11・口づけ
夜八時を過ぎる頃、静は名残惜しそうにマンションを出て、ようやく帰路についた。
その直後、インターホンが鳴った。
こんな時間に誰だろうか。不審に思いながら、アリアが応答すると花井亮介が俯き加減でモニター画面に映った。
アリアは静や柚子に振り回されて静の弟の存在を忘れかけていた。だが、どうやら相手はそうではなかったようだ。
タイミングが良すぎる。もしかしたら、静が肉じゃがと格闘している間、亮介はこのマンション付近にいて、静が帰宅するのを辛抱強く待っていたのかもしれない。
アリアはこの前のこともあるので、どうしたものかと少し考え、一呼吸おいてからドアを開けた。
「亮介君、静は今帰ったよ」
「違うんです……少し話したいことがあって」
学生服のままの彼は、すがってくる子猫のような瞳をこちらに向けている。
柚子が多分、亮介をのぞき見ているのだろう。「可愛い〜」と呟いたのが背後から聞こえてきた。
「……じゃあ、部屋へどうぞ」
「外で話しませんか、部屋には……妹さんがいるんでしょう?」
奥からこそこそ亮介を覗き見ている柚子の方を向いて、遠慮がちに言った。
「空気のような奴だから、気にしなくていいよ」
亮介にはそうは思えなかったのだろう、黙り込んでしまった。
「わかった、じゃあ少しだけ。こんな時間に家を出てきたら、親が心配するでしょう?」
アリアは仕方なくジャケットをはおった。
玄関を窺っていた柚子に、ちょっとそこまで出て来るからと伝えると、柚子は心配そうに「大丈夫なの? 気をつけてね」と小声で言った。が、続けて「あの子になら襲われても私だったら許しちゃうかも」などと無茶苦茶なことを言っている。
二人はマンションを出て、境内まで無言のまま並んで歩いた。
昔の面影を残すこの雑司が谷界隈とは別世界にある都会の人工物、サンシャインビルの明かりが、木々の間からぽっかりと顔を出していた。
時代に取り残されたような鬼子母神の薄暗い境内につくと、人影はなく、雨でも降りそうな湿った空気が漂っていた。
「で、用件は」
アリアは本堂の階段に座り込み、亮介を見上げた。
「……静姉さんのこと、本気ですか?」
「もちろん」
亮介の言葉に、アリアは即答した。
「でも、まだ会って間もないですよね?」
亮介は目線を合わせず、アリアの目の前に立って落ち着きなく石畳をつま先でつついている。
「だから? 時間は関係ないでしょ」
アリアは少し冷たく聞こえる言い方で、突き放すように言った。
何をしに来たのか、アリアは量りかねていた。この前はっきり言ったのだ、これ以上行動を起こしてこないだろうと思っていたのに、彼はどういうつもりなのか。自分に対する好意だと片付けてしまうには、随分執着が強いように思えたのだ。一目惚れなんていうのも無理がある。
何かあるとアリアは思っていた。
そんなことを考えていると、亮介が上体をアリアの方へ屈めて「今、何時ですか」と言いながら、ごく自然にアリアの手首を掴んで腕時計を覗き見た。
亮介はそのままの姿勢で顔を上げたので、アリアの鼻先に亮介の顔が接近した。
「腕を離してくれませんか」
「嫌だと言ったら?」
少年の力は強く、アリアは腕を振り解けなかった。そればかりか、反対の腕も抑えられて、後ろに押し倒されてしまった。
警戒していたはずだが、アリアは少年の遠慮がちな態度につい油断してしまったのだった。冷静に話していたアリアも、さすがに落ち着いていられなくなった。
「僕もがっちりしている方ではないけれど、ソウイチさんて思ったより華奢なんですね。……可愛い」
態度が一変した亮介は、目を細めて大胆にアリアの首筋に顔を沈ませると「好きです」と囁きながら唇を這わせた。
ひんやりとした感覚に背筋が寒くなり、気が動転したアリアは声が出なかった。アリアは痴漢に遭った女性の気持ちになっていた。
一見、大人しい少年だが、この前といい、とんでもない食わせ者だ。
このままではいけない。
「馬鹿な真似は止めろ!」
アリアは勇気を奮い立たせて威勢良く怒鳴り、足で亮介を蹴り上げた。足は亮介の腹部に思いっきり命中した。
アリアは急いで立ち上がり、亮介はその場にうめき声を上げてうずくまった。
「大丈夫か? 君がおかしなことをするから」
「こっちは……真剣に告白しているのに。手を貸してよ」
仕方なくアリアは手を差し出した。腕につかまり立ち上がった拍子に、亮介はアリアを強く抱きしめた。
「懲りない奴だ!」
「さっきのお返し、キスさせてよ」
亮介の腕力は手加減がなく、息が苦しいほどアリアを締め付けた。先ほどと違って隙がないため、アリアは全く抜け出すことができなかった。
亮介はアリアの頭を抑えて顔を上向きにすると、乱暴に唇を重ねた。
「ソウイチさん……」
唇を離してから熱を帯びた瞳でアリアを見つめ、その指先は下へ降りていった。
「やめろ!」
アリアは慌てた。怒鳴っても無駄だ、何か抜け出す方法を……。
「……亮介君、もう一度……キスを」
アリアは急にうっとりとした表情になってそう囁き、今度は自分からそっと唇を寄せた。そして、唇が触れ合うと、アリアは舌を絡ませて激しく情熱的なキスをした。
亮介は息が荒くなり、思わぬアリアの行動に怯んだのか、締め付けていた腕が緩んだ。
「おい! そこで何をしている!」
その時、暗闇の中から聞き慣れた声がした。声の主は、走ってこちらへ近づいてきた。十無だった。
その声を聞いた途端、アリアはほっとして力が抜け、座り込みそうになった。だが、その前に亮介の方がすとんと石畳に座り込んだ。
「ソウイチさん、スゲー。俺……腰が抜けた」
亮介は口を片手で押さえ、顔を紅潮させて、恍惚とした表情をしていた。
大袈裟な。中学生には刺激が強すぎただろうか。
アリアも自分のしたことに顔を赤らめた。
「お前……アリア、だよな?」
十無は二人の側に来ると、いつもと違うアリアの姿を見て自身なさそうに確認した。
アリアは押さえつけられて痛めた手首を撫ぜながら、十無の方へ近づこうとしたが、足元がふらついてしまった。十無が咄嗟に、肩を支えてくれた。
「大丈夫か?」
「僕は大丈夫だけれど……」
そう言って、アリアは座り込んだままの亮介の方へ目をやった。
「学生か、いい度胸だ。暴行の現行犯だ、こっぴどく説教してやるから覚悟しろ」
そう大声で凄んだ十無は、亮介の腕を鷲づかみして引っ張り上げ、ようやく立ち上がらせた。
「こいつ中学生か! 俺はてっきり……柚子があんなことを言うから……」
十無は制服を見て驚き、亮介の顔をまじまじと見たが、彼は十無のことなど上の空のようだった。
「おい、こいついったいどうしたんだ? まあいい、とにかく、中学生でも、犯罪は犯罪だ」
十無は亮介の状態に困った顔をしながらも、そう結論を出した。
「……どうして犯罪なんですか? 僕は好きだと告白しただけなのに」
十無の言葉に反応して、ようやく亮介が口を開いた。
「何だって? いや、しかし……君は未成年だし……」
「未成年だと、人を好きになてはいけないんですか?」
「相手の気持ちもあるだろう? 強引には……って、おまえアリアが好きなのか?」
亮介のペースに乗り、十無はおかしなことを言っていた。
「それって、ソウイチさんのこと?」
「ソウイチって、アリアの本名なのか?」
話も違う方向へそれていった。