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自分に自信を持つなんて無理無理。
ずっとそう思っていた雅久は、初めて恋に落ちてしまった相手が愛するのは、親友のハル。
何度も読み返したせいで皺くちゃになってしまったメモを内ポケットにしまい、僕は独り言ちる。
「こんなの余裕だし」
言っている割に、情けない顔が鏡に映る。
僕はネクタイを締め直し、部屋を後にする。
静まり返った廊下。
僕は兄貴の部屋にそっと目をやる。
どこで僕たちは間違ってしまったのだろうと思う。
考えても仕方がないこと。そんなことは良く分かっている。だけどどうしても考えてしまう。
僕は軽く首を振り、勢いをつけ階段を下りて行く。
僕の気配に気が付いた母親が、傘を持って行くように声を掛けてきたが、無視して家を出る。
――悲しい色。
ふと、そんな言葉が頭を過る。
生きていると、どうしても避けては通れない道がある。
多分、僕と綾乃の出会いがそれだったと思う。
横断歩道。
信号が点滅し始め、僕の横を小走りで人がすり抜けて行く。その姿が、あの日の綾乃と重なる。
すべて、けりをつけたはずなのに……。
ハルと綾乃の式は3時からで、充分間に合う時間だ。急ぐ必要はない。
渋る思いが、足取りを遅くさせる。
「雅久君にスピーチお願いしたいの。受けてくれる? 悠人ってこういうことに疎いから、無礼承知で、私からお願いします」
声を弾ませ、そう綾乃が電話を掛けてきたのは、つい一週間前。本人なりに、気を使い悩んだ末、僕に電話を掛けてきたのは、痛いほど伝わってきた。それがどんなに大変なことか、僕になら分かる。
それでも……。
「悠人……」
受話器を握る手に、力が入る。
「雅久君?」
「ああごめん。分かった。まったく仕方がない奴だな、ハルの奴。綾乃ちゃんも苦労が絶えないな」
繕うように返事をする、僕の顔が強張る。
「うん。雅久君にはいろいろ心配かけたけど、私、今すごく幸せなの」
「そう。それは良かった」
絞り出すように言う僕に、綾乃の明るく振る舞った声が戻って来る。
「雅久君、いろいろありがとう」
何気ない綾乃の言葉一つ一つが、僕の胸に突き刺さる。
「ああ」
綾乃を責める気など、毛頭ない。こんな結末、初めから分かっていたのだから。
枝が覆いかぶさり、影を落とす公園の中を選び歩く。
忘れ物だろうか、タオルハンカチがベンチに一枚、置かれていた。
自然と零れる深いため息に、僕は苦笑する。
始まりはすべて、この場所からだった。
戻りたいような、戻りたくないような遠い日々。
改装された駅構内。
あの日と少し違う景色。
行き交う人の波に合わせ、僕は改札を抜け、ホームへ向かう。
階段を上り切った僕は、目を丸くする。
「やっと来た」
着飾った遠野美憂が、僕を待ち構えていた。
「どうして?」
驚きの表情で聞く僕に、美憂は口を尖らせ、怒った口調で返してきた。
「私、言わなかったかしら? 気に入っている美容師さんがこっちの店へ移動になったって」
僕は、美憂の話を半分も聞かないうちに、素気ない返事を返し、そのままホームを進んで行く。
「ちょっと、失礼な人ね。何よその態度?」
「何が?」
美憂とはいつも、こんな感じで、会えばすぐケンカになってしまう。
「ちょっと、人の話、聞いている?」
無視をする僕の腕を取り、美憂がムキになって突っかかって来る。
これもいつものこと。
「ねってば。聞いているの?」
美憂の声はよくとおる。
チラチラと周囲の人たちに見られ、無視をし続けるのが難しくなった僕は渋々、口を開く。
「頼んでねーし」
「ええそうですとも。あなたが言う通りよ。頼まれた覚えも、頼まれたくもないけど、もうちょっと、ましな態度取れないわけ?」
面倒くせぇ。
美憂は、目を薄らと滲ませていた。
結局いつも、美優のペースに、巻き込まれてしまう僕がいる。
「はいはい。すいませんでした。お嬢様、お荷物でもお持ちしましょうか?」
皮肉たっぷりに言う僕に、美憂がばつが悪い顔をする。
「もう頭にきた。雅久のバカバカ。イーだ」
「ガキかお前は」
「痛っ」
バックで僕の尻を叩き、美憂がむくれてそっぽを向く。
これもいつものこと。
綾乃も美憂も、僕とは住む世界が違う。
初めから、手が届かない相手だった。ただそれだけの話。
美憂も、それ以上は何も言ってこなかった。
二人で電車に乗り、空いていた席へ腰を落ち着かせる。
そして、話すことがない僕は、軽く目を閉じた。
――僕と綾乃が出会ったのは二年と八か月前。
「雅久、お前、今日どんな服?」
電話越し、唐突に聞いてきた兄貴。
僕は顔を顰め、返答を渋る。
「なぁ答えろよ」
「何だっていいだろ」
「良いから早く答えろよ。時間が勿体ないだろ」
兄貴の身勝手さは充分わきまえているつもりだが、些かムッときた僕は、だんまりを決めた。
「まさか、まっぱ?」
「んなわけ、ねぇだろ」
「だよな。いよいよ頭がおかしくなったかと思ってしまいましたよ」
「ていうか、なぜ外にいる前提なわけ?」
「そこ、気にするわけ? どうでも良いから早く答えろよ。あと五分で会議なんだ」
僕はかなりムッとしていた。
「切るぞ」
「待てって。そんなに答えられないってことは、お前、インディアンファッションでギター片手に、今まさに、歌を歌おうとしているのか。夜な夜なお前の部屋から聞こえて来ていたあの音は、この日のための準備だったのか。ヒッピーってやつだな。昭和しているね」
「は?」
ふざけたことばかり言う兄貴だが、これでも一流商社マンなのだから嫌になる。
「隠すな隠すな。ギャラリーは何人集まっている? いいか、大きく深呼吸して、周りにいる人は全員、カボチャと思え。クソッ、俺も会議さえなければ、雅久の初舞台、見に行きたかったな」
なぜか兄貴はこんな調子で、僕をからかうのだ。
「んなわけ、ねーだろ」
「だったら雅久ちゃん、頼むよ」
「無理」
「ああ分かったよ。この薄情もの」
「薄情って……」
「マジヤバい。じゃあ頼んだから」
は?
切れてしまった電話を握りしめ、僕はその場に固まってしまっていた。
どこにデートの代行を、弟に頼むバカがいる?
会議って、何ですか?
彼女に電話して、次の機会にしてもらえよ。
言えなかった言葉が頭の中で渦巻く。
行かない。という選択肢もあった。
兄貴にブツブツ言われるだろうが、そんなこと知ったことではない。
でも、その日の僕は違っていた。
どうしてそうしたのか、僕自身、分からない。
気が付くと僕は踵を返し、駅へと歩き出していた。
悲しみの色を消せないまま、二人を祝福するため、式場へ向かう雅久の巻でした。