3.瞬き一つの瞬間の
世界が歪んだ。
それが蛍が感じた一番最初のことだった。
瞬きの瞬間。
それは唐突に起こった。
一つ瞬きをする間。閉じて開いた世界は、蛍のよく知る現実とは、遥かにかけ離れている。
これを現実と受け止めることは、蛍には出来なかった。
しかし、あまりにも現実くさいこの言葉。
「こんなんで平気なのか?」
年嵩の、RPGなどで出てくるならば、多分村長といったところか。たくわえた白ヒゲと、偉そうな態度がいかにもといった感じであったが、その言葉遣いと、蛍に対する態度は、なんだかとてつもなく大人気なかった。
「それは、わが神のお決めになる事なれば」
神の選んだものを疑うのかと、遠まわしに巫女装束らしい派手な衣装を纏った女が言った。
「いや。我らが神の御威光を疑う訳ではないのだ」
ふるふる首を振り、長老らしき男は、そう言って自らの言葉を取り繕った。
しかし、発した言葉はひるがえされはしない。
現に、蛍は唐突に不機嫌になった。
「ここはどこだよ」
しおらしくしているのもバカらしく、蛍は出来るだけふてぶてしい態度でそう言った。
けれども、巫女装束らしきものを纏った女は、表情一つ変えず、お定まりの言葉を発したのだった。
「我らが声により、参られし勇者様。
どうぞ、その御力を持って、我らをお救いくださいませ」
深深と頭をたれる。
「何で俺があんたらを助けなくちゃならないんだよ。
自分とこのことは、自分達で何とかするのが筋ってものだろう」
蛍はキッパリとそう言った。
はっきり言って、勇者なんてものは割に合わない。都合のいいときだけ頼られて、危険の矢面に立たされる。
成功すれば、奉り上げ、失敗すれば、口汚く罵る。
そう言うものだ。
「報酬をお望みでございますか? 勇者様」
にっこりと、巫女装束らしきものを纏った女が笑った。
してやったりといったような、そんな感じが窺えて、蛍は渋い顔になる。
こんな顔をするのだから、きっと、これを聞いたら断れないであろう事を確証しているのだ。
「報酬は、そうですね」
いったん言葉を切り、あでやかに笑う。
続く言葉が決して自分にとって都合のいい言葉でないことは、火を見るより明らかだ。
「勇者様の御帰還の手立て、などでいかがでしょうか?」
虫も殺さぬような顔をしておいて、やることがえげつない。
本当にえげつない。
還る手立てを盾にして、自分達のために働けと言っているに相違ない。
「やってくれる」
しかし、これで断る訳には行かなくなった。断れば、一生この世界で過ごす羽目になるということだ。
少なくともそれは回避したい。
自分の住んでいた世界がどれ程素晴らしいかなどと言うことではない。曲がりなりにも生まれてからこの方住み続けていた世界である。慣れ親しんだ場所と言うのは、多少住み心地が悪くても、落ち着くのだ。
「わかった」
あきらめて蛍は覚悟を決める。
この茶番に付き合ってやる。
とは言え、もとより選択肢などないと言ってしまってもいいのだが。
「やってやろうじゃないかっっ。
その、勇者ってのをなっ」
にっこりと、女は笑った。
それは、どこか確信めいた笑みであったが、蛍は、自分で上げたテンションに乗っかっていたために、全く気がつかなかった。
村はずれ。
そこにぽつねんと立たされた蛍は、あんぐりと口を開けていた。
しばらく放心した後、ふつふつと怒りが湧いてきたらしく、不気味に笑っている。
「防具もなんもなしで放り出すとは、いったいどういう了見だっっ」
腹の底から蛍は叫ぶ。
その横では、先ほどの巫女装束のようなものを着ていた女。本当に巫女だったのだが。まあ、その巫女がもっと旅のしやすい軽装となって佇んでいた。
「防具をお望みなのですか?」
おっとりと響く声が癇に障る。
大体どうして巫女がこの旅に同行しなければならないのかも、謎だ。
説明も何もなしで、このだだっ広いのっぱらに捨てられると言うのは納得いかなかった。
「こうなったら、長老締め上げて、説明させたるっっ」
巫女様の言葉になど、まったく耳も傾けず、蛍は、長老の元へと急いで行った。
蛍の目から見て、この村は、結構裕福なように見えた。
なんと言っても、青々と茂る草を見る限り、土地は肥沃なようだし、家の作りもしっかりしている。なにより、それなりに安定した収穫がなければ、村はもっとみすぼらしいはずだと思えた。
それだけの条件が揃っているにも関わらず、どこか生気がなく、色褪せて感じる。
その違和感に、蛍は知らず眉根を寄せた。原因が何であるか分かるほどに、蛍はこの世界を知らない。そして、照らし合わせられるだけの人生経験も持ち合わせては居なかった。
ただ、漠然とした違和感だけを感じるものの、現状、気にするところはそこではないと、蛍はその原因を考える事をすぐにやめた。
足早に村の中を歩き、一際大きな家の前まで来て、蛍はノックをしようかと考える。しかし、ふっと何かを思うような仕種をすると、唐突にその扉を開け放った。
扉の向こうには、でんと立つ勇者装束らしきもの。
「ふっ」
笑みがこぼれた。
「くそボケ長老っっ」
「だーれがボケだっっ」
別室にいたらしい長老が現れて、蛍に食って掛かった。
そして、自分が食って掛かった相手が誰だか認識した瞬間の長老の行動は、これでもかと言うくらいに早かった。
くるりと背を向け、一目散に退散しようと謀るが、惜しむらくは、蛍の反応の方が早かったと言うことか。
「さーって。
ちゃきちゃき答えてもらおうかぁ」
そう言った蛍の顔は、はっきり言って、勇者からは程遠かった。
場は、重苦しい沈黙に包まれていた。
睨み合いをはじめて、かれこれ三十分は経とうとしている。
その間蛍は、長老から的確な情報を掴むための手立てを考え、長老は、いかにはぐらかそうかと、謀略を謀っていた。
何とも実のない三十分を過ごして、蛍がやっと口を開いた。
「さてと。
まず、ここにあるのが勇者装束ってことは、あんたは俺にとりあえず、何らかの説明をする義務があるってことだよな」
蛍の回りくどい言い回しに、長老の顔がひくりと歪む。
イニシアチブは、蛍が握っている。
本来ならば執り行われるべきことを執り行わなかったと言う事実は、隠しようもなく、蛍の視界に否応なく入っているし、あのうろたえぶりを見れば、改めて聞くまでもないんだが。
怒りも過ぎると冷静になると言う、実にいい例だ。
「勇者様」
今まで静かにしていたために、うっかりと存在を忘れかけていたが、ここには、長老と蛍だけでなく、巫女も居たのだ。
「なんだよ」
ぞんざいに蛍は返事をする。今は巫女の相手をしている場合ではない。
「これもまた勇者の資質なれば」
にっこりと笑って巫女はそう言った。
一瞬何を言っているのかが分からなかったが、すぐに、蛍は巫女の言葉の意味に気が付く。要は、これもまた勇者の資質を測ったことだというのだ。
気が付かなければその程度だと。
そして、何となく気が付いてしまう。ここに呼ばれたのは自分が初めてではないのだろうと言う事。巫女が同行するのは、結局の所、勇者だと認められていないのだと言う事。
そしてなによりも、この二人の白々しい態度。絶対にまだ何かを隠していることは明白だった。
「お前ら絶対まだ何か隠してんだろうっ。
この家ごと叩き斬られたくなきゃとっとと白状しやがれっ」
ぶち切れた蛍が、勇者装束とともにあった剣をすらりと抜き放ち、火事場強盗よろしく、二人を脅しつけたのだった。