第一話・オムライスと古本屋(上)
黄金色の塊が皿の上で揺れる。
少女はその名前を、その材料を──その味を知っている。
しかし、彼女は一度もそれを食べたことがない。
鮮やかな花弁が道路を埋め尽くす。
屋根の上では、一匹の黒猫が伸びをしている。
地べたに置かれたラジオからは、艶やかな歌声が流れ始めた。
「ふんふふー、ふーん、ふーっ」
それに合わせて鼻歌を歌いながら、幼い少女がじょうろを傾けた。
屋根から降りてきた黒猫に、彼女は朗らかな笑みを浮かべる。
「あ、おはようございます。マスター」
黒猫は返事の代わりにあくびをこぼした。
花壇の土の色が変わり、青々とした葉の上では、丸い水滴が震えている。
不意に、車輪の回る音が響き渡る。
続けてその訪れを知らせるように、突風が少女の金髪を揺らす。
振り返れば、馬車から家族連れが降りてきたところだった。どうやら観光客のようだ。
彼らは頭上の獣耳をピンと立て、尖った鼻先をひくつかせている。
(……犬系かな)
馬車が停まった通りには、緩やかな斜面に煉瓦造りの家が立ち並んでいる。
一家は興味深そうに見渡し――ふと、幼女と目が合った。
彼女は思わず、ぴんと背を伸ばす。
家族連れはこちらへと歩いて来た。
少女へと耳を傾けつつ、母親らしき女性が口を開く。
「あのー、すいません。そちらのお店、今日やってますか?」
「は、はひっ」
服の裾を握りしめながら、少女・リオは深呼吸をした。
「しょ、食堂【リトトルカ】えいぎょう中です! 美味しいご飯はいかがですか?」
緊張で赤くなるリオの足下を、黒猫がするりと通り過ぎ、背後の扉を潜っていった。
家族が頷き合って、笑顔で扉を通ったところで、斜面の一番上から昼時を告げる鐘の音がした。
扉の脇に看板代わりの黒板が下がっている。
『食堂【リトトルカ】
定休日:土、日
営業:朝八時から午後六時まで
今月のおすすめ:スコッチエッグ』
こぢんまりとした店内には、香ばしい匂いが立ち込めていた。
家具や壁の色はどれも落ち着いた色で統一されている。
「リオちゃん、こっちもお水ちょうだい」
「あ、こっちもお願いします〜」
「はいはーい!」
小柄な少女がテーブルの間をせわしなく通り抜ける。
厨房が覗けるカウンターには、先ほどの家族が並んで座っていた。
「楽しみだね」
「うんっ」
楽しげに尾を揺らし、獣人の少年は厨房に目をやった。
それと同時に、厨房ではゆで卵が鍋から取り出されていた。
ひき肉をフライパンで炒め、十分にほぐれたら同量の生のひき肉と混ぜる。
塩胡椒、トマトソース、小麦粉とナツメグ少々を加え、さらに混ぜ合わせていく。
そこに卵を落としたら、粘り気が出るまで練る。
出来上がったタネを手に取り、丸くボール状にまとめてから、中の空気を抜いていく。
まだ熱いゆで卵を包んだら、小麦粉・溶き卵・パン粉のころもを纏わせた。
それらを丁寧にトレイに並べ、冷蔵庫に入れてから、半竜族の青年がふと息を吐いた。
半竜族は、物語に出てくるドラゴンが、二足歩行をしているような容姿である。
大柄な体躯と、独特な雰囲気に驚く他種族も多い。
赤い鱗の彼に常連客が声をかける。
「紅さん! 今日もめっちゃ美味しいです!」
そちらを向いて、食堂【リトトルカ】の料理人はそっと頭を下げた。
ピーッと冷蔵庫から音がする。
紅は慎重にトレイを取り出した。
冷蔵庫の側面にはお札が貼られている。短時間で指定した時間分食材をやすませるための物だ。
よくよく見れば、厨房の四隅に似たような札があるが、そちらは衛生管理の役割を担っている。
鍋の中で、油がふつふつと沸いた。
温度を確かめて、青年はタネを一つずつ沈めていく。
油をかけながら、二分程経てば今月のおすすめの完成だ。
レタスを敷いた皿に二つずつ並べ、付け合わせのブルスケッタを添える。
「どうぞ。スコッチエッグです。ご注文の通り、タマネギとニンニクは除いてあります」
マスク越しでくぐもった青年の声音。
獣人の少年が丸い瞳を輝かせ、皿の上の光景を目に焼き付けた。
「わーい! いただきますっ!」
彼がナイフを食い込ませると、そこから半熟卵の断面が覗く。
卵の真ん中辺りから、とろりとした黄身が流れる。肉汁の香りが鼻先をくすぐった。
嬉しそうに食べ始めた家族を見て、紅は優しく目を細めていた。
厨房から差し出される料理は、ふわふわと浮かんだかと思うと、カウンターから離れた席にも運ばれていく。
その様子を眺めながら、黒猫がカウンターで横になっている。
一方でその裏手では、幼い少女がコップを傾けて水を飲んでいた。
「ぷはぁ……今日もたくさんのお客さん……」
今日の服装はチョコレート色のワンピースだ。
白いハイソックスは控えめなレースで飾られ、金糸のような髪は二つ結びにされている。
ぱちぱちと両目を瞬かせて、彼女は静かに店内を見渡した。
様々な種族が当然のようにいり混じり、夢中で料理を堪能している。
平和そのものな光景に、思わず少女の口角が持ち上がった。
「――リオ」
「ひゃいっ?!」
急な声がけに華奢な肩が跳ねた。恐る恐る振り向けば、機械的なマスクで鼻と口を覆った料理人がいた。
「少し落ち着いてきた。これを食べてくるといい」
差し出された小皿には、ブルスケッタが三枚乗っかっている。
「え、でも」
「幼い獣人族は、低血糖に注意が必要だ」
ずいっと皿が押し付けられる。
納得したのか諦めたのか、リオは笑顔で視線を上げた。
「わかりました。ありがとうございます」
二階に向かう少女を見送ると、紅は急いで厨房へと戻る。
一方の黒猫は客の会計を済ませて、ゆったりと伸びをしていた。
二階の台所で、幼女はバゲットにかぶりつく。
瞬間、ニンニクの風味が口に広がった。
カリカリとしたパンの食感に、上に乗ったトマトとチーズが混ざり合う。
「トマトとチーズの組み合わせ……考えた人はきっと天才……」
だらしなく笑顔を浮かべながら、彼女は今日のおやつを咀嚼する。
チーズの淡白さがトマトの旨味を引き立てるだけでなく、異なる歯ざわりによって、口の中に飽きが来ない。
次々と味わっていると、あっという間に皿の上は空になった。
「は〜、ごちそうさまでしたっ」
物質の儚さを実感しつつ、リオはお皿を水につけて、食堂への階段を下った。
下からは客達の会話や、フライパンの上で肉を焼く音が聞こえてくる。
ふと、少女は思う。
(どうしてぜんぶ『前』の言葉に聞こえるんだろう?)
その疑問に答えられる者は、この世界のどこにもいない。
いるはずもないと、幼い彼女もわかっていた。
夕焼けが遠ざかり、雲の境目が赤紫色に染まる。
金髪の少女は頭を深々とその頭を下げた。
「ありがとうございましたー!」
「またお越し下さい」
客を見送って店内が静まり返った時、カウンター脇にある小さな扉が開き、鈴の音が鳴り響いた。
「失礼。紅さん、今大丈夫ですかい」
幼女の手のひらより少し大きいぐらいの体躯。先の尖った耳。上品な質の良い羽織。
柔らかなヒゲを撫でながら、小人族の老夫は顔を上げた。
食堂の扉に『準備中』の札をかけてから、リオはそっと店内に入る。
カウンターの上では、小人が紅茶を啜っていた。
(知らないお客さんだ……)
「お久しぶりですね、古本屋さん、」
「いやはや、家を出るのもしんどくなってしまいました。歳ですな」
苦笑した彼と、不意に幼女は目が合った。
「君は?」
「こ、こんにちは! わた、わたしは、その」
「訳あってうちで預かっている子です。リオ、こちらは第三区の古本屋さん。うちの古くからの常連客だ」
紅の紹介に小人は微かに微笑み、金髪の少女は改めて挨拶を口にした。
コップが空になったところで、料理人の方から話を切り出す。
「それで、今日はどうなさったんですか?」
店内に沈黙が流れる。
覚悟を決めるように、古本屋は固く拳を握った。
「実は……一つ頼みがありましてな」
背負っていたリュックを開き、彼は中から一冊の本を手に取る。植物性の紐で綴じられた、手製の本のようだった。
リオと紅と黒猫が、虫眼鏡越しにそれを覗き込む。
「これは、レシピ?」
「そうです」
小人が最後のページを開くと、思わず三名は息を飲んだ。
他の部分と違って、そこだけが斑状に焼け、ところどころしか読めなくなっている。
「燃えてしまったレシピの復元に、ご協力いただきたい」
徐々に声を掠らせながらも、古本屋は力を込めて言葉を続けた。
「亡くなった妻が遺した、とある料理を──もう一度だけ口にしたいのです」




