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0.アルケミストの卵

第一話として載せる予定だった生前の話。初期設定に近いですので、設定集の一つとしてお気軽に読んでください。

更新が遅くなってしまい大変申し訳ありませんでした。

 俺こと金子総悟かねこそうごは、どこにでもいるごく普通の大学生だった。

 いや、普通というよりはそれ以下――中の下に位置する男――と表現した方がいい。成績、運動神経、カラオケ採点、身長体重、顔面偏差値……何事においても平均値、偏差値50を上回ることなどなかったからだ。


 それでもある程度は何とかしようと努力したことだってあった。しかし大抵は色々な理由で続かないことが多かったため、目標達成という言葉は夢のまま終わっている。ただ単に努力を継続させる能力がなかったともいえるが。

 モテるために髪を金髪に染め、眼鏡からコンタクトへ、服装もおしゃれを意識した。しかし彼女ができるどころか女の子に見向きされることなく、以前と同様「非リア充」としてなにも変わることはなかった。クリスマスもバレンタインも、いつもの一日と変わらない。


 そんな俺にも、高校からの付き合いだった同年齢の親友「大澤貴明おおさわたかあき」と、小学校まで幼馴染だった「北川美穂きたがわみほ」が友達としている。どちらも俺と同じ、化学科だ。


 何かと気まずい感じは自分の中にはあったが、仲は他のつるんでいる数少ない友達以上に良く、いっしょにいて楽しいものがあった。彼らといっしょに話すのは時々であり、関わることはあまりないものの、高校の時からの仲であったかのように親しさはあった。

 しかしひとつ不満を上げるとすれば、そのふたりはナチュラルに付き合っていることだった。

 美男美女の交際。そこにいる「中の下の男」である自分は場違いかつふたりの邪魔をしているのではないかと思うばかりだった。いや、それ以上に「爆ぜろ」と嫉妬していた。

 それでも、彼らの縁を切ろうとは微塵にも思わなかった。


「ILC? 聞いたことはあるけど、なんだったっけ」

 私立大学の三号棟一階実験室前の準備室。研究開発センターとして機能するその研究所の内部。有機薬品が近くにないと言うにも関わらず、染み着いているような独特の臭いが、床のリノリウムからしてくる。


 180前後の背丈に短い黒髪の爽やかな青年「大澤貴明おおさわたかあき」は、眉をひそめ、唸った。

 成績最上位及び剣道部副主将を務める、女性の8割はイケメンというであろう万能男子でさえわからないと訊き返したことに、質問者である俺は鼻で笑いながら優越感に浸る。なんとも小さな優越感だった。


「私もわかんないや」と理工学部の中でも稀少な顔の可愛さとスタイルの良さ、そして性格の良さを兼ね備えるミスコン候補「北川美穂きたがわみほ」は苦笑しつつ首を傾げ、茶を帯びた長髪をゴムで一つ結いにしている。

 茶色染みた金色の長い前髪をいじり、俺は自慢げに話し始める。


「"国際リニアコライダー"のことだ。電子と陽電子をとんでもねぇ速さでぶっ放してぶつけて、一瞬だけど宇宙初期ビックバンっつーかめっちゃくちゃ高いエネルギーの状態を再現する世界最大の新しい加速器が、この国にもできるらしいってよ」


「へぇ」と大澤は淡々とした声を返す。北川は半ば思い出したような顔をした。

「あ、そういえば新聞にも載ってたような……でもなんでその話をいきなりしたの?」

「え、キョーミねーのかよ」

 これは意外だった。理系のトップがこれでは残念極まりない。もちろん、成績順位でビリから数えた方が早い俺が抱く感情ではないのは理解している。


「だってよ、粒子ぶつけ合って小さな宇宙が生まれるんだぜ? 人の手で世界創るってことじゃん。それに物質だって素粒子から組み替えられるし、マジで鉛から金に変えることだってできるし。次元越えたレベルの話だってのに、なんでおまえらそんなに普通でいられるかがわかんねぇ」

「何事も興味ないで済ます総悟おまえが、そんな子どもみたいに目を輝かせて語っている方が訳わかんないよ」と大澤は言葉を返す。

「なんか変なものでも食べた? 酔ってる? それともニコチン中毒で脳味噌どうかしちゃった?」

「おまえらひどすぎねぇか?」

 怒ることもなかったが、半ば真顔になる。ノートや資料等を鞄から取り出しては棚に置き、壁に寄りかかる。


 俺達は同じ学部学科にして、同じ研究室だ。

 その研究室は高エネルギー科学、高度材料科学を主として本格的に取り組んでいるが、そこの教授とスケジュールがスパルタ級に厳しい為、人気は圧倒的に低い。そこの分野に興味があるとしても、入ろうと思わない学生も少なくはない。

 そこの研究所に行く人は、関心があり、意識高い真面目な学生か、成績が低くて研究所を希望する余地が与えられなかった学生のどちらかだった。

 大澤と北川は前者、俺は当然の如く後者だった。


「つーか、おまえら大学院行ってそういうこと研究したいって前に言ってたじゃねぇか。だからこういうこともとっくに知っているかと思ったんだけどさぁ」

「まぁ、確かに高エネルギー科学はいろんな分野へ生かせるから行きたいとは思ってたけど、俺は院にいけるお金が足りないし、就職して稼いだ後にでも院にいこうって思ってる。美穂はどうするんだったっけ」

 大澤はにこやかな顔で北川に問いかける。このほんわかした雰囲気、ふたりだけの空間を醸し出している空気が、未だに慣れないものであった。

 見せびらかすな当てつけかリア充共、と本日7度目の心の舌打ちを響かせる。


「んーと、私は国立の大学院受けようかなって思ってる。研究職に入りたいし、やっぱり加速器とかにも興味はあるしね。総悟そーごはやっぱり就職?」

 ナチュラルに非リア充にも話題を振る北川。やっぱり根っから性格がいいんだなと、偏見を持つ俺はじんわりと思うのであった。


「だろーな。どっか近くのパチンコ店にでも就職するよ。就職ダメだったらまぁメンドくせーけど親戚の店継ぐつもりだし」

「パチンコっておまえ……大学活かしてねぇな」

「そんなもんだろ。大学で学んだこと生かせる職に就く方が稀だぜ?」

「そういえばそーごの親戚って漢方薬局やってるんだっけ。でも技術者とか研究者とか化学関連の企業にいかないの?」


「いや、もうそこ競争率高いだろ。それに入った後もめんどくせーし」

「どこの会社もそういうもんだと思うけど……」

「まぁ興味だけでここの大学入ったけど、よく考えたら学者とか研究者になるつもりなかったし、ただ知識として頭に入っていればもういいやって」


「じゃあ、ここの研究室に入った理由はなんなんだよ」

 流石に先程の言葉は言い過ぎたか。真面目な性格に値する大澤はムッとした表情をしていた。

「んー、おまえらいるから?」とあっさり言った。

「それ本気で言ってる? 親泣くよ?」

 北川も驚きを隠せなかったようで、半ば引いている。そのドン引き一歩手前の彼女の表情に少し焦りを感じる。


「いやいや冗談だって。そもそも俺だって好きでこの地獄の研究室に来てるわけじゃねーんだぞ、お前らと違って」

「ま、まぁ、そーごは成績下から何番目かだったもんね。研究所選べる余地なくて一番人気無いここに来たんだもんね。どっちにしろ親泣きそうだけど」


「生化学の緩い教授ンとこいきたかったのによぉ、ここは噂通りの鬼畜っぷりだよマジで。毎日レポートに発表とかどうかしてるだろ」

「でも将来的に役に立つスキルを身につけてるから結果オーライだろ」

「そのおまえらにとっての結果オーライで卒業できなさそうなんだよ俺は」

「そこは自己責任だ」

「普通に冷てえ」

「俺にとっては知ったことじゃないしな。どうしようもないだろ」

「まぁがんばりなさいな金子青年よ。私は応援してるぞい」

 冗談めいた声で北川は茶化す。この冷たい鞭と暖かい飴のバランスが絶妙だからこそ、こんな俺でもここに居続けられるのだろう。「うるせぇ」と半笑いで返した。


「それにしても、ILCなんてよく知ってたね。物理系なんてそーごには無縁っぽい感じだったけど」

 感心した声で言う。台詞としては嫌味っぽいが、北川の目と声色を窺う限り、純粋にすごいと思っているようだとうれしく感じた。

 大学でトップ5に入るであろう純粋系美女学生に言われたのだ。かつての幼馴染とはいえ、典型的な非リア充がかわいい女子という崇高な存在と会話しているだけで奇跡ともいえる。

 それでも、親友にして北川の彼氏である大澤には到底敵わないが。


「他にも言えることだけどよ、その雑学知識を苦手な数学や専門科目に移すことできねぇのか」

「雑学っておまえ……」と思いつつも、ストレートに言った大澤に言い返す。


「興味ないことは勉強したくねぇし、たまたま覚えていただけだ」

「おまえってホント、暗記力だけはいいよな」と呆れ口調。

「試験も全部、過去問と大澤がわざわざ作ってくれた類題を丸暗記したもんね。計算手順も数字も全部」


 事実、そのおかげで大学に進学でき、中退することなくここまで残っている。

 人並み外れた暗記力と興味あるものだけに対する旺盛な知的好奇心。小学校から今日にいたるまで、あだ名は「雑学王」と名付けられていた。

 それが、万事平均以下の男が唯一持つ、平均以上の取り柄であった。


「効率悪いことこの上ないけどな」と大澤は鼻で笑う。

「逆になんで暗記科目が苦手な奴が多いのか理解できねぇ。あんなわっけわからん計算解く方が楽とか頭おかしいだろ」

「微分積分どころか高校生レベルの指数対数すら解けないおまえの方がどうかしてる。よくここまでこれたな」

「コツつかめれば暗記なんてしなくても楽に解けるよ。自転車と一緒。解いてるうちに感覚でいけるようになるから」

 その感覚がわからないんだろうが。心の中で肩を降ろす自分がいた。


「自転車と一緒にすんじゃねーよ。バカか」

 すると、可愛らしくムッとした顔になっては、

「それ、そーごにだけは言われたくない。単位ギリギリのくせに。ビリのくせに。クラス平均点下げてる張本人のくせに」

 容赦なしに刺してくるなコイツ。俺の心はズタズタだぞ。

「別にいいだろ。つーか出席と提出物はおまえらより完璧だからな!」

「その提出物を出せるようにしているのは誰のおかげだと思ってる」

「貴明と北川。完璧だしマジで感謝してる」

「あ、そこは素直なんだね」


 そう駄弁りながら、白衣を着ては実験室に入る。

 私立大学の一研究室にしては広く、化学系に分類されるも、一般の見学者が見れば、どこかの機械工学部の作業場だと思うだろう。それほどまでに、複雑で機械的な実験装置が所狭しと設置されている。


 複合材料の耐性評価を行う測定器や、中性子検出用シンチレータ作製用の放電プラズマ焼結装置、放射光光電子分光装置やレーザー分子線エピタキシ装置など、新しい材料の開発のために必要不可欠な機械機器が並んでいる。設備の良さは大学院並だ。


 既に研究室にいた同期の学生に軽く挨拶を済ませながら、会話を続けた。北川に男子学生の半数以上もの視線が集まるのを感じ取った。善いも悪いも、当の本人はその下心ある視線に気づいている様子もなく、それどころかその彼氏も気づいていない。

 自虐だが、派手系地味男の俺が人の視線に敏感なのは、非リア充だからなのか被害妄想体質だからなのか。ひそひそ声や視線には人一倍敏感であった。「天然バカップルめ」と先頭を歩くふたりをジト目で睨みつけた。


「でもさ、勉強嫌いのそーごが専門用語出すとなんというか、違和感が半端ないよね」

 そんな俺の気持ちも露知らず、振り返った北川はキラキラした笑顔でひどいことを言う。本人はそのつもりないだろうが、見た目に反しガラスのハートである俺はぐさりと言葉が胸に突き刺さる。右後ろ数メートル先から「なんであのふたりに金子が引っ付いてんだよ」と聞こえ、更にぐっさりと心の傷を負った。

 それを押し切るように、表情には出すことなく、北川に言い返す。


「うっせーバーカ。これでも国立医学部受験してんだ」

 数秒の間。デスクに資料等を置いた北川はポカンとした顔で固まった。

 そして、驚愕の表情へと変わる。


「……はぁ!? ウッソ、本気で言ってる? タカ、これ本当のこと?」

 タカと愛称で呼ばれた大澤は何食わぬ顔で頷く。


「ああ、本当だけど記念受験だぞ。センター本番も結果として偏差値20以上足りなかったし。な、総悟」

 ニッと笑う大澤に悪意を感じた。軽く殺意が芽生えた瞬間だった。


「おまっ、それ言うんじゃねぇよバカ!」

「ははは」と大澤は笑う。

「でも事実だろ。それに言うほど試験の出来は悪くなかったって言ってたじゃん。あくまでおまえの自己分析での話だけど」

「どっちにしろセンターがダメだった時点で行けないことはわかってたんだよ。あんときの担任の顔も見れたもんじゃなかったし。これ以上俺のメンタルをブレイクしないでくれ」

「お前から話したことだろ。ま、ここ受かってよかったじゃん」と笑みを向ける。

 北川の顔をちらりと見る。ほっとした顔を見せ、大きめの胸を撫で下ろしていた。何故に安堵した顔をした。


「なーんだ、記念受験か。びっくりした。あのそーごがそんなとこいけるほどの学力あるはずないもんね。でもそういうとこに興味があったの? 意外すぎて笑える」

「いいだろ別に。人体とか薬とか好きなんだし」

「うっわ、エロいね」

「どこが!?」

「それに薬が好きって……まさかやってないわよね?」

「そっちの薬じゃねーよ!」

 自分でも下らないと思えるヘタなツッコミに対し、北川はケタケタと笑う。携帯を見ていた大澤は電源を切り、俺らに声をかける。


「それじゃあ、早めに始めるか」

 それに頷く。俺は癖で指をパキポキと鳴らす。

「ま、めんどうだし、とっととやること終えよーぜ」


 俺達の取り組む専門は化学系の材料化学に分類される。

 金属、半導体、高分子など、それぞれの材料の成形プロセスや破壊メカニズムの解析を研究基盤とする。多機能にして高信頼性のある複合材料の技術開発はもちろん、それらのバルク素材に多彩な薄膜を形成する試みの中から、新時代の材料開発を行う。


 つまり、目指しているものは機能材料のさらなる高度化。そこの研究室に所属している。


 いつものように装置の前に座り、電源を入れようとする。


 超高真空・電気化学複合装置の一種。高電圧を用い、溶液中における分子構造や電子状態を超高真空中における分析手法を用いて精密に測定することを目的とした装置だ。

 毎日のように使っている数々の装置。最初はよくわかってなかったものの、今では目をつぶってでも操作できるほどまでになっていた。


 良くも悪くも、その操作には慣れていた。


「ん? 電源つかねぇ……あぁ、これ線抜けてんじゃん。律儀だな全く」

 椅子に座ったまま、欠伸をしつつ装置の裏辺りへと手を伸ばす。

 姿勢が少し屈み、位置的に視界が低くなる。


「……お」

 そのとき見えた北川の姿。実験室なので、残念ながらスカートは履いていなかったが、この低いアングルから彼女を視たのは初めてかもしれない。どこからみても、かわいい女子は可愛いんだな。


 その様子を、たまたま大澤は見ていたのか。いや、視界に入っていたのだろう。

 彼の呼ぶ声には、表情がわかる程の感情が籠っていた。真っ青になり、剣幕に豹変したような、そんな声。


 ――このままではまずい。


 そうわかったのは、手遅れになった後だった。

 

「っ、総悟! 触るな!!!」

「あ?」


 その言葉は数瞬だけ遅かった。

 触れてしまったプラグ。

 電源は切っていない。

 不適切なコンセント配線とアース線の接続。

 安全とは正反対の因子が偶然にも整った最悪の環境条件。

 そして過失による不注意。

 事故は起きた。


「――総悟ォ!!!」


 室内で感じた痺れ。途端、倒れる椅子や小さな機材、書類等が落ちる音と共に響く、大きな音。人間が倒れたような鈍い音。


 駆けつける数人の足音。誰かを呼ぶ声、指示する声、倒れた俺を必死に呼ぶ声。

 そんな彼らの声を聞き取れる余裕など、俺にはなかった。何が起きているかわかっていなかった。その思考さえもシャットアウトしかけていた。


 ――CODE:NEU01-112930325763をETHへ接続。……完了。


 ただ不思議なことに、今までの記憶だけが、閃光が走るように脳内で機械的に周回していた。走馬灯だろう。運がいいのか悪いのか、まだ死んでいないらしい。


 ――CODE:EAR2020・ELE01-120・UnELE01-256の再現性・再構築の起動試験開始。試験中……完了。正常に反応。


 そのパッと咲いて散った走馬灯を見、一瞬だけ、これでよかったのかもしれないと思った。


 ――CODE:PL7092・WO425へのバックアップ。……一部問題あり。


 特に面白味のない人生。

 まだ大学生――二十数年しか生きていないにしても、ろくに熱中したこともなければ、記憶に残るような淡い青春もない。人生を変えるような何かに出会えることもなければ、成功体験も少なかった。


 ――対象の92件の検出された問題をデバック。……完了。件数0。


 小学校までは悪ガキともいえるいじめっ子。

 中学からはいじめられっ子になって一人ぼっち。

 高校では穏便にいこうとヤミ系の根暗になってネトオタに目覚め。

 大学から変わろうと髪まで染めては、頭の悪い男共で馬鹿みたいに飲酒喫煙してははっちゃけていた。

 それでも、何かが違うと自分自身、薄々わかってはいた。


 ――5件のアップデートを検出。……アップデート完了。


 どこまでいっても、陰口を言われ、大半から嫌われているのは知っていた。周りと何か違っていて、変わっていて、価値観が違っていて、関わるほど浮いてしまっていたのも分かっていた。

 優秀な弟と比べられ、家族にも目の上のこぶ扱いだ。それだけ必要以上に迷惑をかけてきた。


 それ以前の話、俺にはやる気がなかった。やり遂げる気力、最後まで諦めない気持ちというものがなかった。今思えば、あともう一歩だけ頑張っていれば、何かが変わったのかもしれない。後回しにせず、早めに始めていれば、こんな自分にはなっていなかったかもしれない。

 しかし、そんな気持ちを切り替える気も、憎いほどまで起きなかった。ぜんぶ手遅れだと思い込んで、楽する道を選び続けていたからだ。


 ――ファクターCT4056から663235,ARP2037,MST10098を削除。DSBを実行。NPCに結合。EARからの隔離完了。


 この先の人生は暗すぎてなにも見えなかった。社会で生真面目に生きていくつもりなどなかったからだ。就職し、仕事を続け、結婚し、家庭を築く。その自信が、俺にはなかった。

 どうせ家に籠ってパソコンに没頭するか、酒と煙草に潰れるか。そんな未来しか見えなかった。

 そんな糞喰らえな人生をこれからも送り続けるのなら、ここで終わりにしてもいいんじゃないか、と。

 そう思うと、この世から離れるのも怖くはなかった。特別寂しいなんてことはなかった。

 

 ――ARK098,EMAC42,IP7230,GDZ001,WFSLAY1825以下32件のシステム導入。……完了。


 ただ、ひとつだけ、未練があるとすれば。


「――しっかりして! 死なないで! そーごぉ!」


 小学校まで幼馴染だった北川美穂。一目惚れし、初恋相手だった彼女。その想いは届かないまま終わってしまった。


 後悔があるとすれば。

 出来損ないの俺の、やるせない人生の中でやり残したことがあるとすれば。

 一度だけ、目の前で必死に名前を呼んでくれている彼女に、好きだと伝えたかったことだった。

 大学で再会したのが夢のようだった。もう少しだけ告白するのが早ければ、親友に取られることなどなかっただろうに。いや、どうせ断られていたかもな。


 ……。

 そう淡い望みを抱くことぐらいしかできないまま、生の終わりを告げた。


 ――最終確認……問題件数0。正常完了しました。対象のダウンロードを開始します。

次回から第4章に入ります。

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