序章 後天祭の準備
木々の間を吹き抜けてくる秋風が、肌に心地よい。陽射しはまだ暑いが、頬をなでる乾いた空気は、秋の訪れを告げている。
丘の頂上の神殿へとつながる長い石段を降りたところにある参道広場の木陰で、サキは神官シムと参道広場周辺が描かれた絵図面を眺めていた。
半年前の先天祭で参道広場に設置していた露店の位置が、几帳面な細線で描かれている。
「春の先天祭で大混雑しちゃったから、慈善競売会の会場を少し拡げたいの」
サキが、無理難題をシムに頼んでいる最中だった。
ヴァンダール王国では、聖教の神殿が果たす役割は数多い。
巨大な神殿の維持には、それ相応の費用が掛かる。代々が神官長の家柄であるシェフィールド家の所領からの収入だけでは、とてもまかないきれない。
春秋の先天・後天の祭礼は、神殿にとってもかなりの出費を強いられる。
神殿が主催する慈善競売会は、その収入の助けとなる。寄進として出品された骨董品や美術品を競売に掛け、その売り上げの約三割が神殿への寄進となる仕掛けだった。その収益で、神殿に併設された療養所や神学校を維持している。救荒時の炊き出しを行ったりするのも、それなりの貯えが必要だった。
かなり価値がある掘り出し物が出品されることも時々あり、事前競売会は祭礼の目玉の一つだった。半年前の先天祭のように、一枚の骨董品の古ぼけた皿が金貨八百枚まで競り上げられた時もある。
「競売会の場所を変えるとなると……露店の配置も大きく変わるなぁ」
図面を見ながら、シムが考え込んだ。
何十年も、この参道広場の露店の采配を努めてきたシムは、細身の老人だった。
神官のしきたりで、長い灰色の髪を首の後ろで束ねている。
神官とはいえ、シムは神殿の森や庭園の世話から、神殿の営繕や掃除といった雑事をこなしている。
ヴァンダール王国の王都レグノリアの神殿は、王都のど真ん中の小高い丘陵地帯にある。
雑木林で囲まれた一里四方もある丘陵地帯一体が、王都レグノリアにある神殿の敷地だった。丘の頂上にある神殿から、長い石段が神殿の入り口に当たる参道広場まで続いている。石畳が敷き詰められた参道広場は、千人規模の参拝客が入れる広大な空間だった。
だが、祭礼の時期になると、参拝の信者でその広場が一杯になる。
「慈善競売会の会場は、天幕で覆うんだろ?」
「篝火の火の粉が飛ぶと怖いから、天幕は中央の壇の辺りだけ……会場の横は木の柵で仕切っちゃおうかと思うの。
そうすれば外からも見えるから、お客さんも集まるでしょ?」
「なるほど……そうなると、神殿警護官と護民官の配置も見直さなきゃならんぞ」
「そうねぇ……確かに、シム爺ちゃんの言う通りだわね」
サキは、代々が神官長を務める家柄のシェフィールド家に生まれ育った。だが、サキには神官として必須の霊力が生まれついて皆無だった。姉妹が神殿で精霊の姿を観るというが、サキには全く観えない。必然的に、サキは神殿を護る神殿警護官の道を選ばざるを得なかった。
そんなサキの神殿警護官の主な仕事は、神殿の警備だった。神殿警護官ともなると、神域での治安維持を主な務めにしているため、祭礼時期は多忙を極める。
祭礼の時期は、寄進の額が桁違いに増える。
参拝客同士の喧嘩や、スリといった犯罪まで目を光らせる必要もあり、露店の配置と警備の配置も密接に関わってくる。
荒事もある神殿警護官の務めのために、サキの情熱の全てが振り向けられ、色気も何もあったものではない。
ゆったりとした褐色のズボンとサンダル、白い麻のシャツの上から黒い革の袖なし短衣を羽織ったサキの姿は隊商の護衛をする鏢師に似た活動的なものだった。
◆
「?」
どこからか、激しい罵声と怒声が響き渡った。
「あれは、何の騒ぎ?」
形の良い眉をひそめて、サキが図面から顔を上げた。
海の青さに似た緑がかったサキの碧眼が、騒ぎの起きている方向を見つめて鋭く輝いた。
神殿の参道前広場の露店と、運河沿いの道の合流点周辺で騒ぎが起きている。
神殿警護官と街の護民官の縄張りの、ちょうど境目あたりだった。縄張りの境界が曖昧なため、神殿警護官と護民官が衝突しやすい場所での騒ぎは厄介だった。
サキは、護民官長のデュラン候の渋い顔を思い出して、小さく肩をすくめた。デュラン候からお説教はまた頂戴するだろうが、サキはこういう騒ぎを放っておける性格ではない。
「また、微妙に面倒な場所で騒動を起こしてくれるわね」
サキが、傍らに置いていた大きな愛刀を緋色のサッシュを巻いた腰に佩いた。
後頭部で束ねた金髪が、サキの動きにつれて微かに揺れる。
「ちょっと、止めてくるわ……シム翁ちゃん達は、このまま露店の配置を決めておいてね」
酒でも入っているのか、奇声をあげて屋台を蹴倒したり、手近な人間を殴ったり。やられた方も黙って殴られていない。当然やり返すので、騒ぎはさらに大きくなる。
「酒は、人を狂わすわねぇ」
酒を飲まないサキには、酔っ払いの心境がわからない。
騒ぎを知った他の神殿護衛官が参道の石段を駆け下りて応援に駆けつけてくるのが、サキの視界の片隅に入った。
「早く始末付けちゃおっと!」
十人程度の暴漢だったら、同僚の助けもいらない。
騒ぎの現場に一番近いサキの足が、石畳の大地を蹴って駆け出した。
「あっ、失礼! 先を急ぎます!」
途中で、灰色の長衣をまとった巡礼者とすれ違った。肩が触れそうになり、すれ違いざまにサキが謝った。杖をつき、フードを目深に被った巡礼者は、神殿周辺では珍しいものではない。聖教の中心地である王都レグノリアの大神殿には、シドニア大陸の各地から、参拝に訪れる巡礼者達が集まってくる。
シドニア大陸の最西端に位置するヴァンダール王国の王都レグノリアの街は、聖教の神殿を中心とする十万人規模の都市だった。
太古、この大陸には高度な文明があったという伝承が大陸各地にある。人が神の域に迫ろうかという時、神の怒りに触れたのか、人の浅知恵が文明の制御に失敗したのか、大異変が起きた。
炎の嵐が七日七晩吹き荒れ、人々は文明の全てを失った。
だが、生き残ったわずかばかりの人々は屈しなかった。
千年を経て、再び文明を築き直している。
今は、そんな時代だった。
「あんた達、いい加減にしなさーい!」
サキの怒声が響き渡った途端、サキに投げ飛ばされた一人の男が、傍らに積んでいた木樽の山に背中から突っ込んだ。
激しい物音と共に、木樽が崩れる。
倒れた男の上から、木樽の山を支えていた柱の木材が倒れてきた。
「何しやがる!」
殴りかかってきた男の手首を掴み、サキがその場でくるりと反転する。
宙を舞った男が石畳の道に転がった。したたかに腰を打った男が、うめく。
「てめぇ!」
激高した男達が、サキを取り囲む。
霊力は皆無で神官の適性はなかったが、サキには別の特技があった。特に刀術や格闘に関しては天賦の才がある。十人程度の暴漢に取り囲まれても、サキは顔色一つ変えない。
人呼んで、”シェフィールド家の邪々馬姫”。サキは、王族の一員でありながら異端児だった。
サキは、男達をにらみつけた。
「神殿で騒ぎを起こしたら、黙っちゃいないわ!
喧嘩するなら、心して掛かっておいで!」
サキの挑発で、さらに騒動が大きくなった。
殴りかかってくる男達を相手に、サキの乱闘が始まった。
◆
王都レグノリアと外部の街道をつなぐ東門の方向から、蹄の軽快な音が響いてきた。
二頭の馬が、静かに運河沿いの道を進んでいる。
二頭とも、栗毛の駿馬だった。旅の途中なのか鞍の後ろには振り分けに荷物を積んでいる。
城外からの旅なのか、鞍上の二人はどちらも褐色の外套を羽織り、口元に砂塵除けの布を巻いている。隊商を野盗から護衛する鏢師と似たような活動的な格好をしている。
「おやまぁ……騒々しい騒ぎだこと」
先頭の馬にまたがった人物の声は、柔らかな女性のものだった。
後続の騎馬を振り向いた。フードと砂塵除けの布の間から、猫のような大きな碧眼が鋭い輝きを見せる。
「御館様、いかがなされます? 迂回した方が、やっかい事に巻き込まれずにすみますわ」
言葉使いも、育ちの良さを示すような丁寧なものだった。
「そうは言っても、屋敷に入るにはここを通るしかないからなぁ。
城外の道中は平穏無事で、王都に入ったとたんに騒動に巻き込まれるのも、不思議なものだな」
返事は、落ち着いた声だった。騒動を前にしても、わずかも驚いた素振りがない。
砂塵除けの布を口元から降ろしながら、御館様と呼ばれた男が鞍上から前方の騒ぎを透かし見た。フードの奥から覗く金髪と碧眼は、あきらかにシドニア大陸西域の血筋のものだった。その青い瞳は、大海を思わせる緑色を帯びた不思議な色をしている。
「刃傷沙汰かな……神殿警護官が何人か駆けつけてる」
「帰ってくる早々、血なまぐさい騒動は嫌ですわねぇ」
目の前で騒動が起きているのに、二人の声は驚くほど穏やかなものだった。
その乱闘騒動の中、緋色のサッシュを腰に巻いた何人かが、暴漢を取り押さえに掛かっている。
「神殿警護官が出てるから、すぐに収まるだろう……ここでしばらく様子を見るとしよう」
神殿警護官は、その役職を司る緋色のサッシュを腰に巻いている。
二頭の騎馬を目に留めたのか、その中の長身の男が怪力で頭上に抱え上げていた暴漢を地面に放り出し、騒動の中を抜け出し騎馬に向けて小走りに駆けてきた。
神殿警護官長を務めるカロン・シェフィールドだった。
カロンの姿を認めた二人も、軽やかな身のこなしで馬を下りて向き合った。
カロンが、腰をかがめた。
「兄貴もお元気そうで何より。マオ様もお変わりがないようで」
馬を下りた男もカロンと並ぶくらいの長身だった。カロンと比べると少し身体の線は細い。一方、男の隣で愛馬から軽い身のこなしで大地に降り立ったマオと呼ばれた女性は、長身の男の横に立つとやや小柄に見えるが背は高い。年齢不詳な美しさを持った容姿と、キビキビしたしなやかな身のこなしの女性だった。
男は、カロンの手を取った。
「留守の間、ご苦労だったな」
カロンの兄にしてシェフィールド家の当主ダンと、妻のマオだった。
馬で二日ばかり離れたシェフィールド家の所領から、神殿に戻ってきたばかりだった。
「カロンも元気そうで何よりだ。皆は元気かい?」
「ええ、そりゃもう」
カロンが、苦笑した。
「それより、この騒ぎは?」
ダンが、参道前の騒ぎに視線を向けて尋ねた。
カロンが、顔をしかめた。いつものことだが、あまり見られたくない騒動に限って、不思議なことにダンとマオに目撃されてしまう。
「まぁ、いつものことで……後天祭前から浮かれてる酔っ払いが、参道前広場の露店で暴れたみたいで……すぐにでも鎮圧されますから、しばらくここでお待ちを」
「神官長も、セアラもスーも神殿?」
マオが、口を挟んだ。
「えぇ、まだ社務所にいる刻限です……真っ先に、ご挨拶に?」
「そうね……一度裏の屋敷に馬をつないでから、帰還のご挨拶を神官長に差し上げて娘達の元気な姿を見ることにしましょう」
そう言ってから、マオはふと思い出したようにカロンを見た。
「そういえば、サキは?」
マオの言葉に、カロンが小さく首をすくめた。今、一番触れられたくない話題だった。
「一番元気ですよ……手に負えないくらい」
「おやまぁ、またお転婆してるのかしら……今、どこに?」
「えぇと……」
カロンが言いよどんだその時、サキの大声が参道の中に響き渡った。
「てめーら、いい加減にしやがれって、さっきから言ってんの!」
顔をしかめたカロンが、首をすくめてから神殿前の騒ぎに視線を巡らせた。両親の目からサキの行状をごまかそうというカロンの目論見は、サキの怒鳴り声にあっけなく崩れ落ちた。
マオに隠し通すことが不可能と悟ったカロンが、正直に白状した。
「今、あそこで……」
「今度、この界隈で騒動起こしたら、全員まとめて運河に叩き込んでやるわよ!」
カロンの視線の先には、サキがいた。
暴漢を叩き伏せ、折り重なるように倒れたところを踏んずけて大見得を切るサキの姿が、ダンとマオの視界に飛び込んできた。
マオが、大げさに天を仰いで嘆息した。
「あぁー、半年ぶりに我が家に戻ってきた矢先に、我が娘のこのようなはしたない姿を目撃してしまうなんて……今日は何て不幸な日なんでしょう」
「こいつは愉快だ……確かに、手に負えないほど元気ではあるな」
傍らのダンが、思わず笑い声をあげた。その笑いには、サキのお転婆ぶりを心底から面白がっている響きがある。
マオが、横目でダンを冷たくにらんだ。
「こんな子に育てた覚えはないのに……あの子は、誰に似たのかしらねぇ」
「そりゃあ、言わずもがな……あっ、痛っ!」
「あらあら……少し御口が過ぎやしませんか?」
マオがにこりと笑って、ダンの背中をつねった手を引っ込めた。
「そこが、母親としてつらいところよねぇ……直視するのがつらいわぁ」
サキの父母の、王都レグノリアへの帰還だった。




