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自分の気持ちを押し隠し、綾乃の願いを叶えることを決めた雅久。
約束を取り交わすために、二度と踏み入れたくなかった大学へと向かうのだった。
その夜、何も知らない里中からメールが届く。
(綾乃、可愛いでしょ? 頑張ってね)
返事に困った僕は結局、当たり障りのないスタンプを送り返し、携帯の電源を切った。
誰とも話す気になれない、僕に水をさすのは決まって兄貴だ。
「雅久」
ビール片手に、兄貴がドアに凭れ掛かり立っていた。
「何?」
「一緒に、飲もうや」
「一人で飲めよ」
「冷たいね」
「良いから出て行けよ」
僕は兄貴を力ずくで部屋から追い出し、ベッドへ項垂れて腰を下ろす。
「雅久、雅久ちゃん」
「煩い、バカ兄貴」
ドア越しに、声を掛けてくる兄貴に向かって、僕は枕を投げつける。
ロンリーファクトリー。
昔、兄貴が僕につけたあだ名だった。
やる前から自分を決め、諦めては、ふさぎ込む。透明バリア張っては、誰も寄せつけない。もはや名人芸だ。とよく兄貴はもてはやしたもんだ。
僕は深いため息を吐く。
生まれつきの性分は、そう簡単には変えられない。
道化師でも何でもいい、綾乃が喜ぶことをする。僕にはそれが、お似合いだ。
そう心を決めてから、僕の行動は早かった。
配達を終えたその足で、僕はハルに会いに大学まで押しかけて、来ていた。
一人、教室でデッサンをするハルをドア越しからしばらく眺めてから、僕は中へ入って行く。
僕の気配に気が付いているくせに、ハルは顔を上げようとはしなかった。
「ハル、気づいているくせに、無視するなよ」
開け放った窓から、西日が差し込む。
黙っていれば、良い男なのに……。
ハルの手で引かれて行く、巧妙な線を眺めているのが、僕は好きだ。
手を休めないハルに、内心ドキドキしながら、さりげなく話を切り出す。
「なぁハル」
「断る」
「まだ、何も言ってないけど」
「雅久、お前最近おかしいぞ」
「そうかな? いつもと変わんないと思われるが」
「おまえさ、あの何とかいう女のこと、好きになんじゃねーの」
一瞬言葉を失う僕を見て、ハルが憎々しげに笑う。
「……何を言い出すかと思ったら」
苦し紛れの僕の言葉に、ハルは素っ気なく、「別に、良いけど」と、大きく伸びをする。
気を削がれ、僕は用意していた次の言葉を言い出せなくなってしまう。
「で?」
頭を掻き、煙草を銜えたハルが面倒臭そうに、僕を見る。
「何か、用があったんじゃねーの俺に」
悔しいけど、どんなにむさくるしい姿をしていても、絵になってしまうハルに、僕は軽い嫉妬を覚える。
「ハル、良い男だな」
「はぁ? わざわざそんなことを言うために来たのか?」
「んな訳、ねーだろ」
「良かった。俺、雅久に愛の告白されても、受け入れられる自信がなかったから」
「何それ?」
「いや、あの窓から覗いているときのお前、かなり思いつめているように見えたから」
「そんな前から気が付いてんなら、声を掛けてくれても良かっただろ?」
僕はハルを羽交い絞めにして、頭をボコボコと殴る。
「バカバカ。あぶねーだろ。タバコの火が髪に点く」
解放され、大袈裟に首を撫で痛がるハルを横目に、僕は大きく息を吐きつつ、切り出す。
「なぁハル、今度の日曜日、個展見に行かねぇ」
ハルは目を細め、僕を見る。
「個展?」
「また、兄貴からのプレゼント。行かないとしっつっこくて。行く相手がいないなら、紹介するって言い出してさ、参っているんだ。恋愛乙。いらんわって感じっすよ」
数秒してから、ハルの返事が戻ってくる。
「愛されているな」
「どうだか。余裕ぶりたいだけだと思うけど」
兄貴のプレゼント癖はハルも良く知っている。これなら不自然にならずに済む。
「別に良いけど」
面倒くさそうに答えたハルは、またデッサンに戻り、巧妙な線を引いて行く。
「そんなこと言うために、わざわざ来たのか?」
痛いところを突かれ、僕は一瞬ドキッとした。
「いや、ちょっとこっちに用事があったから、そのついでに寄った」
「そうか。冗談抜きで、この前は悪かったな」
ハルにしてはしおらしい発言に、顔を見入ってしまう。
「何だよ。俺の顔になんかついているのかよ」
「んや。相変わらず美しい顔だなって」
「今度それを言ったら、殺す」
「こえーよ。だけどハル、何でそこまで顔のことを言われるの、嫌っているわけ?」
どうやら愚問だったらしく、ハルは押し黙ってしまった。
帰り際僕はふと足を止める。
「なぁハル」
「ん?」
目を上げないまま答えるハルに、僕は出かかった言葉を飲み込み、肩を竦める。
何て事を聞こうとしているんだ僕は。
教室を出た僕は、振り返りハルを見る。
綾乃と付き合う気がないなら、はっきりふって欲しいなんて、僕は最低だ。
「いつも悪いな」
その言葉に、ハルは軽く手を挙げ答える。
校門を出ると、僕は一呼吸置き、綾乃に電話を掛ける。
僕の朗報を聞いた綾乃の弾んだ声が、返ってくる。
鼻の奥が痛んだ。
ありがとうと言われ、こんなに苦しいこともあるんだと、この時、僕は初めて知った。
僕は背中を丸め俯き、足早に雑踏にまみれて行く。
こんな自分を誰よりも、自分が認めたくなかった。
後悔の波が幾度も押し寄せては、自分の無力さを思い知る雅久の巻でした。