セピアの空
見上げた空の青さは、彼をセピアの思い出へ引き戻す。
総二朗の過去話です。単独でも読めますが、「沈黙の向こう側」の続きで読むことを推奨します。
雪俊とバッテリーを組んで早一月。関係は順調に進んでいる、と総二朗は思う。
自身をワガママと言いながら、雪俊は努力家だった。中学時代にちやほやされたエースなら特に、くさって投げ出しそうな基礎トレーニングの数々を、雪俊は黙ってこなした。誰の指示にも逆らわず、文句があるときは全てやってから、恐ろしく思い詰めた顔をして言いに来た。決して、やる前に文句を言ったり、投げ出したりしなかった。そういうところに、自分がどんどんハマっていく事に、総二朗は気付いていた。
高校に入ってから、今年の一月まで、バッテリーを組んでいたピッチャーも、同じようなタイプだった。榊冬馬。真面目で、誰に対しても、何に対しても真摯にぶつかっていく、そんな男だった。
「ごめんな、総ちゃん……オレはもう、お前の好きなオレじゃなくなっちゃったんだ。ごめん……一緒にもっと、野球、したかった」
誰がいつ、投げられないお前が嫌いって言ったよ、と総二朗は思う。あのときは涙が止まらなくて、何も言えなかったけれど。
彼も努力家だった。百六十九センチ。小柄な体はどれだけ伸び上がったところで、百八十センチを超える一年エースの球威には、遠く及ばなかった。彼は考えに考え抜いて、ある日突然、まだバッテリーが決まらずふてくされていた総二朗に声をかけてきた。
「武市……アンダースローの球って、受けられるか?」
冬馬はまもなく、一年で一番のピッチャーになった。ストライクゾーンを外れたと思って油断していると、浮き上がる彼の球。わくわくした。正統派野球ファンから見れば、小細工と言われかねないそれに、総二朗は心を踊らせていた。小細工なんかじゃない、正当な努力だ。きっと、それが認められる日が来る。そして、それに自分は立ち会うのだと、総二朗はそれを想像して、興奮と喜びで震えていた。
冬馬は今、この学校にはいない。と思ったところで、総二朗は自分の甘えた発言を切り捨てる。訂正だ、冬馬は、もうこの空の下にいない。彼は今から二か月ほど前――桜の花びらと一緒に散っていった。彼を蝕んだ病の名前など、総二朗は覚えていない。ただ、その病に冒されていることがわかり、もう二度と野球が出来ないと知ったとき、彼が言った先のセリフ――それだけ、覚えている。
確かに、投げている冬馬が好きだと言った。でもそれは、そこに辿り着くまでの冬馬の努力や、真剣さを含め、冬馬自身が好きだという気持ちを込めて言った言葉だった。その気持ちは、冬馬がマウンドに登れない体になったからといって、消える類のものではなかった。
練習の合間に、空を見上げる。六月にしては珍しく、空は抜けるように青く、いっそ悲しいほどに晴れていた。最後にバッテリーとして出た練習試合も、こんな風に晴れた日だった。総二朗は、冬馬が三振を取ったときに見せていた、嬉しそうな表情を思い出した。
忘れたわけではない。まして、忘れるために雪俊を口説いたのではない。冬馬は、彼にこだわって総二朗が立ち止まることだけを危惧しながら逝った。冬馬は、高校野球のピッチャーとしては変わっていた自分を受け入れてくれた総二朗が、自分がいなくなるせいでキャッチャーをやめてしまうことを、一番恐れていたのだ。だから総二朗は、そうならないようにだけ気を遣った。人から見れば、冬馬をあっさり見限って、雪俊に乗り換えたように見えるかも知れない。でも、人からどう見られるかなど、総二朗には関係のないことだった。
空に向かって、そっと呟く。聞こえるかどうかなど、わからない。聞こえなくても良い。ただ、それだけが総二朗の願いだった。
「冬馬……そっちでも、野球、してろよな……いいキャッチャー、見つけろよ。俺はこっちで、がんばるからさ」
あっちまで、自分の名前が響けばいい。そうすればきっと、冬馬は安心するだろう。そんな気がした。
「何ぼーっとしてんだよ、武市先輩! 俺の事エースにすんじゃねーのかよ!」
キャッチボールをしていた雪俊が遠くから怒鳴る。総二朗は雪俊に向き直った。もう、空を見ることは、なかった。