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プロポーズされた綾乃は、未だにハルの心にいる元カノのことを気にしていた。
そんな綾乃の不安を取り除くため、雅久はハルに会いに行く。
高ぶる感情を抑えきれず、取っ組み合いになってしまった二人だった。
「負けだ負け。もう止そう雅久」
先に降参したのはハルだった。
二人で、床の上で仰向けに倒れる。
大人げない、と自分でも思う。
顔に乗せた腕が熱かった。
「雅久が言う通り、俺は最低だ。俺はずっと紗依の行方を探っていた。自分がビッグになれば、きっとあいつは戻って来る。そう思っていた。安さんから聞かされて、紗依がもうすでに別の人と結婚していて、子供までいることは知っていた。だけどどうしても諦めが付かなくて、調べて行くうちに、綾乃の親父さんとあいつの旦那との接点があることが分かった。商談のため来日する旦那に引っ付いて、紗依も帰ってきていることを知った時、俺は飛び上がって喜んだ。このチャンスを絶対にものにしたかった。幸い、綾乃は俺を好いてくれていたしな。それにたとえ俺が酷い捨て方をしても、綾乃には雅久、お前もいる。俺には迷いはなかった。そして俺は賞を取り、その権利を勝ち取った。と確信していた。すべて構想通りことが進み、俺は紗依の手を取り駆け出していた。幸せになれる。これでやっと願いが叶う。そう思ったのも束の間だった。あいつはすっかり変わってしまっていた。バカだよな。あなたなら、良い顔しているし、すぐに新しい恋が始まるわ。って、親父から手切れ金を、あっさり受け取っちゃうような女なのに、そんなの分かり切っていたことなのに、二人の生活は一週間ももちやしなかった。それからの俺は悲惨だった。飲んだくれて暴れて、金も底つき始めたそんな矢先、クラブで知り合った男が言ったんだ。これやると幸せになれるって。どうでも良かった俺は、目の前にちらつかせられたものに手を伸ばし掛けた。だけどどうしてかな、あいつの、綾乃の顔が浮かんで、思い出しちゃったんだ。世界中の人が敵になっても、私だけは俺の味方でいてあげるっていう、綾乃の顔を。参った。あんな裏切り方をしておきながら、もういつの間にか俺の心に、綾乃が棲みついちゃっていたこと、こんなタイミングで気が付くなんてさ。でも会いたかった。会って、ただ抱きしめたかった。だから雅久、綾乃は渡せない。渡したくない」
僕に、返す言葉はなかった。
「……なぁハル、僕ら知り合ってもう何年なるかな?」
「スイミングクラブの大会から数えれば、20年以上になるかな? 喋り出したのは、まだ7、8年だけどな」
「そんなに経つのに、僕ら何も分かっていなかったんだな」
「そうみたいだな」
「ハル、一つ聞いてもいいか」
「ああ」
「なぜカナダなんだ?」
「綾乃や雅久が心配することはないよ。確かに紗依とカナダで過ごしはしたけど、あいつのことはもう吹っ切れている。信じて欲しい」
「だったら何も、そんな遠くに行かなくたって、日本に居ればいいじゃない」
「雅久、本当に俺のこと分かっていないんだな」
「どういうこと?」
ハルは僕を見て、小さく笑ってみせる。
「綾乃には、あっちの風土が気に入っているとか能書き垂れたけど、本当は雅久、お前が怖いんだよ」
「僕が?」
「ああ。いつまた、今日みたいに綾乃を取り返しに来られるんじゃないかって、正直びくびくしている」
「ハルが、僕に?」
「悪いか」
むくれながら言うハルを見て、僕はつい笑ってしまう。
そしてようやく、僕は……。
先に立ち上がった僕は、ハルに手を貸す。
お互い、意味もなく笑い合う。
それがすべての答えだった。
「だってさ」
物陰から姿を現した綾乃の背中を、僕はそっと押す。
「ハル、安心しろ。残念だけど、綾乃はお前にしか幸せに出来ない」
涙ぐむ綾乃を自分の方へ抱き寄せたハルが、頭を掻く。
「どうする? 僕のこと、もう一発殴っておく?」
ニッと笑ったハルの拳が、僕の頬を突く。
「手加減なしかよ」
「お相子だ」
「じゃあな」
「雅久」
僕は背中で、その言葉を聞いていた。
「お前が友達で良かったよ。今までありがとうな」
僕は後ろ手を上げ、その場を離れて行く。
失くすものも多かったが、得るものも多かった。
そんな僕の初めての恋。
僕は酒が飲みたい気分だった。
携帯を取り出し、美憂の名前を表示させたものの思い直し、背中を丸めポケットにしまう。
葉先に残る水滴が、日差しに照らされ、夏の匂いがした。
僕はしゃんと背筋を伸ばす。
ハルに言った気持ちに偽りはない。だけどどうしてかな。空を見上げた時、ふと口元が緩む。すがすがしい気持ちになっていた。
敵わない恋。失恋を噛みしめる雅久の巻でした。




