文法や発音は文化を反映するか?
言語は文化を反映する、というのはよく聞く話だ。例えば日本語に敬語があるのは、長らく続いてきた日本の階級社会の影響だろう。こういう点に関しては私も基本的に賛成する。
しかし発音や文法はどうだろう?
私個人の意見だが、発音や文法の特徴の一つ一つに関してまで文化の影響を論じるのは無意味なのではと思う。
それらはおそらく自然に使っているうちに次第に発達し、そうなった明確な理由というのはないのだ。
具体的な例を挙げて説明しよう。英語やほとんどのヨーロッパの言語には名詞の単数・複数があるが、日本語の名詞にはそうした区別はない。ここに「日本人の察する文化」を見出して、日本人は相手の考えを察して話す文化があるため、数が適当でも通じる言語として発達したという主張を唱えたとしよう。
正直中原としては「その根拠は?」と言いたくなってしまう。「察する文化」は日本人固有のものだともお思いで?
名詞に単数形・複数形のない言語などさして珍しくもない。隣の韓国語、中国語はもちろんのこと、ベトナム語、インドネシア語、タイ語など、東・東南アジアの様々な言語で名詞に数の区別は見られない。多種多様な文化や宗教的バックグラウンドをもつそれら全ての言語をひっくるめて、名詞の単数・複数の有無に日本人の精神性が関係あるなどと本当に言い切れるのだろうか?
主張しようと思えば、ほかにも様々なことを「でっち上げ」できてしまう。
存在を表す「いる」と「ある」の区別は、日本のアニミズム信仰と関係があると考えたとしよう。人は犬は「いる」、植物や物は「ある」。日本人は神道の思想に基づき、あらゆる物事に生命の有無を見出してきたから、こうした違いが発達した。
ちょっと待ってほしい。もしそうだとしたら、植物は生きているのに「ある」を使うのはおかしい。それにそもそも古語の時点では「いる」と「ある」の区別はなかった。かつては人間も物も「あり」を使って存在を表し、「いる(ゐる、をり)」という言葉はそもそも座るという意味で、それが後に意味が変化して今の「いる」という言葉になった。昔の日本人のほうが信仰心が強かったはずなのに、そうした区別は歴史的に後になってから発達したのである。これでは説明がつかない。
発音に関しても同じようなことが言えると思う。日本語の発音に開音節が多く単純な音節構造であるのは、日本文化の影響だろうか? 果たして本当に? 単純に大陸から離れるにつれて発音が失われただけでは?
気候や環境が発音に影響するという主張も、一部を除いて眉唾ものな気がする。寒い場所で話される東北弁は、あまり口を動かさないように発達したとおっしゃる方がいらっしゃるが、日本よりも遥か北で話されているロシア語が日本語より複雑な音節構造なのはどう説明するのだろう。
こういった類の話を私は「疑似科学」だと思っている。言語学者になる人の中には、こういう「思い込み」をまるで科学的事実のように吹聴して回る人間がいて、よろしくないと常々思う。