『眠るな』
1 せまる闇、ガリガリガリ
牢に閉じ込められてどれくらいになるだろう。
俺は全世界へ真実を伝えようとしていただけだ。
一眼レフを片手に中立の立場として、ひいきなどなく、どちらにも関与していないのに。
ルールを守っていた。
あくまでも報道を主として、何も欲しない、何も変えない。カメラマンとしてのキャリアはそう長くないが、最低限のことは先輩などから訊いて知っていた。
それなのに俺はココにいる。
身内のない俺を心配しているのは所属する会社の上司だけだろう。きっと今頃、捜索ねがいを出しているはずだ。出版社、現地の警察、同僚などに連絡を取っているかもしれない。いや、使い捨てのコマとして次の部下を探しているという可能性もあるか……。
まあ、そんなことはどうでもいい。
窓ひとつない闇の牢。
飛び交う銃弾の隙間にフィルムを変えようと俺は腰を下ろし、カバンを開けたときだった。突然、黒い布のようなものをかぶせられ、両腕を後ろで縛られ、車に乗せられ、牢屋に閉じ込められたのだ。移動にはそうとうな時間を要したはずだ。いや、長く感じただけで、実際は数十分くらいなのかもしれない。
少しでも灯りがあれば、眼がなれてまわりの状況が見えてくるものなのだが、ココではそうもいかない。
眼前にもってきた自分の手さえも闇に溶け込んでいるのだ。ここまでくると三半規管も役に立たない。一度立ち上がったが、フラフラとして足が自分のものではないようだった。
これからどうすればいいのか。
這いつくばり、牢の広さなどを調べたほうがいいのか、それとも無駄なことはやめて体力を温存したほうがいいのか。どちらにせよ、誤解を解くことはかなわないだろう。やつらは俺を計画的に誘拐したのに違いない。説得は不可能。そして、脱出も不可能。
不可能だらけの中、重い鉄のきしむ音が耳の奥を振動させた。
わずかに気圧が変わる。間違いなく扉が開かれたのだ。外も暗闇なのだろう、わずかな光も入ってこない。しかしこれで、現状に変化が訪れるのは確かだ。なぜ俺を捕らえたのか、どうしようというのか、すべてを知ることは無理かもしれない。しかし、ヒントでも得られれば、そこから推理することができる。
「いいか、眠るなよ」低い男の声だった。「それからメシだ。ここへ置いておくぞ。もう一度云う。これだけはかならず守るんだ、絶対に、寝るなよ」
カタンという硬い物を置く音のあと、扉が閉められた気配がした。
自分の考えとは裏腹に、現状が進むことはなかった。
「ちょっと待ってくれ、いったい俺をどうしようと云うんだ。理由を教えてくれ!」
閉じられた扉――どこにあるのかわからない――にむかって叫ぶが、返事はない。
被災地を訪れ、戦争孤児や子を失った親を激写し、弾痕だらけの建物を写した。内戦のつづく国で戦争の悲劇を撮影した。それらの中で、俺は何かイケナイものを撮ってしまったのだろうか?
いくら考えても、思考がまとまらない。闇が、邪魔をする。
正直、おそろしかった。
自分の存在が眼を通して認識できない。暗闇にとりつかれて全身が溶けていくような感覚がある。酸素までもが黒く染まっているようだ。孤独の恐怖、闇の恐怖……思わず叫びだしそうになる。狂いそうになる。発狂がすぐ側にある。助けてくれ、誰か、助けてくれ……。
「心配するな」
暗闇の奥深くから届いた突然の声に、俺は大きく飛びのいた。
幻聴が聴こえるくらい、俺の精神は参っているのか。
「そうビクつくな。俺は幽霊でも化け物でもない」
幻聴などではない。現実に存在する人間の声。奥から響いてきた。
「俺ひとりではなかったのか?」
「お前がココに連れてこられたときからいるよ。ところで、変な訛りだな」
「ああ、俺は日本人なんだ」
「なるほど、そうなのか」
孤独から開放され、心が軽くなる。他人の存在がこんなにもありがたいとは。
「ヤツラの云ったように、眠らなければ問題ない」
「眠ったら、何かあるのか?」
しかし、返事はなかった。代わりに、何処からか、ガリガリという何かをかきむしる音だけが返ってきた。
2 液体、別れ、警告
牢に閉じ込められてどれくらいになるだろう。
不安と恐怖と孤独が脳髄を支配し、自我が崩壊しそうになる。いくら独りではないといっても、何も見えないし会話がなければたちまち孤独にさいなまれる。
間違いなく二十四時間は経過していると思う。疲れてはいるが、どうも寝る気になれない。別に彼らの言葉を信じているわけではないのだが、外の世界やこれからのいきさつと、さまざまなことが脳裏をよぎり、眠れなかっただけだ。
だが、少しだけ前進する情報を得ることが出来た。
同じ牢に囚われている男の名はサイードと云い、閉じ込められて九十六時間以上は経過しているそうである。つまり四日ほどとなる。彼はスパイ容疑でココにいるそうだ。そこで推測できることは、自分もそれくらいは拘束されるかもしれないということであった。まあ、前進とは云えないが、少なくとも、耐えるだけの心構えは出来た。
暗闇に眼がなれることのない真の闇――。口数の少ないサイードは自分の質問にほとんど答えてくれない。そのため、聴覚に頼るしかないのだが、ガリガリという音以外は何もきこえてこない。
食事は一日二回、昼と夜だろう。支給係から何かを訊き出そうにも、「眠るな」と云うだけで何も得られない。やはり情報を得るにはサイードしかいない。
闇を歩くのも幾分なれてきたので、手探りではあるが、サイードのいる辺りへ近づく。
「それ以上近づくな!」
突然の怒号にギョッとした。どちらかというと、サイードは温厚な感じの話し方をする。それがこうも変わるのか、と俺は歩を止めて質問した。
「いったいどうしたんだ、サイード?」
「どうしたもこうしたもない、とにかく近づくな」
「何かするわけじゃない。同じ囚われの身で、いわば仲間じゃないか」
「そうやって油断を誘い、俺を眠らせようと云うんだな。そうはさせない。来るな! それ以上近づくんじゃない!」
「またそれか。いったい眠ったらどうなるって云うんだ?」
サイードはそこで少し間を置いてから答えた。
「……決まっているじゃないか。眠ったら……死ぬんだ!」
それ以降は、何を云ってもだんまりを決め込んでしまった。
彼はついに狂ってしまったのだろうか。それとも、寝ると死ぬという言葉は真実で、罠が仕組まれているのか。
ただひとつわかっていることは、俺の鼓膜に、『眠るな』というフレーズが離れずに残っているということだけだった。
幾度目かの夜がやってきた。何故わかるかというと、二度目の食事と、ガリガリという音が合図になっている。食事の後の奇妙な音、それは夜の到来を意味する。
さすがに睡魔がはばをきかせてきた。座っていると頭がカクンカクンと揺れてしまう。
そのときだった。突然、サイードが大声で叫びだした。
「ダメだ、やめてくれ!」
「どうしたんだ、サイード?」
「来るな、来るな~!」
彼に何が起こったのか、そのままプツリとサイードの息遣いが止まってしまった。四つん這いでだが、彼の元へ急ぐ。サイードがいるだろうという場所で、何か生暖かい液体が手に触れた。床に広がる、どろどろと粘りつく液体だった。
「大丈夫か、サイード?」
空中に手を漂わせると彼の身体に触れた。触れた場所は形状からおそらく腕であろう。それにしてもなんて細い腕をしているのか。そして、床にたまっていた液体と同じぬくもり、粘り気のものが彼の腕からも伝わった。そのとき俺は理解した。自分が触れた液体は、サイードが流した血だということに。
どうすることも出来ず、何も考えられず、呆然としていたときだった。
扉を開ける音――「大佐、どうやら、死んだようですね」
支給係の声だ。それに答えるのは、太く威圧的で冷淡な声。
「これで九人目か。ドクターの云っていることも、いよいよ信憑性を増してきたな」
「お前たちはいったい何をたくらんでいるんだ? 俺も殺すつもりなのか?」
俺の質問に大佐と呼ばれた男が答えた。
「殺すつもりはないさ。誰も手は出さない。ただ、お前はかってに死んでいくんだよ」
そのとき理解した。俺を決して出すつもりなどないということに……。
声のしたあたりに飛び掛かるが、場所を誤ったようだ。壁に激突し額を殴打した。しりもちをついてそのまま立ち上がれずにいると、頭上から再び大佐の声。
「死にたくなければ、絶対に眠るな。そうすれば、ここから生きて出られる」
そのあと、何か重い物を引きずる音が響いてきて、やがてそれも、完全に消え去った。
「ど、どこへ行ったんだ! 俺の質問はまだ終わっていないぞ」
死への絶望よりも、孤独という恐怖が、俺の脳髄を侵食した。
3 ガリガリガリ
大佐は確か『ドクター』と云っていた。俺の置かれている現状はおそらく何かの実験だ。食事に薬物か何かが混入されているのか、無臭のガスを使っているのか、疑いだしたらキリが無い。何を狙っているんだ。どんな実験なんだ? 睡眠と、関係があるのか?
そういえば、ガリガリという音は、いつの間にか消えている。
あの音は何だったのだろう。
俺はどれくらい、寝て、いないのだろうか。
そして、どれくらい食べていないのだろうか。
「眠るな。寝ると、死ぬぞ」
サイードの声だ。彼は死してなお俺に忠告してくれる。
彼は云った。『眠らなければ死ぬことはない』
サイードはおそらく眠ってしまったから壮絶な最後を迎えたのだ。
絶対に生きて帰ってみせる。簡単なことだ。眠らなければいいのだから……。
ふと、ガリガリという訊きなれた、それでいて懐かしい音が俺の耳をゆるがした。
どこからだ? もしや、大佐は生物の実験でもしているのか。謎の生物を使った実験? それはどんな実験なのだ。わからない、何もわからない。
眠い、眠い……。
誰か、俺を寝かさないでくれ。
ときどき意識が飛ぶ。立っていてもどうにもならない。
いっそ、深い深い楽な闇へ落ちてしまおうか。
きっと大丈夫。眠っただけで死ぬなんて、普通に考えてあり得ない。バカげている。
もしも鬼妙な生き物が現れたとしても、そのとき起きれば問題ないはずだ。撃退すればいいのだ。
『眠るな。寝ると、死ぬぞ』
アア……サイード、君は俺を苦しめるのが目的なのか? 楽に、楽にさせてくれ。
俺の腕を、何かが這いずりあがってくる。もぞもぞとした感触。虫か? いや、これが実験動物なのか?
振り払うが手ごたえがない。いつの間にか消えている。
そうか、わかった。俺は今、眠っていたのだ。
だから襲われそうになった。
これからは気をつけないと。
ダメだ。どうしても睡魔を追い払えない。意識が自分のものではないかのように、かってにどこかへ飛び去ってしまいそうだ。
頭を壁にぶつける。一瞬の痛みが睡魔を退ける。
これだ。
痛みが、俺を生きながらえさせてくれる。
何度目の夜が来たのだろうか。もう、夜の到来はすぐにわかる。なぜならば、ガリガリという音が、この牢の中をこだましているからだ。
音は、自分の身体から……発せられている。
眠気を覚ますには、腕の肉をかきむしり、足を切り刻み、頭部をかきむしる。
痛みが心地いい。恐怖の眠りから俺を遠ざけてくれる。耐えられないほどの痛みが、俺を睡魔から耐えさせてくれる。激痛が脳を覚醒させる。爪に食い込む肉の感覚が胃をもみほぐす。指に絡みつく髪の毛が身体中の毛を栗立たせる。
ガリガリ、ブチブチという音が聴こえている間は、俺は死なない。
眠気なんかやってこない。
ハハハハ。俺はヤツラに勝ったんだ。ハハハ……ハ……ハ。
得体の知れない生き物が俺の身体を這いずっている。チクチクとした感覚、ヌメヌメとした感触、それから、皮を食い破り、皮膚の中に侵入してくるものまでいる。
やめてくれ。助けてくれ。いっそ、ひとおもいに殺してくれ。
哀願すらも闇に飲まれていく。
大きく開けた口の中に何者かが侵入してくる。
大きく見開いた眼に何者かが侵入してくる。
何者かは俺の肉を食いながら、脳髄へと進行して行く。
『眠るな。寝ると、死ぬぞ』
俺は眠っているのか? だとするとこんなのは呪いなんかじゃない、ただの夢だ。夢で死ぬことはない。俺は死なない。大丈夫だ。
だけど今、心臓に食らいついているのは何だ? この激痛はどういうことだ?
助けてくれ、サイード、大佐、誰でもいい、この痛みから解放してくれ!
俺はただ戦場の現実を写していただけじゃないか、他にも大勢いるじゃないか、何で俺なんだ、俺が何をした、死ななくてはならないほどのことをしたのか?
ブツンという、筋肉の切れる大きな音が、俺の胸の位置からこだました。
鼓動と同時に、今まで経験したことのない体内のいたるところまで熱い液体が流れているのを感じる。
小さな生き物はなおも心臓を食いちぎろうとしている。細切れにしようとしている。
このままでは、いくら夢とはいえ、俺の精神が持たない。生き物は俺の胸の中であばれている。生き残るためには、死なないためには、この化け物を俺の体内から出さなくてはならない。こいつらは胸の中にいる。頭部の中にいる。うじゃうじゃ。取り出すんだ。一匹残らず引きずり出すんだ。
4 笑い、響き渡る軽い音
ワイングラスを片手に、大佐は声を高らかに笑った。その視線の先には白衣の老人がいる。
「実験は成功だな。これを応用すれば敵国に甚大なダメージを与えられる」
「強力な自己暗示は身体への変貌も起こします。しかし、大佐。何故、あの日本人を実験対象にしたのですか?」
大佐はそれを訊いて太い口ひげをいびつに吊り上げた。
「他人種にも通用するのかを知りたかったのでな」
「あなたという人は……」
「良心が痛むか? ハハハハ。最初はお前も乗り気だっただろ」
「私はただ、自分の論証が正しいかを知りたかっただけです。強力な自己暗示は、他のモノへと伝染する。その証拠を得たかったのです。数人の者たちがAは使えない人間だと連呼すれば、周りにいる人たちもそう思うようになる、ある作品を面白い面白いと繰り返されれば、実際そうでもなくとも、面白いと感じてしまう、といったことを訊いたことがありませんか?」
「群集心理だろ。それをお前は個人のちからでも他人の精神をコントロールできることを発見した。少ない労力でも敵は自滅していく」
「生存本能を凌駕するには、特殊な環境をつくらなければなりません」
「もう少しつづけるか? 日本人は死んだ。またふたり、用意することにしよう」
「幻覚を引き起こしやすい薬を使わなくてもすむようになるまでは、そのほうがいいでしょう。しかし、大佐。なにかが引っ掛かっているんです。もしかしたら……」
「もしかしたら、なんだ?」
「いや……なんでもありません」
大佐は自室に戻ると、悦に入りながら横になった。先ほど飲んだワインが全身に染み渡り、すぐに睡魔がやってきた。我が軍の確実なる勝利に浸りながら、大佐は安らかな寝息を立て始めた。
その翌日、ドアを強く叩く音でドクターは眼を覚ました。何事かと出てみると、大佐の部下が顔色を真っ青にして立っていた。
どうしたのかと尋ねたところ、部下はすぐに来てくれというだけだったので、ドクターは急いで着替えを済ませると、彼の後をついていった。
到着した場所は大佐の部屋の前、恐る恐る扉を開けると、そこには恐ろしい光景が広がっていた。
壁という壁にこびりつく血。大震災にみまわれたと見まがうほど散らばる家財道具。
そして、ベッドの上で、大きく眼を見開き、首に指を突き入れて、悶絶している大佐。
大佐の部下たちはこの事態をどうすればいいのかわからず、右往左往しているが、ドクターは違った。
「あ~っはっはっはっは」
大佐の死体を見て狂ったように笑った。
「やっぱり私の考えは正しかった。もうすでに、我々にも――」
その後すぐ、ドクターの顔色は、先ほどの部下以上に、いや、闇の牢獄以上に暗い顔をしたのだった。
彼の視線には、落ちている大佐の銃がとらえられていた。
完