7・思惑
翌日、アリアは同じ時間に例の境内の大木に寄りかかり、静が来るのを待っていた。
暖かな陽気に、風に揺れる樹齢六百年ほどの銀杏の巨木をぼうっと眺めていると、「ソウイチさん」と言って、制服姿の静が小さく手を振りこちらに近づいて来た。
「早かったね」
「急いできちゃった」
「さて、今日はどうしようか?」
「あ……ソウイチさんに任せます」
静は俯いてそう答えた。
「……本当に?」
「え? あ、はい」
じっと静の顔を覗き込んでアリアは念を押した。やはり、静は受動的で、アリアはその態度がいちいち気に障った。
アリアにそれを変えてみたいという衝動が起きた。
「じゃあ、ホテルに行こうか? 静の情報は一通り聞いたけれど、静はなかなか緊張が解けないみたいだから。その方が手っ取り早い」
アリアは静の肩を強引に抱き寄せて境内を出ようとした。
「嫌! ソウイチさん!」
静の顔は真っ赤になり、咄嗟にアリアを突き放した。
「ご、ごめんなさい。私、でも……」
「謝らなくていいよ、僕が悪いんだから。君があんまり自分の意見を言わないから」
「酷い、からかったの?」
「いや、そうじゃない。自分の思っていることをもっと出してもいいと思う。どんなことを思って、何が嫌で何が好きなのか。言わないと分からないことは沢山あるから」
「……今まで付き合った男の子は、なんでも笑顔ではいって言っていたら、うまくいっていたわ」
この前のように、また泣かれてしまうのは厄介なので、かなり用心しながら、アリアはなるべくやんわりと言ったのだが、何故それが悪いの? とでも言いたげに、静はむっとした表情で、アリアに抗議した。気が弱いのか、強いのかよく分からない。
「それで一緒にいて楽しかった? 嫌なことは我慢していたの? 人の顔色を窺ってばかりだと、お互いに楽しく過ごせないと思うけれど」
「そんなに嫌なことはなかったけれど……自分ではないようで、窮屈だったかも」
「そうでしょう?」
「でも、何か言うと《そんなことを言うんだ、イメージが違う》って言われるの」
「違ってもいいじゃない、それが静なんだから。お人形さんではないでしょ」
静は少し考え込むように黙りこみ、「そうよね、私は私だものね」と吹っ切れたように呟くと、「ありがとう」とアリアに向かって笑顔を見せた。
アリアには静の表情から硬さが少し取れたように思えた。
静は相手の顔色を見すぎて、いつの間にか自分を出せなくなっていたのかもしれないと、アリアは思った。
「お礼を言われることじゃない。その方がきっと君は魅力的だと思ったから」
アリアが何の気なしに言った言葉に、静は頬を赤らめた。
また余計なことを言ったのかもしれない。アリアはさりげなく話題を変えた。
「さて、今日はどうしようか」
「あの、私もソウイチさんのこともっと知りたい」
「僕のことはいいよ、設定どおりで」
「違うの、本当のソウイチさんを知りたい」
「え?」
「柚子のお兄さんですよね。でも、それ以上のことを私、何も知らない」
静は熱い眼差しで、アリアを見つめている。
「それは、ちょっと困る……」
矛先が違うほうへ向いてしまい、アリアは困った。あまり興味をもたれては後々面倒だ。
「どうしてですか?」
「いや、色々と事情があって」
「彼女、いるんですか」
「そういうことじゃなくて、ソウイチのままじゃだめかな?」
「そんなことないです、ごめんなさい図々しいですよね。わざわざ彼氏役をお願いしているのに。でも一つだけ聞いていいですか?」
「なに?」
「……この前言っていた、泥棒だって本当ですか?」
静の切ない眼差しが、鈍感なアリアにも何を意味するのかわかった。静はアリアに対して好意を抱いているようだ。得体の知れない男に、自分に都合の良い幻想を膨らませてアリアにも想像がつかないような理想の男が出来上がっているのかもしれない。
適当に演じようと思っても、違う人間になりきるのは面白く、アリアはつい役になりきってしまうのだった。言動には注意しないとまた柚子に怒られてしまう。そんな自分に呆れてアリアは苦笑いした。
「泥棒だって? あれは冗談。本気にした?」
「本当かと思った」
「ごめん、静があんまり緊張しているから」
「ソウイチさんってどれが冗談なのかわからない」
そう言って、静は微笑んだ。
「ごめん、ごめん」
立ち話しをしていると、境内の出入り口付近からアリアのよく知っている声が聞こえてきた。
「静、隠れて!」とアリアは低い声で言うが早いか、咄嗟に静の腕を引っ張って木陰に隠れて静を抱きしめた。
「おい、柚子。こんな所でこそこそと何をしている?」
柚子がこっそり静とアリアの話しをしゃがみこんで盗み聞きをしていたのだ。そこへ、東十無が声をかけていたのだった。
「あらあ、刑事さんこそ何よ。まさか、アリア探し?」
柚子は仕方なく立ち上がり、嫌味を言った。
「ちょっと近くまで来たから、悪さをしていないかと思ってな」
「ふうん、そう」
「お前がいるということは、アリアもいるな?」
「人をワンセットのお箸みたいに言わないでよ、そういっつも一緒にはいないの!」
「本当にいないのか?」
十無は境内の奥を注意深く覗き込んで木陰に抱き合っている男女を見つけたが、アリアとは気がつかなかった。
「柚子は覗きの趣味があるのか? 若い女の子がそんなことをしてはだめだな」
「なに言ってるの。そんなことしてないわ! そうそう、暫くマンションへ来ないでね、アリアはいないから」
「何処へ行った?」
「……ヒロに呼ばれて行ったから、きっと一ヶ月は戻らないわね」
不安そうにしている十無に、柚子は意地悪くそう付け足した。
「なに! 一ヶ月もヒロと……」
十無はあからさまに、がっくり肩を落とした。
「そんなにしょげないで。可哀想だから帰って来たら直ぐに教えてあげるわ」
笑いを堪えて、柚子が慰めるように言った。
「あいつ、どこへ……」
そう呟きながら、十無はそのままふらふらと力なく帰っていった。
「もう、お邪魔虫!」
十無に文句を言っている柚子の肩を、アリアが呆れ顔でとんとんと叩いた。
「……柚子、ずっとそこにいたのか」
「アリ……兄さん、ちょっと心配で」
睨んでいるアリアに、柚子は愛想笑いをした。
アリアの後ろに静がいたが、足元が危なっかしいほどふらついて、とうとうぺたんとその場に座り込んでしまった。
「……兄さんて、テクニシャン?」
柚子が真顔で言った。
「柚子! 僕は何もしていない!」
アリアは真っ赤になって、怒鳴った。
「だって、静が……大丈夫?」
「ごめんなさい、ちょっとびっくりしただけ。やっぱり、男の人に慣れてないからかしら、恥ずかしい……」
座り込んでぽうっとしている静に、アリアが手を貸そうとしたが、それを拒み、ゆっくり自分で立ち上がった。
「……矢萩さんの家、近くよね。行っていい?」
静は思いついたようにそう言った。
「ええっ!」
柚子とアリアが声を揃えて声を上げた。
「だめなの?」
「散らかっているから。ね? 兄さん」
「う、うん」
「構わないわ、いいでしょ?」
アリアは柚子を肘でつつき、「そんな所にいるからややこしいことになっただろ」と、こそこそと小声で文句を言った。
「だって、気になって……」
柚子は申し訳なさそうに肩をすくめたが、好奇心に押されてここへ来たことは明白だった。
そして、結局は断る理由も思いつかず、三人はマンションへ向かった。
その三人のやり取りを、少し離れた木陰から窺っている少年がいた。
「くそっ、あいつ静にべたべたとくっつきやがって」
怒りで震えているのは、静の弟、亮介だった。