ある夜
海に面した地方都市、ボーダーポートの空を赤く染めて日が墜ちてゆき、やがて青灰色から濃紺、そして消し炭色の夜になる。
低い位置に姿を現した満月は、どこか気持ちを不安にさせる紅い色をしていた。
フェリーの発着場がある岸壁に沿って続くだだっ広い港通りには通る車もほとんど無く、人影も無い。
そこからひとつ路地に入ると、時空を遡ってしまったのではないだろうかと思わせるような古い家並が並んでいる。
その中に、奇跡のように営業を続けている個人経営のドラッグストアがあった。
おそらく馴染みの客でなければ入らないだろうと思われるそこに、ひとりの男がやってきた。
明るいグレーのスーツ姿の男は、中々感知してくれない調子の悪い自動ドアを抜けて、まっすぐレジカウンターへと進んだ。
「やあリーロイ、あれはあるかな?」
絹のようになめらかで冷やりとする声を掛けられ、カウンターの中でスツールに腰かけて小型端末を見ていたリーロイらしき白衣の小男はびくりと肩を揺らして顔を上げた。
彼は目が悪いらしく、藪にらみで声の主を確かめようとしている。
「冗談みたいな厚底眼鏡はどこへやったんだ?」
「それがどうにも。ウィスキーグラスなら絶対に見失わないんですがね。いらっしゃいブラッドリーさん。少々お待ちを」
リーロイは後ろの陳列棚の脇にあるドアから奥へと入っていった。他の客はおらず、ラジオから往年のヒット曲が頼りない音量で流れる店内では、探し物をしているらしい音が良く聞こえた。
カウンターにもたれて新発売のドリンク剤の宣伝用チラシを読んでいるブラッドリーと呼ばれた客の男は、見たところ二十六、七といったところだろうか。いかにも薬が必要そうな青白い顔をして、色の薄い金髪の前髪を目が隠れるほど長く伸ばしている。その間からのぞく目は、あまり見かけない赤っぽい不思議な色をしていた。
間もなくリーロイが奥から出てきて、カウンターの上に小ぶりなダンボールの箱を置いた。
「一ケースでよかったですか?」
「ああ。今は懐が寂しくてね」
ブラッドリーは内ポケットから札入れを出すとトレーにくたびれた紙幣数枚を並べた。
「毎度どうも」
「しかし取るよなあ。病院じゃこの十分の一だって聞いたぜ?」
「じゃあ、病院に行かれたらいいじゃないですか」
ブラッドリーは鼻で笑うと、箱を小脇に抱え、店を出た。そして路地から港通りを、フェリー発着場から漁港の方へ歩いていった。
彼はゆっくりと流れる雲の間からとぎれとぎれにさす月明かりの下を、ぶらぶら歩く。
よどんだ海の匂いと船に使う油の匂いが混じり合い、風に乗って流れてくる。海辺独特の、潮を含んだ少々べたつく感じのする風だ。
夏はすでに終わり、肌寒いくらいの気温だったが、彼は気にならないらしく、ゆったりとして表情も穏やかだった。
羽虫が飛び回る街灯の下を通り過ぎたところで、人の言い争う声が聞こえてきた。
港関係者相手の数件並んだ飲み屋の脇の路地で、酔っ払い同士が喧嘩をしているようだ。
どう見ても堅気の人間には見えない男達が大声でわめきあい、片方の酔っ払いが激昂して懐から何かを取り出した。
それが大型拳銃だと見ると、ブラッドリーは少しの間考えるようにしてから、彼等に近寄っていった。
「おいおい、物騒だな。それでどうするつもりなんだ、お前さん方」
「なんだぁ、てめえは。首突っ込んでんじゃねえよ。怪我するぜ」
「そうだ。邪魔すんじゃねぇ」
かばってやった男にまで邪険にされた。
「俺は近所でも評判のお節介焼きでね」
「てめえ、これが見えねえのかよ」
酔っ払いは拳銃を振り回してわめいた。
「見えてるから止めようと思ったんだが?」
「オレは人を撃つことなんざ、何とも思っちゃいねえんだぞ」
「そう言う奴に限っていざとなると撃てないものなんだ」
酔っ払いはさらに頭に血を上らせた。
「何だとう!」
彼はふらふらしながらもブラッドリーに向けて撃鉄を起こすと引き金に指をかけた。
「この辺りがいいと思うんだ」
ブラッドリーは自分の胸を指した。心臓の事だろう。
「馬鹿にしやがってえ」
何故か期待を含んだ笑みのようなものを口元に浮かべたブラッドリーは酔っ払いを余計にイラつかせた。
引き金が引かれる。
と、
突然、酔っ払いは手を止め、銃を取り落とすと両手で頭を抱えた。よく分からないが、恐慌に陥ったようだ。
「ひぇっ! うわ、うわぁああーー!!」
酔っ払いはそのままふらふらと逃げていってしまった。もう一人の酔っ払いもここにいてはまずいと思ったのか逃げていく。
ブラッドリーは肩を落とし、歩道に落とされた銃を拾い上げた。
「やっぱり駄目か」
彼は銃を見つめていたが、ふいに自分の心臓に向けて引き金を引いた。
だがやはり銃声は響かない。彼は必死に動かそうとしているようだが、指が固まったように動かないのだった。
「くそっ!」
彼は銃を歩道へ叩きつけた。鋭い音がして暴発した弾が顔をかすめて飛んでいった。
彼はまた「くそっ」と言って銃を踏みつけた。それはプラスチック製のおもちゃの様に簡単に粉々になってしまった。歩道の敷石までが砕けている。
信じられないことに、彼の顔にできた傷はゆっくりと閉じていった。
誰かが彼に声をかけた。
「何万回それをやったら気が済むんだ? マーカス」
名を呼ばれてもブラッドリーは顔を上げる事もしない。
「出てくるなよ、クリューガー」
彼の目の前に、まるで手品で布を引くとあらわれるトラのように男が立っていた。目つきもトラみたいな、がっしりした初老の男で、白髪混じりの黒髪を後ろに撫で付けている。暗がりではほとんど見えなくなってしまうような黒い服を着ていた。
「そろそろお家に帰る気にならないか? 坊主」
マーカス・ブラッドリーから怒りの気配が立ち上る。
「……だから、言ってるだろう。旦那とはきっちり話を付けに行く」
マーカスはクリューガーを無視するように歩きだした。
彼の背に、クリューガーが話しかける。
「いつまで人間のふりを続けるつもりだ? あの婆さんが死んで何週間たつ?」
マーカスは立ち止まった。クリューガーはさらに続けた。
「もう、いいだろう? 人間だった頃のお前では考えられなかった、『幸せな夫婦』なんて真似もできたんだ。旦那様に感謝したっていいくらいだ。人間の下で働いて、そんな、まずい合成の血液もどきをあり金はたいて買う吸血鬼なんて見たことも聞いたこともないぞ。いい子にしてたって、墓の下の彼女は褒めちゃくれまい?」
あざ笑う調子だったクリューガーの表情が引き締まった。マーカスが振り返り、冷気を含んだ眼で彼を見たからだ。
「頼みもしないのに勝手に『延命薬』を飲ませてくれた旦那のところになんか、一日だっていたくないね。俺は人間のところにいたいんだ」
彼は歩き出しながら、一言付け加えた。
「ジョージアをからかうような事を言ったら、付き合いの長いあんたともお別れだぜ?」
クリューガーは押し黙り、マーカスの後姿を見送った。
マーカスは、港に突き当たる通りの中で一番大きい、ビショップ通りを、繁華街へと向けて上っていった。
ゆるい坂道を上がっていくと、だんだん人の生活の匂いが濃くなってくる。倉庫や事務所の代わりにアパートや小さな商店があらわれ、国道との交差点に来るころにはけっこうな街並みになる。ここらあたりは、昔、港がにぎわっていた頃の中心街で、一番のにぎわいが逃げてしまった後も、手を変え品を変え、しぶとく生き残っている。
マーカスは通りから路地へと曲がり、路地と路地の角に建っている『ホテル・カールトン』と看板に書かれた建物の大きなガラス扉をくぐった。
ぼんやりとした明かりのロビーは、それほど広くはない。天井から下がったシャンデリアも、調度品も、黒と白の大きな格子模様の床も年代を感じさせるものの、すっきりとして古臭くはなく、落ち着いていて居心地が良さそうだった。
フロントには誰もいない。カウンターにはベルが置いてあり、「御用の方はベルを押してください」と書いてある。奥の方からテレビのものらしき音が漏れ聞こえていたから誰かはいるのだろう。
マーカスが奥のエレベーターへと足を向けようとすると、ホテルに併設されている食堂と繋がるドアに付けられた鈴がチリンと鳴った。
「あ、マーカスだぁ」
突然かけられた拍子抜けするような声の主は、十代前半ではないかと思われる少年で、老人のような白髪をして眉もまつげも肌の色も、瞳まで白一色だ。棒の様に痩せて薄っぺらい身体に、自身と反対の黒いトレーナーとジーンズを身に着けていた。
「やあ、サイモン。晩御飯かい」
「うん。あのねえ、デザートにキャラメルアイスたべたんだよ。すっごくおいしかったぁ」
彼の話し方やしぐさは、まるで幼児のようだ。
また鈴の音がして、今度は女性が出てきた。
「こんばんは、マーカス。めずらしくお出かけ?」
マーカスに低く豊かな声で問いかける。
肩までの黒髪に子供のそれのような光を纏わせ、化粧っ気は無いものの東洋の陶磁器を思わせる整った容姿の彼女はサイモンとお揃いのような黒いシャツに黒のジーンズ姿だ。
「こんばんは、ジェニファー。ちょっと買い物があってね」
三人は揃ってエレベーターの方へ歩いていった。
「マーカス、今度、夕食を一緒にいかが? サイモンが喜ぶわ」
ジェニファーの誘いに、マーカスは申し訳なさそうな顔をした。
「お誘いは嬉しいんだが、遠慮させてもらうよ。気を悪くしないでくれ。なにしろひどいアレルギーでね。決まったものしか受けつけないんだ」
ジェニファーは、気の毒に、と残念がり、彼女の腕にまとわりついていたサイモンも不満の声をあげた。
「えー。アイスもだめなの?」
「ああ」
「わー。ぼく、アイスがたべられないなら、しんじゃうー」
「おおげさねえ」
マーカスとジェニファーは顔を見合わせて笑った。
「あのう、マーカス」
エレベーターに乗りながらジェニファーが言いにくそうに切り出した。
「また、お願いしていいかしら? ……リタったら、夜は出られないって言ってるのに……どうしても出てこいっていうのよ」
マーカスには何のことかわかっているらしい。
「ん? ああ。いいとも。サイモン、またお邪魔していいかな?」
サイモンが見る間に満面の笑顔になる。
「うん。いいよ! もうちょっとしたら『フレディとジャックス』がはじまるから、いっしょにみよ」
喜ぶサイモンを見ながらジェニファーも笑顔をみせた。
「ありがとう、本当に助かるわ。この子、夜にひとりになると外へ行きたがるのよ。出たら何をするかわからないし……」
「なあに。こっちは失業中の身だ。どうやってヒマをつぶすか思案してるとこでね」
「サイモンがこんなに懐いた人って初めてなのよ」
彼女は思い出し笑いをした。
「あのね、サイモンが、友達ができたよ、っていうから、どんな子? って聞いたら、男の子だよっていうの。まさかあなただと思わなかった」
「ハハ」
「テレビやゲームの話となると私じゃ付き合いきれないもの。話のわかる友達ができて喜んでるの」
ジェニファーたちの部屋はマーカスの部屋よりも下の階にあるのでいったん別れ、彼はそのままエレベーターで上がっていった。
マーカスは部屋に入ると、明かりもつけずベッドに腰かけた。そして抱えていた箱を開け、中の医療用のパックのようなものの口を切り、一気に飲み干してしまった。
「まったく、長生きはするもんだね。いい世の中になった」
自嘲気味につぶやくと、カラをベッドの脇の黒いビニール袋に片付け、箱をベッドの下へしまいこんだ。
ここは、他とのすき間に作られたような狭い一間の部屋で、一枚しかない窓のすぐ向かいにビルの壁があって日中も暗く、おかげでとてもリーズナブルな値段になっている。
マーカスは良い部屋があったと喜んでいた。
ホテルと名がついているが、ジェニファーたちのように、ここに住んでいる者もいる。
このホテルはオーナーの『リタ』が雇う人間の、寮にもなっているのだとジェニファーは言っていた。
マーカスはジェニファーたちの部屋がある階へ下りると、廊下のいちばん端の部屋のドアをノックした。
どうぞ、と返事があり、バストイレの前の通路を通って部屋に入ると、サイモンがすでにテレビの前のソファを背もたれにして床に陣取り、主題歌を一緒になって歌っていた。
豪華とはいかないが、マーカスの『物置』よりはまともな暮らしができそうな部屋だ。このリビングの他にベッドルームがあり、そこからジャケットをはおったジェニファーが出てきた。
「なるべく早めに切り上げてくるわ。今日はリタの親友がセントラルターミナルに新しく出した店に顔を出すのにつきあうだけだから。ボディガードなんかいらないと思うんだけど、警備会社も持ってるのに万が一強盗なんかに襲われたら看板に傷がつくと思うんでしょうね。こんな田舎でも最近物騒だし、変な事件が多いから」
マーカスはジェニファーにすすめられるままソファに座り、テレビ画面に目をやった。
「君のボスは羽振りがよさそうだな」
ジェニファーは、まあね、といって腕時計を見た。
「この街で商売をしてる者なら、誰でも一度は聞いたことがある名前じゃないかしら。私が言うのもなんだけど、かなりの実業家よ。ちゃっかりしてるのよね、彼女。そうだわ、あなたの話をしたら、ぜひ一度お会いしたい、ですって。警備の経験ありなのよね」
「身上書を書けって言われると困るんだが」
「リタはその辺は融通が利くのよ。……おかげ様で私達もそれで助かってるの」
「そうかい? そろそろ仕事を見つけないと、ここを出なきゃならんと思ってたんだ」
それからジェニファーはサイモンにいい子にして留守番しているように、よくよく言い聞かせ、マーカスには何かあったら自分の携帯電話に連絡してくれるように頼み、リタを迎えに出かけていった。
しばらく、サイモンはたまにマーカスに同意を求めて彼の足を叩きながら笑ってアニメを楽しみ、番組が終わると今度はテレビゲームをしようと言って準備をしていたが、そのうちそわそわしだした。
何か気になるらしく、自分の携帯端末を取りにいき、ジェニファーに電話をかけた。しかし彼女は出ないようだ。サイモンはしまいに意地になって何度もボタンを押していたが、彼女が出る様子はない。
マーカスはやんわりと彼を止めにかかった。
「ジェニファーはたぶん忙しくて出られないんだろう。また後でかけなおしたほうがいい」
サイモンはまったく聞いていないようだ。
「ぼく、いってくる」
サイモンは急に五、六歳年上になったようにみえた。いつもとまるで様子が違う。
「おとなしく留守番していろと言われただろう?」
「いかなきゃだめなの!」
マーカスの制止もきかず、サイモンは部屋を出て行こうとする。しかたなく彼はサイモンの後を追った。
通りへ出てタクシーを拾うとターミナルビルへ向かった。
「いったいどうしたっていうんだ?」
サイモンはまっすぐ前を向いたまま、ぶつぶつとつぶやいた。
「ジェニファーが、こまってる」
マーカスも困り果てた表情をして彼を見た。
書き直しながらぼちぼち上げていく予定です。
それと、サイモンですが、何か特定の病気などとは一切関係ありません。彼はこういうキャラクターです。
どうぞよろしくお願いします。