舞い降りた魔人
視界が暗転したかと思うと、そこには魔界が広がっていた。
実際に魔界に来たことはない。ただ、枯れ果てた大地と、不気味な声で鳴く黒鳥と、嫌になるほど湿度の高い空気、そして暗雲が魔界を連想させた。
「クソ面白くない、成功だったか」
傍らに落ちていた石で、後ろ手で結ばれた縄を削る。
さすが魔界と言うべきか、鋭利な石で助かった。
荒れ果てた大地だけあって、魔物もいない。
見渡す限り、というほど広大な荒野ではないが、かといって見えるのも山と湖だけだ。
生き延びる道があると言うのなら、湖に向かうのが正解だろう。そう思い、俺は湖まで歩いた。
二十分ほど歩いてようやく着くと、俺は首にロザリオが付いていたのを思い出す。
とりあえず地面に叩きつけて、少しだけ気分が晴れた。
ただ、溜飲を全て下げるには、実際に天に召します神をこの手で地に引き摺り下ろさなければならない。
「しかし、水は汚くはないけど、飲めるものなのか?」
泥水ではないので、何か動物が飲んでいれば最悪毒ではないだろう。
湖の周りを見渡してみる。これで小鳥でもさえずっていれば、のどかな風景だろう。
だが、実際に出てきたのは、ワニだった。
もはやここまで運が悪いと驚きよりも感心だ。
いや、ロザリオを叩きつけた時の音に反応して出てきたのかもしれない。
地に落ちてもなお罰を与え続けるとは、一周回って見上げた神だ、と思う。
だがここを生き延びて脱出できたら、もう一回叩きつけてやろうとも思う。
ワニの目を見ると、やはり赤く濁っていた。
瞳が血のように濁っている生物は、魔物と呼ばれる。
実際に見たのは俺も初めてだが、どうやら元の生物と比べて性格は凶暴かつ残忍、そして運動能力も高いという話だ。
ただのワニでも死ねるだろうに、魔物のワニでは生き延びる可能性すらない。
「食うのは良いけど、ちゃんと俺が魔物に転生できるよう計らえよ。お前だけが頼りだからな」
どうやら俺が逃げもしないし、威嚇もしないのを不思議に思っているのか、ワニは動かなかった。
まるで、俺の話をじっと聞いてるかのようだ。
それだけでも、あの裁判所の連中よりいくらか賢い。
「いやしかし、魔物に転生するとしてもワニじゃなあ。やっぱこう、魔王クラスのやつじゃないと」
ゆっくりと口を開けるワニを見ても、もはや恐怖はない。
どうやら一度死を体験すると、心に余裕が生まれるらしい。
だがそんなのはお構いなしに、次の瞬間、目の前で爆発が起こり、俺はその場から数メートル吹っ飛ばされた。
そんな爆発オチなんて。
俺のツッコミも爆音に虚しく掻き消される。
起き上がって体を確認したが、なんとか怪我はなかった。
何が起こったのかと先ほどの場所へと戻ると、ワニは可哀相な状態で死んでいた。
「天に召します我が神よ。まさかお前がマゾヒストだったとはな」
俺の言葉に呼応するように、真上から翼が羽ばたく音がした。
冗談で言ったのに、と苦笑いしてみる。
羽ばたきはどんどん近づき、やがて、ワニの上に舞い降りた。
勿論、神でもなければ天使でもない。
漆黒の翼を携えた悪魔が、そこにいた。
美少女だった。
だが、悪魔だ。
艶のある漆黒の長髪が良く似合っている。
だが、悪魔だ。
スタイルも良い。
だが、悪魔だ。
静脈血のように鈍い血の色に染められた瞳がその証拠である。
しかし、人型の悪魔がいるとは聞いたが、ここまで人間そっくりとは知らなかった。
「あ、あなたは?」
恐る恐る聞いてみる。
「私? 候補ね」
「……何の?」
「もちろん、魔王よ」
俺は、考えるのを止めた。
候補とは言え、魔王だと? そんなものに遭うのは運が良いのか悪いのか。
残念ながら、結局思考は止められない。
「えー」
俺が信じられないというような苦い顔でその美少女悪魔を見ると、そいつは荒野の方を指差した。
俺もそれに従い荒野を見ると。
荒野が爆発した。
違う。爆発オチは、そう多用していいものじゃない。
そう言えば俺は一度だけ、勇者という輩の魔法を模擬演習か何かで見たことがあるが、威力は桁違いだ。
爆発オチとは言えここまで規模が大きいと笑えない。
「あの、もしかして助けてくれたんですか?」
「人間を助けるくらいなら、殺した方がマシね」
「あ、さいですか」
美少女だから期待したとかそういうのは一切ない。
ただ、なんか悲しくなっただけだ。
その魔王候補とやらは、どうやらワニを狩りに来ただけらしい。
ワニを担ごうとする瞬間、ふと俺の足元を見た。
「なにかしらその十字架は」
まるで汚物でも見るかのように嫌な顔をする。
「そう言えばここに叩きつけたんだったな。もう一度酷い目にするつもりだったけど」
俺がロザリオを拾い上げると、魔王候補は目と鼻の先程の距離で俺の顔をまじまじと見つめた。
ワニには動揺しなかった俺が、思わず一歩下がってしまった。
違うよ。
美少女に動揺したんじゃないよ。
魔力に動揺したんだよ。
ほんとだよ。
「へえ、面白い」
俺が十字架を痛めつけた行為を称賛しているのか、魔王候補はご機嫌だった。
「人間にしては中々見込みがあるじゃない」
神を穢して褒められたのは初めての経験だ。
どうやら魔王と言う存在は神を目の仇にしてなんぼらしい。
「どう? 付いてくる?」
差しのべられた手。
渡りに船とはこのことだ。
どんな下っ端でも、魔王候補の手下なら、再度転生しなくったって仕返しができるかもしれない。
「もちろん」
多分俺も、今は悪魔みたいな顔をしているに違いない。
旅は道連れ 世は情け。
俺は、この魔王候補とやらに付いて行くことに決めた。