一.閉空間における邂逅と不完全な協調
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人体は、いくつもの器官からできている。それらの器官は60兆個の細胞からできている。それらの細胞は、水、タンパク質、アミノ酸、糖、ホルモン、コレステロール、ビタミンなどの化合物からできている。原子レベルで見れば、体重60kgの人をつくるために、酸素45kg、炭素10kg、水素6kg、窒素2kg、カルシウム1kgと細かな原子が必要となる。
しかし、これらの原子を全て揃えて正しく化学反応させても人間はつくれない。高度に発達した科学によって複雑な人体構成を再現しても、生きた人間をつくることはできない。これらの原子を繋いで命をつくるには、現代の科学の力では何かが足りない。
人間が人間であるための力。もしかしたら、それは、魔法と呼べる力かもしれない。
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気付いたら、寝慣れないベッドの上にいた。いつも僕が寝ているベッドはもう少し寝心地が良い。スプリングはきちんと機能しているし、一ケ月に一回はシーツを洗濯する。しかしこのベッドは固いしカビの匂いもする。普段からあまり使っていないのだろう。人の残り香もしなければ、人の痕跡もない。長年放置されていたに違いない。
ベッドの感想はともかく、僕は見慣れない部屋にいた。いや、部屋という表現では上等過ぎるだろう。六畳くらいのこの空間は牢屋を連想させる。ここにあるのはベッドと洋式のトイレと洗面台のみ。黄色い豆電球がこの牢屋を薄ぼんやりと照らしている。牢屋に入れられたことがないので想像に過ぎないが、牢屋というのはおそらくここのような空間なのだろう。
僕はベッドから身を起こし、身体を動かしてみる。両手の指は合わせて十本。手首の可動域は縦160度に横80度。肘の可動域は150度。肩も屈曲、伸展、外転、内転、外旋、内旋、全て動く。次に狭い空間を数歩進んでみる。直進、回転、後退、腿上げ。全て可能。足も正常だ。身体の機能に問題は無さそうだ。いつも通り正常に動く。
首を大きくぐるりと回す。すると違和感があった。何かが引っかかった。首に右手を当てる。そこには金属の感触があった。土星の輪の如く首の周囲を金属が囲っている。いわゆる首輪である。首輪が僕の首に巻かれていた。
背筋が身体から離れたような気分がした。
薄暗い豆電球を頼りに牢屋の中を調査する。打ちっぱなしの石で囲まれた牢屋には、窓はなく金属製のドアが一つあるだけだ。
ドアに近づくと張り紙を見つけた。
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ゲームスタート プレーヤーナンバー 38‐5 江本織彦
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その字は赤い明朝体で書かれていた。ゲームが何を差すのか、なぜ自分がこんな状況に置かれているのか、とんと見当も付かない。しかし張り紙には間違いなく自分の名前が書かれていた。赤い字で名前を書くと寿命が縮まるという迷信がある。これを書いた人物は、そのことを知らないのだろうか。それとも知っていて僕の寿命を縮めるために書いたのか。
思い付く限り記憶を手繰る。しかし、大したことは思い出せない。いつものように学校に行って、いつものように学校から帰ろうとしたところまでは覚えている。そこから記憶がいまいち、はっきりとしない。今も制服だから帰り道で何かあったに違いない。
自分でこんなところに来た覚えは無いから、誰かに連れて来られたのだろう。それすらもあやふやだ。脳に何か強い衝撃を受けたのだろうか。頭を擦ってみる。頭出腫の跡は無い。変に痛むこともない。
考えても結論が出そうにない。探索を続けよう。
何気なく張り紙をめくる。するともう一枚張り紙があった。
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600mlのコップと400mlのコップで500mlの水を測れ
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なにやらパズル問題が書かれていた。ふと足元をみると、コップが二つ置かれていた。大きい方が600mlで小さい方が400mlなのだろう。二つとも真っ直ぐした透明なガラスのコップである。
ドアノブの部分に小さな台がある。台の上には「500ml」と書かれている。おそらく、ここに500mlの水を入れたコップを置け、ということなのだろう。
ここに僕を連れてきた人物は一体何がしたいのだろうか。僕を狭い牢屋に閉じ込めたと思ったらパズルを解かせている。まったくもって意図が読めない。
以前、似たような映画を見たことがある。主人公と数人の仲間達が何者かに連行され閉じ込められている。主人公と仲間達はそこから脱出するために命懸けのゲームをさせられる。ゲームによって重傷を負ったり、仲間が死んだりする。
まあ、いい。考えるのは後だ。今はこの問題を解こう。
二つのコップを手に取って考える。一見すると、数学の問題のようである。水をコップからコップへ何回か入れ替えて行けばできる問題のようだ。頭の中で水の移動をイメージする。数学は得意だ。好きなのは科学なのだが、科学を理解するために数学は得意にならざるをえなかった。
数学には大雑把に言って二種類の力が必要だ。一つは与えられた問題に対して、必要な公式や論理を選ぶ力、いわば発想力である。もう一つは正しく論理を展開する力、簡単にいうと計算力である。計算力は計算すれば身に付くので分かりやすい。しかし発想力はどうやって鍛えれば良いのか分からない。
そもそも発想というものは力という量で表してよいのかも分からない。かけ算の筆算が小さい位から計算していくのに、割り算の筆算が大きい位から計算していけば良いなんて、昔の人はよく発想できたものだ。現代人は小学校で習う計算ではあるけれど、それは知っているから解けるのであって、一から発想できる人はそうそういないだろう。筆算の計算方法を確立した人は相当発想力のある人なのだろう。偶然かもしれないが、僕は大いなる賞賛を送りたい。
結論は知識で補うことができるし、偶然見つけることもできる。しかし、その結論を見つけ出そうとして見つけることは難しい。この見つける力が発想力というものだろう。学校の勉強では知識で補えるものしか試験しないから、この発想力が試される場面は少ない。いくら成績が良くてもこの場でこのような問題が解けるかどうかには直接は影響しない。
いやいやいや。こんなどうでもいいことを考えている場合ではない。このパズル問題に取り組もう。
ふと、制服のポケットに手を突っ込んだ。癖みたいなものだが、ポケットの中にはティッシュが入っていた。
「ああ、そういうことか」
ティッシュを見た途端、解答が思い付いた。出題者の意図として正しいかどうかは定かではないが、これで500mlを測ることができる。
「さて、行きますか」
僕は500mlを測って、ドアノブの小さな台に乗せる。するとドアはかちんっと音を立てて開錠した。
僕はドアをゆっくりと開いて、前に進む。何が待ちうけているか不安ではあったけれど、さっきの問題が解けたことによる自信で、何とかなるような気がしていた。
……後から思えば、大きな錯覚だったけれども。
牢屋を出るとそこは廊下だった。床は石畳で橙色の電球で照らされている。似たような扉が左右にいくつも並んでいて、ますます牢屋であるかのような気がしてきた。
「あ、江本くん、だ」
ふと、背後から声がした。聞き覚えのある声。主に学校で聞いたことがある声。
「別木さん」僕と同じ御園高校三年五組の別木衣智香さんだった。背が低くて大人しい子だ。
「江本くんも、気付いたらここに?」
「うん。気付いたらさっきの場所に閉じ込められていたよ。別木さんも?」
別木さんはこくりと頷いた。
「寝ている間に家が牢屋に改造されたのかと思ったけど、江本くんがいるってことは、ここはあたしの家ではないみたいだね」
僕にそんな発想は無かった。なかなか大仰な発想だった。
「それに、これ」別木さんは自分の首元を指差した。
僕もそれに合わせて、自分の首に手を当てる。その手は首輪に阻まれる。僕の首にも別木さんの首にも同じ首輪がかかっていた。白い金属製の首輪。犬や猫に着けるようなデザインの物ではなく、現代的なメカニックなデザインである。
「これは一体何のゲームなんだろうね?」別木さんは小首を傾げる。
僕にとってはその別木さんの態度は想定外だった。想定外に落ち着いている。僕の中での別木さんのイメージはもっとおどおどしている。こんな謎だらけの状況下に置かれたら、涙目でおろおろしている様子しか思い浮かばない。今は驚くほど落ち着いている。顔の表情も崩れていない。まるで学校で試験を受けて必死で考えているときのような真剣な表情をしていた。
「ゲームというからにはクリアがあると思うよ。さっきみたいなパズルを解いていくんじゃないのかな?」
僕は希望的観測を述べた。ただのパズルを解いていくだけでクリアできるゲームならそれで良い。肉体的苦痛は無い。怪我を負う危険も無い。しかし二人も誘拐しておいて、首輪をつけておいて、ただパズルを解くだけとも思えない。
「さっきのパズルって、引っ掛け問題だよね?」
どうやら別木さんも水を測る問題を解いたようだ。
「引っ掛けというか、数学じゃないというか……」
でも現実に出くわす問題はこんなものだと思う。数学は数学の公理系が正しいことが前提となっている。数学において、ある自然数の次には必ず次の自然数がある。けれども人間は一歩踏み出せたとしても、必ず次の一歩を踏み出せるとは限らない。体力の限界が訪れるかもしれないし、次の一歩は断崖絶壁かもしれない。数学は理想的な世界での話なのだ。
そのとき、がたがたと音がした。ドアの一つが開いていた。ドアの向こうから一人の男が出て来た。
「あれ、織彦じゃん」
「海!」ドアの向こうから出て来たのは、蝶名林海だった。僕の友人の蝶名林海である。
海は僕と別木さんと同じ御園高校三年五組だ。そのがたいの良さを活かしてロッククライミングをしている。
「織彦も気付いたらここに?」
「ああ」僕は頷いた。それから、現状の確認をした。
といっても新しい事実が分かることもなく、どうやら海も昨日の放課後からの記憶がはっきりとしていない。僕と別木さんと同じように気付いたら牢屋に閉じ込められ、パズルを解いて出て来たらしい。そして海もやっぱり僕達と同じ首輪をしている。
「これから、どうする?」海が僕と別木さんに行った。
「あれを見て」別木さんが奥のドアを指差す。
そのドアは左右にあるドアとは違い、張り紙がしてあった。三人でそのドアに近づこうとした。
しかし近づく途中で声が聞こえた。聞き覚えのある金切り声だった。
「開けて!開けなさいよ!」
どんどんとドアを叩く音がする。ドアの向こうから叩いているようだ。どうやら、水を測る問題が解けずに暴れているのだろう。声の主は堂本絵里子。御園高校三年五組。これで同じクラスが四人となった。
僕達三人は顔を見合わせた。こういうとき、どんな顔をすれば良いか分からなかった。普通なら自然に心配すれば良いのだろうが、ドアの向こうの人が人なだけに、複雑な心境だった。ドアのこちらから答えを叫べば良いのだけれど、素直に教えるのも癪である。堂本絵里子とはそういう人間である。
「どうする?」僕は海に聞いてみる。
「答えを教えるしかないだろ」海は渋々口にする。
「このまま放置しておく?」別木さんが恐ろしいことを口にする。
こんな謎のゲームに参加させられて、首輪もつけられて、部屋に一人閉じ込められるなんて気が気ではない。想像するだけで寒気が走る。
でも別木さんからしてみれば、そう言いたくなるような相手である。別木さんは堂本さんから邪険に扱われたり、見下されたりしている。会話の端々にそういった棘が見られる。過去に何かあったかどうかなんて僕には分からないが、二人の仲は悪い。
「放置する訳にもいかないでしょう」
「そうだな」海は僕に頷いて、声のしたドアの前に立った。
「おい、堂本。聞こえるか?」
すると、どんどんと鳴っていたドアを叩く音が止んだ。
「誰かいるの?」ドアの向こうから不安げな、でも大きくはっきりとした声がした。
「俺は蝶名林海だ。聞こえるか?」
すると激しくドアを連打する音がした。
「蝶名林! なんでこんなところに、私を閉じ込めているのよ! 早く出しなさいよ!」
海は一瞬たじろいだが、すぐに立ち直ってこちらからドアを叩き返した。
「うるせぇ! さっさと水測って出てこい」
向こうからドアを叩く音が止まった。
「測れるわけないわよ。どうやったら600mlのコップと400mlのコップで500mlの水を測れるのよ?何回水を入れ替えたって500mlにはならないわよ!」
堂本さんの泣きそうな声がドア越しに聞こえる。そう。気持ちは分かる。この問題はコップに水を入れ替えていっても答えにはならない。
「落ち着け。長さを測れるものを持っていないか?」海が落ち着いた声で喋る。
「持ってないわよ!持ってるわけないじゃない!」堂本さんが落ち着かない声で叫ぶ。
「ティッシュかハンカチはあるか?紐があればベストなんだが」
しばらく間があってから、堂本さんの返事があった。
「ティッシュならあるわよ」
「おう。それでコップの高さに合わせて、半分を測れ」
「測れってどうやって?」
「ティッシュを高さに合わせてから半分に折り曲げろ」
堂本さんは意味を反芻しているらしく、しばらく間があった。
「コップってどっちのコップよ?」
「両方だ。600mlの半分で300mlだろ。400mlの半分で200mlになる。合わせたら500mlになるだろ」
「ああぁ~」堂本さんは理解したらしく頓狂な声を上げた。
しばらくして、ドアが開いた。泣き腫らした顔の堂本さんが出て来た。首にはやはり白い首輪が着いている。
「なんで、こんなこと、するのよ」堂本さんが息も絶え絶えに僕達に訊いてくる。
「俺達もそれが知りたいが、今は何も分からない。なんでこんな所に連れて来られたのか、なんでこんなゲームに参加させられているのか。俺達の誰も分かんないんだよ」
海が説明する。堂本さんがそれに詰め寄る。
「犯人はあんたでしょ」
「はぁ?」海が首を傾げる。僕と別木さんも唖然とする。
「犯人があんたじゃなければ、さっきの水を測る問題を解けるはずないじゃない!」
「はぁ?」海が更に深く首を傾げる。
「あんな卑怯な問題、答えを知っていないと解けるはずないじゃない!ティッシュを使えば良いなんて、問題に書いてないじゃない!あんなもの解けるなんて問題を作った人だけに決まっているわ」
「はぁ」海が傾けていた首を元に戻して、溜息を付く。
「堂本さん、それは違うよ」僕が助け舟を出す。
「何が違うのよ」堂本さんが今度は僕に詰め寄る。
「あの問題は、僕達三人とも解くことが出来たんだ。僕達三人とも気付いたらさっきの牢屋みたいな所にいて、さっきの問題を解いてここに出て来たんだ」
堂本さんはちょっと間を置いてから、叫ぶように口を開いた。
「だったら、あんた達三人とも共犯なのね!三人で私を弄ぼうっていうことね!」
僕は驚いて目を丸くした。僕には真似出来ない発想だった。見習おうとは思わないけれど。
自信満々に指を突きつけた堂本さんを無視して海が僕に話しかけてきた。
「なぁ、織彦。こいつ助けない方が良かったか?」
「そんなことは無いと思うけど」自信を持って、そんなことは無い、とは言えない。
「これからどうする?置いていくか?」
「先に進もう。僕達が疑いを晴らすには、一緒にここから脱出するのが一番良い」
「なによ。あんた達もここから出られないの?」
僕と海が話している中に突っかかってきた。
「俺達も何も分からないって言っているじゃないか」海が疲れた声で言う。
「あの、あれ。そろそろ見ない?」
今まで口を閉じていた別木さんが奥のドアを指差す。奥のドアには張り紙。
「そうだったね」
堂本さんの登場で忘れていたが、次に進む道の手がかりがあったのだ。
海が一番に張り紙に近付き、張り紙を見る。僕と別木さんと堂本さんがそれに続く。
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模様を合わせよ
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ドアには禍々しい髑髏の模様のブロックがはめ込まれていた。3×3のフレームに8枚のブロックがある。しかしこのままではバラバラで模様が繋がっていない。このブロックを動かして模様を完成させれば良いのだろう。いわゆるスライディングブロックパズルと呼ばれるものだ。
「またパズルか」海が独り言のように口にする。
「今回は楽に出来そうだね」
「織彦、もう解けたのか?」
「ああ。すぐ解ける」
この手のパズルは僕の得意分野である。8ブロックしかないのであれば、見た瞬間に解法が頭の中に思い浮かぶ。このパズルはいくつか問題を解けばすぐに解けるようになる。
そしてこのパズルは正攻法で解けそうだ。さっきの水を測る問題はまともに向かっては解けなかった。てっきりこの問題もその類だと思ったのだが、どうやら普通に解けそうだ。
僕はブロックに右手を伸ばす。
「あっつ!」
僕は慌ててブロックから手を引いた。ブロックが予想以上に熱かったのだ。ブロックに触れた指先が赤くなっていた。
「大丈夫か?」海が僕の肩を支える。
「うん。大丈夫。熱かっただけ」
「指、火傷してない?」別木さんが僕の心配をしてくれる。
僕は手を握ったり解いたりして確かめる。
「うん。問題ない。ちゃんと動く」
「何しているのよ。開けられるなら、早く開けなさいよ」堂本さんは僕の心配をしてくれない。
「ブロックが熱くて触れないんだ。これじゃあ、模様を合わせようにも合わせられない」
「何よ。それじゃあ、ここから出られないじゃないのよ」
「そうだね。このままだと出られない。何か方法を考えないとね」
やはり、出題者はひねくれ者だった。この問題も正攻法では解けないようだ。
「早く考えなさいよ。私は早くこんな所から出て帰りたいのよ」
「そうだね。僕も帰りたいよ」
自分は全く考える気の無い堂本さんの発言は軽く流して、僕は集中して考えることにした。
水を測る問題では、出題文に提示されていない道具を使った。今回も何かしら他の道具を使えば良いのだろうか。
「服の上からだと触れないか?」海が提案する。
「なるほど」
僕は自分の学ランを脱いで、右手に添える。熱さが完全に遮断出来る訳ではないけれど、多少はましになるだろう。
恐る恐るブロックに手を近付ける。
「んっ」
熱さが皮膚に到達する。生身よりもましだが、まともに触れる温度ではない。
どうにかブロックを一つだけ動かせたが、熱さに耐えられずそこで手を離した。
「はぁ、はぁ」僕は熱さに息を切らす。
「出来そうか?」海が訊く。
「ゆっくりでいいなら、なんとか出来そうだよ」
「そうか。動かすだけなら俺でも出来るから、交代しながらやろう」
「助かるよ」
「わたしも手伝うよ」別木さんも手を挙げる。
「早くしなさいよ」堂本さんは手伝ってくれない。
「あたしも手伝おうか?」
突然、新しい声がした。
「阿久津さん」別木さんが一番にその名前を呼んだ。
阿久津藍。僕達と同じ御園高校三年五組。
通称……「魔女」
阿久津さんもあわせて五人となった。阿久津さんも僕達と同じように気付いたら牢にいて、水を測って出て来たらしい。勿論首には白い首輪が巻かれている。五人となっても新しい情報は手に入らなかった。
「今は、そのスライディングブロックパズルを解いているわけね」
阿久津さんは現状を把握してうんうんと頷いた。
「阿久津さんはこのパズル解けるの?」別木さんが訊く。
「時間を掛ければ解けるかもしれないけれど、江本くんみたいに一瞬で解法が思い付くわけじゃないから、あてにしないでね」そう言って阿久津さんはぱたぱたと手を振る。
黒い手袋の付いた手を。
阿久津さんは普段から必ず手袋をしている。夏でも授業中でもその手袋を外すことはない。黒いミトン型の手袋。親指しかない手で器用にペンを握る。
阿久津さんは教室内では友人といることもなく、大抵一人で本を読んでいる。誰かと楽しく談笑しているところは見たことがない。他の人に対して壁を作っているようにも見える。そうかと言って無口ということはなく、訊かれたことにはきちんと答える。授業中も教師の質問にはきとんと答える。阿久津さんはそんな雰囲気だけれど、いつも手袋をしている理由は誰も知らない。訊いてみた人は何人もいるのだけれど、いつも適当にはぐらかされる。
誰かが推測する。「あの手袋は、指が六本あるのを隠すためである」そんな噂が広まる。そして付いたあだ名が「魔女」である。実際に阿久津さんを呼ぶときに「魔女」と呼ぶような人もいる。本人は否定しないが、信憑性はない。けれどもうちのクラスの生徒が「魔女」と言われて真っ先に思い浮かぶのは阿久津さんである。
「あんた魔女なんだから、このくらいさっさと開けてしまいなよ」
堂本さんが阿久津さんに言う。
「あんた魔女を何でも屋さんと勘違いしてない?子ども向けのファンタジーでも見過ぎたのかしら?流れ星の降らない夜空でも眺めて白馬の王子様でも待っているタイプなの?」
阿久津さんの切り替えしに堂本さんは声にならない悲鳴を上げる。僕としては阿久津さんが魔女であるということを否定しないのが気になる。
そんな様子を眺めていた僕と阿久津さんの目が合う。阿久津さんは綺麗にウィンクを決めてみせる。何の意図があるのか分からない。
「そろそろパズルを解こうか」僕は自分の学ランを右手に巻く。
「あ、ちょっと待って」
阿久津さんはそう言って、自分が出て来た牢に戻って行った。
少しして阿久津さんはコップに水を入れて持って来た。
「これを掛ければ少しはましになるでしょ」
「なるほど」僕は大きく頷いた。
水の比熱容量は18度で420J/kg・K である。いやこんな数字を知っていても仕方がない。水は他の物質と比べても物を冷ましやすいとういことが重要だ。
阿久津さんはその水をパズルのブロックに掛けた。これで随分と温度が下がるはず。
このブロックがどういう仕組みで熱いのかは分からない。ドアの内側で火を焚いているということは考えにくい。おそらくブロックが電熱線となっているはず。それならば、多少水をかけて冷やしてもすぐに熱くなるだろう。熱さを軽減するためには、なるべく常に水を流しておきたい。
「俺も持って来よう」
「わ、わたしも」
海と別木さんが水を汲んで来る。堂本さんは表情を変えず突っ立ったままである。
「よし」
僕は気合を入れて、パズルに手を伸ばした。