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それは好奇心だった気がする。
兄貴の気まぐれに付き合ったものの、それは失敗だったことに気づいた雅久は、帰るに帰れず、半ば強引にデート代行を実行する羽目になってしまった。
「あのね、今日は私たちが付き合って1年目の記念日で、レストランでお祝いをしようってことになっているのよ。勿論、カズ君の奢りでね」
僕はそんな里中のお喋りを、一歩下がった場所で聞いていた。
歩く速度が、半歩ずつずれて行く。出来ればこのまま、静かにフェイドアウトしたい気分の僕。
そんな僕に気が付いた里中が振り返り、慌てて言い繕う。
「なんてね。嘘よ。嘘。今日は私の奢り。ジャンジャンおいしいもの食べましょう」
……帰りたい。
会って数分もしないうちに、砕けた態度の里中に、僕はついて行けずにいた。
僕も相当の背丈だが、里中も負けていない。
癖で背中を丸め歩く僕に向かって、里中が背中を叩き、言う。
「シャキッとしなさい。ほら背中を丸めない」
里中が身に着けている品格を思わせるもの、すべてが、鼻につく。
そつなく生きることが、どれほど大変か、一度、兄貴に思い知らせてやりたい。
「もう。どうしたの? すぐそこだから」
自ずと足取りが重くなった僕の腕を取り、里中が微笑む。
ああ兄よ。僕はあなたを恨みます。
僕は聖悠人に会いたくなっていた。
唯一、僕のこんな愚痴を理解してくれる友人、それがハル。
僕に負けないくらい人見知りで、教室の隅で黙々とデッサンしているような奴。元水泳部という共通点もあって、大学を辞めてからも、付き合いが続いている、友人だ。
「カズ君が良く言っているのよ、雅久はもっと自分に自信を持つべきだって」
随分勝手なことを、言って下さる。何でも卒なく、無難にこなせる奴に、言われたくはない。その要領の良さが僕に少しでもあったら、もう少しましな人生が僕を待っていたはず。
僕には全く縁がない場所。そんな認識しかなかった高級レストランの一席。
居心地の悪さときたら、堪ったものではない。
兄貴、覚えておけよ。帰ったら八つ裂きにしてやる。
「痛い」
突如、痛みが走った額を押さえながら、僕は里中を見る。
あろうことか、里中が僕の額を、指で弾いたのだ。
「また俯く」
「何もデコピン、することないじゃないですか」
本当に兄貴の彼女なのか、僕は疑いたくなる。いや、完璧に疑っている。
兄貴がかつて付き合ってきた彼女ときたら、どの人もおっとりと静かな人ばかりだった気がする。
絶対、こんなことをする人ではなかった。
口ごもる僕に、里中は執拗に耳を傾けてくる。
「え、何何。聞こえない」
些かムッとする僕に、里中は楽しげに眼を細める。
「もう男らしくないなぁ。言いたいことあるなら、ハッキリ言いなさいよ。ハッキリ」
僕の堪忍袋の緒が切れた、瞬間だった。
「やっぱ僕、帰ります」
「ええー何で。まだコースの途中だし、もっとお話、しましょうよ」
どこまでも能天気な里中だった。
天然?
イラつく僕に、里中は言葉を続ける。
「ほら早く座って、みんなが見ているわ。レディに恥をかかせないで」
僕は久しぶりの感情に、身を震わせていた。
怒りの目を向ける僕をあざけるように、里中は涼しい顔をしていた。
それがどうしても許せなかった。
僕らしくもない、つい声を荒げてしまっていた。
「やっぱ場違いと言うか、こんな服だし、仕事帰りで汗臭いし」
「ノープロブレム」
「でもやっぱ、ここ高そうだし」
僕の声が響き渡り、視線が集まる。
もっとも僕が嫌う情景だった。
里中は軽く組んだ手の上に顎を乗せ、余裕の笑みで僕を見つめてくる。
「もう意気地無しね。あとそのでもと、やっぱは禁止。あのね、冷静に考えてみて、もし、君の服装に問題があるなら、席へ通される前にアウトでしょ。それに私もバカじゃないわ。払えない店になんか、入らないし。お姉さんを見くびらないでちょうだい」
静かな口調だが、強いものがあった。
注意を促しに、支配人がやって来る。
少し、ホッとしている自分がいた。これで店を出られる。
しかし、里中が軽く謝り、その場は収まってしまっていた。
やけ食いをする僕に、里中が頬を綻ばせ、話しかけてくる。
「ガッちゃん、気に入った。カズ君の言う通りだ」
チラッと見る僕に、里中は笑みを零し言い繋ぐ。
「ガッちゃん、付き合っている人って、本当にいないの?」
すべての会話が、細切れで、結びつきがない。どうしてその質問になったのか、僕には理解できずにいた。
「ね、本当は居たりして」
「いません」
「またまた。絶対ガッちゃんの顔なら、そんなこと、ないでしょ」
僕は里中の目を疑う。
「どこから見ても僕は野暮ったい。髪はボサボサだし、ニキビの後も、残ったままだし、影だって薄い」
「そういうところだよ。カズ君がいつも気にしているのは。ガッちゃんは、率直でまじめすぎる。それが短所でもあり、長所でもある」
ワインを一口嗜めた里中が、偉そうな口ぶりで言う。
「何ですかそれ?」
ふてくされながら聞き返す僕に、里中は顔をクシャッとさせる。
「カズ君、いつも話してくれていたのよ。弟は良い奴だけど、自分に自信がなさすぎるって。私、ずっと不思議だったのよね。どうしてこの人はいつも、弟のことを、話したがるのだろうって。でも今日会ってみて分かった気がする」
大きな瞳で見詰められ、僕は目のやり場に困る。
「可愛いね、ガッちゃん」
可愛い、言うな。
腹の中で叫ぶ僕に、里中はお構いなしだった。
「ガッちゃんって、女性経験あるの?」
僕は飲みかけていたワインを、思わず吹きだす。
慌ててそこらへんを拭う僕は、自分の耳を疑う。
「私、お手伝いしましょうか?」
数秒固まった僕は、静かに席を立つ。そこまで代行をするつもりも、しなければならない理由もない。
「ああ違う、違う。ごめん。そういう意味じゃなくて、誰か、お相手を紹介しましょうかって話で」
僕を席に戻させた里中は、どうにも笑いが止まらなくなってしまっていた。
「ごめん……、聞いていた通りで、どうしよう、楽しすぎて……、これ良かったら、来て」
里中が差し出したものへ、僕は目を落とす。
「まずは、出会いの場所へのお誘い。かしこまったパーティじゃないから、気軽に参加して」
こんな誘い、受けるつもりなどなかった。
「一歩踏み出さないと、ガッちゃんの世界はずっとそのままだよ」
言われたくない台詞だった。
「だまされたと思って、一度だけでいいから、ガッちゃんの中にある、その重い扉を開けてみようよ」
半ば強引に持たされたパーティの紹介状。
遅くに帰ってきた兄貴が僕の部屋を訪ね、入ってくる。
「雅久、あいつどうだった?」
睨む僕に、兄貴は苦笑する。
「パーティ、誘われただろ? 行ってやってよ。ああ見えてもあいつ、かなり寂しい奴だからさ。雅久なら分かってやれると思うから」
それから兄貴は、今日の詫びだと言って、有名ブランドの背広を置いて、部屋を出て行った。
僕は肩を落とす。
兄貴は何だかんだと言って、僕を気遣ってくれている。
一度も履いたことがない革靴に目をやり、僕は頭を振る。
その理由は、僕には分からない。兄貴に聞いても、教えてはくれない。返って来る答えはいつも同じ言葉だった。
「お前はお前らしくしていろ」
自ずと零れる溜息。
この時はもう、砂時計のようにサラサラと運命の砂が落ち始めていた。
電車が揺れ、僕は目を開ける。
携帯の画面を覗いていた、美憂がチラっと僕を見る。
「何?」
「エスケープ、するなら付き合うけど」
ここでそんな言葉を聞くとは思わなかった僕は、つい笑ってしまう。
ムッとした美憂が口を尖らせ、携帯へ視線を戻しながら、ぶつくさ言う。
「何も笑うこと、ないでしょ」
「しないよ」
綾乃と出会って、僕は少しだけ変わった。
嘯くことを覚えた。
全然心は違うのに……。
鬱陶しいくらいお節介を焼きたがるみどりの存在に、戸惑う雅久の巻でした。