6
落ち込む僕を救ってくれたのは、綾乃からの電話だった。
あたり障りのない会話。兄貴と僕の眼元が似ていると言った声が弾んでいたこと。出された料理のあれこれ、時間がうそのように過ぎて行き、兄貴のことを出されたのに、全然気にせず笑って話す僕がいた。
それから、綾乃は日を空けずに連絡してきた。
そして一週間後、僕は渋るハルを連れて、待ち合わせ場所へと向かう。
目的は何であれ、僕は綾乃に会えるのが嬉しかった。
駅前のオープンカフェ。
僕らの姿を見つけた綾乃が、手を振る。
電話しているときもそうだったけど、緩む顔を、僕は必死で引き締め、胸元で小さく手を振り返す。
こんな自分を、今まで想像したことがなかった。
息を弾ませた綾乃が、まぶしかった。
「お呼び立てして、申し訳ありません」
ハルに向かって真っすぐ言う綾乃を見て、僕は仕方ないかと、自分に言い聞かせる。
怒らせてしまった相手に、まず詫びを入れるのは、常識。目的に当てはまっている。
薄らと頬を紅くした綾乃が、ハルにシャツを手渡す。
たったそれだけのこと。他に何もない。
「どうも」
不愛想に受け取るハルに怖気づいた綾乃が、僕を見る。
「おいおいハル、もう少し言いようがあるだろ? ていうか、覚えている?」
心配げに見ている綾乃をチラッと見たハルが、「ああ」と言葉短く頷く。
「申し遅れました、わたくし、四十万綾乃って申します」
「ご丁寧にどうも」
「おいおい、それだけかよハル」
「あん?」
「自己紹介されたら普通、し返すだろ?」
「別に良いよ俺は」
不機嫌に言うハルを見て、綾乃が顔を強張らせる。
「そう言わず」
舌打ちをするハルに、僕はムキになる。
「そういう態度、良くないと思う。この間もあんな態度取ってさ、彼女、かわいそうにだいぶしょ気ちゃっていたんだぞ」
「輪錦さん、そんなに責めないで上げてください。あれは、前方不注意だった、私が悪いんですから」
「だけど」
「チッ。分かったよ。名乗ればいいんだろ名乗れば」
「何だよハル。その言い方は?」
「お前、何テンション上げちゃってんの? もしかしてこの女のこと惚れちゃったわけ?」
「んなわけが」
胸ぐらを掴みかかる僕をおちょくるように、両手を上げて見せた。
「あんたももう、こいつから俺の名前、聞いているんだろ?」
綾乃が小さく頷く。
「良いじゃん。知っているなら名乗る必要ないじゃん。雅久、マジどうしちゃったの?」
「どうもしねーよ。ただ、ちょっとムカついただけだ。放っとけ」
「あの」
今にも泣きそうな顔で話し掛けてくる綾乃に、僕はハッとなる。
「ああごめんごめん。気にしないで。何か、こいつに溜まるもんがあってつい。今、全部吐き出したからもう大丈夫。な、ハル」
苦笑しながら、僕はハルを肘で小突く。
「わざわざ、どうも」
面倒くさそうに挨拶をするハルを見て、綾乃が頬を綻ばせる。
この時、きっと僕は分かっていた。いや、そもそも、こんな僕を好きになってもらえるはずなど、分っていたのに、この時の僕は往生際が悪いのなんのって、自分でも笑える。
「タバコ、吸ってもいいんすか?」
胸ポケットから煙草を取り出し聞くハルに、綾乃は嬉しそうに頷く。
「タバコ、吸われるんですね。何ていう銘柄がお好きなんですか?」
会話を弾ませる綾乃に、面倒くさそうに答えるハル。
僕が入れる余地などない。けど……。
「ちょっと座って話さない?」
空いている席を指さし、僕は二人の間に割り込んだ。
無駄な抵抗なのは、重々承知の上。
ハルが何か言いたげに、僕を見る。
僕はそれに気が付かないふりで、二人を席へ誘導させる。
自分でも、何してんだと思う。こんなの僕じゃない。
いつもみたいに、こんなもんさって諦めちまえばいいだけの話。
「何か飲まない? 僕、買ってくるよ」
自分でも信じられない言葉が、口を衝いて出る。
「それじゃ、俺も一緒に」
「ハルはここに居なよ。ずっと徹夜続きで疲れているんだろ? 四十万さんと話して居なよ」
「徹夜って?」
話題を見つけた綾乃が、口に手を当てながら、嬉しそうに話す。
僕は居た堪れず、席を立つ。
そんな顔、するなよ。
僕は泣きそうだった。
「ハルはブラックでいいよね? 四十万さんは何にします?」
「綾乃でいいです。私は、オレンジジュースでお願いします」
「了解です」
僕の悪い癖。
「お前さ、人の顔色ばかり窺ってばかりで、楽しい?」
兄貴には、僕の気持ちなんか、どう逆立ちしても分らない。
欲しいものを、何でもすぐに手に入る兄貴になんか……。
煙草を吸うハルを、はち切れんばかりの笑顔で見つめている綾乃が目に入り、僕は持っていた飲み物を落としそうになる。
無粋でも、ハルと僕では到底勝負にならない。
「始める前から、勝負、諦めるなよ」
泳ぎ終わって戻ったばかりの僕に、兄貴は良くそう言っては、怒っていた。
別に無視をしているわけではない。言い返す言葉が見つからなかっただけ。無言でいる僕に、兄貴は熱くなる。
「本気になれよ。雅久」
どんな顔をしていいのか分からず、僕は口元を緩ます。
少なくても僕にとって、あれは本気だった。