「良い返事だ」
小さな手のひらで革のベルトを握る。慣れない触り心地に心臓がうるさかった。
軽く視線を上げれば、緋色の鱗に覆われた青年の姿があった。
彼はいつも通り、マスター製の機械的なマスクをつけている。
二名が路地に入ると、その先は迷路のようになっていた。
階段を上がったと思うと下がり、次の瞬間には、水路の上の橋を渡っている。積み木状に重なった商店から、異なる香りが次々と漂ってきた。
少女は瞳を瞬かせ、あちこちに視線を投げかける。
彼女が住んでいた孤児院は山奥にあった。
この町に来て数ヶ月が経つも、まだまだ知らない店ばかりだ。
その時、十二時を知らせる鐘が鳴る。
「オーストン学園……」
斜面の上の方を見ると、遠目に塔の先端が見えた。
鐘の音に驚いたのか、鳥達が一斉に飛び交っている。
件の大学は、魔法使い専門の学園である。
入学条件は中等教育の修了と、その素質があるかどうか。
学内には大規模な転送陣があり、東西南北問わず未来の魔法使いの卵が学びに来る。
それによってこの町は、西国でも一番の多種族共生地となっているのだ。
「マスターは何をしに行ったんですか?」
「おそらく特別講義だ。今年で創立六百周年だからな」
「な、長い……」
食堂【リトトルカ】の店主は、オーストン学園の元教師である。
隠居してから料理人の見習いだった紅を拾い、老後の暇潰しに店を開いたのだそうだ。
それを聞いた時、リオは思わずマスターが何歳なのか尋ねてしまった。
(ていねいでわかりやすいんだよなぁ。にんきの先生だったのかも)
結局、年齢は教えてもらえなかった。
大学の塔が見えなくなった頃、複雑な香りが少女の鼻を刺激した。
店先に垂れ下がった唐辛子が、控えめな看板以上に店の主張をしている。
「ここだ。店ができた頃から懇意に……親しくさせて貰っている」
「いろんなにおいがします!」
不意に、しわがれた穏やかな声音が響いた。
「おんやまぁ、いらっしゃいませ」
頭に手ぬぐいを巻いたおばあさんが姿を覗かせる。丸い耳にふんわりとした尻尾を持つ狸の獣人だ。
幼女が呆気に取られていると、微笑ましそうな表情が返って来る。
「犬系獣人の中でも、狸は珍しいものねぇ。驚かせちゃったかしら」
「す、少しだけ……あっ、初めまして!」
「はじめましてぇ」
穏やかな香辛料屋は、半竜族の青年に向き直る。
「紅くんどうしたのぉ? 今月分は郵送したはずだけど」
「少量買い足したい物があるんです。唐辛子と山椒が切れてしまって」
「あらあらまぁまぁ……」
お店の奥へと向かう後ろ姿も、二足歩行する狸にしか見えない。
リオがこれまで会ってきた獣人には、香辛料屋のようにほぼ祖先そのままな者はいなかった。
そう驚いていると、紅から耳打ちされる。
「祖先の化け狸の血が非常に濃いんだ。逆にヒトの血が濃くて、ほとんど猿系に見える場合もある」
「はへぇ……世界って広い……」
「紅く~ん、唐辛子は青ー? 赤ー?」
「赤で、粉にしてください。そういえば、前に言ったあれはどうですか」
「やっぱり難しいわねぇ。農家さんが引退しちゃってたのよ」
青年が屈んで香辛料屋と話している間、少女は店内の瓶を眺めていった。
毛筆で書かれたラベルを読んでいると、ふと一枚の皿が目に入った。
近くには簡素なメモが置かれている。
「『ご自由にどうぞ』?」
鼻をひくつかせれば、ふんわりと甘い香りがする。
皿にかかっている布巾を摘まみ上げると、そこにはシンプルな丸いサブレが乗っていた。
「クッキーだぁ!」
「今朝焼いたのよぉ。よろしければどうぞ」
「わーいっ。いただきます!」
厚めのそれに歯を立てると、程よい固さが伝わってきた。
しゃくしゃくと小気味良い音が口内で響く。
優しい生姜と蜂蜜の味に、リオは満面の笑みを浮かべた。
狸の獣人と半竜族の青年は、黙ってその様子を見守っていた。
「ありがとうございました」
「ありがとうございます。またよろしくお願いします」
「はぁい。またお越しくださいませぇ」
香辛料屋に手を振って、少女と青年は歩き出す。
しばらくすると、リオは眼前で木の枝がずるずると動くのを見た。
一瞬何事かと驚くも、すぐに小さい子供が引きずっているのだとわかった。
狼の獣人らしい幼女はやけにご機嫌だ。
考え事をしていたのか、母親は今になって枝に気がついたらしい。
「……うんっ?? え、何その枝!? いつ拾ったの!?」
「さっきぃ!」
「えぇ……お家には入れれないよ?」
(お、お母さんがんばって!)
どこか諦めのこもった声音に、部外者なのについ応援してしまう。
再び歩き始めた母子の背後で、コツンと何かが地面に落ちた。
リオは思わず駆け寄って、それを拾い上げた。
「まるい石?」
やけにつるつるした楕円形の石だ。公園で拾ったのだろうか。
少女は紅に断ってから、母子のことを追いかける。
「あ、あの」
「ん? はい。どうしたの?」
「これ、落としませんでしたか?」
きらーんと幼女の目が光り、激しく頭を縦に振る。
「あら、ありがとうね――って! 小石めっちゃ拾ってる?! どっちのポケットもパンッパン!!」
「んふー」
(すっごいにんまりしている……)
母子と別れて、そのまま店に戻る予定だったのだが、幼女の腹から元気な音が鳴り響いた。
「あぅぅ……」
「健康の証拠だ。今日は外で食べるか?」
紅が水路に浮かぶ舟を指差す。そこからは暖かな湯気が漂っていた。
よだれをこくっと飲み込み、リオは笑顔で頷く。
青年は先程の子供に似ているなと思ったが、口には出さないでおいた。
「あいよっ! 汁ビーフン二つね」
「ありがとう」
「美味しそう……」
小舟で椀を受け取り、水路沿いのベンチに腰掛ける。
湯気の大元を見下ろすと、具沢山な米粉麺が鎮座していた。
「「いただきます」」
両手を合わせてから、リオは懸命に息を吹きかけ、細く滑らかな麺を啜った。
独特の食感と共に、スープのベースになっている干し椎茸の香り。
具はタケノコとネギに鶏肉、それと桜海老。よく見れば香草も入っている。
青年の椀には、追加した肉味噌も浮かんでいた。
穏やかな日差しの下、二つの影が少しずつ地面に伸びていく。




