心の乖離
ひぃん……
ティエラにはこれといった特産物は無い。それでも強かに税を納めて、不自由なく経済は回っている。今の所、不祥事というものも無く、貴族間の権力争いなども比較的無い。言ってしまえば穏やかな土地であることだ。
隣接するキャロディライン領との諍いも無い。一応、パドリール様との結婚で両貴族の結びつきは強固になった。ティエラはキャロディラインの持つヴェルテ騎士団という武力を持って、領外に広がるアドラザの森から来る魔物への対処が簡単になった。キャロディラインは煩わしい諍いの種となる物が一つ減り……。
ともかく両関係にとって良い結果のみが残った。
――これに亀裂が入ってしまうのは、少々まずい。
特段、私は家の者に可愛がられていた訳では無いが、パドリール様との関係が破綻すれば外聞が非常に悪くなる。父は私を自領の方へ戻そうとするだろう。
その為のテッドである。耳年増と詰りたくなるほどにテッドは情報収集に余念がない。夫婦関係の危うさはもう父の耳には入っているだろう。私はそれを承知でテッドにも協力してもらっている。
これからどう動くか、が鍵なのだ。
復活の兆しがあれば……。ああでも、私には頭が足りない。どうすれば良いのか、分からなかった。
だからもう、正直に事のまずさを言って、行動を諫めてもらおうと思ったのだ。パドリール様は私より賢い方だから分かってくれる筈だ。なによりも――……。
そう思って……、部屋を……。パドリール様の部屋を訪れたのが……、間違いだった。
◇◇
「パドリール様、今のお時間、よろしいでしょうか」
「ああ、入ってくれ」
問題なく許可を得られたのでドアを開く。夜着に身を包み、緩く白髪を結んだ姿のパドリール様が執務机に座って作業をしていた。薄く笑っている、あぁ悩ましいぐらいに美しい。
「珍しいね、君が訪れるなんて」
「ええ、私でもそう思います。本日は用事があって参りましたので」
明かりと手紙を持っていない左手でキィ、と扉を閉めた。閉まる音が響くと、その場で青色の瞳と視線が合う。
すごく楽しそうだ。……妻となった身としては、その喜ぶ姿を崩したくなくて、けれどもあまり喜べなかった。
身の内が震える。言いたくなくて口が重たくなる。パドリール様と目が合わせられなくなる。
あぁでも、言えばきっと! 少しでも思い直してくれると思って……!
「パドリール様……、単刀直入に言いましょう。娘に懸想なさるのは良しとしましても、本妻に据えることはおやめください。この結婚の意義を分からない程愚かではないでしょう」
声の震えは届いていないだろうか。意味はしっかりと伝わっただろうか。
言った途端に不安が心を覆う。
――怯えるな。私。決して目を逸らすな。魔物狩りでの心得を思い出すんだ。
恐ろしい時程、上に立つ者は冷静に考えなければならないのだから。
悶々と考える私をよそに、パドリール様はゆっくりゆっくり、笑みを深めた。青色の円は弧を描いて、無邪気さを前面に押し出していた。
それから――――、口が開くまでが異様に長く思えた。
「あぁ、バレちゃった? まぁ、君はいつも妙な所で聡いからね」
何がバレた。小娘への懸想か、……それともその裏にある意を?
答えに詰まった私を置いて、一人でパドリール様は愉快気に笑っている。
……見たことが無い笑顔だった。
パドリール様は椅子から立ち上がる。そして、窓辺にまで近寄って、再びこちらを見た。
「ねぇ、ウルリカ。君は恋をしたことがある?」
「まぁ一応は……」
目の前にいるんですけれどね……。知っていて言っているのか、知らずに言っているのか、相変わらず分からない。
「僕はね、あの娘に合ってから冷たい心臓が熱を持ったんだ。話しかけられると体の全身で喜びを表したがって、叶うことならばずっとこの地にいて欲しいとさえ思った。でも彼女は聖女。聖女はいずれ男爵の身元から飛び立ち、最も尊き身をお持ちになる方の元へ行ってしまう……」
両手を胸元で組みながらくるりと回る。月光を受けて光る白髪の一筋一筋が揺れて踊る。
「――僕には耐えられなかったっ! 君に耐えられた痛みが、僕には無理だったんだ! 胸が痛いんだ、病気ではない、薬を飲んでいるのにとても痛い! 辛い! 彼女が他の男性の物になるなんて、とても耐えられない……っ!」
パドリール様は泣いていた。ほろりと、目から透明な雫を頬に伝わせて激情のままに泣いていた。
それを見て、私は何も言えなかった。何か言おうとしても、口が石のように重たい。
目の前から突きつけられた。
「だから、だから――。本妻に据えようとしてしまった。……君との婚姻を悪く思ったことなんて無いんだ。けれどもね、……人は誰かに恋をしたのなら最も近い場所にいて欲しいと思うのが常だろう……。どうか許してウルリカ、君にはこの気持ちが分かるんだろう、ねぇ……」
そうですね、そうですよ、パドリール様。
私は、今の生活がとても嬉しかったのです……。
そして、今、とても苦しい。
そっと近寄るパドリール様の手が、私の空いている手を握る。
パドリール様の白いうなじが見える。柔らかなつむじが見える。
「パドリール様にとって、私の相手はお辛いですか」
声は囁くように小さかった。答えを聞くのが嫌だった。
暫くの沈黙。長い長い、一生にも勝る長さにして苦痛の道。
「……うん」
か細く答え、手を握り、俯いて泣く人をどうすれば良かったのだろう。
胸を割り裂く痛みに泣き顔を見せられれば、少しは止められたのだろうか?
――この日を境に、パドリール様は失踪した。




