七.死に対する報復と生に対する報酬
気付いたら、寝慣れないベッドの上にいた。いつも僕が寝ているベッドより寝心地が良い。このベッドはスプリングがよく効いている。シーツも良い香りだ。
ベッドの感想はともかく、僕は見慣れない部屋にいた。そしてこの部屋はおそらく病院の部屋だ。
僕の足にはギプスが填められていた。両足とも。腰回りにもギプスが填められている。無理に走るというのは脚だけでなく腰にも悪影響があるようだ。おまけに左腕には点滴が打ってあった。どうやらかなりの重傷だったらしい。
あの後、別木さんが助けを呼んでくれたのだろう。そうしてそのまま入院してここにいるようだ。
「目が覚めたようだね」
首を曲げて横を向く。そこには妹の榛嘩がいた。白いワンピースを着て、小綺麗なおめかしをしている。
「あら、いたのか」
「学校から電話があったのよ。おまえが怪我して入院したから、すぐ行ってくれって」
別木さんが連絡してくれたのだろう。僕は妹と二人暮らしだから、学校からの連絡を榛嘩が受け取って見舞いに来てくれたみたいだ。そういえば僕の財布も携帯も阿久津さんに盗られていたのだった。榛嘩が来てくれなかったら面倒なことになっていたかもしれない。
「はい」 榛嘩が、僕の財布と携帯を枕元に置く。
「どうしたの、これ? 阿久津さんに盗られていたんじゃ?」
僕は動揺して榛嘩に訊いた。
「取り返したに決まってるだろ。よその女におまえの所有物を取られてたまるか」
僕は納得した。榛嘩は僕の悩み事なんか僕の知らない間に察知して解決してしまう妹だ。
榛嘩がナースコールをして、医者が来た。僕が目覚めたから容体の確認に来たのだ。
問診を終えると、しばらく安静にするように言われた。
病室に榛嘩と二人になる。
「それにしても、そんなにボロボロになって何があったのよ?」 榛嘩が僕に訊く。
「全力以上で走ったらこんな身体になった」
「どうやったら全力以上の力で走れるのよ?」
「魔術を使ったら、100mを5秒で走れそうだった」
「真面目に答えろ」
榛嘩は手元にあった時計で僕の頭を目掛けて殴りかかった。いつもなら避けられるような攻撃だったけれど、両足と腰にギプスを填めた僕には直撃を避けられなかった。相変わらず妹のくせに態度が大きくて凶暴だ。僕のことを心配して見舞いに来たくせに、余計な怪我を増やそうとする。
「痛いよ」
「ふざけたことを言うからだろ。居なくなった四日前から順に説明しろ」
「四日前?」 僕は予想以上の数字に驚いた。
「おまえはここで丸三日寝ていたんだ。お医者様の話だと、異常な体力の衰弱で死ぬ寸前だったらしいわよ」
「やっぱり、生きる力を無理に使い過ぎると死ぬのか……」
榛嘩は再び、時計で殴りかかってきた。そして再び脳天に直撃した。
「一人で悟ってないで、さっさと説明しろ」
「……はい」
僕は突如誘拐されたところから順を追って榛嘩に説明を始めた。かなり長くなりそうだ。
榛嘩は僕の長話を呆れた目をしながらも静かに聞いていた。というか榛嘩なら、僕が話をするまでもなく、僕の事情を知っているのだろう。僕の事は僕よりも榛嘩の方が詳しい。榛嘩は僕に喋らせたいだけなのである。
そんな長時間に渡る僕の冒険話が終わる頃、日も沈みそうになっていた。
「それで、魔術師になったということね」
「まぁ、そんなところかな」
魔術師という言葉の印象の割には、ティッシュに火を着けたり電気回路を壊したり体力を回復したり身体の機能を上げたりと、地味なことしかしていない。僕には魔術師という言葉はもっと明るく派手な印象があるから、僕のしたことはそんなに大層なことではない気がする。確かに普通の人には出来なさそうなことではあるけれど、僕の感覚では科学の延長だ。あの魔術基礎の理論を利用すれば、遠くない未来に科学の発展と共に誰でも魔術が使えるようになる気がする。
「それで、なんで阿久津藍を殺さなかったの?」
榛嘩の質問が僕の心臓にぐさりとする衝撃を与えた。
「おまえの立場を考えたら、阿久津藍は確実に殺すべきだった。初めから殺す気でやれば、殺せたよね?
ついでに言えば阿久津彰斗もきちんと殺すべきだった。いつまた、おまえを狙って襲ってくるか分からない。また襲ってきても同じように倒せるなんて油断もいいところだよ。殺さなきゃ自分が死ぬ。そんな状況判断も出来ないほど、おまえは頭が悪くないはずだろ?
それに無関係の人間を二人も死なせているんだ。おまえの友人であるところの蝶名林海も死んでいるんだ。報復に阿久津藍を殺しても、みんな同情してくれるぜ」
「阿久津彰斗はともかく、阿久津藍はきちんと殺そうと思ったんだ」
「でも、初撃は剣の腹で打っただけだろ。なんで斬らねぇんだよ。そこで仕留めれば終わりだったのに。きちんと殺す気で行けば、その時点で終わってただろうが」
僕は天井を見上げた。しばらく沈黙で場を繋ぐ。
「やっぱり人を殺すのが嫌だったんだよ」
考えた割にはありきたりの答えしか出てこなかった。
そんな僕の答えを榛嘩は鼻で笑った。長年僕と一緒にいる榛嘩からしたら、僕が人を殺すのをためらったのが似合わなくておかしいのだろう。
生きることは大切だ。生きているだけで価値がある。なぜなら魔力を使っているから。原子に意志を与える万能の力。その生命特有の力は、そこに存在するだけで素晴らしいと思う。どう表現していいか分からないが、生きるという仕組みに僕は感動していた。
そんなことを思っていたから、余計に人を殺すことに抵抗があったのかもしれない。
逆にいえば、そんな人を殺した阿久津兄妹を生かしておくべきではなかったのかもしれない。
「はっ。何を綺麗ごと抜かしているんだよ。堂本絵里子は見殺しにしたくせに」
そういえば、419号室で、堂本さんは剣を抜いて電流を浴びて死んだ。
「別に見殺しにしたわけじゃ……」
「いいや、見殺しだね。おまえは罠があることを見抜いていたくせに堂本絵里子が剣を抜くのを止めようとしなかった」
「やっぱり、僕は悪い事をしたのかな?」
「良い悪いは誰かが適当な基準で判断するだけだ。あたしに聞いても適当な答えしか返せないよ。
それより阿久津藍を殺さなかったことを悔やむべきだ。次会うときは確実に殺さないと、殺されるかもしれないぞ」
「そうかな?」
「そうだよ」
「でも、何故か阿久津藍は殺すのは抵抗があるんだ」
あんなことがあった後でも阿久津さんを殺したいとは思えなかった。理不尽に生死を賭けるゲームに参加させられたし、親友の海を殺されている。殺したいぐらい憎んでいてもおかしくないのに、そんな気持ちにはならない。
「あれだ。おまえは魔術に興味があるんだろ。せっかく魔術なんて未知の現象に遭遇したんだ。もっと知りたいと感じているんだろうよ。おまえは阿久津兄妹を殺して魔術について知れなくなるのが嫌なんだろう。人を殺しちゃいけないなんて綺麗な話ではないさ。おまえの原動力なんてそんな好奇心だけだろうよ」
「そんなもんかな?」
「それが全てだよ」
相変わらず妹のくせに僕より僕の事を良く知っている。
いずれにせよ、阿久津兄妹は生きている。生きていればまた会うこともあるだろう。というか、僕と別木さんは魔術を使えるようになったのだ。魔術を独占したい阿久津さんなら、また襲ってくる可能性は高い。次に会うときまでに殺すべきかどうか考えておこう。なんだか物騒な考え事だ。
病院内に音楽の放送がかかる。なんだか寂しげなクラシックだ。面会終了時刻を知らせる音楽である。
「それじゃあ、あたしは帰るわ。お医者様の話だと、あと一週間は入院だそうだから」
「あ、ちょっと待って。一つだけ、いいかな?」
「何よ?」
僕が呼び止めると、榛嘩は足を止めてくれた。
「僕と別木さんと阿久津さんは、なんで魔術が使えたのかな? 阿久津さんの先祖は使えなかったのに僕達だけ使えた理由が分からない」
別木さんはその理由を元に、阿久津さんと交渉しようとしていた。阿久津さんも知りたいだろうけれど僕も知りたい。
そもそも僕も別木さんも魔術が使えるようになったのは、魔術基礎を読んだからだ。僕はもとから魔力が見えていたから、使いやすい状態にあったかもしれない。一方、別木さんは魔力が見えない。魔術基礎を読んだだけで使えるようになったのだ。
しかし読んだだけで魔術が使えるならば、阿久津さんの祖先だって僕達と同じものを読んでいるから、魔術が使えるはずである。僕達だけが使えた理由が分からない。
榛嘩は、天井を見上げて考え出した。
「名前の画数が良かったのかな?」
僕は適当なことを行ってみた。魔術を使えた三人の共通点はそのくらいだ。同じ学校の同じクラスということを除けば、あまり共通点の無い三人だと思う。
「それはない。それなら阿久津彰斗が魔術を使えない理由にならない」
阿久津彰斗 8+3+9+14+4 =38
確かに僕達と同じ38画だ。
「ちなみに三人だけ魔術が使えた理由なら分かっている」
榛嘩は一人で納得していた。
「分かったの?」
「詳しい話は退院したら教えてやるよ。簡単にいうと、魔力っていうのは生きる力なんだろ?」
「うん。魔術基礎にもそう書いてある」
「なら、こうだ。おまえ達は三人とも生きることに必死だったんだろ」
「生きることに必死?」 僕は聞き返す。
「おまえも別木衣智香も生死をかけたゲームをしていたし、阿久津藍も周りの人達の期待に応えるため、死ぬような思いも何度もしたって言っている。生きることに必死だったおまえ達に魔力が応えたんだろ」
それだけ言って、榛嘩は病室を出て行った。
一人残された僕は点滴の液が落ちるのを眺める。
「生きるのに必死か」
榛嘩が言った言葉はなんだか妙にしっくりきた。
あたしは、織彦の病室から出た後、隣の病室に入った。面会終了時刻はとうに過ぎているが勘弁してもらおう。
病室の前に掛けられている名札を見る。そこには「別木衣智香」の文字。
「失礼します」 あたしは丁寧に声を掛けて病室に入る。
ベッドに腰掛けていた別木衣智香はきょとんとした顔でこちらを見た。別木衣智香は胴体にギプスを着けていた。
「傷は痛まないですか?」
あたしは無難に丁寧に話しかけてみる。織彦以外に悪態を吐くことはない。
「えっと」
動揺するのも無理も無い。別木衣智香はあたしのことなんて知らないのだから。かくいうあたしも、別木衣智香の顔は初めて見たが。
「どちら様?」 別木衣智香が恐る恐る尋ねてくる。
「江本榛嘩。15歳。江本織彦の妹です。あなたが別木衣智香さんですよね?」
あたしは丁寧に応える。別木衣智香がこくんと頷く。あたしが織彦の妹と知って警戒心がとれたらしい。笑顔を見せてくれる。
「織彦くんの妹さんがどうしたの?」
「お届け物です」
あたしは、別木衣智香の枕元にスクールバックを置く。
「これは、わたしの?」
「ええ、そうですよ。中の保険証を確認させてもらったので、間違いないです」
「一体どこにあったの?」
別木衣智香は身を乗り出して訊いてきた。
「順を追って説明します。あのホテルでのゲームの裏側も含めて」
「織彦くんから聞いたの? というか、織彦くんは?」
「隣の病室にいますよ。後で会いに行ってあげてください」
あたしは社交辞令を吐いた。本当は会いに行って欲しくは無い。織彦は別木衣智香のことを気に入っているみたいだし。
「それじゃあ、説明しますね。話は四日前になります」
「わたし達があのホテルに連行されたときね」
「夜になっても兄が帰ってこないので、兄の鞄に付いている発信機を使って迎えに行くことにしました」
「…………」
あ、訝しまれている。
あたしはこほんっと息を入れて仕切り直した。
いつもだったら、学校が終わったらすぐに帰ってくるはずの織彦が帰って来ない。
「おかしい」 あたしは思わず一人で呟く。
もう八時だ。おなかが空いたのだが、食べる物が無い。織彦が帰って来ないと食べる物が無い。冷蔵庫は空である。
「コンビニ行くか」
もう織彦を待つことは諦めて先に食べよう。あたしは料理が出来ないから、すぐ食べられるパンでも買って来よう。
あたしは出掛ける身支度をして家の外に出た。
「おなかがすいた、おなかがすいた、おなかがすいた」
謎のリズムを作って走り出す。一分でコンビニに到着した。
コンビニの光が眩しい。いくら明るい方が綺麗に見えるからといっても、こんなに明るくしなくてもいいのにと思う。身体が白くなりそうだ。
籠にパンをいくつか入れる。明日の朝の分まで買っておこう。
そして、レジに籠を置いた瞬間に気付いてしまった。
「財布忘れた」
なんだか無性に怒りが湧いてきた。
「織彦のやろう」
完全に八つ当たりではあるが、織彦が恨めしくなってきた。あたしは買い物籠を置いて、急いで家に戻った。玄関を開けると一目散に自分の部屋に入る。
発信機モニターの電源を入れる。織彦の鞄、携帯、筆箱、制服に付けてある発信機が反応する。
「ここ、どこだよ?」
織彦の位置はここから30km以上離れていた。その距離だと山の中になる。こんな山奥だと集落もないはずだ。きちんとした道があるかどうかも怪しい。
「なんでこんな場所に行ってんだ?」
仕方が無い。迎えに行ってやるか。
怒りにまかせてリュックに荷物を詰める。財布、携帯、タオル、ロープ、懐中電灯、非常食、地図、テント、警棒、鞭、サバイバルナイフ、スタンガン、拳銃、などなど。
「よし、行くか」
あたしは織彦を迎えに家を飛び出た。
あたしは、電車を使って織彦のいる場所に向かう。まだ終電は出ていなくてよかった。
「まだ結構、距離があるな」
発信機モニターと携帯画面の地図と目の前に広がる山を見比べる。
「行くか」
あたしは懐中電灯を点けて暗い夜道を歩く。細いけれどきちんと舗装された道があった。街灯も少ないながらちらほらある。これなら進んで行けそうだ。発信機によると1kmくらい歩けば、織彦の所へ到着出来そうだ。1kmとはいっても、山の1kmだからそれなりに時間がかかりそうだ。
しばらく歩くと、あたしの後方から自動車がやってきた。黒い色をした大きめのバン。
あたしは、道の端に寄って車をやり過ごす。大きい車だから、道幅いっぱいを使わないと通れない。車はあたしをすれすれで躱そうとする。
そのまま通り過ぎると思ったのに、車はあたしの横で止まった。運転席の窓が開く。二十代くらいの男だった。運転席から男が話しかけてくる。
「こんな夜更けにこんな所でどうしたの? 迷子かな? この先には、うち以外には民家も何にもないよ」
迷子だと思われたようだ。どういう言い訳をしたら怪しまれないかな。しかし、この先にはこの男の家しかないのか。それならば、織彦もそこにいるのかもしれない。このままこの男に付いていくことができないだろうか。
「実は家出しててぇ、行くところが無くて困ってるんですよぉ。良かったらお兄さんの所に泊めてもらえませんかぁ?」精一杯甘えた声を出してみた。自分で自分が気持ち悪かった。
男はちょっと悩む仕草を見せた後、笑顔で応えた。
「良いよ。乗って」 男は助手席を促した。
ちょろい。あたしは思わず口の端を持ち上げた。
あたしは助手席に乗せられて、男とドライブすることとなった。
男の名前は阿久津彰斗という。何やら最先端科学技術を利用した工業製品の開発をしているらしい。発明品を二、三個説明してもらったけれど、よく分からなかった。
あたしは名前を偽って江川はるみと名乗った。この男に本名を名乗るのは怖かった。あたしは一部に有名人だから本名を知られると困る。ネット検索されたら正体がばれる。
すぐに、阿久津彰斗の家に着いた。家というより別荘らしい。いろいろな実験に使うようだ。夜なのでよく見えないけれど、かなり大きな洋館だ。
「おいで」 阿久津彰斗が案内してくれる。
あたしはとことこと付いていく。いきなり襲われないかは警戒しつつ、不審に思われないよう笑顔は崩さない。
案内されるがまま、洋館に入る。洋館の中も外装に負けない豪華な様相をしている。赤の絨毯の上に壺や甲冑などの調度品が並べてある。どれもこれも高価そうだ。
「こっちだよ」
二階に上がって、客室らしき一室に案内された。テーブル、ソファ、本棚、ベッド。ホテルの大きめの部屋のようだ。
「ちょっと待っててね」 阿久津彰斗はそう言ってあたしを置いてどこかに行った。
「さて」
あたしはリュックの中から発信機モニターを取り出す。合計四つの発信を捉える。そのうち三つの発信機、織彦の鞄、携帯、筆箱に付いている発信機はこの建物の中にありそうだ。
「ビンゴ」
しかし織彦の制服の襟の裏に付いている発信機はこの建物にはない。ここから少し離れたところにあるようだ。
「制服を脱がされてないといいんだけれど」
脱がされていたら脱がされていたで、楽しそうな展開になっているかもしれないが、そう安心してよい状況ではなさそうだ。おそらく織彦はこの近くに誘拐されている。自分からこんな所に来るような織彦ではないから、誘拐で間違いない。犯人は阿久津彰斗。もしくはその仲間。目的は不明。織彦はこんな大がかりな誘拐をされる程、人の恨みを買うような奴ではない。適当な理由で巻き込まれたか。
「この辺りを探索してみますか」
本当はすぐにでも、織彦の制服の場所にでも行きたいのだけれど危険だ。下手にうろちょろして、阿久津彰斗に見つかると行動を制限されるかもしれない。
本棚に目をやる。目をやって十秒で違和感が湧く。
「何? この本棚、異様だな」
本棚に並ぶ本は「基礎魔術理論」「魔法全書」「魔術の理」「魔法の歴史」などといった魔術関連の物しかない。書店にあるような本ではなく、時代かかった手作りしたような本ばかりである。大き目の本棚にぎっしりと百冊近いオカルト本が並んでいる。
「オカルト好きな人が住んでいるのかしら?」
阿久津彰斗はここが別荘だと言っていたが、阿久津彰斗が選ぶ本とは思えない。あいつは最先端科学技術を利用した工業製品の開発をしていると言っていた。そんな工学的な人間がオカルトのような非科学に没頭するのは考えにくい。おそらく阿久津彰斗とは別人が揃えた本棚なのだろう。
その中の一冊を手にする。「魔術基礎Ⅰ」という本だ。一頁目から読み進めていく。
「なかなか面白いわね」 思わず感想が口に出る。
完全に空想の世界の魔術ではなく、あたかも現代科学に則って魔術を使えるような理論が書いてある。ここに書かれているようにやってみれば、実際に魔術が使えそうな気になってくる。そんな気がするだけで、実際の科学の理論で考えれば、こんなこじつけ理論で魔法が使えるはずがない。
「原子に意志を持たせる、か」
あたしは「魔術基礎Ⅰ」を読み終えて本棚に戻す。他の本も読んでみたいがそんな時間はもったいない。織彦を探しに行かないと。
そのとき部屋の扉が、がちゃりと開いた。
「あら、可愛い子だね」
てっきり阿久津彰斗かと思ったら、別人だった。高校生くらいの女子。御園高校の制服を着た女子高生だった。手には黒いミトン型の手袋をしている。あの親指しか無い手で丸いドアノブを握るのは大変だっただろう。
「あなたは?」
「あたしは、阿久津藍。藍色の藍と書くのよ。阿久津彰斗の妹よ。あなたが江川はるみさんね」
阿久津彰斗の妹だったか。兄妹で同じAAの頭文字だ。それに漢字の画数が同じだ。
阿久津藍 8+3+9+18 =38
阿久津彰斗 8+3+9+14+4 =38
江本織彦 6+5+18+9 =38
江本榛嘩 6+5+14+13 =38
ん? 織彦やあたしとも同じ画数だな。総画数が38画の人間がこんなに揃うなんて珍しい。38なんて特徴的な数ではないな。数学上重要な数でもなさそうだ。思い出すのは原子番号38の元素がストロンチウムであることぐらいだ。
「あ、どうもお邪魔しています」 あたしはぺこりとお辞儀をした。
「はるみ、ってどんな字を書くの? 江川はよくある江川だよね?」
名前の漢字を聞かれた。江川はるみという偽名は思い付きだから漢字まで考えていなかった。別に漢字なしの平仮名の名前でも良いのだけれど、せっかくだから画数を揃えてみよう。
「晴天の晴に、魅力の魅で晴魅です」
恐ろしいくらい書きづらい名前になってしまった。しばらくあたしは江川晴魅としてやっていかないといけないのか。我ながら面倒なことをしてしまった。
「珍しい漢字ね」 阿久津藍も驚いていた。
偽名だとばれてないだろうか。いや、ばれても問題ないか。家出少女が本名を隠すなんてことはよくあることだ。
「歳はいくつ?」
「十五です」 ここは正直に答えた。
「あら、高校生? 中学生かと思ってた」
「学年は高校生ですけど、高校行ってないので」
「あら」
阿久津藍は驚いていた。中学も禄に卒業していない不良娘に思えたのだろう。
「風呂に入る? 暑い中歩いてたみたいだから、汗もかいたでしょ」
「あ、ぜひ、お願いします」
「一緒に入っていい?」
「丁重にお断りします」
何か危ない提案をされたが、乗る訳にはいかない。
風呂から上がって、部屋に戻ると阿久津藍が待っていた。
「風呂はどうだった?」
「いい湯加減でした」
すると阿久津藍があたしに飛びついてきた。正面から腕をぐっと回してあたしを抱き締める。勢いでふらっと倒れそうになったけれど何とか耐える。
「あの、藍さん?」
「ん。可愛いわね」
阿久津藍はそう言って、あたしをぎゅっとする。
しかし、その抱き締め方には違和感があった。左右のバランスが悪い。左手からの締め付けが弱いような気がする。
「あの、藍さん?」
「もう寝る?」
ややあって、阿久津さんはようやく解放してくれた。
「そうします。一緒には寝ませんよ」
寝たふりをして周囲の探索をしよう。
もっと付き纏われるかもしれないかと思ったけれど、意外にもあっさりと解放してくれた。これはチャンスだ。
「あの、藍さん。一つ訊きたいのですけれど」
「なぁに?」 阿久津藍は小首を傾げる。
「この部屋にある魔法関係の本って、藍さんの趣味ですか?」
阿久津藍は一瞬だけ驚いた顔をしたけれど、すぐに柔らかい笑顔戻った。
「趣味というより、仕事よ。うちの家系は代々続けて魔術の研究をしているの」
そういえば昨日のロードショーで魔法使いの話を見た気がする。真剣に見ようとしていたのに、織彦にどうでもいいことを話しかけられて苛ついたから、今日のあいつの弁当をぐちゃぐちゃいにしてやったっけ。
「藍さんは魔法が使えるんですか?」
「まぁね」
阿久津藍はあっけらかんと肯定した。
そして、掌の上に火を灯した。
「え?」 あたしは茫然としてしまった。
何も無いところで発火した。阿久津藍の黒い手袋の上で火がゆらゆらと揺れる。
「それじゃあ、また明日。今日はおやすみ」
そう言って阿久津藍は火を握り消した。そして部屋から出て行こうとした。
「ちょっと待ってください。その火はどうやって?」
「秘密よ」
阿久津藍は、にこりと笑って部屋から出て行った。
あたしが我に返るまでかなりの時間がかかった。
あたしは再び「魔術基礎Ⅰ」を手に取る。こんな理屈で本当に魔法が使えるのか。SFとしては面白い理論だったけれど、こんな夢物語のような理屈で実際に魔法が使えるとは思えない。阿久津藍は冗談で言ったのだろうか。いや、そんな雰囲気ではなかった。
「まぁ、いいか」
あたしは思い直して「魔術基礎Ⅰ」を閉じた。魔法に関する興味はあるが、今は織彦のことを考えよう。
リュックの荷物を確認して、探索の準備をする。発信機によれば、織彦の鞄、携帯、筆箱はこの建物の中にある。まずは、これらの物を探そう。
とっとと織彦を捕まえて帰って来られるかと思っていたけれど、これは予想以上にやっかいな相手のようだ。どうして織彦はこんなやつらに捕まったんだよ。